読者からのメール 2015.7.30

人々の道案内の役目を果たしたいと思って筆を執っていたら、いつの間にか67歳になっていました。あと何年筆を執れるかわかりませんが、私のモットーとして受け継いだ芹沢光次良(こうじろう)先生の言葉「文学はもの言わぬ神に文字を与えることである」を肝に銘じ、頑張りたいと思います。
 先日も読者から身につまされるメールをいただきました。こんな真剣な生き方をされている方がいらっしゃるんですね。彼女と2人のお子さんの上に祝福があるよう祈っています。
(以前にご紹介したお母様です。)

以下、今回のメールです。

 神渡先生、こんばんは。『苦しみとの向き合い方 言志四録の人間学』に載った辻光文先生についての文章を読ませて頂きました。ただただ、涙が流れました……。人の為に、ここまでできる方がいらっしゃるということに驚き、感謝の気持ちでいっぱいになりました。光文先生の「生きているだけでいけませんか」の詩に、重度の障害を持つ次女を重ね、涙が止まりませんでした。健常者の長女を産み育てていた時は、少しでも人の役に立つ子に成って欲しいと願い、月刊「致知」の教育についてのページをいつも楽しみに、そして真剣に読んでいました。長女に対する期待と、そして親となった自分のさらなる成長を願って、精一杯頑張っていました。

でも、次女の障害がわかると、「少しでも人のお役に立ちたい」という私の価値観が揺らぎ始め、次女を否定しました。この子は生きていて何の価値があるのだろうか?

人の役に立つどころか、一生人のお世話になって生きて行かなければいけない子……。そんな子を育てることに価値があるのだろうか? 産まなきゃよかった……。この子さえいなければ……私は幸せだった……などと、思い悩みました。以前頑張っていた分だけ、次女を否定してしまったのです。次女を育てることについて、価値が全く見いだせませんでした。

以前の私は幸せの日々の中での、しょせんきれいごとにしか過ぎなかった……と滑稽にすら思えました。

先生は、私がどんなことを思い、何を求めていたかがお分かりになるのでしょうか?

私は光文先生の「生きているだけではいけませんか」の詩に合いたかったのだと思いました。詩の中で光文先生が問いかけておられたように、私は人の役に立っているという思いの中に、いつしか傲慢な思いがひそんでいたのです。生きていて人に迷惑をかけない人っていやしないのに、そのことを忘れていました。

第一子に健常児で健康な子どもを授かったことを、ごく当たり前のことだと思い、感謝していませんでした。でも光文先生に「生きていて、人に迷惑をかけない人ってありますか?」と問われてハッとしました。そのことに気づかせていただいて、感謝の気持ちでいっぱいです。

 これからは、もっともっと次女のいのちの輝きを見ていきます。

生きていることは素敵なことなのですね。それだけでいいのですね。

今は眠っている二人の娘にたくさん感謝したいと思います。先生、ありがとうございました。明日もニコニコ笑顔で過ごして行きたいと思います。おやすみなさい。

(2015.7.30 )


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