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マッカーサーと昭和天皇

沈黙の響き (その138)

「沈黙の響き (その138)」

教科書に墨を塗らせた屈辱的な出来事

神渡良平

 

 

昭和20年(1945)8月15日、日本は欧米との戦争に敗れました。すると鉄の規律を誇っていたはずの軍隊のタガが外れ、絶対だったはずの上官が部下に殴られるという不祥事が起きました。それに隊長がいち早く軍の物資をトラックで自宅に運んで隠匿したという噂も流れました。

軍隊は天皇を頂点にした尊厳な組織のはずでしたが、軍の上官はお上の威光で命令していた権威主義の組織だったことが露呈した出来事でした。

そうした出来事は軍隊だけでなく、学校でも企業でも地域社会でも起き、社会全体が無秩序になっていきました。だから堀田先生は自分もお先棒を担いだ天皇制や軍国主義教育がまったくの虚構だったことを知らされ、落ち込みました。

特に占領軍の指令で生徒たちの教科書に墨を塗らせ、自分が教育してきた事柄を否定しなければならなかったのが一番辛いことでした。ある日、堀田先生たちは進駐軍の命令により、生徒たちが使用している教科書を墨で消さなければならないことになりました。教師たちはその命令に格段騒ぎ立てもしませんでした。ある教師は教師であることに疑問を持ち、ある教師は早速に英語の勉強をしはじめ、ある教師は実業界に身を転じようとし、ある教師は生きる意欲を失いました。

堀田先生もGHQ(連合国軍総司令部)から出た神道指令に従って、教科書に墨を塗らせました。まず修身の本を出させ、何頁の何行まで消すようにと指示しました。生徒たちは素直に、言われたとおりに筆に墨を含ませてぬり消していきます。なぜこんなことをするのかと、誰も何も問いません。堀田先生は涙が溢れそうな思いでした。

修身の本が終わって、今度は国語の本に墨を塗ります。教科書は汚してはならない、大事に扱わなければならないと教えてきたのに、その教科書に墨を塗らせたのです。堀田先生は熱烈な教師だっただけに、教科書に墨を塗らせたことを恥じました。

何もかも信じられない……
 
敗戦の日以来、堀田綾子さんはこの世の何が真実なのか、見失ったままでいました。
 アメリカは日本を占領すると、改革を指示する幾多の命令を出し、学校教育はアメリカ流に方向転換しました。反骨心のある綾子先生は占領軍の命令だからと言って、
「はい、そうですか」
 と、安易に従うことはできません。

ところが校長はじめ先輩教師たちは占領軍の命令に抗弁することなく唯々諾々と従い、変わり身の早さは驚くほどでした。強い言葉で言えば“裏切った”のです。占領軍から示された教育計画は「カリキュラム」と呼ばれ、流行語になりました。

綾子さんは自叙伝では上司の裏切りをはっきりとは書いていませんが、状況はそうとしか思えません。そんな風潮の中で、綾子さんは何を教えることが真実なのか、教師たちは迷わずにいることができるのか、不安な気持ちで見詰め、何もかもアメリカ流に切り替わっていく時代の風潮を見ながら、
(生きるということは……押し流されることなのか……)
 と、暗澹としました。

(一体、何が信じられることなのだろう?)
 綾子さんの混迷は深まるばかりでした。そしてますます、
(何もかも信じられない……)
 と、懐疑の淵に沈んでいきました。

綾子さんの周りには、大学生、新聞記者、会社員、教師など、さまざまな結核患者が集まり、議論は百出し、喧々諤々(けんけんがくがく)、沸騰しました。共産党員もいれば、自由主義者もおり、詩人、仏教信者、無神論者、キリスト教信者もいて、いろいろな見解が語られましたが、どれもこれも納得できません。

綾子さんは心の渇きを覚えるばかりでした。綾子さんは常々、教育に情熱を失ったら二度と教壇に立つまいと思っていたので、翌年昭和21年(1946)3月末付けで退職しました。

マッカーサーと昭和天皇

写真=マッカーサー将軍と昭和天皇


海鳥

沈黙の響き (その137)

「沈黙の響き (その137)」

婚約のその日に発病

神渡良平

 

 

綾子さんは虚無的になっていたものの、元々才気煥発で新進の気鋭に富む女性だったので、2人の青年から結婚の申し込みがありました。1人はグライダーの教官、もう1人は海軍から帰還した青年です。綾子さんは昭和211946)4月、後者の西中一郎さんと婚約しました。ところがその西中さんから結納が届く日、貧血を起こして気を失ってしまったのです。

 

堀田さんが暗い淵に引き込まれ、こんこんと眠っている間に、結納を持ってきた西中さんの兄は帰ってしまい、水引きをかけた結納の袋がむなしく床の間に飾られたままになっていました。

かつて一度も貧血を起こしたことがないのに、どうしたんだろうと不吉な予感に襲われました。1週間寝込んだが微熱は去りません。診察した保健所長は肺浸潤と診断し、即刻入院となりました。

 

当時、医者は患者を気づかって、肺結核でも肺浸潤と告げるのが常でした。だから堀田さんは、とうとう肺結核になってしまった! と落ち込みました。落胆すると同時に、

(ざまあ見ろ! いい気味だ。自業自得だわ)

 と、自嘲する気持ちもありました。

 

(誤った教育をした罪や、重複して婚約をしたことなど、もろもろの罪の償いをするのだ。それらがなかったかのように口を拭ったまま、無事結婚できるはずがない……)

 投げやりになっていた堀田さんは2人の人と婚約してしまったのです。教師という社会的責任が伴う生活を捨て、家庭の中に逃げ込もうと思っていたので、好きだから結婚するというよりも、社会的責任から逃避するための結婚だったのです。

 

だから申し込まれるとあいまいに返事し、ついダブってしまったのです。自分が投げやりになっているだけならまだしも、人を巻き込み、相手を傷つけてしまいました。綾子さん自身、不誠実な自分に傷ついていました。

 

 ところが婚約した西中さんは本気でした。知床半島の付け根、オホーツク海に面した斜里(しゃり)町から十数時間も汽車に揺られて、旭川まで見舞いに来てくれました。あるときは療養に使ってほしいと給料を全額差し出し、あるときは、肺結核患者は栄養をつけなければいけないと、肉や筋子(すじこ)を持って見舞ってくれました。

 

結納金を返して婚約を解消

 

でも肺結核になった以上、結婚するわけにはいきません。相手に重荷を負わせてしまいます。堀田さんは西中さんとの結婚を断念し、西中さんが住む道東の斜里町まで結納金を返しに行きました。

 

西中一郎さんの家に着くと、彼はびっくりして堀田さんを迎えました。二人きりで海岸端の砂山に登り、堀田さんは切り出しました。

「長いこと、心配かけてごめんなさい。わたし、結納金を返しに来たの」

 西中さんは彫りの深い美しい横顔を潮風にさらしながら黙っていました。だがしばらくして、静かに言いました。

 

「ぼくは綾ちゃんと結婚するつもりで、その費用にと思って、十万円貯めたんだ。綾ちゃんと結婚できなければ、もうそのお金に用はない。結納金の十万円も綾ちゃんに上げるから、持って帰ってくれないか」

 彼はそう言って、じっと海の方を眺めていました。

 

「向こうに見えるのが知床だよ。ゴメが飛んでいるだろう」

 そう言ったとき、西中さんの頬を涙がひとすじ、つつーっと流れました。

はるか右手に白い雲がたなびいている知床半島が見えました。オホーツクの海を眺めながら、カゴメが気持ちよさそうに滑空していました。西中さんは普通では考えられないほど広やかな愛情を持っていて、婚約を破棄した堀田さんを責めることはありませんでした。

 

入水自殺を図る 

 

22歳の乙女にとって、結納金を返すことは死んでお詫びすることを意味していました。だからその夜綾子さんは入水自殺してお詫びしようとしました。

 

時計が12時を打ちました。堀田さんはその音を、1つ2つと数えていました。数え終ると静かに起き上がり、そっとレインコートを羽織りました。田舎なので、玄関に錠を下ろしていません。堀田さんは靴を履いて、そろそろと玄関の戸を開けました。その戸を閉めて空を仰ぐと、星明りさえない真っ暗な夜でした。風が堀田さんの髪を乱し、はるか下の方から潮騒が聞こえました。

 

 家を出るとすぐ横の坂を、1歩1歩踏みしめるように下って行きました。やがて石がごろごろと転がっている歩きにくい浜に出ました。大きな軽石でした。その軽石に足を取られながら歩きなずんでいると、目の前に真っ暗な海がごうごうと音を立てていました。

 

何も見えません。真っ暗な海の匂いがし、潮騒の音だけが騒いでいました。1歩行ってはハイヒールが石に取られ、2歩行っては体がつんのめり、体を支えるのがやっとです。すぐそこの目の前の海にたどりつくのに、時間がかかり過ぎました。

 

波が堀田さんの足を冷たく洗ったとき、懐中電灯の光が一閃、海を照らしました。白いしぶきが目の前で躍ったかと思うと、堀田さんは男の手にしっかりと肩をつかまえられました。西中さんでした。西中さんは黙って堀田さんに背を向け、堀田さんを背負いました。

 

すると堀田さんの体から不意に死に神が離れたようで、堀田さんは素直に西中さんの肩に手をかけました。堀田さんはまるで何事もなかったように、

「海を見たかったの……」

とつぶやきました。

 

西中さんは堀田さんを背負ったまま、懐中電灯で足元を照らしながら、砂浜を黙って登って行きました。しばらくして砂山に登ると、

「ここからでも海は見えるよ」

 と言って、堀田さんを砂の上におろしました。二人は砂山に腰をおろしたまま、見えない真っ暗な海を眺めました。

「駅の方に行ったのかと思って、先に駅の方に走っていったんだよ」

 西中さんはぽつりとそう言いました。何事もなかったように、あとは何も語りませんでした。暗い海が何もかも吞み込んでくれたようで、風だけが激しく吹いていました。

 

 西中さんは綾子さんを身投げから救いました。それによって死に神は去り、再び生きていこうと思い直しました。しかし綾子さんは精神的支柱を失っていたので、なおもさすらいは続きました。その発病がその後13年間も続く闘病生活の始まりだとは、誰も知りませんでした。

海鳥

写真=高く低く滑空するカモメ


ミレー「晩鐘」

沈黙の響き (その136)

「沈黙の響き その136

 『氷点』でデビューした三浦綾子さん

神渡良平

 

三浦綾子さんは昭和38年(1963)、朝日新聞社大阪本社創刊85年、および東京本社75周年記念の1千万円懸賞小説公募に応募し、小説『氷点』を投稿して入選した作家です。賞金の1千万円は今の金額に換算すると約二億円超に相当するもので、朝日新聞として、

「現代文芸に清新の気を起こさん!」

として大変な意気込みを込めた企画です。

 

三浦さんは24歳から37歳まで13年間の肺結核、脊椎カリエスなどの闘病生活の末、41歳のとき『氷点』を書き上げ、一躍「氷点ブーム」を巻き起こして映画化もされ、トレンドな作家となりました。

 

とはいえ、旭川営林局に務めているご主人の三浦光世(みつよ)さんと、病が癒えてのち雑貨屋を営んでいる主婦の三浦綾子さんの生活は静寂なもので、一日の仕事を終えて食卓を囲んで談笑したあと、食後は旧約聖書を一章ずつ読んで祈るという静謐なものでした。

 

ちょうどそれはフランスの画家ジャン=フランソワ・ミレーが1858年ごろ描いた油彩画「晩鐘」を髣髴させます。ミレーはあの絵にまつわる話をこう語っています。

「あれはわたしがパリを離れてバルビゾンの村で生活し、農民画などを描いていたころの作品です。祖母は畑仕事をしていたころ、バルビゾンの村に隣接したシャイイ=アン=ビエールの畑で、1日の農作業が終わって晩鐘が響き渡ると、農作業していた手を休め、

『アンジェラス・ドミニ』(主の御使いよ)

と敬虔な祈りを捧げたものです。わたしは晩鐘を聞くと、いつもあの敬虔な祈りを思い出すのです。満ち足りた至福の時間でした」

 

この敬虔な祈りと静謐な時間が失われたら、1日の労働はただ疲れるだけの肉体労働に終わってしまいます。そうならないためにも、感謝の祈りで終わりたいのです。だから三浦さんご夫妻はこの「感謝の祈り」を大切にしました。『氷点』を執筆した動機も、自分たちがなぜキリスト教を信じるのか、その理解に役立てたらありがたいと、キリスト教の根幹にある「原罪」をテーマにしたのです。

 

朝日新聞の破格な懸賞小説の1位に選ばれた『氷点』を詳しく見ていく前に、この作家三浦綾子さんがたどった想像を絶する人生をたどってみましょう。

 

輝いていた小学校教師

 

昭和15年(1940)、すなわち皇紀二六〇〇年、神武天皇が即位されてから2600年になるというこの年、北海道・旭川市に近い住友歌志内(うたしない)炭鉱にある神威(かむい)小学校の屋内体育館に町中から二千人の観客が詰め掛け、目を皿のようにして、わが子のオペレッタに見入っています。演目は「舌切り雀」です。

ステージの中央で、舌を切られた雀が悲し気に歌います。

 

「糊を食べたは悪いけど、舌を切るとはあんまりだ」

その雀を探しに来たお爺さん。

「雀のお宿はどこじゃいな。爺やが探しに来ましたぞ」

これまた独唱。とても小学生の演劇とは思えません

 

観客はわが子や近所の子どもの歌いっぷりに感動してどよめきました。舞台監督は神威小学校の教員になってまだ2年目、わずか18歳の堀田綾子先生です。後に処女作『氷点』が大ヒットし、「氷点ブーム」を巻き起こした三浦綾子さんの若き日の姿です。

 

三浦綾子(旧姓堀田)さんは大正11年(1922)4月25、堀田鉄治とキサの第五子として北海道旭川市に生まれ、9人兄弟姉妹とともに育ちました。旭川市立高等女学校卒業後、16歳で歌志内の住友歌志内炭鉱にある神威小学校の教員になりました。

 

住友歌志内炭鉱は、昭和12年(1937)7月、盧溝橋事件を発端として日本と中国の間で起こった支那事変の勃発とともに急速に発展した炭鉱で、山の中腹にあった小学校も生徒数が増えるに従って校舎を継ぎ足し、当時50数学級に約2千人もの生徒が学んでいました。

堀田先生は1学級7、80人という、今から考えたら2倍以上の大きさのマンモス学級を受け持っていました。児童1人ひとりの成長の記録をノートにつけ、それを父母に渡すほどに教育熱心で、生徒たちにも大人気の教師でした。身も心も子どもたちの教育に打ち込んでいたのです。

 

文殊分教場での別れ

 

堀田綾子さんの母はリウマチを患いながら家事一切を切り盛りしていました。しかし病状が悪化したので綾子さんが兄弟姉妹たち七人の面倒を見なければいけなくなったので、わずか4か月で文殊分教場を去り、旭川市内の啓明小学校に移ることになりました。生徒たちはわずか四か月担任されただけなのに、嘆きは半端ではありませんでした。自叙伝『石ころのうた』(角川書店。角川文庫)に別離の様子が描かれています。

 

体育館に集まって全校でのお別れの式が終わると、生徒たちは各自教室に入っていきました。堀田先生は職員室で涙に濡れた顔をなおし、自分の教室に入りました。そこには、机の上に顔をふせて泣いている生徒たちの姿がありました。その1人ひとりの姿を胸に収めるように見つめながら、堀田先生もまた泣かずにはおれませんでした。

 

 みんなが打ち伏して泣いているなかに、唯一人知恵遅れのA子ちゃんだけが姿勢を正したままで泣いていました。でも両手の指を開いて顔にあて、堀田先生を見つめたまま泣いているのです。A子ちゃんは拭うことに知らないかのように、流れる涙をそのままに、泣いています。自分の名前を書くだけがやっとで、1足す1の計算ができないA子ちゃんにも、堀田先生が退職するという事態がのみ込めたのでしょうか。あとからあとから噴き出るように流れる涙を拭おうともしないA子ちゃんの姿は、堀田先生の胸をいっそう強くしめつけました。

 

 堀田先生と生徒たちの間に固い絆が育っていたのです。それはそうでしょう。弁当のおかずを子どもたちに分けてあげ、炭住街にある公共の銭湯に子どもたちと一緒に入って、背中の流し合いをする先生だったから、たいへん慕われていたのです。

 

一方では学科の指導は厳しく、算数ができない子や国語読本が読めない子は残らせて再度教えるという具合で、落ちこぼれを出さないようにしていたのです。

やがて教室での別れが終わり、堀田先生は泣き止まない生徒たちを促して教室を出、グラウンドまで送っていきました。だが生徒たちは先生をとり囲んで家に帰ろうとせず、なおも泣いていました。堀田先生は1人ひとりの手を握りしめ、頭をなでて、再度別れを告げました。生徒たちもやむなく1人ふたりと去っていきましたが、ふり返ってじっとこちらを見、やがてあきらめたように立ち去っていきました。中には戻りかけて、他の子に手を取られてやむなく帰る者もありました。堀田先生はその後、旭川市内の小学校で教え、教員生活は7年に及びました。

ミレー「晩鐘」

写真=ミレーの傑作「晩鐘」


ローソク

沈黙の響き (その135)

「沈黙の響き(その135)」

体に巣食った胃ガンとの戦い

神渡良平

 

 

◇豪勢な邸宅を構えた彌太郎

 昔から「驕(おご)る平家は久しからず」といいますが、栄枯盛衰は世の常です。日本の海運王となった彌太郎は勲四等旭日少綬章を受け、成功の頂点に上り詰めました。そして東京に3軒の大きな屋敷を買い求めました。

 1軒目は本郷台地にある85百坪もある旧高田藩榊原家の中屋敷で、周辺の土地も買い上げて敷地を倍以上に広げ、本邸としました。

 

 さらに2軒目は江東区清澄(きよすみ)にある久世(ぐぜ)大和守の下屋敷などを買い入れ、周辺を買い増して拡張し、3万坪もある岩崎家深川別邸としました。ここを三菱の社員の親睦の場とし、深川親睦園と呼びました。現在は東京都に移管され、清澄庭園として都民に解放されています。

 

 3軒目は駒込にある六義園(りくぎえん)で、岩崎家駒込別邸と呼ばれていました。もともとは5代将軍綱吉の側近だった柳沢吉保がつくった3万坪の庭園です。

元禄8年(1695)、柳澤吉保は5代将軍・徳川綱吉より下屋敷として与えられた駒込の一隅に、7年の歳月をかけて池を掘り、山を築くなどして、武蔵野の風情を留める回遊式の築山泉水庭園を造り上げました。六義園は造園当時から小石川後楽園とともに江戸の2大庭園に数えられました。現在は東京市に寄付されて一般公開され、国の特別名勝に指定されています。

 

◇体に巣食った胃ガンと共同運輸との戦い

土佐の地下浪人でしかなかった彌太郎が、将軍やそれに準ずる武家の屋敷や別邸を手に入れて住むようになったのですから驚きです。

こうしてわが世の春を謳歌した彌太郎でしたが、庇護者の大久保利通が暗殺され、さらに大隈重信が追い落とされて伊藤博文に取って代わると、三菱はピンチに陥りました。「海坊主」と異名で呼ばれていた彌太郎は、各地で開かれた政党演説会でしばしばやり玉に挙げられ、糾弾されるようになりました。

 

三菱を目の仇にするようになった政府は、三菱に対抗すべく、明治15年(1882)7月、三井や関西系資本家たちを中心にして、新たな海運会社「共同運輸会社」を設立しました。三菱は徹底した経費削減と顧客サービスで応戦し、大幅な運賃値下げを断行し、果てしない価格競争に突入しました。

 

ところが彌太郎は明治17年(1884)ごろから食欲が減退し、健康状態が急激に悪化しました。病名は胃ガンでしたが、本人には伏せられていました。六義園での闘病もはかなく、翌2月7日、長男久彌、弟彌之助、母美和、妻喜勢ほか、会社の幹部が集められ、最期を見守りました。そして彌太郎は最期の言葉、

「わが志すところ、未だ10中1、2をなさず」

 と言って、共同運輸との死闘は決着がつかないまま、死んでも死にきれない思いで、まだ50歳の若さで天に召されていきました。

 

その茅町の本邸で16年後、久彌の長女として美喜が誕生します。美喜は男勝りで、「女彌太郎」と呼ばれるほど勇猛果敢な性格を授かり、まるで彌太郎のような人生を歩きました。

ローソク

写真=岩崎彌太郎は一財閥を超えて、近代日本のともし火となりました

 

 

 

 

 


秋六義園

沈黙の響き (その134)

「沈黙の響き(その134)」

日本の海運王となった三菱

神渡良平

 

 

◇転機をもたらした台湾出兵

 話は前後しますが、明治4年(1871)、台湾に漂着した琉球の漁民54名が台湾の住民に殺害される事件が起きました。日本政府は清国と賠償を交渉しましたが、進展が見られないので、明治7年(1874)、日本政府は派兵することになりました。

 

 そのためには兵士や軍需物資を運ぶ輸送船が必要です。大隈重信大蔵卿は英国や米国の船会社に輸送を依頼しましたが、中立を理由に拒否されました。そこで大隈大蔵卿は日本国郵便蒸気船会社に依頼しました。この会社は日本の沿岸航路を狙う米国や英国の海運会社に打ち勝つためにつくった国策会社で、三井、鴻池、島田、小野といった豪商の出資でできた半官半民の会社です。

 

 半官半民の会社の国策会社だから、当然受けるものと思われました。ところが日本国郵便蒸気船会社はこの仕事を引き受けたら、国内の顧客は、しのぎを削って対抗している三菱蒸気船会社に奪われてしまうと懸念し、難色を示しました。

 

 やむなく大隈大蔵卿は三菱蒸気船会社に依頼すると、彌太郎は採算を度外視して、一も二もなく快諾しました。そこで政府は新たに船を10隻購入し、その運行を三菱蒸気船会社に委託しました。こうして台湾紛争が終わるころには、三菱蒸気船会社はそれまでの3隻の社有船に加えて、13隻もの大型船を持つ日本最大の海運会社に生まれ変わっていました。

 日本国郵便蒸気船会社はもはや三菱蒸気船会社の競争相手ではなくなり、明治8年(1875)には解散に追い込まれました。

 

◇さらなる拡大の機をもたらした西南戦争

 戦争は武器製造会社や運送会社に巨大な利益をもたらします。明治維新のあと、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と、不平武士の反乱が続き、政府は佐賀の乱、朝鮮での江華島事件では三菱を活用し、兵士や物資を輸送しました。

 

 明治10年(18772月、九州で西南戦争が勃発すると、政府は兵員や物資の輸送を三菱に依頼しました。三菱は国内の定期航路の運航を休止し、持ち船38隻を軍事輸送につぎ込みました。

 

 西郷隆盛が率いる明治最大の、そして最後の不平士族の反乱は3万人の兵士をつぎ込んで戦われました。しかし西郷は熊本鎮台があった熊本城を抜くことができず、田原坂の戦いで敗退し、9月には鹿児島城山で自刃して、西南戦争は終わりを告げました。

 

 明治10年末の三菱の収入は445万円、支出を差し引いて122万円という莫大な利益を上げました。彌太郎は恩賞として汽船を下賜され、傘下に61隻を支配するに至り、日本の総トン数の73パーセントを占めるまでになりました。戦争がまた三菱を肥え太らせたのです。

◇日本の海運王となった三菱

大久保利通(としみち)内務卿は日本の海運事業を三菱にゆだねることを決め、政府は運航助成金として1年に25万円支給し、かわりに三菱は政府の郵便物を輸送し、政府の命令で新航路を開設など、政府の一切の船の徴用に応じることになりました。

 

 彌太郎はそこで三菱社員に檄を飛ばしました。

「日本は徳川幕府の長年にわたる鎖国政策によって、海外への機運をすっかり失ってしまっていた。内外航路は残念ながら西洋人が独占するところとなっていたが、政府は三菱に航路の奪回を託したのだ」

 この鼓舞に奮い立たない者はありません。日本の海運業は海外に展開していき、台湾出兵以降は、大久保利通と結びついて事業を拡大していきました。

 

 国策の後押しを得て、三菱蒸気船会社は初めて、横浜―上海間に航路を開きました。上海航路は日本の海運会社が初めて持った定期外国航路です。その三菱に挑戦してきたのが、米国のパシフィック・メイル社です。PM社はサンフランシスコ―上海間に航路を開き、さらに上海から長崎、神戸、横浜と支線を延ばしてきました。

 

三菱蒸気船会社は熾烈な価格競争でPM社に打ち勝つと、大英帝国の東洋貿易を担っている巨大なフラッグ・キャリアであるピー・アンド・オーとの戦いに挑みました。P&O社は上海航路を開くと、それを延長して東京―横浜にも進出してきたのです。

 

 とても勝ち目がない戦いを逆転させたのは、彌太郎が発案した荷為替金融に踏み切ったからでした。政府も外国船への乗り込み規制や手続き料の徴収などによって、本腰を入れて三菱を援助し、ついにP&O社を撤退に追い込みました。 

 

 明治政府にとって自国の海運業の育成と内外航路の確保は国策上不可欠でした。三菱はその国策を受けて、天津(てんしん)、朝鮮、香港、ウラジオストックと航路を次々に開設していきました。三菱は文字通り政商として日本の海運王となったのです。

秋六義園

写真=岩崎家の庭園の一つ六義園(りくぎえん)


岩崎彌太郎

沈黙の響き (その133)

「沈黙の響き(その133)」

土佐の異骨相――岩崎彌太郎

                                                                                                                       神渡良平

 

 エリザベス・サンダース・ホームを運営した澤田美喜さんは性格が、一代にして三菱財閥をつくり上げた岩崎彌太郎のことを髣髴させるので、しばしば「女彌太郎」といわれていました。そこで今回は岩崎彌太郎と彼が一代にして築き上げた三菱財閥に触れたいと思います。

 

◇高知藩の地下浪人

 岩崎彌太郎の生家がある高知県安芸(あき)市井ノ口甲一ノ宮は高知の東側を流れる安芸川に近い田園地帯で、南側に広がる町並みの先には、南国の陽光を照り返している土佐湾が広がっています。

 

岩崎彌太郎は高知県安芸の地下(じげ)浪人、つまり最下級の武士でした。地下浪人とは最下級の武士階級である郷士(ごうし)が身分を売ったあと、村に居ついた浪人です。その赤貧ぶりは、7人家族で2、3足の下駄しかなく、笠もなく、あるのは蓑(みの)だけだったといいます。

 

 困窮の極みに達したのは父彌次郎が理不尽な庄屋の仕打ちに耐えかねて、床に伏したことからでした。それを聞きつけた息子の彌太郎は江戸から不眠不休で取って返し、わずか13日間で安芸郡の奉行所に出所して訴え出ました。しかし取り上げてもらえないので、いきり立った彌太郎は奉行所の白壁に非難する漢詩を書きつけました。それで逆に牢に入れられてしまい、岩崎家は男の働き手を失ってしまいました。

 

 土佐では頑固で気骨ある者を異骨相(いごっそう)と呼びますが、彌次郎は典型的な異骨相でした。大胆不敵にして豪胆、自分の主義信念を貫いて、権力者と争うことをためらいません。

 この獄中で彌太郎は数字に明るい商人と知り合い、算盤を弾いて状況を俯瞰することを覚えます。当時は算術に暗い武士が多いなかで、彌太郎は特異な存在となっていきました。入獄は7か月間に及び、先行きが見えないので、とうとう訴訟を取り下げました。

 

 安政4年(1857120日、親類縁者の尽力によってようやく出獄した彌太郎に、井ノ口村から追放し、高知城下4村への立ち入り禁止が申し渡されました。彌太郎は高知城下に近い村に蟄居(ちっきょ)し、漢学を教えて糊口をしのぎました。この苦渋に満ちた経験が彌太郎に、

「官憲は意固地になってたて突くよりも、協調して活用すべきものだ」

 という世渡りの術を植えつけました。彌太郎は政商という見識を持つようになりました。

 

◇藩命で長崎に派遣される

 安政5年(1858)8月、郷廻(ごうまわり)という郡奉行(こおりぶぎょう)配下の最下級の下役に取り立てられました。24歳のとき、藩命によって何と長崎詰めになり、情報収集に当たりました。長崎は外国に開かれた唯一の町で、彌太郎はオランダ、イギリス,清国の商人などと交流し、見聞を深めました。医師のシーボルトやのちに陸軍軍医監となる松本良順とも会い、見識が広がりました。このとき培った人脈が、のちに土佐藩から長崎の土佐商会の経営を任されたとき、役立つことになりました。

 

 しかし、古来から好事魔多しと言われるように、せっかくチャンスが巡ってきたのに、彌太郎は長崎での海外情報収集という本来の任務をおろそかにし、歓楽街の丸山に入り浸って遊蕩三昧にふけり、とうとう公金にまで手を付けてしまいました。かくして滞在わずか5か月で停職となり、国元にすごすごと帰りました。もう一度、一から出直す羽目になったのです。

 

 文久2年(1862)、彌太郎は長岡郡三和村の郷士の次女、高芝喜勢(きせ)と結婚し、長男久彌が誕生し、三郡奉行の下役として藩に召し出されました。

 

◇土佐藩随一の経済官僚に

 3年後に興ることになる明治維新に向けて、時代は産みの苦しみにあえいでいました。文久3年(18638月、長州は京都で薩摩藩、会津藩と衝突して敗退し、下関を襲った四国艦隊に破れて、幕府や列強に屈しました。土佐藩でも土佐勤王党の武市半平太が失脚し、後藤象二郎を中心とする改革派が実権を握りました。

 

 この情勢下で彌太郎は2度目の長崎行きを命じられました。長崎では後藤象二郎が土佐商会の責任者として、軍艦や銃器を買い付け、土佐の特産品である樟脳を外国に売りさばいていました。しかし借金が膨らんでしまい、後藤は身動きが取れなくなってしまいました。

 そのため、着任したばかりの彌太郎が経営眼を評価されて後任に抜擢され、見事に期待に応えました。彌太郎は数字や算盤に明るいだけでなく、金融の才もあり、商談を成立させるための根回しにも長けていたのです。

 

こうして3年後には、彌太郎が土佐商会の財産を引き継いで、九十九(つくも)商会を設立しました。土佐湾は別称を九十九湾と称するので、その名称を用いて九十九商会と改称したのです。

 

 慶応3年(186711月、彌太郎は新留守居役に昇進し、末席とはいえ上士の身分となり、土佐藩経済官僚の第一人者となりました。その1か月後、徳川慶喜は大政奉還し、王政復古の大号令が発せられました。

 

◇土佐商会から三菱商会へ

 明治2年(1869)、彌太郎は長崎から大阪の開成館大阪出張所(後の大阪商会)に異動になり、土佐藩の少参事に昇格し、藩邸の責任者となりました。かくして藩の事業や政務を取り仕切り、他藩の貿易も代行し、海運業も始めました。

 明治政府が藩営事業を禁じたので、土佐商会は九十九(つくも)商会と改称し、彌太郎が私企業として経営することになりました。

 

 その後、彌太郎は鴻池(こうのいけ)や銭屋などの豪商に差し押さえられていた藩邸を、藩の借金を肩代わりして買い戻し、その上で大半を自分へ払い下げました。さらに藩船3隻の払い下げを受け、海運業に乗り出しました。これが三菱の発端となります。

 

 明治4年(1871)、廃藩置県が行われ、初代高知県令となった林有造は旧知の彌太郎に相談しました。

「九十九商会が廃絶されては、そこで働く旧士族が困ります。ついては彌太郎、おはんが引き続き、経営してくれませんか」

 そこで会社名を九十九商会の幹部3名の「川」の字をとって「三川商会」としました。

これが明治6年(18733月、三菱商会として彌太郎の私商社となりました。翌年には東京に進出し、「三菱蒸気船会社」と改称しました。

岩崎彌太郎

 写真=土佐の異骨相と呼ばれた岩崎彌太郎


澤田廉三

沈黙の響き (その132)

「沈黙の響き(その132)」

難関を突破していく力を持った澤田美喜さん

神渡良平

 

 

澤田美喜さんの人生を俯瞰してみると、大きく4つの要素があるように思います。

1番目は父祖から受け継いだ不屈の精神です。

美喜さんは三菱財閥の創始者岩崎彌太郎にちなんで「女彌太郎」言われました。一度これと決めたら、何が何でもやり通す性格で、ときには妥協のない頑固一徹なところがありますが、これは美喜さんの美質です。これがなければ混血孤児の養育という難事業は達成できなかったと思われます。

 

2番目はキリスト教の信仰です。

美喜さんが外交官夫人でありながら、イギリスのバナードス先生の孤児院で汗水を流して奉仕しました。恵まれない子どもたちを保育してみて、自分の天職はここにあるのではないかと思うようになりました。そして召命を求めて祈った結果、孤児救済こそは天から授けられた仕事だと思え、いかなる障害も突破して事を成就して行きました。その背後にはキリスト教の信仰が根強くありました。

 

岩崎家は真言宗なので、美喜さんはキリスト教との接触は固く禁じられていました。ところが美喜さんは次第にキリスト教に感化されていきました。外交官のサラブレッドと言われた澤田廉三(れんぞう)さんと結婚した重要な動機の一つが、廉三さんがクリスチャンだったことでした。

澤田廉三(18881017日~1970128日)さんは外務事務次官を務めた後、駐フランス特命全権大使、初代ビルマ特命全権大使を経て、再び外務事務次官になり、初代国連大使を務めました。

 

3番目は混血孤児を養育したということです。

澤田さんは戦後の最大の課題だった米兵と日本女性の間に生まれた混血児の問題に心を痛め、

「私は日米戦争の戦後処理をしているのです」

 まで、言っています。日本政府も占領軍もこれを恥部とし、誰も正面切って取り組もうとしませんでした。だからこそ澤田美喜さんはこれに正面切って取り組んだのです。しかも、ただ単に雨露をしのがせ、食べさせるだけではなく、孤児たちが自分の人生の主人公としてしっかり確立できるよう心を労しました。一人ひとりの孤児に“育ての親”となろうとして奮闘したのです。これは幾重にも特記すべきことです。

 

 4番目は、澤田美喜さんは三菱財閥の孫娘なので、国際的な人脈と影響力を持っていました。この事業をなし遂げるためには、GHQと正面切って渡り合える力量と日本政府を動かせる実力を兼ね備えている必要がありました。澤田美喜さんは「押しの強さ」は天下一品です。

混血児の養育を阻むものは、日米の国家間の問題でもありました。だからこの問題の機関車役を果たし、現状を改革していける人は国際的な影響力を持つ人、あるいはそういう腹を持っている人でなければなりません。

 

例えば澤田美喜さんが戦後初めて、まだ米国による占領中、講演と寄付金集めのため、訪米しようとしたとき、なかなかビザが下りませんでした。米国大使館は美喜さんが米国で、日本の頭の痛い社会問題となっているGIベビーのことを宣伝し、米国をおとしめようとしているのではないかと警戒したのです。出港の日が迫っており、それ以上待てなかった美喜さんは、大上段に構え、ビザを出すよう大使館に迫りました。

 

「もし私が米国にとって好ましからざる人物であるというのなら、国連大使として活躍している夫に電報を打って、国連大使を辞任して帰国してくださいと依頼します」

 美喜さんは米国のマスコミや有名人にも手を打ち、国際問題にしてでも戦うつもりでしたが、その強気の姿勢に駐日大使館が折れ、出港間際にビザが下りて無事乗船できました。

 

 事業が成功するか否かは、ここぞというとき、踏ん張りが効くかどうかです。踏ん張れる人は難関を突破して、事を成就します。澤田美喜という人はさすがに女彌太郎と言われただけあって、“突破力”がありました。そうでなければ、エリザベス・サンダース・ホームの事業を率いることはできませんでした。その意味で、この役は澤田美喜さんでなければ務まらなかったと言えます。

澤田廉三

写真=外務事務次官、初代国連大使を務めた澤田廉三さん


ブラジルに渡るホームの卒業生

沈黙の響き (その131)

「沈黙の響き(その131)」

存続の危機に立たされたブラジルのプロジェクト

神渡良平

 

 

◇アマゾンの開拓という難事業に耐えられるか

ジョージの成功例が示すように、アマゾンのトメアス第2入植地に設けられた聖ステパノ農園はうまく進んでいるように見えましたが、ことはそう簡単ではありませんでした。横浜という都会育ちのエリザベス・サンダース・ホームの卒園生たちが、果してアマゾンの開拓という難事業に耐え、初志を貫徹して定着できるかという問題がありました。

 

三菱をバックにして大型工作機械を持ち込んで開拓をする聖ステパノ農園を、アマゾンのトメアスに日本から移住して開拓をしていた農民は、自分たちの娘の願ってもない結婚相手ができたと思い、土曜日ごとのダンスパーティに娘を送り込で積極的に売り込み、ホーム出身者は引っ張りダコになりました。

 

彼らは三菱がバックについている御曹司たちなので、うまく結婚させられたらオンの字だというわけです。性にオープンなブラジルの娘たちが攻勢をかけるので、当然のこととして乱れました。仕事が終わったらギターやウクレレを弾いて浮かれ、ただでさえもてる彼らは有頂天にならないはずはありません。

 

それに電気も水道もない開拓村で土にまみれて働くことは容易でありません。途中で挫折して、リオ・デジャネイロやサンパウロなどの都会に逃げていく者もありました。都会育ちの人間には土にまみれて開墾することは酷過ぎたのです。

 

美喜さんのようなはっきりした目的意識を持ち、石にかじりついてでも結果を出すんだというリーダーが常駐していれば、腰砕けになる人が出ても、励まして、初志貫徹させることができたでしょう。しかし機関車役の美喜さんは1年に1度くらいしか来ないから、フォローすることができません。こうして櫛の歯が欠けるように脱落者が出て、聖ステパノ農園の運営に赤信号が点りました。

 

◇先遣隊とホーム出身者の主導権争い

さらにもう一つ、頭の痛い問題がありました。それはホーム以外の者たちで編成された先遣隊とホーム出身者の間の確執です。この先遣隊はブラジル開拓に魅せられて応募してきた人たちで、すでに世の荒波を潜り抜けているから少々のことでは音を上げず、やり抜くだけのタフさがありました。

 

彼らの目から見たら、ホーム出身者は軟弱で、すぐ音を上げるように見えました。彼らは中卒の社会経験もない素人集団に見えるから、危なっかしくて任せられないのです。

ところがホーム出身者にしてみれば、主体は自分たちなのであって、部外者の先遣隊がわが物顔でリーダーシップを発揮することが我慢なりません。

 

ここにも美喜さんのような大所高所から判断し、みんなを説得して引っ張っていく機関車役がいなかったので、両者の間の不協和音は止めどを知らず、混乱しました。先発隊の中には聖ステパノ農園に見切りをつけて、早々に独立したほうがいいと考え、行動に移す人も出てきました。

 

◇K青年が引き起こしたトラブル

美喜さんは何とか聖ステパノ農園を軌道に乗せたかったのですが、何しろ自分の不在はどうすることもできません。美喜さんは公証人に頼んで、美喜さんの死後、農場に残っている青年2人に相続させる旨の遺言状を作らせました。ところがその一人、K青年に問題が発覚しました。すでに既婚者であるK青年が現地の女の子に子どもを産ませてしまい、裁判沙汰になったのです。

 

カトリック国であるブラジルはこうした問題に対する処罰は厳しく、妻子あるK青年は被害者の家族12名の衣食住の一切を見るよう言い渡されました。しかも父親はK青年のバックが三菱財閥の令嬢の美喜さんだと知って、美喜さんのツケで奢侈品を買い、さらにディーゼルエンジンがついた新造船を購入しました。踏んだり蹴ったりです。

 そんなこんなで銀行に積み立てられていた聖ステパノ農場の預金は空になり、ディーゼルエンジンがついた新造船は未払いのままになっていました。

 

 その結果、美喜さんはK青年一家4人を日本に送り返し、聖ステパノ農場は売却して未払金に当て、事業を撤退することにしました。ブラジルの事業はもう15年が経過しており、ある意味でエリザベス・サンダース・ホーム事業の総決算のようなところがあっただけに、美喜さんの失意は大きいものがありました。

 

◇小坂井澄さんが美喜さんの性格について懐いた疑念

美喜さんは自著に、K青年の不品行が原因でブラジルの事業がご破算になったと書いていますが、これに疑念を感じた『これはあなたの母――沢田美喜と混血孤児たち』(集英社)の著者小坂井澄さんは、日本に帰国しているK青年とその妻を取材し、どうもそれは美喜さんの一方的見解のようだと推論しています。

 

小坂井さんは、このころ本家本元のエリザベス・サンダース・ホームおよび聖ステパノ学園の経営は苦しくなっており、崩壊しつつあったブラジルの事業から撤退せざるを得ない状況に追い込まれていたと推測しています。エリザベス・サンダース・ホームの事業はいつも経営危機にあり、美喜さんはそれを何とかしのいでいたので、この経営危機説も鵜吞みにはできません。

 

それに小坂井さんは、聖ステパノ農場の相続者の一人として指定されていた山岡満夫さんの妻の証言を取りつけ、

「美喜さんという人は性格として、誰かを悪者にして、その人に罪を押し付けるところがありました」

 と、美喜さんに対する厳しい評価を載せています。激しい性格の美喜さんにはそういう側面もあったのかもしれません。いずれにしても聖ステパノ農場のリーダーが現地にいなかったことが、あのプロジェクトが挫折した理由だと思われます。アマゾン開拓というのは難事業中の難事業だったのです。

ブラジルに渡るホームの卒業生

澤田美喜3

写真=①横浜港からブラジルに向けて出港したエリザベス・サンダース・ホームの青年たち ②いつもプロジェクトの牽引車だった澤田美喜園長


殉国七士廟と伊藤弘さん

沈黙の響き (その130)

「沈黙の響き(その130)」

愛知県三ヶ根山の殉国七士廟を清掃してお礼参りをしてきました

神渡良平

 

 

極東軍事裁判で戦犯の汚名を着せられ、絞首刑に遭われた殉国七士の慰霊祭が、今年429日に「殉国七士墓前祭」として荘厳に執り行われました。しかしその日、わたしは福岡で講演があって出席が叶わなかったので、この1125日~26日、折しも三島由紀夫、森田必勝大人(うし)が自決された日に記念して、愛知県三ヶ根山(さんがねさん)の殉国七士廟の清掃とお礼参りに行ってきました。

 

東京から澁谷徳彦、美知子さんご夫妻が参加され、Facebookにその報告を載せておられたので、その文章をお借りして「沈黙の響き(その130)」用の原稿を作成しました。

 

東京から車で6時間かかる長丁場のドライブでしたが、澁谷徳彦さんが一人で運転され、私は後部座席で奥さまのお話をお聴きしながらの旅でした。午後3時に着いた三ヶ根山頂の霊園は清々しい空気に包まれ、紅葉に色付いた錦繍(きんしゅう)が彩りを添えていました。前日までの雨もすっかり上がり、真っ青な空に日差しがキラキラと輝いており、落葉を踏みしめて歩くと、次元が違う別世界の空間が広がっていました。

 

 私たちを迎えてくださったのは、元自衛官で墓守をしながら、山頂でレストラン・ユートピアを経営している伊藤弘さん、背中がすっかり曲がってしまい、いろいろ健康不安を抱えながらも、毎月殉国七士廟の清掃を欠かしたことがない91歳の磯部和郎さん、それに、中学教師を退職したあと、ひと頃は千名もの塾生を抱え、これまた毎月の清掃を欠かしたことがない塾経営者の杉田謙一さんでした。

 

 殉国七士廟に祀られているのは、極東軍事裁判で有罪となり、絞首刑になった東條英機元首相や広田弘毅元首相ら7人の戦犯です。極東軍事裁判では、米国はナチスドイツと同じように、日本に意図的に反米軍事路線を歩ませるよう企図した共同謀議者があり、その共同謀議者を絞首刑に伏すことによって、米国の正義を確立することが至上命令としてあったように思います。東條英機元首相以下7名を共同謀議者としてでっち上げ、あたかもナチスドイツのように日本を誤導したと主張しました。

 

 軍部の独走を阻もうとして尽力した広田元首相を、

「軍部の独走を阻めなかった無能な首相」

として断罪しました。広田元首相は福岡市の修猷館高校、私は久留米市の明善高校の出身で同郷のよしみでもあり、その人となりをこと細かく知っています。広田元首相の人柄は城山三郎が『落日燃ゆ』(新潮文庫)に悲劇の宰相として活写しているので、知っている人も多いかと思います。

 

極東軍事裁判の11人の裁判官は、広田元首相の判決について、うち3人(インド、オランダ、フランス)が無罪を主張し、2人(オーストラリア、ソ連)が禁錮刑を主張しています。オランダのベルト・レーリンク判事は、

「広田元首相が戦争に反対したこと、そして彼は平和の維持とその後の平和の回復に最善を尽くしたということは疑う余地が無い」

と明確に無罪を主張しています。アメリカの露骨な極東軍事裁判史観には、身内ですら反対していたのです。

 

広田元首相は、

「私はあえて抗弁しない。私の人生で私が何をやったかは歴史が証明してくれる」

 と極めて男らしく、サバサバしておられました。有罪として絞首刑に遭った7人は、日本の身代わりになって、従容と断罪されたのでした。だから私はあの7人の英霊に、あなたがたが防波堤となって日本を守ってくださいましたとお礼を申し上げたかったのです。

 

26日、殉国七士廟の雑草を引き清掃をしていると、終始黄色い紋黄蝶が私たちの傍らを舞っていました。東條英機首相の孫娘である東條由布子さんがご存命のころ、廟の清掃をしているとモンシロチョウが現れて舞い、

「あら、また祖父(東條閣下)が現れたわ」

と喜んでおられ、

「私が死んだら、黄色のモンキチョウとなって現れますね」

と言っておられたそうです。そのとき約束通り、モンキチョウが出現したのには驚きました。蝶が舞うような季節ではないのに、不思議なことです。

 

伊藤弘さんは東條由布子さんの信望が厚く、廟にお参りする方々の交流の場としてユートピアという食堂を託されています。その伊藤さんが真っ先にモンキチョウを見つけ、

「あの黄色い蝶々は由布子さんですよ」

と教えてくださいました。

 

 由布子さんは小柄で華奢な方で、率先して下坐に降り、いつも皆さんに尽くしておられました。亡くなって10年になりますが、未だに廟にご奉仕される方々に慕われています。

 

清掃が終わると、伊藤さんが天津祝詞(あまつのりと)を唱え、その間黄色い蝶々はそっと植え込みにとまり、一緒に式に参加していました。

 

伊藤さんは思いやりの深い方で、もう20年、トンビに魚のアラをやっておられます。4時を過ぎると、40羽から50羽のトンビが上空に現れ、もうそろそろ夕食だなと催促するのです。伊藤さんは町の魚屋から貰ってきたアラを、ピーッと口笛を吹いてレストランの前の駐車場に放り上げると、トンビたちが航空母艦のタッチ&ゴーよろしく見事に受け止めて、再び舞い上がるのです。この航空ショーも見応えがあります。

 

それが終わると、今度は山の中に野犬たちに餌をやりに行かれます。ご自分が体を壊して自衛隊を退官されているので、生き物に対する心配りが半端ではないのです。

「彼らも生きているんです。私は彼らの命を拝んでいます」

 三ヶ根山は何とも心がなごむ、生き物たちの供宴の場でした。

 

山を降りて、みんなでランチをとっておしゃべりし、まだまだ話は尽きません。でもこれから6時間ものドライブがあるから、2時半には三ヶ根山を出発して帰路に着きました。途中、雪に覆われた真っ白な富士山が現れました。傘雲を被った粋な富士山でした。

 

傘雲といえば、カリフォルニア州とオレゴン州の州境に聳えるシャスタ山(4317米)を訪れたときも、五重くらいの不思議な傘雲が頂上に現れ、私たちを見送ってくれました。傘雲を見るのはそのとき以来でしたが、今度の旅も大いに恵まれた旅でした。

殉国七士廟と伊藤弘さん

殉難碑

敬愛する磯部さんと

万世太平の碑

羽を休めるモンキチョウ

写真=➀殉国七士廟と伊藤さん ②殉難碑 ③尊敬する杉田さんと ④万世太平の碑 ⑤羽を休めるモンキチョウ

 

 


南米

沈黙の響き (その129)

「沈黙の響き(その129)」

アマゾンに聖ステパノ農場を拓いた

神渡良平

 

「昭和22年」(1947)の秋にエリザベス・サンダース・ホームがはじまってから、昭和55年(1980)の今日までの33年間は、私が生まれてからホームの仕事に従事するまでの、平和すぎるほど平坦な47年間の年月に学び得たものの、数倍、いや数百倍もの多くのものがあった」

 澤田美喜さんは感慨深く、『母と子の絆――エリザベス・サンダース・ホームの30年』(PHP研究所)にこう書いています。外交官夫人として働いた日々も充実していたでしょうが、エリザベス・サンダース・ホームの運営は苦難の連続だっただけに、果てしない恵みをいただいていたのです。

 

「以前の平和な生活の中で育ってきた私は、世の中の美しいことだけしか知らなかったのである。だが、そのあとの33年は、私にとっては思いもかけぬ大きな試練の連続であった。私は日本ばかりでなく、世界中を旅して歩いた。しかしその旅は、それ以前の気ままな旅とはまったくちがって、むずかしい目的をもったつらい旅ばかりであった」

 

 美喜さんはジョセフィン・ベーカーに連れられてパリの貧民街に足を踏み込み、そこで奉仕するジョセフィンを見て、とてつもなく啓発されました。芸能人として稼いだお金を、自分の出身母体である貧民街の救済に惜しげなく注いでいたのです。

だから外交官夫人として社交辞令の多い生活を送るよりも、誰かの実質的な手助けになる仕事をしたいと思ったのです。その結果、外交官夫人として夫を支えなければならない問題をどうするか、まだ子育てが終わっているわけではない自分自身の家庭をどうするかなど、解決しなければならない問題は多々ありました。

 

しかし、エリザベス・サンダース・ホームで混血孤児の養育を始めて、はるかに充実した生活になりました。前述の本には次のような一節が書かれています。

「昔の華やかな旅よりも、どんなに教えられ、得るものの多い人生の旅であったろう。ただひたすらに祈り、希望を失わないように努力する以外にない日々であった」

 

 さて、澤田美喜さんはエリザベス・サンダース・ホームで育った混血孤児たちが、社会に出て、縮れ毛で肌が黒いだの、金髪で目が青いだのと差別されて難儀するよりも、建設的な生活が営める場所をつくるべく、ふさわしいところを探し始めました。

 

真っ先に候補に挙がったのはハワイでした。この島はありとあらゆる人種のるつぼであり、誰も肌の色など気にしておらず、のびのびと生活しています。だから最適な環境のように思えましたが、思わぬ障害がありました。

 

ハワイには厳とした移民法があって、旅行者として短期間過ごす以外は、割り当てられた移民枠に従うか、養子縁組してハワイに入国するほかには永住するすべがありません。日系人は厳しく制限されていました。ハワイは日本に近いのでとても便利ですが、諦めざるを得ませんでした。

 

 美喜さんの父久彌さんは51歳の若さで三菱を退いたあと、農場経営を志して東山(とうざん)農場を興し、岩手の小岩井農場、千葉の末広農場に加えて、ブラジル・サンパウロ州でも広大な土地を購入して農場経営をしていました。

 

 サンパウロ州の東山農場はコーヒー栽培と牧畜を主とし、農場を中心に、商事、銀行、鉱山、紡績、酒造、肥料などの分野にも進出し、多角的に発展していました。ブラジルはそもそも多様な人種が混ざった国なので、肌の色がみんな違うのはごく当たり前で、人種差別もありません。そのため、父の農場にエリザベス・サンダース・ホームの卒園生を送り込もうかと考えました。

 

 それに夫廉三さんが代理大使として赴任した国がブラジルの隣の国アルゼンチンだったので、美喜さんは何回か来たことがあり、愛着がありました。しかし東山農場を営む兄たちの意見は、混血遺児という未知数のものを入れて、せっかくそれまで築いてきた信用を崩されてしまってはかなわないというものでした。それで断念し、新天地は自分たちの手で開拓しようと思い直しました。

 

 そこで、美喜さんはサンパウロ州やその西部のパラナ州の日本人の入植地を見てまわりました。入植地は日本人移民の手によってどこもかしこも見事に開拓されていました。ベルオリゾンテとはポルトガル語で「美しき地平線」という意味ですが、大原始林の彼方の地平線に真っ赤な太陽が沈んでいく光景はまさに「美しき地平線」で、日本人移民たちはそんな夕日を眺めながら、明日に希望を懸けていたという思いが伝わってきます。

 

またエスペランザ(希望)という地名からは、必ず明るい未来が開けると「希望」を抱いて開拓を続けたのだろうなと連想できます。あちこちの農場を見てまわりながら、開拓者は原始林を一本一本伐採して切り開いた土地に限りない愛着を感じるものらしく、たとえ不作が続こうとも投げ出さず、そこに根を下ろして住みついて、ついに永住の地とするようです。

 

一方、移住者のなかには耕地を替えて、転々と移り住む人達もいました。彼らが土地に対する愛情が持てないのは、誰かが開拓した既製の土地を買って移り住んだからで、何かトラブルが生じると何の未練もなくさらりと売り払い、次の出来合いの土地を求めて移り住むのではないかと思われました。そんな人達は転々とするうちに、行方がわからなくなってしまうのです。だから「石にかじりついてでもそこで成功する」という不撓不屈の精神がなければ、開拓は成功しないと思いました。

 

それぞれの土地で人々から開拓当時の話を聞いて、美喜さんはこの上もない教育を受けました。美喜さんは『母と子の絆』に、

「成功するために必要なものは、今までは地の利とか、人の和とか思っていたけれど、私はさらに土地に愛情を持つということをつけ加えることができた」

と書いています。移住先がハワイやアメリカが駄目ならブラジルにと、グローバルと発想するあたりはさすがに岩崎彌太郎の孫娘です。発想のスケールが常人と違います。アマゾン定着が計画とおりに成功するか、闘いは正念場を迎えました。

南米

ブラジル国旗

写真=澤田美喜さんが希望を託した南米のブラジル