日別アーカイブ: 2015年6月7日

共に生きる - 生きているだけではいけませんか

共に生きる

生きているだけではいけませんか

辻光文先生が呼びかけているもの

神渡良平

  

辻光文先生に訊く
辻光文先生に訊く

教護教育を変えた辻先生の人間観

人間とは何なのか――

この古くて新しい問題に、その生き方を通して注目されるメッセージを送っている教育者がいます。シンナーや窃盗(せっとう)、売春などをした児童を、小舎夫婦制という家庭的な生活の中で生活指導し、自立を援助する児童自立支援施設である大阪市立()()(やま)学園で長年教護をしていた(つじ)(こう)(ぶん)先生です。

児童自立支援施設とは、昔は感化院、その後少年教護院、現行の児童福祉法では児童自立支援施設と呼ばれ、国立二か所、全国都道府県に五十八か所の他、私立二か所あります。小舎夫婦制とは十八歳未満の要教護の子どもを親代わりの夫婦のもとで、家庭が持つ温かい雰囲気のなかで、規則正しい生活を身につけさせようという試みで、なかなか成果を上げています。しかし同じ屋根の下、三百六十五日、二十四時間いっしょに生活するので、教護専門委員に過度の負担を強いて成り立っているのも事実です。

辻先生が児童たちの自立支援教育で実績を上げるにつれ、あちこちに講演に呼ばれるようになりました。辻先生は子どもたちをどう教育されたのか、実例を上げて話される前に、教護教育に携わっておられる方々は、こぼれるような笑顔をたたえた辻先生の雰囲気に(いや)され、リラックスするのでした。

その辻先生が投げかけているメッセージは、私もあなたも、虫も動物も花も小鳥も分けては考えられない同じいのちなんだというものです。その意識を持ったうえで、辻先生は「生きているだけではいけませんか」と語りかけておられます。

幸いにして、辻先生がそのメッセージを散文詩に表現されたものがあるので、まずそれを読んでいただきましょう。長い詩なので、最後の部分を紹介します。

 

(承前)

「いのちはつながりだ」と平易に言った人がいます。

それはすべてのもののきれめのない、つなぎめのない東洋の「空」の世界でした。

障害者も、健常者も、子どもも、老人も、病む人も、あなたも、わたしも、

区別はできても、切り離しては存在し得ないいのち、

いのちそのものです。

 

それは虫も動物も山も川も海も雨も風も空も太陽も、

宇宙の塵の果てまでつながるいのちなのです。

(ごう)(しょ)よりこの方、重々無尽に織りなす命の流れとして、

その中に、今、私がいるのです。

 

すべては生きている。

というより、生かされて、今ここにいるいのちです。

そのわたしからの出発です。

すべてはみな、生かされている、そのいのちの自覚の中に、宇宙続きの、

唯一、人間の感動があり、愛が感じられるのです。

本当はみんな愛の中にあるのです。

生きているだけではいけませんか。

 

仏教やキリスト教が説いている深遠な世界観を、身近な言葉で表現したらこうなるのでしょう。辻先生のもとでは、どんな問題をかかえた子どもでもおだやかになっていったという事績を見ると、子どもたちとどう向き合うかはテクニックの問題ではなく、こうした世界観に立脚することが大切だということがよくわかります。そうでないと、個々の出来事に振り回され、疲れてしまうからです。

結局、教護教育は児童たちの問題ではなく、それに取り組む私たちが目覚め、悟り、さまざまな経典が説いている世界観に到達することだと思えます。

 

すべてがミルク色の靄に溶け込んでいた

辻先生が個々人の魂の導きにいのちをかけて取り組んで来た中でつかんだもののエッセンスともいえるこの詩を読んだとき、私は若い頃、釈迦(しゃか)が悟りを開いたブッダ・ガヤーを訪ねたときのことを思い出しました。マハーボーデー寺院の()(だい)(じゅ)下で終日瞑想して過ごした後、乗り合いバスに揺られてヴァーラーナシーのガンジス河の畔に出ました。

翌朝早く、インド人の巡礼者が泊まっている木賃宿を出て、ガンジス河に向かうと、すべてがミルク色の濃い(もや)に包まれて、渾然(こんぜん)一体となって溶け合っていました。濃い靄の中から、圧倒的な水量でとうとうと流れるガンジス河で沐浴をし、祈りを捧げているヒンドゥ教徒の姿が浮かび上がってきます。すべては一つのいのちの根源から個々に派生していると思わされる豊かな光景でした。

辻先生がつかまれた人間観、宇宙観は、この光景によく似ていて、すべてのいのちは一つつながりにつながっているというものです。先生が、「山も川も海も、虫も動物も、雨も風も空も、太陽も宇宙の塵の果てまで、すべてのいのちはつながっている。障害者も、健常者も、子どもも、老人も、病む人も、あなたも、わたしも、区別はできても、切り離しては存在し得ない。すべてのいのちが切れ目なく、つなぎめなく、つながっている」と表現される通りです。

ふて腐れている問題児も、誰も寄せ付けず、心を閉ざしている女の子も、辻先生のこういう人間観の前では、突っ張っていることもできず、打ち解けて素直になっていきました。つまり厳しくしつけられ、社会的ルールを守っているかどうかの問題ではなく、養育する大人の側の問題だったのです。

しかし、辻先生がこうした心情を抱けるようになるまで、いろいろと試行錯誤がありました。まず生い立ちを探ってみましょう。

 

三つ子の魂、百まで

人間は自分がいのちを賭けて取り組める〝天職〟と思える仕事に、どこで出合えるかわからないものです。でも願望を持ち続けたら必ず天職に巡り合え、自分の持ち味が最高に生かされるということを、辻先生の事績は私たちに教えてくれています。

辻先生は昭和五年(一九三〇)、東京で生まれ、秋田県の山の中の禅寺で育ちました。人一倍繊細な子どもで、人より優遇されることがとても(いや)でした。たとえばマイマス何度にもなる厳寒で、貧しい子が足袋(たび)履かずに学校に来ると、自分も足袋をはかずに過ごしました。貧しい子どもの弁当のオカズは味噌が梅干しだけなので、自分も卵焼きや焼き魚は持って行きませんでした。

ある時友達から、「や~い、コンブ。今日は葬式があるから、お前んとこは儲かるなあ。坊主は訳のわからんお経をムニャムニャ唱えておれ金になるんだから、こんな楽な商売はないな」とからかわれました。それは辻少年の心に突き刺さりました。宗教でご飯を食べるべきではないと、以後葬式仏教が嫌いになってしまいました。

 

迷い多き人生

長じて京都の臨済学院専門学校に進みました。経典の解釈だけではなく、法事や檀家のことなど、寺院経営の実際についても学びましたが、辻さんは卒業しても寺院に所属せず、在家仏教徒として生きようと思いました。そこで郷里の中学校の教師になり、卒業して集団就職し、町工場で働いている教え子たちから悲しい手紙が届きました。

「先生が教えてくださった社会と現実は全然ちがいます。ぼくたちは毎日夜十時、十一時まで残業して疲れ果て、仕事が終わるとぶっ倒れるように寝ています。先生が勧めてくださったように定時制高校に通って勉強したいのはやまやまだけど、とても無理です」

そこで卒業生が働いている工場を訪ね、経営者に子どもたちを定時制高校に通わせてほしいと頼みましたが、全然聞いては貰えませんでした。そこで教師をやめ、教え子たちと一緒に東京の印刷工場の職工として働き、彼らの支えになろうとしました。でも現実の重圧には抗することができず、自分の無力さに泣きました。職場を辞め、三輪トラックの運転手など転々と職を変わりました。

普通は人生の目標をしっかり決めて、そのための技能を身に着け、社会人となったら目標成就に向け勇猛邁進するものです。しかし辻さんは目標が定まらず、天職と思えるような仕事に出合えず、転職を繰り返していました。自分の特性を生かして何ができるのだろうと、迷いに迷っていました。

それでも、臨済学院専門学校で師事した柴山全慶(ぜんけい)師にはいつも手紙を書き、悩みを相談していました。辻さんは学生時代、柴山師の存在そのもの、風格そのものに()かれ、尊敬しました。だから柴山師が住んでおられる南禅寺境内の小さな庵、()()(いん)をよく訪ねて話を聴きました。柴山師の側に行くと、悩みがみんな融けてなくなってしまうのです。私たちが母の側に行くと、みんな融けて無くなり、ただほっこりとするのによく似ていました。

柴山師は辻さんの(しん)()な求道姿勢に心を打たれ、「学資を出すから、もう一度大学で学び直さないか」と勧めました。そしてわざわざ秋田の禅寺を訪ね、辻住職に息子さんを南禅寺で修行させてほしいと頼まれました。後に南禅寺の管長になるほどの高僧から頼まれたので、辻住職は一も二も無く許諾しました。辻さんは柴山師に勧められるまま、花園大学で仏教を学び直しましたが、やはり教団仏教にはなじめず、僧侶としてではなく、在家仏教徒として御仏の教えを実践することにしました。

 

「ただいまぁ」とくり返す子

東京にいるころ知りあった恋人の()重子(えこ)さんといっしょに、(はしけ)で生活している児童たちの、大阪の教育支援施設を訪ねたことから、そこで住み込みで働くことになりました。二人の結婚式をつかさどってくださったのは、柴山老師でした。その後、大阪市立阿武山(あぶやま)学園という小舎夫婦制の施設で、道を踏み外した児童たちと生活を共にしながら、自立を手助けするようになりました。

阿武山学園の中には七つ寮があって、それぞれに親代わりの教護専門員の夫婦がいて、十人前後の子どもたちが住んでいます。その子どもたちにはある特徴があります。午後の農作業やスポーツを終えて寮に帰ってくると、子どもたちは誰もが「ただいまぁ!」と声を張り上げるのです。須重子さんがエプロンで手を拭き拭き、「お帰り。さあ、冷たい麦茶が待っているよ」と返事すると、また「ただいまぁ!」とくり返し、ニヤニヤしていました。そこで須重子さんは気づきました。週刊『女性自身』平成十六年八月十日号)のインタビューに答えて、須重子さんは驚きを隠さない。

「この子たちは今まで家で、〝お帰り〟と声をかけてもらったことがなかったんです。私は一人の子どもに六、七回、言わされたことがありました。迎えてもらったことがないから、〝お帰り〟と返事してもらうとうれしくて、また〝ただいまぁ〟と言いたくなるんです。

甘えたことがなかったから、甘えたかったんですね。体は大人だけど、心は子どものまま。そのことに気づいてから、何度でも返事するようにしました。みんなかわいい子どもたちです。

幼いころからくり返される両親の喧嘩のなかで育ち、涙のまま寝入ったことがしょっちゅうだったようです。

『ぼくには正月があらへんかった。友達はお年玉をもらい、お雑煮を食べて、楽しそうに過ごしているのに、ぼくは正月からどつかれ、家を追い出された。喧嘩ばかりしている両親のもとにはいとうなかったんや』

 と嘆いていました」

「だから」と辻先生は、同じインタビューに答えて、子どもたちの代弁をしています。

「家に居たたまれなくなって家出をくり返すと、『お前は人に迷惑ばかりかけていて』と折檻(せっかん)され、またお仕置きされました。非行はそんな子どもたちの心の叫びでした。規範教育する前の手当てから始めなければなりませんでした。これまで錨を下ろす港がなかったんだと思うと、涙が出ます」

 子どもたちはやっと親代わりをしてくれる大人に出会ったのです。でも茨の道でした。

 

虐待ばかり受けた女の子の呪詛

夫婦で親代わりになって、子どもたちの情緒を安定させようというのですが、信じても信じても裏切られ、肩透かしを食わされ、コケにされ、逃げられたりする連続で、なかなか簡単には行きませんでした。天を仰いで自分の力の無さを嘆くことがしばしばでした。

中学三年で阿武山学園に送られてきたある女の子は短期間しか施設にいませんでした。その子が施設を出て行った後、焼却炉に捨てられていたノートには、辻先生の奥さんに捨て台詞(せりふ)がこう書かれていました。

 

うちがどんな気持ちでこうなったか知りもせんくせに、えらそうにぬかしやがって。

おばはん、お前こう言うたな。

『悪いときに親にちゃんと怒ってもらえへんかったから……』

何ぬかしとんねん。うちが悪いときも、何をしていないときも、怒られたんじゃなくて、いびられたんじゃ。そこまで知ってんのか? 

もとはと言えば、お前ら大人の責任やんけ。ちゃんと育ててくれたら、こんなふうにひねくれにならへんかったんじゃ。

 

 この子は生後六か月で祖母に預けられ、父親から「その子はいらん」と捨てられ、虐待がくり返されていたのです。それぞれの子にこういう養育の歴史がありました。施設に送られてくる子どもの九九パーセントはそういうこどもでした。

 

自殺未遂をした子ども

ある深夜、警察からのけたたましい電話で起こされました。自殺未遂の女の子の遺書に辻先生の電話番号が書かれていたので、照会したというのです。聞けば以前預かっていた子で、今は美容師見習いとして立派に生きているはずの子でした。辻先生は自殺未遂と聞いて絶句し、あわてて警察署に駆けつけました。大量に睡眠薬を飲んでコンコンと眠り続けているA子の枕元には一冊の大学ノートが置いてありました。ページをめくってみると、親しい人への別れの言葉が記されていました。

「……とうとう歓楽街に身を落とし、行き詰ってしまいました。何度となく懐かしい学園を訪ね、辻先生に相談し、立ち直りたいと思いましたが、もう少し立ち直ってから、もう少し落ち着いてからと思っている間に、ますます泥沼にはまってしまい、どうにも身動きできないようになったのです――」

辻先生の頬を涙が伝いました。

(何で相談に来んかったんや……来てくれれば何とか力になれたのに。おれとお前のいのちの触れ合いは、まだまだ本物じゃなかったんやな。こんなおれを(ゆる)してくれ……)

以来、辻先生は子どもたちともっともっと真剣な絆を結ぼうと努力しました。

 

私はS子のいのちを見ていなかった!

あるとき、辻先生の許に母に捨てられたS子が送られてきました。スーパーにいっしょに買い物に行っていたとき、置き去りにされ、捨てられたのでした。近所の人に連れられて家に帰ってみると、家はもぬけの殻になっていました。

施設に廻されてきたものの、S子はあばれるばかり。嘘をついて表面的なごまかしをし、辻先生にも悪態をつき、トラブルばかりでした。さしもの辻先生ももてあまし、この子さえいなければとため息をつくこともありました。

ところがS子は悪性腫瘍にかかり、緊急手術することになりました。医者は暗い顔して、助からないかもしれないと言っています。S子は二度とこの美しい山河を見ることはできないかもしれないと思うと、S子のためならどんなことでもしたいと思いました。ただただ助かってほしいと祈りました。

S子の入院生活は一か月続きました。退院してからのS子は見違えるように変わり、嘘をつくこともなくなりました。幼い子どもたちの世話も積極的にするようになり、学園を卒業して社会人になりました。このことを通して、辻先生は本当に教えられたそうです。

「私に児童の心に届く教護のあり方を教えてくれたのはS子でした。いろいろ指導し、面倒見ているようでしたが、心の底からいとおしいとまでは思っていなかったのです。S子が死に直面して、初めて私の愛情の浅さに気づかされました。するとS子はみちがえるほど変わっていったのです。

 私はやっとわかりました。私が心の中でS子を問題児だと思っていたので、それが彼女を萎縮(いしゅく)させ、荒れさせていたのです。問題は彼女にあったのではなく、私自身の中にあったのだと深く気づかされました」

S子は、人間は誰でも御仏のあふれるような慈悲に包まれていることを、辻先生に気づかせてくれたのです。こうして辻先生の世界観、人間観はいっそう深くなっていきました。するといい結果が生まれて、問題児は辻先生のところに送ればよくなるといわれるようになりました。この手応えに、ようやく「私の天職はこれだ!」と思うようになりました。かつて大学時代に読んだ仏典が説いていた「宇宙は本来一つだ」ということは、自分と自分以外のものは切り離せない、本来一つのものなんじゃないかと理解するようになっていきました。

 

日記によって心の絆を深める

中学三年生で売春して、矯正のために学園に送られてきた子がいました。聞くとB子は離婚家庭で、忙しい父は一日千円の食費を渡すだけでした。B子はそれで三度三度の弁当を買って食べていました。淋しくて仕方がないので次第に盛り場をうろつくようになり、売春に走るようになるまで時間はかかりませんでした。

辻先生は今度こそ強い絆を結ぼうと、B子の日記に丹念に返事を書きました。B子は信頼する大人に巡り合えて、精神的にもだんだん安定していきました。そうした大学ノートの日記が今では八百冊にも及んでいます。

辻先生が「子どもたちとの信頼関係を育てるのは、日記が一番です」と強調するので、ある時、児童福祉に携わる人たちの研修会に呼ばれていきました。辻先生は阿武山学園に来た女の子で、以前女子鑑別所にいた子の日記を参考に示しながら話ました。C子は義理の父親に犯されて妊娠してから転落が始まり、犯罪に手を染めてしまって、少女鑑別所に送られました。C子は鑑別所で日記を書き始め、担当教官がコメントを書いて返してくれていました。

「ところがこの子がある少年に恋をし、その悩みを切々と書き、切ない胸の内を打ち明けてきました。でも教官は相談に乗るのではなく、一応読みました程度のことしかコメントしませんでした。

翌日、C子はもっと切々と訴え、先生の返事が欲しいと書きました。ところがそこには忙しいのでゆっくり返事を書いている時間がありませんというそっけない返事しか書いてありまでした。

その次の日からC子の日記には、子どもっぽい少女マンガ的イラストが描かれるのみで、シリアスな打ち明け話は書かれなくなりました。教官の態度に失望して、明らかに心を閉ざしてしまったのです。もし自分の子だったら、忙しいからといって相談に乗れないということはなかったでしょう。教官はC子の心に入り込み、心の支えになるチャンスを失ってしまいました。

子どもは何人いても、一人ひとりがかけがえのないいのちです。そして誰一人として完全ではなく、さまざまな局面で人の助けを借りて問題を克服し成長していくのです。

若山牧水がこう歌っています。

 

 白鳥は(かな)しからずや空の青

    海の青にも染まずただよう

 

子どもは本来汚れを知らない白鳥です。適切な助言があれば、課題を乗り越えて、自己を見失わずに生きていってくれます。気を付けて読めば、助けを求めている声は日記に綴られています。最初は小出しにして、この先生、本当に信じられるかなと様子を見ます。大丈夫そうだと思ったら、また小出しにして様子を見ます。それに誠実に応えているうちに、全面的信頼を寄せてくれます。面倒くさがらずに、根気よく応対して行けば、必ず頼りにしてくれるようになるのです」

 辻先生はある記録にこう書いておられます。

「限りない悠久な宇宙の歴史からしたら、一瞬にも等しい限られたいのちを、私とあなたは授かって、しかも今こうして出会っている! ただただ不思議としか言いようがありません」

 宇宙から恵まれた貴重な出会いだからこそ、大切にしたい――辻先生は祈るような思いで、一人ひとりに対処していきました。

 

 五十歳を過ぎての新婚旅行

 新しい子どもが入ってくると、みんなの関心はその子に集中します。

「センセ、あの子は何したん? 何やらかした子?」

 でも辻先生はゆったりした口調で言葉を返します。

「いやなあ、悪い子なんておらへんよ。あんたらもここに来るときは、どんなとこやろと心配やったろ。でもみんなが温かく迎えてくれたから、安心したやろ。同じだよ。ほやから温かく迎えてやりな」

「うん、わかった」

 そうして新しい仲間が増え、そこが安心して錨を下ろせる港だとわかると、安住するのです。辻さんは静かに話し出しました。この人の周りはいつも穏やかな風が吹いています。

「昔から〝三つ子の魂、百まで〟と言うでしょう。一人ひとりの子どもと真剣に向き合っていなければ、人間の絆は育ちません。情緒が育って行けば、誰も罪も犯さなくなるんです。急いじゃいけないなあ。信頼の絆が育つのをじっくり待つだけです。私は上から目線で教えるというのが嫌いで、同じ屋根の下で〝共に生きる〟という姿勢だけでやってきました」

 こんな姿勢だったから、子どもたちから争う姿勢が消えていきました。

そんなある日、辻さん夫婦がみんなと食卓を囲んでいるとき、新婚旅行の話になりました。

「センセ、新婚旅行はどこに行ったの?」

「新婚旅行? そやなあ。まだ行っとらんのや。阿武山に来てもう二十数年になるけど、休みを取ったのは数回や」

「いやまあ、ほんま? 何でやの? そんなに忙しいのんか?」

「お前たちがトンコしてりゃせんかと思うと、新婚旅行どころじゃないよ。なあ、須重子」

 ぽろっと本音が出ました。奥さんが子どもたちのお代りのご飯をよそおいながら、笑っています。トンコというのは学舎を逃げ出すということです。やっぱり規制されたくないんです。

「そやったら、うちたちトンコせんと約束するから、行っておいで。なあ、みんな」

「そやそや、行っておいで。トンコせんから」

 そんなことで、五十歳過ぎて新婚旅行に行くことになりました。行く先は雲仙。後にも先にも、ゆっくり休んだのはそのときだけでした。だけど、午前中勉強、午後から農作業やスポーツという阿武山での生活は楽しかったという。

 

大宇宙に遍満している御仏の慈悲

辻先生は柴山全慶老師に直接師事されていましたが、同時に内山(こう)(しょう)安泰寺住職にも大きな影響を受けられておられます。内山老師は柏樹(はくじゅ)(しゃ)から『正法(しょうぼう)眼蔵(げんぞう)』に関する本を何冊も出しておられる方で、経文の解釈に翻弄(ほんろう)されることなく、ご自分の歩みの中で()(しゃく)、ご自分の言葉で表現されています。辻先生が常日頃感じていたことが老師の本に書かれていたりするので、何度も読み直し、しみじみ心を打たれたことが多かったようです。

内山老師が書かれた詩「生死」にも教えられることが多かったようで、辻先生は講演にしばしば引用しておられます。

 

()(おけ)に水を汲むことによって水が生じたのではない

天地一杯の水が手桶に汲みとられたのだ

手桶の水を()いてしまったからといって

水が無くなったのではない

天地一杯の水が天地一杯の中にばら撒かれたのだ

人は生まれることによって

生命(いのち)を生じたのではない

天地一杯の生命が

私という「思い固め」の中に汲みとられたのである

人は死ぬことによって生命が無くなるのではない

天地一杯の生命が私という「思い固め」から

天地一杯の中にばら撒かれたのだ

 

そこには宇宙のいのちと人間のいのちが響き合い、呼応し合っていることが描かれています。何と大らかで、融通(ゆうずう)無碍(むげ)な宇宙観であり、人間観でしょう。辻先生はこれにとても共鳴し、こうコメントされています。

私は自分の努力と力で生きてきたのではありませんでした。不思議ともいうべきありがたい出会いの中で、生かされて生きてきた自分だったということをしみじみと感じています。

人間は人間をはるかに超えたもののいのちの中にあるのです。私もあなたも区別はできても、切り離しては存在し得ない〝いのち〟そのものです。子どものいのちを見ることは自分のいのちを見ることであり、子どもの問題は即自分自身の問題だったのだと気づかされました」

 だから辻先生が子どもたちを見る目はますます温かさを増しました。多くの経典が説いていることを、辻先生は問題を抱えた子どもたちとの生活の中で感じたのです。

 辻先生は阿武山学園の校長に推されましたが、子どもたちといっしょの生活から離れて、学校経営に携わるのは嫌だと、校長就任を断りました。子どもたちと「共に生きる」以上の喜びはなかったのです。だから喜びのあまりこうも言われました。

「自分も他人も、草も木も、生きとし生けるもの全部が、ぶっ続きのいのちなんだということに目覚めると、興奮してしまいます。いのちはつながりです。しかもそのいのちは、ちょうどコインの裏表のように、代替不可能な〝絶対的な個〟として現れるのです。ここに宇宙の不可思議さと妙味が凝縮していると思いませんか」

 

 生きとし生けるもののいのちは全部ぶっ続きだ

 辻先生は阿武山学園を退職したあと、ご自分の家を「えにし庵」と呼んで地域の人々に開放されたので、「えにし庵」はみんなが集ってくる場所になりました。みんなで談笑したり、映画を鑑賞したり、歌を歌ったりします。そんな折、辻先生は自分の体験からつかまれた仏法を語られます。仏法などというと難しく聞こえますが、経典を解釈するというのではなく、ご自分の言葉で解釈されます。生涯、一在家仏教徒でありたいという辻先生ならではです。

「お釈迦さんが本当に言いたかったことは、自他(じた)不二(ふに)自他(じた)一如(いちにょ)ということだったんじゃないでしょうかね。長い人生を歩いてきて、しみじみと思うのは、『自分もあの人もこの人も、みんないっしょや』ということです。こちら側に自分、向こう側に他人と分かれて存在しているのではなく、初めから〝一つのいのち〟なんですね。自分と他者が分かれて存在していると思うのは、そもそも〝迷い〟なんだとやっと気づきました。

 私は子どもたちと泣いたり笑ったり、取っ組み合いしたり、学園を逃げ出した子を探して一晩中かけずり廻ったりしているうちに、だんだんこの宇宙の(ことわり)に気づかされました。私たちは何一つ切り離せない〝ひと続きの世界〟に住んでいるんですよね。驚いたのなんのって。そのことに気づいて、今は感謝でなりません」

 今年八十五歳になられた辻先生は体が弱って寝たきりになってしまわれましたが、それでも喜々と生活されています。その病床で語られる話がとても奥深いのです。

「今はこうやってベッドに寝ているしかなくなりました。こうして呼吸して生きているいのちを見詰め、味わっていると、次第に見えてくるものがあったんです。生も死も別物ではなく一如(いちにょ)、二つ別々に分けることができない不二の世界でした。自分と他人は分けることができない〝一ついのち〟であるように、何と生と死も分けることができない〝一つつながり〟だったのです。

 自分がそういう世界に息づいていることに気づいたら、うれしくってうれしくって、涙がこぼれました。

だから、寝たきりになってよかった! と思うんです。これがなかったら、ただ頭での解釈だけで駆けずり回っているだけで、本当には気づいていませんでした。私の人生はあとわずかしかないけど、〝これから始まるぞ〟という感じがします。こうしてあなたの手を握っていると、いのちのつながりを感じるんです。生きとし生けるもののいのちは全部ぶっ続きなんですね」

いのちは一如だという実感が神々しいほどのオーラとなって辻先生を包んでいます。先生はどこまでも深遠な世界を紹介してくださっています。だからえにし庵にやってくる地域のみなさんから慕われないはずがありません。

私は『苦しみとの向き合い方 (げん)()()(ろく)の人間学』(PHP研究所)で辻光文先生のことを採り上げました。この小冊子を読んで辻先生がつかまれた世界に興味を持たれた方は、ぜひこの本も読んでみていただきたいと思います。

最後に辻先生の「生きているだけではいけませんか」という散文詩の全文を紹介します。素晴らしい覚醒を綴った詩です。

 

生きているだけではいけませんか

子供の頃から、役に立つ人になりなさいヨ、人に迷惑をかけてはいけませんヨ、

人のために、国のために、天皇陛下のためにお役に立つ人になりなさいヨ。

私はそう親に教えられ、育てられてきました。

けれども一五歳の夏、一五年戦争が終わり、天皇は神サマから人間となりました。

今頃天皇のために、命を捨てなさいと教える親はおりません。

人のため、国のためは、社会のためとなり、公共の福祉に、変わりました。

そして今、ここまで生きて来てフッと思うのです。

生きているだけではいけませんか。

 

何々のために、「役に立つ」ということばに、疑問が残るのです。

東洋平和、公共の福祉、そして今は国際平和維持活動に、(など)といいます。

それが奥深い人間の真実ですか。

漢字では人のためと書いて偽(いつわり)と読みますネ。

眼を閉じて静かに息を調えながら、生きているだけではいけませんか。

役に立つことが「死刑の罪を負ったお前でも臓器の提供ができるのだ」

「それが愛の行為です」と処刑前に説教され、

その死刑囚は頭を撃たれて殺されていく、といいます。

最近の東南アジアのある国の話です。

 

愛の名において役に立つことが説かれます。

役に立つことがそんなに簡単に愛といえるのですか。

愛、真実の愛とは本当にそんなことですか。

役に立つって、その究極は何ですか。

何が、何に、何をすることですか。

 

世の中にはすごい立派な役立ちの人とか、

全く役に立たない、とよくいわれる人がいますが、

それは本当ですか。

その役立ちは「功績」といい、叙勲の名によってランク付けされますネ。

生きている人のいのちってそんなことでいいんですか。

「自分は人の役に立っている」というその思いのなかに、

ひょっとしたら傲慢とまではいいませんが、

何か、悲しい人間の自信がひそんではいませんか。

 

人は誰でも、いつの日か、何もかも喪失して、

人に迷惑をかけなければ瞬時も生きてゆけないそんな日が必ずやって来ます

この役立ちの思想の延長線上でゆくと、

いつかは、誰でも、生きることの価値を失い、生きる資格をなくします。

老いるということは、そういうことですか。

病むこと、呆けることはそんなことだったのですか。

その時にも(なお)わたしは生きる価値、生きる資格があるといえる人は

()って役立っていた時の貯金の清算をしている、そんな気ですか。

 

近年はボランティア活動が盛んです。

それも「情けは人のためならず」と、

やがて自分に返ってくる、いいことをしておこうと、

そう平然と言ってのける人もいます。

この(ことわざ)までが、エコノミックな変な話になりました。

 

迷惑をかけるといいますが、生きていて迷惑をかけない人って本当にいますか。

毎日毎日の、自分のウンコの、オシッコの、その行方をあなたは知っていますか。

生きていることは、(はか)り知れない人々に迷惑をかけてのことでした。

だからこそ少しでも「役立つように」ということだと思います。

 

けれども役に立つ前に、生きる資格を言う前に、

生きている、そのいのちとは何ですか。

今は空気も水も食べものも、みんな汚れて、

地球そのものが破滅の危機にあるのです。

それは知能の勝った人間たちの、人間中心の役立ち、便利、効率と、

飽くことなく求めたその結果でした。

そもそも人間とは、そしていのちとは、この自分とは何なのですか。

(この後に、前に引用した部分が続きます)

 

辻先生は私たちに大切なことを投げかけてくださいました。これを味わって、幸せな生活をみなさんと分かち合って生きていきたいと思います。

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