月別アーカイブ: 2014年6月

太陽光発電に挑戦し始めた - 濵田総一郎パスポート社長③

月刊 「関西師友」 6月

会社をあげて被災地を支援
その翌年(平成23年)3月11日、東日本をマグニチュード9という歴史上最大の大震災が襲った。濵田さんはこれまで経験したことのない激しい揺れの中、本店2階にあるワイン館で、1本何万円もする輸入ワインを並べているワインラックが倒れないよう必死で支えていた。
テレビをつけてみると、前代未聞の大惨事になっていた。電話で38の店舗の被害状況を調べながら、自社の復旧作業もさることながら、被災者が生命をつなぐことができる緊急支援をしなければと思い立った。日頃掲げている「良知経営」の本領が今こそ発揮されなければならないと覚悟を決めた。
そこで早くも2日後の13日には、カップ麺、水、レトルト食品、毛布、紙おむつを満載した4トントラックを送りだした。さらに何とか確保した米を満載した10トントラックが17日本社を出発し、18日には餅、麺類、牛乳、バナナを積んだ10トントラックを送り出した。その後も支援は続き、総額は895万円に上った。
支援は4月以降も続き、各店舗でお客さまから寄せられた義援金もあわせ、1千231万9785円(平成23年11月1日現在)に上った。
トラックで支援物資を運ぶだけではなく、社員5名が入れ替わり立ち替わり被災地に入り、炊き出しをし、瓦礫の撤去を手伝った。その報告会が本社で開かれ、被災地支援に行ってきた者は異口同音に語った。
「生活物資を支援されて、被災者も助かったのでしょうが、みんなに感謝されて誰よりも私自身が励まされました」
すると「次は私を派遣してください」という申し込みが殺到した。
7月からは毎月12月まで、フェアトレード団体(発展途上国の原料や製品を適正な価格で継続的に購入することを通じ、立場の弱い発展途上国の生産者の自立を目指す運動)のネパリ・バザーロと一緒に、石巻市や陸前高田市の被災者約60名を東鳴子温泉に招待し、避難生活の疲れをいやしてもらった。
するとある参加者は涙をこぼして喜んだ。
「涙には辛くて流す涙もありますが、うれし泣きの涙もあるんですね。私は震災に出遭ってみて、人々はこんなにやさしいのかと知り、うれし涙を流しました」
被災者も社員もともに手を取り合って、気落ちせずにがんばりましょうと励ましあう姿を見て、濵田さんは「わが社にもようやく良知経営が根づき始めました」と相好を崩して喜んだ。
「私は被災地の支援が会社経営にプラスかどうかと考える以上に、人間としてどうあるべきかという判断がもっと大切だと思いました。わが社はどこまで支援に耐えうるかシビアに判断しながらも、最大限身を切ろうと支援を続けました。その結果、命懸けで支援した私どもが逆に多大な精神的恩恵をいただいたように思います」
 パスポートの真剣な対応にお客さまも共感していただいたので、レジの横に置いた義捐金箱もいっぱいになり、ありがたいことにお店の売り上げも伸び、平成23年(2011)3月末(創業19期目)は年商242億5千万円に達した。

太陽光発電への挑戦
濵田さんは業務スーパーによって地歩を築いたわけだが、平成21年(2009)から再生可能なクリーンエネルギーである太陽光発電の京セラ製ソーラーパネルの販売にも携わり、現在2店舗を経営している。これまで一般住宅や学校、店舗、公共施設などの屋根にソーラーパネルを設置してきた。
その経験を元に濵田さんが根気よく推進してきたのが、鹿児島県いちき串木野市にある西薩中核工業団地の各工場の屋根に2千キロワットのソーラーを設置し、団地ぐるみで発電・売電しようというメガソーラーパネル計画だ。
すでに合同会社設立に向けて準備会が発足し、今年(平成24年)4月から着工に入る予定だ。2千キロワットとは一般家庭500戸分の消費電力に相当するが、7月から九州電力に売電を始めるという。経済産業省の外郭団体である新エネルギー導入推進協議会の補助金によるスマートコミュニティ構築事業のフィージビリティ・スタディ(採算可能性調査)も進行中だ。
計画によると、さらに市内の事業所や公共施設、学校、一般家庭にもソーラーパネルを設置し、その規模は850~900キロワットになる予定で、初年度の第1期計画だけで約12億円になるという。
ただ現在は売電のために2千キロワットしか送電できないので、第2期計画以降の工業団地空地へのメガソーラー増設分については新しい送電網が必要になる。その建設費をどこが担当するのか、投資を意志決定するために必要な電力買い取り価格や、電力会社の送電網に接続する設備のコスト負担について、政府の早急な決定が待たれている。
海外からは「日本の全量買取制度は骨抜きの法律だ」と厳しく批判されている。というのはメガソーラーや大型風力発電などを設置しても、電力会社の送電網につなぐ接続コストが大きいので、事業者負担ではまかなえないのが現実だ。
欧米ではそのコスト負担を電力会社や国や地方自治体が負担するようにし、電力会社は事業者が発電する電力を無条件に全量、固定価格で買い取るようにしている。
ところが昨年成立した日本の法律では、「電力会社は買い取りを拒否できる」という一文が従来のまま残っており、系統連携の接続コストを誰が負担するかは盛り込まれていない。政府がこれを決めないかぎり、全量固定買取制度が今年7月から施行されても、事業者は事業を進めることはできない。これでは骨抜きの全量買取制度だと悪口を言われても仕方がない。
地元の中小企業を巻き込んで、この事業を推進してきた濵田さんは、事業の歴史的意味を熱っぽく語った。
「福島原発事故以来、原発に代わる電気生産の必要性が叫ばれ、太陽光発電に関しては約50のメガソーラー計画が進められています。でもどれも具体化するのに難航しています。
 また他の計画は大企業中心のメガソーラー計画ですが、いちき串木野市の計画は地元の中小企業主導の計画です。クリーンエネルギーによって町を魅力的にし、若者を呼び戻して、高齢化によって疲弊しつつある町を活性化しようというのです。
いちき串木野市のような人口が3万人から5万人の地方都市は全国に約200あります。いちき串木野市のモデルが成功すれば、他の地方都市もそれにならって、町を活性化できるはずです。その意味でもいちき串木野市を日本一の環境モデル都市にしたいのです」
 耳を傾ける人をその気にさせ、ぐいぐい引っ張っていく濵田さんのエネルギーは、太陽光発電というモデル事業でも大いに発揮されつつあるようだ。

 明日の活力を与えられる深夜の読書
 濵田さんは一日の仕事が終わった深夜の会社で、安岡先生が亀井正夫住友電工会長(当時)に贈ったという「六中観」をしみじみと見つめながら、物思いに耽るという。

 忙中閑有り
 苦中楽有り
 死中活有り
 壺中天有り
 意中人有り
 腹中書有り

安岡先生はこれを『新憂楽志』(明徳出版社)でこう解説しておられる。
「忙中閑有り。ただの閑は退屈でしかない。真の閑は忙中である。ただの忙は価値がない。文字通り心を亡うばかりである。忙中閑有って始めて生きる。
 苦中楽有り。苦をただ苦しむのは動物的である。いかなる苦にも楽がある。病臥して熱の落ちた時、寝あいた夜半に枕頭のスタンドをひねって、心静かに書を読んだ楽は忘れられない」
読み進むうちに背筋がすっくと伸び、清々しい感慨に包まれる。至福のときだ。安岡先生はさらにこう述べている。
「死中活有り。窮すれば通ずということがある。死地に入って意外に活路が開けるものである。うろたえるからいけない。それのみならず、そもそも永生は死すればこそである。全身全霊を打ち込んでこそ、何ものかを永遠に残すこと、すなわち永生が実現するのである。のらくらとわけのわからぬ五十年七十年を送って何の生ぞや」
 こんな言葉に活を入れられて、仕事に向かう活力を与えられる。悩んでいても、心が慰められ、「壺中天有り」(世俗の世界に引き回されることなく、独自の別天地に生きること)と、気持ちが切り替わって、新たな発想が生まれたりする。安岡教学はどこまでも生きた学問なのである。

 故土光敏夫会長の付託に応えるべく
「私は若いころ、青年会議所に入って活動していました。昭和58年(1983)、日本青年会議所は当時臨時行政推進審議会の会長を務めておられた土光敏夫元経団連会長を講師として招きました。「財界総理」とも呼ばれた、もう86歳になる土光会長は切々たる口調でこう語りかけられました。
『私はこの国の行く末が心配なので、こうして老骨に鞭打って、最後の奉公だと思ってがんばっている。私はこの日本を少しでもいい国にして君たちにタスキを渡したい。君たちも私の意を汲んで、もっといい日本にして、あとから来る子供や孫にタスキを渡してほしい。どうかこの命のタスキを受け取ってくれ』
 大上段に構えて話をするのではなく、語りかけるような口調だった。しかし土光会長の憂国の情は圧倒的存在感をもって迫ってきました。民族の命を継承させるというのはこういうことか! 私は大変突き動かされ、流れる涙を拭うことができませんでした。それ以来私は、未熟ではありますが、故土光会長の付託に応えるべく、身を挺してがんばっています」
 濵田さんは多くの先哲に導かれて、有意義な人生を歩めることを感謝する。パスポートで倦まず弛まず良知経営をすることがご恩返しになると思う。だから会社経営が楽しくてしかたがない。
(了)


「良知経営」を掲げる - 濵田総一郎パスポート社長②

月刊 「関西師友」 5月号

破竹の勢いの酒ディスカウント店
折から焼酎ブームという追い風もあって、家業の浜田酒造の経営は再び軌道に乗った。そこで濵田総一郎さんは平成3年(1991)12月に独立し、かねて目論んでいたウイスキーやブランディなどの海外ブランド品を、免税店よりさらに安く販売する酒のディスカウント店「パスポート」を川崎市にオープンした。
当時、男性の海外旅行者の土産は決まってジョニー・ウォーカーやレミーマルタン、シーバス・リーガルなどだったので、この企画は大当たりし、パスポートは破竹の勢いで伸び、店舗数は8店舗に増えた。濵田さんは快進撃に気を良くし、株式上場を考えるようになった。
ところが平成5年(1993)9月、酒類販売免許制度緩和の第2次通達が出され、酒がスーパーマーケットやコンビニ、ホームセンター、ドラッグストアなどどこでも販売できるようになると、状況は一変した。先行して上場していた酒DS(ディスカウンド・ストア)の業界最大手組も経営に行き詰まって淘汰再編され、大手流通業者の傘下に入るなどして、独立経営の会社は一社もなくなった。

倒産の危機の中での模索
酒小売りの市場規模はこの20年間で6兆5千億円から4兆円を割り込むまでになり、酒販業は長期的構造不況業種となっていた。濵田さんは上場シナリオを撤回せざるを得なくなったどころか、自社の売り上げも年々下がり、このままでは倒産という危機に瀕した。濵田さんはうめいた。
「私がこれまで経営していた酒DSは、酒類販売免許制度という規制の上に咲いたうたかたのあだ花でしかなかったのだ。それを錯覚して、私は先見の明があるとか、経営能力があるとか、うぬぼれていた。
 ああ、私はどういう会社を作ろうとしているのか。どういうふうに生まれ変わったら、パスポートはお客様にとって無くてはならないお店になるのだろうか………。
 社員にも、パスポートに勤めたので人間としても成長でき、社会にも貢献でき、幸せな人生を送ることができた、わが人生は有意義で、誇り高かった! と言ってもらえるような会社にしたい」
 と、根本的問い直しを始めると、かつて平泉澄先生が歴史について語っておられたことが思い出された。平泉先生は、
「歴史は単なる時間的経過をいうのではない。歴史は真の意味において、志があって初めて存在し、志を立てたとき、その人、その会社の真の歴史がスタートするのだ」
 と言われる。経営理念はパスポートにもあることはある。でもそれはただの飾り物でしかなく、空念仏に過ぎなかったのでは………。今こそパスポートの存在理由を明らかにして、永続的発展の基礎を作らなければいけない………。
 濵田さんの自問自答が続き、会社経営に向かう志が徐々に固まっていくにつれて、お客様が今求めている店がおぼろげに見えてきた。
「生鮮食料品と酒DSと業務スーパーを合体したような新業態! これが回答だ」
そこで濵田さんはパスポートを「生鮮&酒&業務スーパー」という新業態に脱皮させ、新生パスポートとしてスタートさせた。酒類販売免許制度が完全緩和された平成15年(2003)9月にギリギリ間に合った。
この新業態は顧客に支持されて繁盛し、神奈川県の経営革新モデルにも承認され、200億円を売り上げるまでになった。

チャイナショック、そしてリーマンショック
ところがそこに予期しない出来事が起きた。平成19年(2007)6月、中国製肉まん事件が起こり、翌平成20年(2008)年1月には中国製メタミドホス餃子事件が起きて、中国製食品を多く扱っていた業務スーパーの客離れが起きたのだ。このチャイナショックをもろに受け、業界大手3社が立て続けに、民事再生法を申請したり、身売りする事態となった。
さらにこの直後の9月にはリーマンショックが起き、金融機関が貸し渋りに走ったので、濵田さんも資金が回らず苦慮した。低収益のまま業容を拡大しただけでなく、倒産した酒DS企業を頼まれるまま引き受けたので財務体質が悪化していたのだ。
にもかかわらず濵田さんは自分に都合のいい言い訳をしていた。パスポートは雇用拡大によって社会貢献しているではないか、この業界は低粗利益体質なので、経常利益率が低くても仕方がないのだ、リースや割賦が終了し、償却が低減する5年後からは一気に利益が出始めるから、それまでの間は低利益でもやむを得ない、などと。
濵田さんは当時を振り返って言う。
「古来から窮すれば通ずるといいますが、逆に窮しなければ通じない、自分の甘さかげんを痛感しました。そして改めて、松下幸之助氏や稲盛和夫京セラ名誉会長がダム式経営の重要さを説いておられることの意味がわかりました。それなしには永続的に発展できる事業は築けないのだと心に刻みました」
ダム式経営とは松下氏が言い出した経営で、経営をダムになぞらえている。ダムが無かったころは、雨がたくさん降ると川が氾濫して困った。一方、雨が降らないと農地が干上がって途方に暮れた。ところがダムを造ることによって、雨がたくさん降っても溜めておき、雨が降らなくても、溜めておいた水を放流することによって、農業用水を確保できるようになった。つまり農業がかなりの部分で天候に左右されなくなった。
「経営のコツはこれだ」と思った松下氏は、以後豊富な資金を持つ経営を心掛けるようになったという。
 稲盛名誉会長はかつて松下電器産業(現パナソニック)と取り引きして「ダム式経営」が何たるかを学び、超優良な財務体質を作り上げるに至った。
 濵田さんは稲盛名誉会長が主宰する若手経営者の集まり・盛和塾には平成6年(1994)1月に入塾していたが、それほど熱心ではなかった。しかし自分の会社の経営危機に直面してみて、稲盛塾長がかねがね説いておられことをもう一度ひも解いてみた。すると塾長例会で、京セラがダム式経営を目指すきっかけになった出来事をこう語っておられたことに気づいた。

すべては念願することから始まる
「あるとき、松下幸之助さんの講演を聴きに行きました。ダムは水をいっぱい溜めて必要に応じて放出するが、企業も資金を蓄えていざというときのために備えておかなければいけないと、いわゆるダム式経営の必要性を説かれました。
すると誰かが手を挙げて質問しました。
『それはわかりますが、ではダムのようにどのようにして潤沢に資金を貯めたらいいのか、教えていただけませんか』
幸之助さんはしばらく考えておられ、やおらこう言われました。
『そやなあ………まず、思わないけませんなあ』
会場に失笑が起こりました。それでは答えになっていないと言っているかのようでした。ところが私は電気が走ったようにショックを受けたのです。
『そうか! まず心に強く思い描けば、ダム式経営は実現できるのだな』
それから私はダム式経営の実現に向けて、誰にも負けないほどの努力をしていきました。そしてついに経常利益37パーセントに達するまでになりました」
普通は経常利益を10パーセント出すと優良企業とみなされるが、稲盛塾長は37パーセントを達成していたというから驚きだ。
「念願しなければ、何事も始まらない!」
 濵田さんは改めて原点を教えられた思いがし、財務改善の努力が始まった。

 経営者を取るか、修行僧を取るか
「私は金儲けだけの経営は体質的に合いませんし、興味がありませんでした。だからずっと私は経営者に一番不向きな人間だと思っていました」
 と修行僧のような濵田さんは言う。短い頭髪の丸顔に、鋭い眼光が光っている。
濵田さんの本棚には道元の『正法眼蔵』(大蔵出版)や山本玄峰老師の『無門関提唱』(大法輪閣)などが並んでおり、そのどれにも傍線が引かれ、書き込まれている。単なる教養書として読んだのではなく、読みながら思索した証拠だ。
「会社は誰かに譲ってしまい、禅寺か象牙の塔(大学)に籠ってしまいたいと思ったことも一度ならずありました。しかし稲盛塾長に出会って、経営は金儲けだけを目的とするものではなく、高邁な企業を創出するための修行なのだということがわかりました。
高邁な企業を維持するためにはそれを支える高い哲学、思想が必要であり、そういう経営を目指すならば、会社経営は男が一生を懸けるに値するだけの尊いものだと思えるようになりました。経営はそのまま心磨きであるような経営があると確信したのです。以来、経営に打ち込めるようになりました」
稲盛塾長は『生き方』(サンマーク出版)にこう書いていた。
「『この世へ何をしにきたのか』と問われたら、私は迷いもてらいもなく、生まれたときより少しでもましな人間になる、すなわちわずかなりとも美しく崇高な魂をもって死んでいくためだと答えます。
 俗世間に生き、さまざまな苦楽を味わい、幸不幸の波に洗われながらも、やがて息絶えるその日まで、倦まず弛まず一生懸命生きていく。そのプロセスそのものを磨き砂として、おのれの人間性を高め、精神を修養し、この世にやってきたときよりも高い次元の魂を持ってこの世を去っていく。私はこのことより他に、人間が生きる目的はないと思うのです」
 読みながら濵田さんは自問した。
………とすると、今生の人生で縁を得た者たちが会社を作り、切磋琢磨しあう。私には最善の職場を準備する役割があるのではないか。
濵田さんはそういう職場づくりに使命感すら覚えるようになった。

王陽明がいう良知とは何か
あるべきパスポートの姿を模索しているうち、濵田さんは安岡先生が『王陽明』(黙出版)で、陽明学の核心である「良知」について解説されているページにくぎ付けになった。
「『良知』という言葉は人間の優れた知能知覚のことと考えられやすいのですが、そうではなく、『良』はアプリオリ、つまり先天的に備わっているという意味であります。先天的に備わっておるところの実に意義深い知能、それを『良知良能』という。
 良という字に騙されてはいけない。騙すといったらおかしいが、拘ってはいけない。『良知』というものは天然自然に備わっている働きという意味で、それ故に根源的・本能的・究竟的であります」
 良知は天然自然に誰にでも備わっている働きだというのだ。安岡先生はさらにこうも述べていた。
「われわれの意識の深層は無限の過去に連なり、未来に通ずるものである。それは祖宗以来の経験・記憶・思考・知恵・創造の不思議な倉庫・宝蔵・無尽蔵であり、肉体の感覚器官に制約されず、原体験の送信に応じて、神秘的な解答や指令を発信するものであることが、今日の科学によってもすでに相当に解明されている。陽明先生はその真剣な思索と体験を究めることによって、『良知』をこの意味において徹悟したのであります」
 濵田さんはかねてから王陽明の一途さに惹かれていた。たとえばその思想を表す言葉に「一?一掌血」「一棒一条痕」がある。一度?んだら、手形の血の跡がつくくらいにしっかりつかめ、木刀をビシッと打ち込んだら、その痕が後々まで消えないほどに打ちこめという。稲盛塾長の「ど真剣に生きる」に通じる生き方である。
 誰しもに内在しているという叡智を顕現させられるような会社! 濵田さんの中で何かが閃いた。
 濵田さんはパスポートの経営理念を迷わず「良知経営の実現」と名づけることにした。心を澄ませることによって、仕事が真の意味で人々への奉仕となり、それぞれの良さが発現できるような会社を作り上げようというのだ。
平成22年(2010)4月、パスポートの経営理念を打ち出すと、濵田さんはようやくスタート台に立ったような気がした。そして社内では機会あるごとに王陽明の言わんとした「良知」を学ぶ勉強会を持ち、パスポートが目指すものを明らかにしていった。
(続)


古今の先哲によって志を磨く - 濵田総一郎パスポート社長①

月刊 「関西師友」 4月号

人生の門出で出会った平泉澄先生
この人生をいかに生きるべきか!
人間誰しも懊悩するこの永遠のテーマを苦しんでいる青年がいた。後に川崎市を本拠地にして、関東、東日本、北陸一帯で、生鮮&酒&業務用スーパー38店を経営し、242億5千万円を売り上げている㈱パスポートの社長になる濵田総一郎さんである。
これを解決するためにも、何としても師として仰げる人に出会わなければならない。それに肝胆相照らす友も欲しかった。
模索する濵田さんに好機が訪れたのは、昭和48年(1973)4月、武蔵大学に進学するにあたって、元東京帝国大学の国史学教授だった平泉澄先生が主宰される青々塾に入ったことだ。濵田酒造の当主で、鹿児島県会議員を務めている父がかねてから平泉先生に師事していたので、息子の魂の育成を平泉先生に預けたのだ。
平泉先生とは皇国史観の頂点に立つ歴史家で、昭和20年(1945)8月17日、敗戦の責任を率先して取って地位も名誉も弊履のごとく捨て、東京帝国大学教授を辞任して、故郷福井県大野郡平泉寺村に隠遁し、白山神社の宮司を務めていた。しかし一世を風靡した碩学のオピニオン・リーダーであるから、隠遁は許されるはずもなく、全国各地から引っ張り出されて、講演行脚に回っていた。
東京・品川にあった居宅で、痩身の平泉先生が裂帛の気迫を込めて語られる講義は濵田さんを揺さぶった。たとえば人間の持つべき歴史的自覚について、次のように語られた。
「歴史とは単なる時間的経過をいうのではありません。歴史の最高最深最幽最玄の意味において、歴史は明らかに高き精神作用の所産であり、人格があって初めて存在し、自覚あって初めて生ずるものです。
 昔、孔夫子は、われ十有五にして学に志すと言いました。志を立てることによって、初めてその人の歴史が始まるのです。志がまだ立たない間のことは、単に背景として見るべきであり、立志以前と以後とに存する重大なる変化は、史家のまさに刮目して観察しなければならないところです。
 それゆえに、いまだ自覚することなく、志なお立たざる者においては、歴史はいまだ存在していません。酔生夢死の徒輩はついに歴史とは無縁の衆生であります」
 平泉先生には生命をやりとりするような真剣さがあり、天に通じる至誠があった。濵田さんはそれまで志などというものを考えたことがなかったので瞠目し、思わず身が引き締まった。自分はまさに酔生夢死の輩に過ぎなかったのだ。
 青々塾では先輩たちが足しげく後輩の指導に訪れ、平泉先生の著書をテキストに人のあるべき姿を説いた。そんな一人が中央大学を卒業後、運輸省(現・国土交通省)に入り、現在広島県の呉市長を務めている小村和年さんだ。
濵田さんは小村さんの指導ではじめて平泉先生著の『少年日本史』(時事通信社。現在は『物語日本史』と改題されて講談社学術文庫に所収)を読んだ。この本は土光敏夫元経団連会長が石坂泰三元経団連会長に薦められて読んで感動し、すぐさま財界人に読むようにと数十冊配ったという逸話が残っている。
 この本も平泉先生の面目が躍如している本で、人間にとって一番大切なのは誠実さで、それを守るには非常な勇気がいること、日本の歴史は誠実と勇気によって作られたものであることを教えられた。日本史の要所要所を至誠の人物たちが活路を開いてきたのだ。日本にとても誇りを持った。

 安岡正篤先生との出会い
 濵田さんの求道は伊藤肇財界編集長が月刊『財界』に連載していた文章によって、安岡正篤先生を知るようになった。伊藤肇さんは『帝王学ノート』(PHP研究所)や『人間的魅力の研究』(日本経済新聞社)などの著書によっても安岡先生の人となりを紹介しており、こんな人物が生きて活躍しているのかと唸らざるを得なかった。
それで安岡先生の著書を読むようになった。安岡先生は『禅と陽明学』(プレジデント社)に「猶興の人物とは何か」と次のように書いていた。
「『孟子』尽心上篇に、『文王(周王朝の始祖)を待ちて興る者は凡民なり。』
――誰か偉い指導者がいて、それにくっついて、その褌で相撲をとるなどというのは凡民です。
『夫の豪傑の士のごときは、文王なしといえども猶興る。』
――本当の優れた人物というものは、文王なしといえども猶興る。要するに有象無象では駄目。体制順応、付和雷同の人物では駄目で、天下の形成、周囲の状況がいかにあろうが、自分の良心に顧みて、いわゆる『文王なしといえども猶興る』という、そういう豪傑の士でなければ、こういうことを言っても何にもならない。とても望むべき相手ではないと」
いかに潔い男であるべきかと模索していた濵田さんにとって、安岡先生の人間観にはたいへん共感できた。また同書で王陽明についてこうも述べていた。
「何にしても陽明先生は命懸けで思索工夫し、命懸けでこの学問修道をしてきた人である。それだけに、単なる眠たい講壇の学問教育なんかと違う。
霊活という言葉があるが、本当に心霊の躍動する学風である。だから意気地のない人間だとか、徒に苟安(一時の安楽をむさぶること)の易きことを貪る連中からいうと、陽明学はあまりに真剣である。それで、とかく陽明学というと物騒がる、気味悪がるようになった」
こうした思想に導かれて、濵田さんの学生時代は極めて充実した。

西郷隆盛の真価を説いてくれた平泉先生
濵田さんは鹿児島県の出身なので、西郷隆盛には思い入れが強い。西郷の思想についてはいろいろな歴史家や作家が評論しているが、平泉先生の『首丘の人大西郷』(原書房)は出色だった。
「西郷の詩、凡そ百三十余首、私の最も感銘するものは、右の『獄中感有り』であるが、それについで忘れ難いのは、有名な逸題の詩、

 幾たびか辛酸を経て、志始めて堅し
 丈夫は玉砕、甎全を愧づ
 我家の遺法、人知るや否や
 児孫の為に美田を買はず

である。詩の意味は頗る明白であって、説明を必要としないやうに見えるが、然し反復吟味してゐるうちに、容易ならぬ内容と気がついた。
先ず其の第一句、『たびたび苦労をして、その結果、志が始めて堅くなつた』と訳して良いであらうが、苦労を重ねる時は、自然に志が堅くなるものだと早合点してはならぬ。
世間を見るに、たびたび苦労に遭ひ、やがて苦労に負けて志を棄て、人生かくの如し、理想も道徳もあるものかと悪ざとりして、便宜主義、都合主義になる者が、随分多い。
それを千辛万苦少しも屈せず、苦労を却つて研磨とし肥料として、いよいよ心を励ますのは、大勇豪傑の士にして始めて可能である。西郷は三十二歳のくれから三十八歳の春までを罪人として離島に監禁されてゐた。男ざかりの五、六年を、罪人扱ひせられたのでは、大抵の者であれば腐るところであらうに、英傑の士は之を鍛錬の機会として魂を磨き、力を加へて行くのである。その告白が此の詩に外ならぬ。
してみれば西郷は、その精神気魄、艱難辛苦のうちに、百錬千磨を経たのである。かかる英傑は困難が加はれば加はるほど、強くなつて行くにきまつている。それ故に岩倉や大久保が権威を以て西郷を押へつけようとした所に間違があるので、西郷のやうな英傑は威力を以て屈服せしむべきでなく、礼を正し情理をつくして理解を求めるより外は無いのだ」
ここでも平泉先生は西郷の人生を通して、人生の理法を浮き彫りにされていた。ちなみに「獄中感有り」は次の詩である。

 朝に恩遇を蒙り、夕に焚坑せらる
 人生の浮沈、晦明に似たり
 縦へ光を回らさざるも、葵は日に向ひ
 若し運開くなくとも、意は誠を推す
 洛陽の知己、皆鬼となり
南嶼の俘囚、独り生をぬすむ
生死何ぞ疑はむ、天の附与なるを
願はくは魂魄を留めて、皇城を護らむ

平泉先生はこの詩の解釈の最後に、こう付け加えておられた。
「私は此の詩を誦して、此の句に及ぶ毎に、おのづから心身の引きしまるを覚える。いはんや末句、『願はくは魂魄を留めて皇城を護らん』といふに至つては、皇国の道義、発揮せられて余蘊無く、日本男児の真面目、描出して明々白々なるを見る。我が敗残の老躯、病中の疲弊をかへりみず、西郷の為に一文を捧げ、その忠誠を慰めむと欲するは、実に此の詩、此の句の感動の忘れむとして忘るる能はざるに依る」
こんな解説に触発されて、若き日の濵田さんも、西郷が信条としていた「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽くし人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」を指針とするようになった。
大学卒業後、昭和52年(1977)4月、東武鉄道に入社し、運輸管理業務に携わった。しかし3年後、父が経営する濵田酒造の経営がおかしくなったので、退社して鹿児島に帰ることになった。そのとき濵田さんは、平泉先生がその機関誌「桃李」に書いておられた詩を抜き書きして、自分の決意に代えた。

 こまぬきて傍観す
 怯懦、是れ猿に劣らむ
 苦難はた何かあるべき
 尊ぶはその志
 
 名にし負ふ杉、名を裏切りて
 曲がりくねらば、誰か柱とせむ
 心に操持なく、浮草のただよはば
 人間畢竟何するものぞ

濵田酒造では営業本部長、常務取締役として再建に努力し、平成3年(1991)、川崎市に酒類販売会社、ワールドリカーズ㈱(後に㈱パスポートと社名変更)を興した。
若い日々、先哲に学び、自己を錬成することに努めたことが事業家として立ったとき、大きく花開いていった。現在はパスポートの代表取締役を務めるだけではなく、稲盛和夫京セラ名誉会長が若手経営者を育てるために開いている盛和塾の横浜の代表世話人に選出されている。光る石は路傍に捨ておかれることはないのだ。
(続く)


「ときめきの富士」を撮り続け、その神秘を表現しているロッキー田中さん

月刊 「百歳万歳」 5月号

 見たこともない富士!
「来るぞ! 突然、全ての雲に色が入った。光は下から放射状に伸びていく。これから主役が登場する予告のように雲が躍動を始めた。残照を受けながら急速に紅や紫の色が天空に満ちていく。その流れの瞬間に垣間見える富士を撮りまくった。山頂の雪も見える。私の体は紅に染まった」
 これは大雨の後、荘厳な金色に燃え上がった雲を背景に、シルエットとなっている富士山を撮った見事な作品「燃ゆる想い」に添えられたロッキー田中さんの文章だ。(『ときめきの富士』飛鳥新社)
 新幹線の窓からも見え、いろいろな雑誌のグラビアにも登場し、そこかしこに 氾濫している富士山の写真だが、彼が世に出す作品は一目でその違いが分かる。夜明け前の山の息づかい、光と陰が織りなす幻想の一瞬等、富士山の神秘的な姿を見事に捉えている。だから彼の写真に見入る人は口々に、「これまで見たことのない富士だ! 心がときめいた」と感嘆する。もしかしたらロッキーさんは富士山の女神とされている此花咲耶姫から愛されているのかも知れない。

 神秘の山、富士山
 ページをめくると、大地はまだまどろみの底にあり、ようやく東の地平線が白々と明けていくころ、眠りから覚めていく富士山のシルエットの写真がある。耳を澄ますと宇宙のかなたから光の音が聴こえてくるようだ。作品には「宇宙光韻」と名づけられていた。
(………ああ、確かにこんな時間があった。ぼくもかつては人知れず宇宙と交信していたなあ。それは朝まだき、夜が白々と明けはじめる前の曉暗のひと時だった)
 ロッキーさんの写真を鑑賞する者の魂は、さらなる天空の高みに飛翔していく。
 もう一枚紹介しよう。富士山の頂上遥かな天空に、鳳凰が大きく翼を広げて舞っている姿を捉えた作品「天空に舞う」。作品の大部分に天空に舞う雲が写し取られ、富士山は左下に小さく写っているに過ぎない。しかしこれほど富士山の神秘性を表現している写真はない。この作品は平成16年(2004)、第35回新院展で文部科学大臣賞を授与されている。

 現代の北斎を目指して
ロッキーさんの富士山の写真はなぜこれほどまでに人の心を打つのか。彼自身の言葉で語ってもらおう。
「日本人の心にあるのは、葛飾北斎の『富岳三十六景』であり、歌川広重の『東海道五十三次』に見られる富士山の錦絵です。そこでは前景に人々の生活が描かれ、遠景に富士山の点景が添えられ、結果として雄大な富士山を描き出すのに成功しています。北斎は錦絵で究極の36景を描きましたが、私は生涯かけて写真で99景の富士を世に出したいと思っています。優しさ、大きさ、励まし、勇気、志が日本文化のシンボルとなっている富士山、まさに『ときめきの富士』です」
 そうして一途に富士山だけを撮り続け、「ときめきの富士」を撮る写真家として知られるようになっていった。
 平成17年(2005)12月、日本政府は一千万人来日促進キャンペーン「YOKOSO JAPAN」を始めた。そのキャンペーン誌でロッキーさんの「ときめきの富士」を紹介し、14国か語に翻訳されて、在外公館に配布された。文字通り、「日本観光の顔」として活用されたのだ。
 また翌年11月号では健康雑誌「壮快」で「ツキを呼ぶ富士山の写真」として富士山が特集され、ロッキーさんの写真が使われた。この号は大変な評判を呼び、新たに特別号としてムックが出版された。ロッキーさんの写真を切り取って部屋に飾れるようにしたところ、「ツキを呼んだ」とか、「部屋の雰囲気が変わった」と好評を博したのだ。
 さらに平成20年(2008)7月、北海道・洞爺湖で第34回主要国首脳会議(G8洞爺湖サミット)が開かれた際、日本政府は日本紹介のパンフレットにロッキー田中さんの「ときめきの富士」を紹介し、日本の魅力を世界じゅうにアッピールした。
平成17年(2005)3月、富士山を世界遺産にする国民会議(会長・中曽根康弘元内閣総理大臣)が発足し、国際会議の場でロッキーさんの「ときめきの富士」が使われた。山岳美としてなら富士山のようなコニーデ型の火山は世界にたくさんあるので、世界遺産に登録されるだけの価値はないかもしれないが、日本文化のシンボルとなると話は違ってくる。そこでロッキーさんの写真がアピールした。さまざまな過程を経て今年1月、遂に文化庁は芸術の源泉として、更には信仰の対象として「ユネスコ世界文化遺産」の申請書を提出した。
 ユネスコの世界遺産委員会は今年夏から秋にかけて現地調査を終え、来年夏には決定する。今度は結果が期待されそうで、ロッキーさんの写真がものを言いそうである。

 富士が呼んでいる!
「やみくもに富士山の麓に行ったからといって、気に入った写真は撮れるものではありません」とロッキーさんは言う。
「明朝、あの場所でとインスピレーションが湧くときは、確実に富士が呼んでいるときです。呼ばれていくときは、ときめきの富士に逢えるときです。ワクワクしながら夜中に東京を発ち、夜明けの一時間前、イメージした地点にピンポイントで立ちます。しばらく待っていると闇の中に光が現われ始め、いのちが踊り出し、ものすごい朝焼けが出現します。私は宇宙大自然の息吹を受けてシャッターを押すだけです。
情景はその目を持つ者の前にのみ現われるんです。直感と行動が一致すれば、シーンの方からやってきます。心が純粋になれば、大自然のいのちと対話できるようになるものです。世の中には一芸を究めた人がいますね。その人々は勘所を知っています。私は一途に富士山を撮りづづけたことで、その勘所が少しわかってきたように思います。
なぜ99景なのかとよく訊かれます。自然の中の最高の存在の一つである富士山、私も宇宙自然の営みの一員です。完成したなんて言えません。あと1枚は永久に未完成です」
 私は過ぎゆく時間を忘れて、聴き入っていた。

空間には想念という波動が満ちている!
「私たちが生きているこの空間には空気だけが存在しているのではないと思いますよ」
 とロッキーさんは訴えかけた。
「この空間には人々の思いや波動が行きかい、充満しています。『最近あの人に会っていないなあ。どうしているかな』と思っていると、街で偶然出会ったり、電話が来たりしますよね。みなさんもそういう経験があるでしょう。
 このように頭の中で思い描いた想念は瞬間的に相手の許に飛んで行き、相手はその想念によって無意識に動かされます。
 これは人間だけに起こることではなく、物や現象についても起こることです。だから叶えたい夢や実現したい思いは思い続けることが大切です。言葉にして発すれば、もっと実現のスピードが早まります」
 ロッキー田中さんがこう語るのにはわけがある。ロッキーさんが富士ゼロックスの営業マンだったころ、目標は日本一の営業マンになることだった。夢を思い描き、体に染み込ませて動いていた。当然、夢を実現するために工夫する。「じゃあ、どう動けば、ものごとがうまくいくかな」とか、「どう話を持ちかければ商品を買ってくれるかな」と考え、工夫し、イメージを明確にして「出来た、実った、輝いた」と言葉で固め続けた。それを具体的な行動に移していくと、だんだん結果が出るようになり、ついに日本一の営業マンになることができた。

私にとっての魔法の言葉をプレゼント
 49歳で写真家に転身した後も、ロッキーさんの頭にあったのは、「この空間は想念で満ちているから、いい想念を持とう」という思いだった。もちろん独立した動機の中には、「有名になりたい」とか「もっとお金を稼ぎたい」というものもあったが、それは自分のひとりよがりに過ぎないものであって、みんなが共感し、共鳴するものではないと自覚していた。
 そこで自分の動機を浄化し、「私が撮った富士山の写真を見て、みんなもっと幸せになってほしい」と思い描くようにした。善い思いがこもっていないと、繁殖していかないと思うからだ。さらに思い描くだけでなく、収益金の一部をたとえば阪神淡路大震災の復興基金に送ったりしてきた。
「するとその思いは空気を伝わって届くのでしょうか。画家や写真家の大御所しか借りられないような有名なサロンから展示のお誘いを受けたり、私の作品を見て感動してファンになり、購入してくださったりするようになりました」
 ロッキーさんが撮った富士山のカレンダーはいま最も部数がさばけるカレンダーだという。最初1部買った人が、翌年は3部、5部と買われるという。「ときめきの富士カレンダー」を贈ることで、幸せを贈るのだという。人に幸せをさし上げれば、それが回り回って自分に還って来ることを知っておられるからだ。
 ロッキーさんは私たちが発する言葉ほど私たちの人生に影響を及ぼしているものはないという。
「人生は思いと言葉でできているから、私はいつも使っているいい言葉を作品の後ろに書いています。例えば『いのちさんありがとう』『心が世界を創る』『輝く心で』『さあ今から』『その先の世界へ』『花咲き、実る志』などです。ときめきの富士の写真家という天職ともいえる仕事ができるのもみなさんのお陰、富士山のお陰です。だから私にとっての魔法の言葉をあなたにも送ります。感謝無限大!」
 ロッキーさんはどこまでも感謝を口にする人だった。


国鉄の労働運動の精神的支柱を『言志四録』に求めた窪田哲夫さん

月刊 「関西師友」 2月号・3月号

日本の存亡を賭けた国鉄改革
戦後の日本を振り返ると、乗り越えなければならないいくつかの大きな節目があった。その1が敗戦後の混乱の中で、自由主義陣営、共産主義陣営いずれに属するかを決めなければならなかったことで、それをめぐって国論が二分した。
その2が炭坑の衰退に伴うエネルギー政策の転換が余儀なくされたことで、炭坑の労働争議などは日本を震撼させた。
その3が37兆円もの累積赤字を抱え、日本そのものを崩壊させかねないほどになってしまった国鉄の再建問題だ。
この負債がどの程度の額かというと、昭和58年(1983)当時、国家破綻に追い込まれたメキシコやブラジルの累積債務が2千億ドル(約27兆円)で、それを10兆円も上回っていた。国鉄の年間売り上げは3兆1千億円なのに、その数十倍もの赤字を抱えており、国営公社だから存続しているものの、民間企業ならとうの昔に倒産していた。
というのも国鉄は国営企業なので経営は国会に縛られており、加えて地方自治体や地元住民の意を受けた国会議員が干渉してきて、経営に自由裁量がなかったことが大きい。それに階級闘争至上主義に立つ総評系の国鉄労働組合(国労)、動力車労働組合(動労)を抱えた労使関係は最悪だった。国鉄が破産すれば、22兆円もの国鉄債務は返済不能となり、国家経済に与える影響は甚大なものがあった。
昭和39年(1964)、東海道新幹線が開通した年といえば、国鉄の歴史の一ページを飾る輝かしい年のはずだが、国鉄はすでにこの年、単年度赤字に転落していた。日本は高度成長期に入り、高速道路も格段に整備され、自動車やトラック輸送が発達した。後に2兆円産業に発展する宅配便は急速に伸びており、国鉄貨物部門の大きな脅威になりつつあったが、国鉄は時代の変化についていけず、大幅な赤字を垂れ流していたのだ。
これではいけないと国鉄の経営陣は近代化、合理化、省力化を図って生産性向上運動を始めたが、階級闘争至上主義に立つ国労、動労は、これは形を変えた労働強化だとして合理化反対闘争を展開した。年中無法なストライキが行われ、お客様への対応が悪く、管理職を吊るしあげるなど、職場内の暴力事件も多発し、職場は荒れに荒れていた。
自浄能力を失っていた国鉄に我慢しきれず、とうとう政府が国鉄改革に乗り出し、昭和56年(1983)、土光敏夫経団連会長が率いる第二次臨時行政調査会は、第2特別部会と第3特別部会で国鉄再建を論議した。そして翌年7月に出された第3次答申で、分割民営化が打ち出された。
土光会長はそれまで第2臨調で第3部会長を務めていた亀井正夫住友電工会長に、第3次答申を実現するための国鉄再建管理委員会委員長を頼んだ。
当時35万6千人の職員を抱えていた国鉄が私鉄並みの生産性を発揮するためには、18万3千人体制にしなければならない。そのためには新会社に何万人か抱え、なおかつ希望退職等の施策をして約9万人の雇用対策をしなければならない。
加えて亀井委員長は、
「階級闘争至上主義に立っているような国労と動労を解体しなければダメだ。戦後の左翼的な労働運動史の終焉を国鉄改革によってめざす」
と明言していたので、国労、動労や総評(日本労働組合総評議会)、その支持政党である社会党、全国鉄動力車労働組合(全動労)やその支持政党である共産党は、「亀井は首切りに来た」と猛反発した。亀井委員長は国会の予算委員会や運輸委員会に36回出て事情を説明したが、野党の抵抗は強く、脅迫状や脅迫電話は引きも切らなかった。
国鉄内部では7つあった労働組合が組織を食い合って熾烈な闘争をくり返し、死者まで出すほどになっていた。それでも亀井委員長は臆することなく、
「人員がだぶついて大赤字になっているのだから、人員を削減し、広域配置転換はする」
と信念を貫き、
「しかしながら一人も路頭に迷う者は出さない」
と明言して、全国の経営者団体や都道府県知事、公共部門等に国鉄職員の再雇用を頼んで歩いた。そして昭和62年(1987)4月1日、国鉄は地域別旅客6社と貨物部門のJR貨物に分割民営化された。
亀井委員長を中心に全委員たちの奮闘に応えて国鉄の内部から分割民営化を推進していったのが、「国鉄改革の志士」といわれたJR西日本の井手正敬元社長、JR東海の葛西敬之元社長、JR東日本の松田昌士元社長などである。合理化、効率化を頑として拒否する国労、動労、改革反対をする政治勢力を相手にして闘い、動労に戦略的転換を迫り、その壁に大きな穴を開け、あらゆる手を尽くし新生JRを創りあげていった。

国鉄の労働運動改革に挺身して
そんな頃、国鉄の末端にあって国鉄の労働運動の正常化に腐心している男があった。同盟系の鉄道労働組合(鉄労)のオルグ(本部から派遣されて、組織の拡大や組合員の教育を担当する人)窪田哲夫さんである。
窪田さんは昭和41年(1966)、慶應義塾で夜働きながら拓殖大学に通ううちに日米安保反対闘争を含む大学紛争に遭遇したが、日共系、反日共系双方の学生運動に批判的だった。そんなある日、鉄労を母体として民社党代議士になっていた故中村正雄氏(民社党副中央執行委員長)に紹介され、昭和45年(1970)、鉄労に入った。そして国労、動労に対抗し、全国オルグとして文字通り東奔西走した。国鉄が分割民営化された昭和62年(1987)は、鉄労の副書記長として迎えた。
現在、㈱ジェイアール東海エージェンシー常務取締役を務めている窪田さんは当時を振り返って語った。
「私が鉄労運動に参加したころは国労の全盛時代で、国労、動労の組織員数はそれぞれ24万人、4万5千人、一方鉄労は4万6千人でした。本社、管理局幹部は強い国労のご機嫌をうかがって引き回されていました。鉄労は健全で、自由にして民主的な労働運動を目ざしているのに、世間やマスコミにも無視され、孤立無援の状態でした。
 管理者の中には、国労、動労から原潜寄港阻止、日米安保反対など職場には全然関係ない政治的要求や、シャンプーやちり紙よこせなど1千項目に及ぶ職場要求を突き付けられてノイローゼになり、自殺に追い込まれる人もあったほどです。
 鉄労は国労や動労から御用組合とか第2組合とののしられ、勤務が終わって風呂に入っている間に衣服に水をかけられたり、寒中に何時間も執拗なつるし上げに合ったりしました。暴行を受けてあばら骨を折り、意識不明の重体になった人もありました。夜中に自宅にサーチライトを当てられ、クラクションを鳴らして家族を苦しめられたりもしました。私たちが告訴した事件だけで3百件をくだりません。
私たちの子供たちも『やあーい、2組の子、ニクメ、ニクメ』と嘲笑され、馬鹿にされました。職場に鉄労の組合員が数名しかいないため、村八分に遭って腰砕けになりそうな組合員を、励ましてまわりました。
 当時、私は鉄労の中で教育担当の中央執行委員をしており、御殿場や伊豆高原、岡山友愛の丘、北海道友愛、九州三学舎などで、年30回あまり研修会をやりました。善良な職員であるだけでは駄目だと、街宣車に乗って、マイクを握って街頭演説をする訓練もし、戦う闘志を養成しました。そのかたわらで現場を回って勉強会もしていました」。
窪田さんは夜学の出身で苦労しているので、決して上から目線で人を見ることをしない。それで何でも相談できて、面倒見のいいオルグだとみんなから慕われていたので、国労、動労は目の仇にし、しばしば暴力沙汰が起き、何度も危ない目に遭っていた。
「窪田、お前は粛清対象の4番目にあがっているんだぞ。夜道は気をつけて歩け!」
 と脅されもした。それだけに信念がなければやっていけなかった。 

 精神的支柱となった『言志四録』
そんな折、千葉県舟橋市立二宮中学校の越川春樹元校長が書いた『人間学言志録』(以文社)を読んで感銘を受けた。越川校長は生徒の大半が進学組で少数の就職組が寂しい思いをしているのを見て、それらの就職組を誘って、古典から人間的素養を学ぼうと、学校内に懐徳塾を開講した。それが話題を呼び、教職員や保護者も参加するようになり、日教組に支配されていた二宮中学の改革に発展していった。
越川校長の「教育の場を職場闘争の場にすべきではない」という信念が多くの教師に支持されるようになり、二宮中学の職員組合は集団脱退した。しかもその動きが他の小中学校に広がり始めたのだ。
危機感を抱いた日教組や社会党、共産党は電柱に「反動校長を追放しろ」というビラを貼り、街宣車を繰り出して、中学校の側でがなりたてた。全組織をあげてのすさまじい迫害となった。
しかし越川校長は一歩も引くことなく、校長室の壁に幕末の儒学者佐藤一斎が書いた『言志四録』の一節を大書して、理不尽な抗議行動に毅然と耐えた。
「当今の毀誉は懼るるに足らず。後世の毀誉は懼るべし。一身の得喪は慮るに足らず。子孫の得喪は慮るべし」
(今現在、自分に向けられている褒めたりけなしたりする言葉は恐れるに足らない。しかし自分が死んだ後、あの人の先祖はああだったこうだったと子孫が謗られることになるのは恐れなければならない。
 今現在、自分が得たり失ったりするのは、ある意味で自業自得ともいえるから一向に気にしない。しかし子孫が私ゆえにものを失うことは考えなければならない)
 越川校長はこの天下分け目の戦いに勝ち、日教組を集団脱退する学校が増えていった。
 国鉄で職場の民主化において同じような立場にあった窪田さんは大いに共感した。越川校長は『言志四録』の一節「士はまさに己れにあるものを恃むべし。動転境地極大の事業も、またすべて一己より締造す」(志に生きる男子は、己れの中にある真の自己を頼みとすべきである。天を動かし、地を驚かすような大事業も、すべて己れ自身からつくりだされるものである)を解説して、同書に次のように書いていた。
「士は説文学的にいえば十と一の会意文字である。十なる欲求群を一の志によって統括する意で、その志によって統括された人格生活者を士というのである。すなわち志に生きる男子のことである。
そういう士君子というものは常に己れの中にある一己――良心を恃みとして生きる者である。動転境地の大事業もこの真の自己――一己が主体で成されるというのである」
どのページも刮目する文章に満ちており、窪田さんは夜が更けるのも忘れて読みふけった。それからは次から次に『言志四録』に関する本を読みあさり、これを精神的支柱にしようと思うようになった。

佐藤一斎と『言志四録』とは
佐藤一斎は幕府官学の総本山で、湯島にあった
昌平黌(昌平坂学問所)を主宰した儒官である。この昌平黌が後に大学南校となり、東京帝国大学に発展していくので、いわば東京帝大総長のような地位にあった人である。
この湯島の聖堂は徳川3百年のうち、一斎の時代が最も栄えたといわれ、全国230有余あった藩校で優秀な成績を収めた青年武士は江戸に遊学し、さらに一斎の下で勉学に励んだ。従って幕末の青年武士の中で、優秀な青年武士であればあるほど一斎の教えを受けている。
門下生には佐久間象山、山田方谷、渡辺崋山などがあり、佐久間象山の弟子に勝海舟、橋本左内、吉田松陰、坂本竜馬、高杉晋作、小林虎三郎などがおり、山田方谷の門から河井継之助が出ている。また水戸の藤田東湖とも親交があり、大坂の大塩中斎との間には往復書簡がある。西郷隆盛は遠島中に『言志四録』から101条を書き写して『西郷南洲手抄言志録』を編み、修行の糧とした。熊本藩が生んだ英傑横井小楠も佐藤一斎の影響を受けている。
それら若い俊秀を教えるにつれ、佐藤一斎はつくづく「志が人生を決める」と確信し、志を養うために『言志録』『言志後録』『言志晩録』『言志耋録』を書いた。これが国難に遭遇した幕末、明治維新の時代に、多くの人々の心を奮い立たせた。この四冊を合わせて『言志四録』と呼ぶ。
越川校長は『言志四録』をほとばしるような思いをもって解説していた。
「真の男子――士というものは、人に頼らず、主体性をもって自ら信じることを堂々と行動してくところに貴さがある。権勢のあるものにこびへつらって、自分の栄達や利益を求めるような考えを起こすべきではない」
「独立自信とは自ら信じることを堂々と行うことであるが、それは独善であってはならない。理想・見識に照らして、自らの良心にやましくないことを『千万人といえども我ゆかん』というのが独立自信である。この心なくして、ただ権威にこびへつらってゆく人間は、士とはいえないのである」
 こうした言葉に窪田さんは奮い立った。一高校長、東京帝国大学教授、国際連盟次長などを歴任し、名著『武士道』で明治の思想界をリードした新渡戸稲造も『言志四録』を取りあげて絶賛していた。
 そこで窪田さんは鉄労の組合員への講話の中でしばしば佐藤一斎の『言志四録』に言及したが、組合員には難しくてわからなかった。そこで五七五の俳句調に直して語った。例えば、
「わが身より子孫の得喪考えよ!」
「信用を重ねることが事を成す!」
「独り行く、自分の影に恥じないか!」
 などである。それで、窪田さんの説明はわかりやすい! と評判になり、教化の実をあげた。
 真珠湾攻撃を指揮した山本五十六海軍大将は窪田さんと同じ長岡の出身で、窪田さんが尊敬する人物の一人である。その山本が、

やって見せ言って聞かせてさせてみて
    褒めてやらねば人は動かじ

 と言い、見事に人心をつかんでいた。
窪田さんもそれをモットーとして率先して実践したので、鉄労組合員は信頼してついていった。職場の主流は国労、動労で、その中で鉄労の主張を貫くことは自殺にも等しいことだが、組織率はじりじりと変わっていき、全国各地で逆転していった。
窪田さんのもう1つの役割はマスコミに働きかけ、適正な報道をしてもらうことだ。そのため学者、言論人とも接触した。また同盟系労組の造船、全繊、自動車、電力、全郵政、それ以外の電機、鉄鋼など、多くの民間労組との提携を模索した。だから自然に各労組や青年会議所などでも講演することが増えていった。    

安岡正篤先生との出会い
ところで不思議なもので、窪田さんに『言志四録』の魅力を教えてくれた越川校長は日本農士学校で安岡正篤先生から直接学びを受けている。学生時代から優秀な学生で、卒業後もしばしば安岡先生を小石川の自宅に訪ねて近況を報告していた。
そういう親しい交わりだったから安岡先生は越川校長が退職するに当たって開かれた退職慰労祝賀会に駆けつけ、次のような祝辞を述べた。
「現役の間は志があっても世間の俗事に煩わされるあまり、志ある人ほど、現実の多忙な仕事に終われて、心ならずも年をとりやすい。そこで志ある人は、ある時期が来ると、一応現職を去って少しく自由を回復して、今まで思いながら遂げられなかった真実の生活のため多くの努力をしようとするものです。
これがすなわち道に入る、入道ということであります。隠居は入道のための隠居であり、入道すればこそ隠居に意味があります。
 越川君はある意味において教育界から隠居するわけですが、同時に入道するわけでもあります。これでまた大いに新たな内心の満足を伴う活動・生活をされることになり、ここに本当の意義があるように思います。これが本来の素心であり、平生からの志であります。そういう意味から、この退任は祝賀すべきことであります」
 越川さんは退職後も千葉県匝瑳郡光町(現山武郡横芝光町)の自宅で、現役時代から続けていた古典の勉強会・懐徳塾を続けた。月1回の集まりには毎回30名あまりが集まって聖賢の叡智を学んだ。
 窪田さんが驚いたのは、その越川元校長も、国鉄再建に取り組んでいる亀井委員長も井手社長も安岡先生の熱心な門下生だったことだ。みんな安岡先生に気骨を与えられていた。だから世の中は不思議な糸でつながっていると思わざるを得なかった。

 郷土の偉人河井継之助のこと
 実は窪田さんは拓殖大学の先輩から勧められて、安岡先生が主宰する全国師友協会の機関誌「師と友」を講読していた。ところが昭和52年(1977)11月号(333号)を受け取ってみると、安岡先生が越後長岡藩の筆頭家老河井継之助について講演された内容が載った。窪田さんは幼少年期の15年間を長岡で過ごしていることもあって、司馬遼太郎が『峠』の主人公として描いた河井継之助にほれ込んでいた。だからこの文章に引き込まれた。
 河井継之助は大所高所の見地から誰よりも早く徳川幕府の崩壊を予期し、戊辰戦争などしているときではない、一刻も早く挙国一致の体制を作り上げなければならないと、徳川幕府と新政府の橋渡し役として奔走したが、志は理解されず、北越戦争の露として消えた人物である。
 安岡先生は河井継之助の言葉「人間というものは棺桶の中に入れられて、上から蓋をされ、釘を打たれ、土の中に埋められても諦めず、そこから脱出するほどの心意気を持たなければ何の役にも立たない。この本源から改革に着手してゆかねば、善事をしてもみな上辺だけのことになってしまう。天下を経綸しても、根本から改造することは到底むつかしい」を引用して、河井継之助の気骨を述べておられた。
 そして333号の巻頭には河井邸の庭に植えられている喬松(樹高がある松)の写真を掲げ、河井の号「蒼龍窟」を解読するのの一助となるようにと、漢の王襃の言葉「生きては喬松の如く、太陽に向かって呼吸すべし」が添えられていた。
 英雄は英雄を知るである。安岡先生の高い評価に、窪田さんは膝を叩いて共感した。これでますます安岡ファンとなった。
 それで安岡先生に会いたいと思って、新宿にあった全国師友協会の事務所に訪ねていった。すぐ行動を起こすところ窪田さんらしいところだ。しかし残念ながらその日、安岡先生は風邪をひいて休んでいらっしゃったので、お会いできなかった。その後は忙しさにかまけて、とうとうお目に
かかることはできなかった。

 活学こそ人生を彩る
 窪田さんは新潟大学附属中学校を出ると、名門長岡高校に進学する予定だったが、家庭の事情で就職せざるを得なく、友人の多くは東大や有力大学に進む中、町工場で汗や油にまみれて働いて都立高校の夜間部に通い、道を開いてきた人である。だから、学問は活学――活きた学問でなければならないという安岡先生の主張には深く共感するものがあった。
 例えば『人間学のすすめ』(福村出版)にこういう一節がある。
「学問というものは現実から遊離したものは駄目であって、自分の身につけて、足が地を離れないようにし、これを自分の環境に及ぼしていくという実践性がなければ、活きた学問――活学ではない。
 われわれは今後本当に、人間を作り、家庭を作り、社会を作る上に役立つ生命のある思想学問を興し、これを政治経済百般に適用してゆかなければならない。いわゆる実学、活学をやらねばならない」
 この一節を読んだとき、窪田さんは驚いて目を見開いた。
「――このような文章はただの学者には書けるものではない。自分達のように地の底を這いずり廻ってきた人間が共感するようなことを書くなんて、この人は只者ではない」
だから当然窪田さんの講演でも、安岡先生の「活学」「学実合一」という言葉を引用して聴衆に訴えた。
窪田さんは国鉄の労働運動の中にあって、文字通り命を賭けて正常化に挺身していたので、安岡先生の「われわれのなすことはすべて一燈照隅行、万燈遍照行でなければならない」という訴えは心に響いた。
安岡先生は随処で血を吐くような激励をされていた。
「内外の状況を深思しよう。このままで往けば、日本は自滅する外はない。われわれはこれをどうすることもできないのだろうか。
われわれが何とかするほかはないのである。
 われわれは日本を変えることができる。暗黒を嘆くより一燈を点けよう。われわれはまずわれわれの周囲の闇を照らす一燈になろう。
 かすかなりとも一隅を照らそう。手の届く限り、到るところに燈明を供えよう。一人一燈なれば、万人万燈である。日本はたちまち明るくなる。これがわれわれの一燈照隅行、即、万燈遍照行である。互いに真剣にこの世直し行を励もうではないか」
 まさにこれこそは自分の思いであり、そう思って日々の闘いを勝ち抜いてきたのだ。
 しかし、「一燈照隅、万燈遍照」を念じて行動すると、どうしても国士気取りになりやすい。それを戒めて、安岡先生はこう諭されていた。
「諸君は宜しく平凡にして、その味わい飽かざる人たるべし。無名にして有力な人たるべし。もし自ずからして、奇抜或は有名となることあらば、力めて捉われざる工夫をなすべし」
「有名無力であることを懼れ、むしろ無名有力たれ」と諭されるこの言葉は、昭和17年(1942)3月、安岡先生が主宰されていた農村指導者を育てる学校である日本農士学校第11期卒業生に送られた送別の辞である。
 窪田さんの深い彫りの顔。一度決めたら何としてでもやり遂げるという決意。その身体中から、歴戦の兵という雰囲気が伝わってくる。
「私は安岡先生とは何か不思議な縁があるのを感じます」
 窪田さんは漆黒の長い髪をかきあげて言った。
「安岡先生が国士を育てるために、昭和2年(1927)に金?学院を造られましたね。そこに金鶏神社がありましたが、あれは源頼義、義家ゆかりのものです。
 私は越後新発田藩の家老窪田平兵衛の縁のものですが、遠祖は源頼義、義家なんです。不思議なご縁です。窪田平兵衛については自分のルーツを明らかにしようと、実は本も書いているんです」
 安岡先生は「縁尋機妙!」――縁ほど不思議なものはない。神仏の導きはその縁に現れてくると言われたが、窪田さんもそれを感じている。

テレビを駆使して佐藤一斎を普及
 平成2年6月(1990)、労働運動の第一線から身を引き、新幹線など鉄道関係の広告を一手に引き受けるジェイアール東海エージェンシーで仕事をするようになった。平成13年(2001)11月、小泉内閣で外務大臣を務めていた田中真紀子代議士(長岡出身)が外務官僚を使いこなせず、立ち往生した。そこで小泉首相は田中外務大臣に佐藤一斎の『重職心得箇条』を手渡し、「これを読んだらいい。教えられることが多々あるよ」と一読をすすめた。しかし田中外務大臣は「これ、ナニ?」と首を傾げ、注意を払わなかった。おそらく読まなかったに違いない。
それを新聞報道で読んだ窪田さんは、そこに「有名無力」「無名有力」の典型を見るような気がして、日本人の精神的遺産がないがしろにされていると悲しくなった。
安岡先生は『重職心得箇条』を高く評価し、解説もされている。この本は人の上に立つ者が必読すべき本で、品格ある行動指針が書かれている。
そこで窪田さんは長らく労働運動を闘ってきた後輩のためにも、これを簡約しようと思い立った。そして平成18年(2006)12月、『重職心得箇条――人の上に立つ者、必読の「品格の行動指針」』を書き、自費出版した。さすがに労働運動の現場で戦ってきた百戦錬磨の勇士の書き下ろしだけあって、わかりやすく、説得に飛んでいた。
評判を得たこの本が佐藤一斎の故郷(美濃岩村藩)、恵那市の可知義明市長の目に止まった。恵那市は佐藤一斎の故郷であることから生涯学習に力を入れている。窪田さんが佐藤一斎に私淑しているのを知って面会を申し込み、わざわざ上京してこられた。
可知市長は歓談が終わると、恵那市の参与になってほしいと頼まれたが、まだ民間会社の役員をやっている身であるから重複するわけにはいかないと断った。すると、
「では観光大使ではどうですか」
 と再度の依頼である。
「それもお受けできません。でも佐藤一斎にはぞっこん惚れているから、佐藤一斎の思想を普及するお役目をさせていただきましょう」
 喜んだ可知市長は窪田さんを「佐藤一斎『言志四録』普及特命大使」に任命した。
 こうして佐藤一斎の思想を普及することになった窪田さんは、一斎を全国に知らしめるためにはどうしたらいいか考えた。
窪田さんは広告業界に身を置いていて、かねがねテレビの威力は熟知している。そこで「何でも探偵団」で佐藤一斎を取り上げるよう企画した。これに取りあげられたら、全国区になる。放映は首尾よく運んだ。
また、日本テレビのニュース・ゼロでも取りあげられ、番組の村尾信尚キャスターが信念について語る中で、一斎の名言「一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うるなかれ。ただ一燈を頼め」を紹介し、解説を加えたのだ。こうして佐藤一斎の名前と思想は徐々に人口に会するようになっていった。
「佐藤一斎がNHKの大河ドラマや民放の特番で取りあげられたらおもしろいですね」
 と、窪田さんの夢は尽きない。

業界20位にこぎ着けた広告代理店
現在、窪田さんが勤務するジェイアール東海エージェンシーは、東海道新幹線関連の交通広告を扱っていた㈱アドメディアセンターと、JR発足に伴って設立された㈱アド東海を合併させ、平成2年(1990)に設立された総合広告代理店である。
「この会社に移って多くのプロジェクトをやってきましたが、子や孫に誇れることは、新幹線300系がデビューするとき、その名称選びで、広告会社側の企画責任者をやったことです」
 窪田さんから意外な発言が飛び出した。そういえばもう労働運動家でなく、広告マンなのである。
「あのとき、『こだま』や『ひかり』を超える名前を、時空を超えて速さを感じさせる名前をと、JR東海幹部や学識経験者など皆さんが検討を重ねました。ローマ字に直して、行き先案内の電光表示板に入らなければなりません。世界の列車名、日本の列車名、造語、自然語から100に絞り、30に絞り、10に絞って、やっと『のぞみ』に決定しました。
 最初は「高のぞみ」などの揶揄もありましたが、お陰さまで大変好評で、みなさんに親しまれています。あのプロジェクトに参加できたのはいい思い出となりました」。
ジェイアール東海エージェンシーは広告主で組織する日本アドバタイザーズ協会から金賞や銅賞を受けるなどして実力をつけてきた。現在では大手電通をはじめ100社を超える広告代理店の中で20位前後に着けて健闘している。
「私は不完全燃焼で、まだまだやり残したことがあります。国鉄改革推進の途上には、鉄労組合員はじめ、国鉄内外に名も無き無名の戦士、志ある志士達が大勢いて、自己と闘い、鉄道を再生し国民のものするために果敢に闘ったということを是非解っていただきたい。
労働運動の面ではJR東日本、JR北海道、JR貨物などまだまだ問題を残していますし……。民主党政権は発足したとはいえ、試行錯誤が続き、まだまだ危なっかしい。私がやらなければならない問題は山積しています」。
 窪田さんはまだまだ夢を見果てない現役である。東日本大震災をきっかけに求められている新生日本の確立のために果さなければならない課題が待っている。


天は自ら助ける者を助く ~ 西アフリカに見た自助の精神~

福島県法人会新年号

西アフリカの奴隷島を訪ねる
去る11月、名曲「アメイジング・グレイス」の誕生秘話を小説にするために、西アフリカのセネガルとガンビアに行ってきた。両国とも奴隷貿易の拠点となっていた奴隷島が残っていて、世界遺産にも指定されているので、ぜひ現場を見たいと思ったのだ。
この讃美歌はイギリスのジョン・ニュートン牧師によって書かれたものである。ニュートン牧師は牧師として奉職する前はアフリカ航路の船長として奴隷貿易に従事し、アメリカとの間で三角貿易を行っていた。一時は道を踏み外し、人非人にまで落ちていたのに、今は人々の霊的生活に奉仕する聖職者になれたことを感謝しつつ、かつて黒人に非道なことをしてしまったという懺悔の思いから書いたのがこの歌詞である。
讃美歌に込められた思いが深かったこともあり、この歌は長年虐げられた者たちに共感され、アメリカではまず黒人やインデアンの間に広まっていった。「アメイジング・グレイス」が白人たちにも広がっていったのは、1960年代後半、アメリカがベトナム戦争で敗れて深く傷つき、政府も軍も何もかも信じられなくなり、人間不信の荒野になっていたとき、フォーク歌手ジョーン・バエズのバックコーラスをしていたジュディ・コリンズが楽器無しのアカペラでこの歌を歌いだしたことからだ。
 すると不毛の砂漠に水が染み込み、緑の大地に蘇っていくように、アメリカは再び信仰を取り戻し、「アメイジング・グレイス」は第2の国歌と呼ばれるようになった。
昨年、イギリスでジョン・ニュートン牧師の足跡を調べ上げた私は、奴隷貿易を被害者の側から眺めてみたいと思い、このほど西アフリカのセネガルとガンビアを訪れ、ゴレ島とジャンジャンビレ島という2つの奴隷島を取材した。しかし一方で教えられる出来事にも出合った。

日本ガンビア友の会の教育援助活動
私は今回日本ガンビア友の会の世話人代表として、500名あまりの中高校生たちに奨学金を出している阿野美智子さんに同道し、ガンビアで阿野さんの右腕となって働いている高校教師エブライマ・ジャダマさんの家に投宿した。
エブライマさんはガンビア川の中流域のジマンサ村の出身である。家は貧しい農家で、親は学校に行くよりも家の農作業を手伝えと言っていた。でも村の生活に埋没して人生を終わりたくなかったエブライマ少年は親に隠れて勉強し、優秀な成績で中学を卒業した。しかし親はエブライマさんを高校に進学させるつもりはなく、もちろん資力もなかった。
エブライマさんは高校に行くには自分で方法を見つけるしかなかった。そこで田舎を飛び出して首都のバンジュールに出てきて進学の道を模索した。そして運よくカトリックの修道女の援助を受けて工業高校に進んだ。そこからさらに授業料が免除されている短大に進み、中学校の教師になった。
しかし彼はそれで満足しなかった。なんとしても大学に進み、高校教師になりたかった。でも大学に進むには多額の授業料を納めなければならない。手許には一銭のお金も無かった。
そんなある日、日本ガンビア友の会という組織が奨学金を出していることを知った。世話人代表の阿野さんは若い頃、西アフリカを旅行したことから、ガンビアの発展に寄与したいと思った。中学生なら年間5000円あれば、1年間中学に通うことができる。高校生なら年間1万円あれば高校に通うことができる。国家100年の計は教育にあると思う阿野さんは、奨学金を工面して、向学心のある生徒たちを援助しようと思い立った。
阿野さんはさいたま市に住んでいるごく普通の整体師で、決して豊かではない。でも阿野さんが健気なことをやっていることを知って、援助してくださる方々が次第に増え、お客さまがカンパしてくださったり、PTAや婦人会がバザーを開いてくださるようになった。最初は細々と始まった教育援助だったが、今では500名もの生徒達の奨学金を出せるようになった。
阿野さんはエブライマさんの燃えるような向上心に心を動かされ、何とか援助したいと思った。しかし日本ガンビア友の会では中高生の奨学金は出すけれども、大学生の奨学金までは出さない。大学生1人の奨学金で、約18名の高校生を学ばせることができるのだ。エブライマさんに奨学金を出せば、18名の高校生が学校に行けなくなる。どうしたものかと悩んでいたところに幸運の女神が現れた。
阿野さんは奨学金を出してくださる方々に、一度ガンビアの実情を見てみませんかと毎年ツアーを企画している。これに毎年10名前後の人が参加するのだが、ある年女子大生が参加した。彼女はエブライマさんに会ってみて心を動かされた。年間18万円あれば、大学の授業料を払えるという。それならば、自分がアルバイトをすれば何とか作れるのではないか。そう考えた女子大生は援助を申し出た。
こうして彼女は4年間授業料を送り続け、エブライマさんは無事ガンビア大学を卒業し、高校の教師となった。大学を卒業しても就職先がないので、多くの卒業生はあらゆる機会をつかんで欧米に移住してしまうが、エブライマさんはガンビアに残って、租国の発展に寄与しようと決意した。ガンビアを発展させるためには、自分のような者が国に踏みとどまらなければいけないと思ったのだ。
今回私も一緒に各村々を回り、中高校に奨学金を届ける仕事の手伝いをした。エブライマさんは奨学金を受け取る中高校生にくり返しくり返し訴えた。
「みんなはテレビニュースで、日本は世界最大級の大地震と津波に襲われ、そこに原発事故まで加わって、歴史始まって以来の苦難のさなかにあると知っているでしょう。そういう事情だから、私も今年は奨学金の援助は打ち切られるかもしれないと思っていました。ところが阿野さんたちは何とか工面して奨学金を持って駆けつけてくださいました。
 私はそれだけでもう感激しました。この奨学金は金持ちが余っている資金を提供しているお金ではありません。自分たちもカツガツなのに、それでも援助はストップしないという日本の方々の心意気を皆さんも感じ取って、来年もしっかり勉強してください」
エブライマさんの訴えは例年以上に熱を帯び、生徒たちの心にしみこんでいた。

ガンビアの母親役を果している阿野美智子さん
私が滞在中、ある女子高校生が阿野さんを訪ねてきた。奨学金を出して欲しいというのだ。話を聞いた阿野さんは、「じゃあ、成績表を見せてちょうだい」と言った。ところがその子の成績は9段階評価の下から3番目だった。つまりその子の成績では、日本・ガンビア友の会の奨学金はもらえない。
それで阿野さんはその子に答えた。
「私たちの奨学金は上位の成績の生徒たちに出しているのよ。それからするとあなたの成績では奨学金を受ける資格がないとえるわね」
でもその子は食い下がり、奨学金をもらえなければ、高校を中退するしかないから、ぜひ出してほしいと訴えた。私は阿野さんがどう対処するか、興味が深かった。
阿野さんは真剣に話しかけた。
「あなたの窮状を理解して奨学金を出すとすると、あなたより成績がよくて頑張っている子が一人もらえなくなるということなの。それでも奨学金をもらいたい?
 この成績じゃ、奨学金はもらえないわね。本当に奨学金をもらいたかったら、もっともっと勉強して上位に食い込まなきゃ。あなたの頑張りようをみて、私たちが奨学金を出してあげたいと思うようになりなさいよ」
残念ながら私にもその子は真剣に努力しているようには見えなかった。しぐさのそこここに、ちょっと生活がすさんでいるのではと危惧させるものさえあった。
「私たちは真剣なの。もしあなたに勉学を続けたいという真剣さがあったら、もっともっと成績を上げて、来年また面接にいらっしゃい。成績がよくなって、あなたにもっと真剣さが見られたら、奨学金を出しましょう」
 そう言われて、その子は気持ちを引き締めたようだ。やる気をかきたてられて帰っていった女子高校生を見送りながら、私は阿野さんがガンビアの子どもたちを叱責し、激励することによって、よき母親役を果しているなと思った。
 日本ガンビア友の会の奨学金を受けることができる資格は厳しい。成績が上位から落ちたら、翌年の奨学金はもらえない。だから生徒たちも真剣に勉強する。出しっぱなし、もらいっぱなしということがないから、生きた奨学金になっているのだ。
 奨学生たちの成績の審査はエブライマさんが行い、それを阿野さんがチェックして最終決定としている。
「それが奨学金を出してくださった方々への、せめてもの恩返しです。今年は円高のおかげで、650名の生徒たちに奨学金を支給できました」
 阿野さんはどこまでも真剣だ。
 漢学者の安岡正篤は常々「有名無力、無名有力」と語っていた。
「人は誰でも有名になりたいと思って努力する。その刻苦勉励の日々によって、名前が上がり、ひとかどの人物になるのだが、ひとたび名があがり地位名誉を得ると、そこから惰弱が始まり、いつしか無力な人間になりさがってしまうことがある。
 ところが世の中にはまったく無名ではあるけれども、その内容において、頭が下がるような有力な生き方をしている人々がある。世の中の健全さというものはそういう無名有力な人々によって保たれている。私も無名有力な生き方ができるものでありたい」
 私は安岡の慧眼の言葉を思い起こし、阿野さんこそは無名有力な人だなと思い、大いに励まされたのだった。

天は自ら助ける者を助く
戦前は満州の建国大学で教え、戦後は神戸大学で教鞭を取り、「国民教育の父」と尊敬された森信三は、志についてこんな含蓄のあることを語っている。
「ローソクは火を点されなければ明るくならない。同様に人間は志に火が点かなかったらその人の真価が発揮されることはない」(『修身教授録』致知出版社)
 人間性への深い洞察がなければ、見落としてしまうところだが、森はその教育で「志を育てる」ことに注力した。
「私は今生の人生ではこれこれのことだけはなし遂げておきたい」
 という燃えるような情熱があったとき、あらゆる難関を突破して、ついに初期の目的を完遂するのだ。
前述のエブライマさんの例を考えてみると、彼の燃えるような向上心が応援しようという人々を吸い寄せ、幸運を作りだしたといえるのではなかろうか。
古来から「天は自ら助ける者を助く」という。
ここに洋の東西を超えた真理がある。心さえ折れなければ、地道な努力を続ける者は必ず幸運を呼び込むのだ。また心さえ折れなければ、あらゆる逆境はその人の足腰を強くし、飛躍の時をもたらすのだ。


東日本大震災と素晴らしい果実

週刊「先見経済」 連載104

4月23日付の読売新聞夕刊が、日本文学研究の第一人者で、日本文化を欧米へ広く紹介してきたドナルド・キーン米コロンビア大学名誉教授(88)が日本国籍を取得し、永住を決意したと報じた。マグニチュード9という世界最大級の地震に見舞われながら、それを従容と受けとめ、お互いに助け合って復興に立ち上がった日本人を見て感動し、「日本は震災後、さらに立派な国になる」と確信し、永住を決したという。
キーン氏は青年時代、日本文学を考察するなかで、人間観と人生観を養い、「日本という国がなかったら、果たしてまともな人間になれたかどうか」とまで語っている。
キーン氏は米海軍兵士として、日本が太平洋戦争の焼け跡から敢然と立ち直っていった姿を見ているから、今回もこの惨状を乗りこえ、さらに立派な国になると信じるという。
また作家の高見順が太平洋戦争末期、我慢強く疎開する人々を東京・上野駅で見かけ、「こうした人々と共に生き、共に死にたい」と日記に書いていることにも触れ、「私は今、高見さんの気持ちが分かる」とも語っている。
多くの外国人が放射能の危難を恐れて日本を脱出するという時期に、よくぞ日本に帰化し、永住するというから頭が下がった。
いや日本は太平洋戦争の傷跡から立ち直ったばかりではない。長崎、広島で原爆が炸裂し、その後何十年も後遺症に苦しむという人類初めての悲劇を経験しながら、誰も恨むことなく立ち直ってきた。今度も福島第一原発の放射能被害によって強制疎開を余儀なくされた人が、「私には東京電力を恨むことはできません。あの方々も被害者であり、原発事故を鎮圧するために防護服を着て、必死に事故処理に当たっておられます」と語っておられるのを聞いて涙を禁じえなかった。
 この精神の高さはどこから来るのだろう。市井の無名の市民の中にすらあるこの精神の気高さがキーン氏をして日本への帰化と永住を決意させたのだ。
私はこの原発事故がよその国で起きたのではなく日本で起きたことに感謝したい。日本だったらパニックに陥って、人を非難して恨みつらみの泥沼に化してしまうのではなく、この危難を見事に乗り切って、世界に範を示すことができると思う。いやできるからこそ、天はこの厄災を敢えて日本に下されたのではなかろうか。
安岡正篤は『東洋的学風』(島津書房)にこう書いている。
「日本の民族精神・民族文化といえば、その根本にまずもって神道を考えねばならぬ。その神道の根本思想の一つに『むすび』ということがある。むすびということから人生すべての事が始まる。
 仏教の言葉でいえば、『縁起』である。ある事が縁によって因となり、果を生じる。すぐれた因が、すぐれた縁で、すぐれた果を生じる。勝因・善因が勝縁・善縁によって、勝果・善果を結ぶ。このむすびほど不思議なものはない」
 今回の一件悲劇であり大惨事とも見える厄災も、日本人だったらすぐれた果に結びつけてくれると期待してのことではなかろうか。その期待に見事に応えたい。そして紛争に明け暮れる世界に対して、別な道があるのではと提言できる日本でありたいと思う。


東日本大震災と内省

週刊「先見経済」 連載103

 3月11日、昼2時すぎ、マグニチュード9という巨大な地震が日本列島を襲い、大惨事となった。私はあのとき、自宅書斎で『敗れざる者 ダスキン創業者鈴木清一』を執筆中だった。昭和39年(1964)、世界1のワックスメーカのジョンソン社に自社を乗っ取られた鈴木氏がかねて師事していた一燈園の西田天香師に相談に行った下りを書いていた。鈴木氏はかねがね「損と得あらば、損の道をゆく」を信条としていたが、いざ実際にそういう場面に遭遇すると、信条とは裏腹にはらわたが煮えくり返っていた。ところが天香師は自分も巻き込まれた関東大震災の話をしたのだ。
「私は御殿場近くの汽車の中であの大震災に遭遇しました。東京に入ってみると阿鼻叫喚の巷と化し、燃え盛る紅蓮の炎に巻かれて焼け死んだ人々の遺体をそこここに見ました。想像を絶する大惨事に直面し、私は荒灰につっ伏してお詫びしました。
『関東の方々、どうぞ許してください。私が気づくのが遅かったばかりに、こんな大惨事が起きてしまいました』
 そして京都に引き返すと、それまで住んでいた家を引き払い、裸ひとつで再出発したのです。
鈴木さん、天はあなたの中の甘えを削ぎ落とすために、今度の出来事を仕組まれたのではないでしょうか。あなたが祈りの経営を実践し、道と経済の合一を果たそうとしても、あなたの中にないものは顕現しようがありません。まずあなた中に形成され、次にあなたの会社に実現されていくのです。
今度のことはお光があなたに課した〝行〟だと思いなさい。つらく悲しい行です。でもその行を経て、あなたの中に新しいものが育ったとき、そこから新しいひこばえが芽生えるのです。
誰も恨んじゃいけません。全部自分への諭しだと思って感謝して受けとめなさい」
鈴木はその諭しを聞いて、はじめて人間的迷いが吹っ切れた。そしてもう一度ゼロから出発し、ついにダスキン王国を創り上げたのだった。
私はそんな物語を書いていたのだが、あまりに符合することが多いので驚いてしまった。
実は安岡正篤が『易と人生哲学』(致知出版社)に内省についてこう書いている。
「われわれの欲望というものは、いうまでもなくこれは陽性です。それに対する内省、反省というものは陰であります。欲望がなければ活動がないわけですから、欲望は盛んでなければなりませんが、盛んであればあるほど内省というものが強く要求されます。内省のない欲望は邪悪であります。そして内省という陰の動きは、省の字があらわしておりますように、〝省みる〟という意味と〝省く〟という意味があります。内省すれば必ず余計なものを省き、陽の整理を行い、陰の結ぶ力を充実いたします。人間の存在や活動は省の一字に帰するともいわれる所以であります」
 今回の東日本大震災は私たちに何が必要であり、何が要らないものであるか内省させるための出来事だったと思えてならない。


人の役に立ってこそ生きている喜びを実感するのが人間

週刊 「先見経済」  連載100

「我々は何のために学ぶのか」――これは安岡正篤が『知命と立命』(プレジデント社)の中で発している言葉である。太古の昔から今日に至るまで、生を享けた者は誰もが発してきたこの問いは、こうも置き換えることができる。
「我々は何のために生きるのか?」
 この苦悶があるがために、人間は時間を徒労にすることなく、目覚め、発憤して、見事な人生を生きることができる。それゆえにこの自問を発することができる人間は幸せだといわなければならない。
 安岡はこの自問に同著でこう答えている。
「平たく言えば、内面的には良心の安らかな満足、またそれを外に発しては、何らかの意味において、世のため、人のために自己を献ずるということである」
安岡がこう答えた背景に、中国古典の思想「自靖自献」がある。
――道を求め、書物を読むのは、点地の理をつかんで、安心立命に至り、自分が命を奉げる課題を見いだして、世のため、人のためになることである。
この「自靖自献」の自覚ほど人間の精神を溌剌とさせるものはない。人のお役に立てているという思いは、この世に生まれてよかった、私でも生きる価値があるという満足感を生み出すのだ。
 先日ある精神科医からメールをいただいた。クライアント(患者)の悩みに耳を傾け、彼の心のしこりをほぐす立場にありながら、彼を自殺させてしまい、「私は本当にクライアントのお役に立てているのだろうか」と悩み、落ち込んでいるというのだ。
何度かメールのやり取りをし、この方の苦しみを聞いたあと、私はこうメールを送った。
「私はあなたがプロフェッショナルな精神科医だと自信を持ってクライアントに臨まれるよりも、自分の資質に疑問を抱き、迷いながら、謙虚に耳を傾けられる方がいいと思います。その方がクライアントはこの先生は本当に私のことを理解しようとしてくださっていると感じるのではないでしょうか。
 人は説教し、アドバイスしてくれる人ではなく、ひたすら耳を傾けてくれる人を求めています。いっしょに涙を流してくれる人を求めているのです。
 だから大いに悩み、苦しんでください。その闇を経てこそ、真に聴く力を持った精神科医になれるのではないでしょうか」
 そして私は拙著『マザー・テレサへの旅路』(サンマーク出版)でも紹介した、マザー・テレサは本当に聴く耳を持った方だったというエピソードを紹介した。
自分が輝くのではなく、人を輝かせるために汗を流すのである。人のお役に立ちたいと念願した人は黒子に徹することができる。産婆役に徹し、縁の下の力持ちに徹すると、逆にその人は必要とされ、輝き出し、ますます真価が発揮されていくのだ。


自然農に生き、日本農士学校の再建を夢見る今野時雄さん

すわ! 『沈黙の春』の再来か
東京・池袋から北へ一時間ほど行った所にある埼玉県小川町で、四群のニホンミツバチが死んだ! 
「ひょっとするとこれは『沈黙の春』の再来ではないか」
同町で、不耕起、無肥料、完全無農薬で自然農を営んでいる今野時雄さんたちは色めきたった。従来の有機リン系農薬にとって変わり、現行の主農薬となりつつあるネオニコチノイド系農薬の被害ではないかと危惧したのだ。
実は五年前、岩手県を初め、各県の自治体でミツバチの大量死が起きていた。日本在来種みつばちの会の会長を務める藤原誠太さん(盛岡市の藤原養蜂場長)が死蜂を検査機関に分析依頼すると、〇・〇21PPMのクロチアニジンが検出された。その後も各地でミツバチの大量死が続出し、大騒ぎとなっている。
人類は食糧の大半を植物に依存している。そして植物の受粉の八〇%はミツバチが行なっている。従ってミツバチの大量死は農業に深刻な打撃を与える。アメリカでも四分の一のミツバチが巣箱から逃げ去ったり、死滅する現象(蜂群崩壊症候群)が起きており、ミツバチ不足は世界的な問題になっている。
実はこの問題はかつて大問題となり完全禁止となったDDT汚染と直結しているのだ。
一九四三年に実用化されたDDTは害虫の駆除能力が高いことから大量に空中散布され、「夢の化学物質」と称讃されて、現代農業は大きな恩恵を受けてきた。そのため一九四八年、DDTの発明者パウル・ミュラーはノーベル賞を授与されたほどだった。
ところが米国の生物学者レイチェル・カーソンが『沈黙の春』(新潮社)で、DDTの空中散布によって生態系に異変が起き、昆虫が死滅していることから、それを餌にしている小鳥のさえずりが春になっても聞こえてこないと、DDT使用に警鐘を鳴らした。それによってようやくDDTの深刻な被害に目覚めたケネディ大統領(当時)は殺虫剤の研究を命じ、DDTを全面的に禁止したのだった。

ネオニコチノイド系農薬の恐怖
 危機感を抱いた今野さんは、環境・歴史・文明の専門誌「環」(二〇一〇年夏季号 第42巻)に、「『沈黙の春』の再来か――ネオニコチノイド系農薬の恐怖」と題して論文を発表した。そのセンセーショナルな内容が人々の注目を集め、俄然話題となった。そのメッセージを要約するとこうだ。
「一九九〇年代に入って有機リン系農薬にとって変わりつつあるのがネオニコチノイド系農薬だ。『害虫は駆除するけれども、体にはやさしい』という歌い文句だ。しかし、この農薬は浸透性が強く、無臭で水溶性であるため、河川の水に溶けやすい。そのため、水生動物が死滅するだけでなく、河川の水を飲んだミツバチも脳神経をやられて死滅することになる。作物の根から養分とともに吸収されたネオニコチノイド系農薬は、実や葉に残留するため、それをかじった昆虫は死滅する。そうした理由から、ミツバチの大量死はこのネオニコチノイド系農薬が原因ではないかと推量する。
体重比較で換算すると地中の生物の八〇%にあたるミミズや、土壌細菌や微生物が死滅すると、土壌が死んでしまう。土壌が死ぬと農業はますます化学肥料に頼らざるを得なくなり、悪循環に陥ってしまう。
ネオニコチノイド系農薬の地下への浸透は七日間で一〇五センチ、残留農薬の半減期は四か月から一年なので、地下水や河川は確実に汚染されてしまう。最近、トンボやアメンボやミズスマシやホタル、それに蛙やイモリも見かけなくなったが、これは生態系に重大な異変が起きている証拠だ。だから『沈黙の春』の再来ではないのかと危惧するのだ」
今野さんの問題提起は私たちがうすうす気付いていることの真相を明らかにしてくれる。
「秋になるとどこの田んぼでもスズメを追い散らすガス鉄砲が鳴り響いたものだが、それがトンと聞かれなくなった。これはスズメが農薬を浴びた昆虫を食べて中毒死しているからか、あるいは昆虫そのものが減ってしまい、それを餌としているから餓死しているかに違いない。
 ネオニコチノイド系農薬は水溶性なので、スズメは稲に吸収され、残留農薬が蓄積されたモミを食べて死んだのではないか。キジバトの主食も落ち穂なので、最近キジバトを見かけなくなったのもこの農薬の中毒死ではないか。
 昔は磯にはフナムシが一杯いたのに、最近はそれが減っているのも、ネオニコチノイド系農薬の空中散布が原因ではないだろうか。ネオニコチノイド系農薬の危険性に気づいた欧州では、オランダが二〇〇〇年、仏が二〇〇六年、ドイツ、イタリアは二〇〇八年に禁止している。
ところがまだ日本では何の規制もされていない。これでは農水省役人の天下り先が農薬メーカーだからと揶揄されてもしかたがない」
 今野さんの告発論文は歯に衣を着せず、鋭かった。現に農業を営んでいる人からの告発なので、人々の注目を集めたのだ。

なぜ自然農に目覚めたのか
今野さんはパナソニックの情報通信機器を企業に販売する会社を経営していた。しかし早くから農業に関心を持ち、第二の人生は農業をしようと考えた。そして福岡正信さんの『ワラ一本の革命』(春秋社)を読み、自然農法に関心を持つようになった。また同じ農業観に立つ奈良の川口由一さんや「奇跡のりんご」で有名になった青森の木村秋則さんに共鳴し、草や虫や土中の微生物を大切にする不耕起農業をやり出した。
その実践を踏まえて、今野さんは自然農の良さをこう説明する。
「私は実践してみて、福岡さんや川口さん、それに木村さんたちの主張に一つひとつ納得できました。自然界を見ると、たくさんのいのちが豊かに栄えている場はどこも耕していませんよね。休耕田にうっそうとした草が生えているのは、それだけ草木が繁茂できる舞台になっているからです。
 これは耕やさないで自然に任せているから、豊かな土壌になったのだと考えられませんか。自然界の草木たちは生きるに必要な養分を空気中から集め、太陽の恵みを存分に受けて繁茂しているんです。
 耕すということは、微生物や土壌細菌が住んでいる家をガタガタに壊していることになります。耕作と農薬によって彼らの活動を断ち切っているから土が固くなるのです。土が固くなるからまた耕し、化学肥料をやり、微生物や土壌細菌を死滅させるから、土壌はますますやせるんです。だからまた化学肥料に頼るという悪循環をくり返しています。
 この悪循環を断ち切り、微生物や土壌細菌が活動するのを辛抱強く待ったら、必ず土は復活し、フカフカになるのです。
 木村さんは『畑で毎年大豆と麦を五年間育てれば、地力が回復するよ』と言いました。大豆の根にある根粒細菌によって空気中の窒素が土中に固定され、地力がつくからです。
 ちなみにライ麦は支根の総数が約千三百万本あり、それをつなぐと六百キロ、ほぼ北極と南極をつなぐ距離に匹敵します。そこには微細な毛根が百四十億本生えています。ライ麦の根が枯れて土に返るとそこが空気孔となり、フカフカの土壌になっていきます。木村さんはそういう例をあげて、自然の知恵を活用しない手はないと言います。
 小さじ一杯の土に一億個から十億個のいのちが棲息しているといわれます。これらが出す糞や死骸が天然の養分になります。田畑を一年休ませて草茫々にしておくと、翌年作物が育つのはこの理由からです」
 表土が一センチできるのに一千年かかるといわれるが、人間はその自然の営みを大切にしなければと今野さんは説く。そこには大自然の前にあくまでも謙虚な人の姿があった。

金儲けを採って大切なものを犠牲にするか
「しかし、自然農が今ひとつ広がっていかないのは、そこに何か問題があるからではないでしょうか」
と問うと、今野さんは「それは価値観の問題と深く関わっています」と説明した。
「自然農は化学肥料を逐使する現行農法に比べて、反収(十アールあたりの収穫量)が三分の一から半分しかありません。化学肥料を施せば二毛作ができますが、不耕起の自然農では四分の一毛作しかできません。だから農家は『効率が悪い』だの、『儲からない。それじゃ食えない』などと言って敬遠します。
 私は最初の数年はまったく収穫はありませんでした。でも不耕起、無肥料の田畑で大豆と麦を連作し、草を茫々にして、地味が肥えるのをジッと待ちました。収入がないんですから、辛い日々でした。しかし五年目に入った頃から何か変化が現れ、収穫できるようになってきました。
最初は十アールの田畑でしたが、今では六ヘクタールになりました。だから急いではいけないのです。微生物や土壌細菌の働きを信じて、ジッと待つのです。彼らと共生するのです。そこからみんなが喜べる新しい世界が生まれて来るのです」
 それに自然農を営んでいると、多くの生命から喜びを与えられ、彼らと共生しようという思いが強くなってくるという。
「一回でも農薬を散布すると、葉面のクチクラ層が破壊されてしまうから、ずっと散布し続けなければならなくなるんです。化学肥料も耕作機械も要ります。効率や金儲けを優先すると、支払わなければならない代価が致命的になるんです。
 ところが自然農を営んでいると、お金はかかりません。畑を歩くと無数の昆虫や小動物が一斉に飛び出すので、思わず歓喜の声をあげてしまいます。そこには多くの生命が躍動しており、癒しがあり、詩があり、ファンタジーがあります。鳥がさえずり、ニワトリが鳴き、犬が吠えて、小川のせせらぎが聞こえてきて、人間に安らぎを与えてくれます。
質素ではあっても、大地に足がついた健康な生活があるのです。金銭には変えられない豊かな精神生活があります。だから私は自然農のとりこになってしまいました」
と今野さんは屈託がない。この屈託のなさも自然農的生活からいただいたものだという。そこには大自然の前にあくまでも謙虚である人の姿があった。

日本農士学校の再建を願って
不耕起、無肥料、無農薬の自然農に精力的に取り組む今野さんは、農業だけに留まらず、教育の分野にも眼を向ける。
「古来から人間教育は、文武両道が必要だと言いますね。そこには経験に裏打ちされた、人間性への深い洞察があるように思います」
今野さんは健全な精神を養うためには、学問を通して聖賢の学を学び、宇宙の叡智をつかむ必要があると考えるようになった。
その意を強くしたのは、子供たちへの論語教育で知られた伊丹市の丹養塾幼稚園の吉田良治園長(故人)の紹介で、埼玉県嵐山町にある郷学研修所が主催する安岡教学セミナーに参加したことからだ。そこで農業と古典教育による人間教育を目指して、日本農士学校を運営された安岡正篤先生を知り、その教学を学ぶようになった。
安岡先生の著書を読めば読むほど、その思想に傾倒し、今野さんも自然農的生活と人間学教育で人材の育成を志すようになった。こうして平成二十年(二〇〇八)年四月一日、数名の塾生とともに『論語』の素読を始めた。
素読の冒頭では高らかに「継続は力なり。読書百遍意自ずから通ず」と唱和する。文言の解釈はせず、ただ素読して肌に響きを感じさせた。頭でっかちで理屈好きな現代人はすぐ文言の解釈に走ろうとするが、それを厳に戒めて、ひたすら素読に徹した。
不思議なもので、何百回も素読をくり返しているとソラで暗記してしまい、農作業をやっていると、文言が浮かんできて、「ああ、そう言うことか!」と意味が通じるのだ。古典が頭ではなく、体にしみ込んでくると感じるのはこうした時だ。
素読は『論語』から始めて、順次『大学』『中庸』『孝経』『教育勅語』『般若心経』へと広がっていった。
五名の塾生と素読を始めたとき、今野さんは安岡先生が昭和六(一九三一)年、同地に設立された「日本農士学校」の再建を夢見た。だからこの私塾に「私塾日本農士学校」と名づけ、思いを込めて再建趣意書を書き上げた。関係各位に図っていたら、議論が空回りするばかりで、一向に前に進まない懸念がある。そこでとにもかくにも行動を起こそうと素読を始めたのである。
次に今野さんが書き上げた趣意書を掲げよう。

  私塾日本農士学校創立理念
言うまでもないが、人間にとって教育ほど大切なものはない。国家の運命も教育如何にある。我々は、教育の荒廃を憂えるものである。その原因は科学教育の偏りにあり、道徳教育を中心とした教学の軽視にある。倫理観の喪失、道徳の退廃はその極に達している感が否めない。私利私欲に堕した「偽」の世界は、商品の生産・流通のみならず、農業を始めあらゆる分野で蔓延している。また、国の生命線である諸問題が無責任な未解決状態に甘んじている。凜とした国、それは凜とした国民に依らねばならない。
教学は、人の心の真実を探求する普遍的な学問である。身を修め、志を立て、信念をもって道を歩まんとする質実剛健な青少年を育てる人間活学である。
自然農は、自然の営み生命の巡りに添った農の営みであり、耕さず草々や虫たちを敵としない天地の造化に委た究極の農的生活である。そこには「偽」がない。社稷は無代の天徳である。故に我々は天地の化育に参賛し、身心ともに喜び、生かされていることに気付き、敬と感謝の念に包まれる。
天徳には人徳をもって報いねばならない。自然は至高の尊師である。よって、農作業は学びであり奉仕となる。
我々は念をここに潜めて、世の指導的人物たるには如何なる学問修行に励むべきかを研究し、中江藤樹や二宮尊徳、碩学安岡正篤らの道統を継ぎ、自然農生活と教学に特化した知行合一を希求し、強恕な人傑を育てるべく、茲に地を卜して日本農士学校を創立し、素志の達成に努力するものである。
本校は、空無我の真心からなされる完全なる慈善である三輪空施(布施)によって運営・維持される。

 実に高潔な宣言である。その言や良し! 今野さんの悲願が成就することを願って止まない。

 二次産品で産業の育成を!
 今野さんは農作物や稲の収穫だけで終わりたくないと考え、その収穫物から味噌、醤油、豆腐、納豆、梅干、天然酵母パン、生ラーメン、生うどん、蜂蜜などの加工品を作り出している。それは自給自足するだけではなく、食品工場などで雇用を創出し、幸福度の高いコミュニティ(新自治)をつくりたいという思いがあるからである。
 それにはモデルがある。
明治時代の初期、二宮尊徳の思想で静岡県の寒村に過ぎなかった庵原村(現・静岡市)が立ち直り、豊かに農産品を産み出すようになっただけではなく、製メン、製パン、搾油、醤油醸造、精糖、および酪農製品を産み出すようになり、豊かな村に生まれ変わった。
 庵原村の復興については、不良少年を農的生活で更正させた東京の巣鴨家庭学校や北海道家庭学校を創立し、社会福祉の先駆者となった留岡幸助が、明治三十八(一九〇五)年、この庵原村で「農業と二宮尊徳」と題して講演を行なっているが、この講演はものの見事に庵原村復興運動の本質を突いていた。
今野さんは偶然、その講演録を入手し、わが意を強くした。農業は凛とした精神に裏打ちされてこそ、真価を発揮するのだ。少し長いが引用しよう。

  抑も農業なる物は天然自然を相手にするものであるから嘘偽りがあってはならぬ。二宮先生は、人間というものは真面目でなければならぬということを頻りに説かれた。そして、「もし、一人の心の田地を開拓出来れば、百万町の荒蕪地があっても、最早憂うるに足らない」と云われた。
私の浅い研究から申し上げますれば、二宮先生は土地を拓くのは第二の目的であった。第一の目的は人間の心を啓くということである。報徳というものは人間の心を清浄潔白にするのが趣意である。天徳に報いるのが報徳である。
その天徳とは何か。五穀でも魚類でも我々が是を得るのは天の賜である。初鯛一尾が二円するとせば、これを本当の値打ちであると思うのは間違いである。その真価は百万両するかも知れない。二円というのは漁夫が海へ出て獲る処の労銀である。鯛は天から無料で貰って居る。
米一石が十三円とするなれば、それは米の真価ではない。農夫が田へ出て作り上げた労銀である。米一石の真価は百万円するかも知れない。それを我々は天から無代で貰って居る。
我々は天と共に仕事をしているのである。天は其の仕事の幾部分を我々に託したのである。而して我々は衣食住の大部分を無代価で天より貰って居るのである。我々は其様にして天の徳を蒙って居る。故に我々は此の天の徳に報いるに人間の徳を以てしなければならないというので報徳教というものが起こってきた。
報徳事業のなかで、農業が一番良いもので、また貴いものである。なぜ貴いかというと大小便や土壌を取り扱うのが貴いのではなく、其の土の中に熱血赤誠を注ぎ込んで居るからである。真面目が貴いのである。
其の故に、同じ農業でも算盤玉ばかりで凡てを弾き出すのは、報徳の趣旨に適わないのである。己の誠を田面に移せという諺があるが、赤誠という肥料を田畝に施す。そうすると多くの収穫を為すことが出来る。是が報徳の事業であります。報徳の事業は物質的事業であるが、ずっと奥に這入ると、精神的事業で御座ります。

  今野さんは明治時代、庵原村で達成されたことをここで実現し、そのノウハウを全国に展開し、ひいては「国家百年の計」につなげたいと考えている。
溌剌とした精神の重要さを自覚した今野さんは、ますます古典の素読に力を入れている。この改革運動は一隅を照らし出すだけのささやかな運動で終わるかもしれない。しかし、口先だけの評論家的人間が多い現代にあって、知行合一の猶興の士でありたいと思う。
今野さんは三年間の試行期間を経て確信を持ったので、いよいよ来年(平成二十三年)私塾日本農士学校塾生の公募を行い、新たに十名を補充しようとしている。
  当年六十九歳。まだまだ気力に富んでいる今野さんにモットーを聞いた。するとすかさず今野さんの口を突いて出たのは松下幸之助の言葉だった。
松下は経営者たちから成功の秘訣を訊かれて、ひと言こうつぶやいたという。
「思うことやなあ」
  今野さんは日本農士学校の復興を願って行動を興したが、その悲願を成就するため思い続けたいと言う。夢を語る今野さんは青年のように熱かった。