中村天風「幸せを呼び込む」思考 神渡 良平著 講談社+α新書 - 十一 「ありがとう」が運命を拓いた!

桑原健輔さんの抜粋の第6回目です。

中村天風「幸せを呼び込む」思考     神渡 良平著  講談社+α新書

 

大空に舞う鷲
大空に舞う鷲

十一 「ありがとう」が運命を拓いた!

 

 「我は今、力と勇気と信念とをもって甦り、新しき元気をもって、正しい人間としての本領の発揮と、その本分の実践に向かわんとするのである。
 我はまた、我が日々の仕事に、溢るる熱誠をもって赴く。
 我はまた、欣びと感謝に満たされて進み行かん。
 一切の希望、一切の目的は、厳粛に正しいものをもって標準として定めよう。
 そして、恒に明るく朗らかに統一道を実践し、ひたむきに、人の世のために役だつ自己を完成することに、努力しよう」(甦りの誦句)

 

 感謝と歓喜の波動がもたらすもの

  これは天風が朝起きたとき、唱えていた誦句で、「朝旦偈辞」と呼んでいたものである。天風はこれを自分の潜在意識に透徹するように唱えていた。

 天風は生前、天風会なるものを組織し、潜在意識の活用法を教えていたが、天風会員は毎朝これを唱え、集まりのたびに、冒頭みんなでこれを斉唱する。だからこの「甦りの誦句」は天風会の中で最も重要なものだといえよう。

 私も折りに触れてこの誦句を唱えるのだが、そのたびに惚れ惚れする。

 何と清々しい宣言だろうか。人間、本来こうあるべきだ。そこには微塵も暗いものがなく、自分の使命を信じきっている。成長する過程でマイナスなものを経験しなかったら、こんなに素直に成長しただろうと思う。できるならこの精神状態に立ち返り、思う存分生きたいものである。

 しかしながら、私たちは成長する過程でさまざまなことを経験し、歪んでしまっている。それはちょうど自然薯が土中の石を迂回し、岩の割れ目に入りなどするうちに、曲がりくねってしまうのと同じだ。あるいは磯に生える松が、海からの強風にさらされている間に、いつの間にか斜めになってしまっているのに似ている。

 ではそうした障害物がないのがいいかというと、そうではない。温室育ちの草花はひ弱で、世間の荒波に耐えられないが、地植えのもはしっかりしている。それと同じで、過保護に育てられるより、自ら気づき、修正していったほうが、足腰が強くなる。

 したがって、天風がこうした誦句を唱えて自己暗示をかけ、自らを正していったように、私たちも自分を矯正し、本来の自分を獲得していったほうがいいのである。

「感謝と歓喜の感情は運命を拓く!」

 これは中村天風がつかみ取った真理の核心である。何があろうとも、感謝の念を持ち、歓喜すれば、天風の代表作の書名『運命を拓く』のごとく、運勢が変わり、運命が拓ける。そして、感謝と歓喜を同時に表現する言葉が「ありがとう」である。

 この言葉を常時唱えると運勢が変わると昔から言われてきたが、最近では「宇宙の成功方程式」で一躍有名になった心学研究科の小林正観さんや斉藤一人銀座まるかん社長も積極的に説いているので、一種のブームになっている。「ありがとう」は南無阿弥陀仏その他のマントラ(神秘的な力を持つと言われる真言)を唱えるのと同じように、不思議な力を持っているのだ。

 しかしながらこう書くと、必ず反論する人がある。若いころの私もまったくそうだったが、左脳で理屈っぽく考えている人はいろいろ言いたいのだ。

「感謝できないような出来事に遭遇しているというのに、感謝しなければいけないのか。そりゃ無理な話だ。相手の無責任から迷惑を被って、困ってんだ。できることなら張り倒してやりたいよ、まったく」

 無理もない。自分の感情はヤカンの湯のように沸騰し、怒り心頭に発しているのだから。人間、誰しもトラブルは嫌だ。順風満帆でありたい。だから阻害されると怒るのだ。

 しかし、これが問題だ。「トラブルって、本当にあるの?」と問うと、

「何を寝ぼけたことを言ってやがる。こっちはトラブって頭を抱え込んでいるんだ。これで補償問題に発展したら、うちは何億と損するんだよ。これがトラブルでなくて何だというんだ」

 と怒鳴り声が飛んでくる。確かに目の前に起きている現象は、震え上がってしまうようなものだ。しかし、そういうトラブルも私たちに目を覚まさせ、取り返しのつかない段階に至る前に回避させようとする天の配慮なのだと気がついたら、「ありがたい!」と感謝して受けざるを得ない。

 いや、人生で起きる出来事はすべてそうなのだ。トラブルは私たちを潰すために起きているのではない。育てるために起きている。だから目の前の出来事に一喜一憂するのではなく、感謝して受け、誠実な対応をしていけば、必ず問題は解決し、乗り越えられるのだ。

 それともう一つ、等閑視してはならない重要なことがある。

 波動だ。

 宇宙は波動から成っている。古来「類は友を呼ぶ」と言われているとおり、似たもの同士が引き合って一つになる。だからいつも否定的なことを言い、ネガティブなバイブレーションを放っている人は、知らずしてそういう波動のものを引き寄せている。天風が言うように、ネガティブな発想の人は非建設的で、破壊的なエネルギーを引き寄せてしまい、自ら運勢を悪くしているのだ。

 この宇宙の仕組みがわかると、これまで不用意に感情を爆発させ、その結果、いたずらに自分の運勢を損なっていたことに気づく。私が私の人生の主人公なのであり、うまくいかないからと言って人のせいにすることはできない。

 そこで一日一万回「ありがとう」を唱えることによって、自分の運勢を好転させていった人の例を示そう。実例ほど説得力のあるものはない。

 

 ブラジルの大地に雄飛して

  ブラジルの南東部に広がるミナス・ジェライス州。鉱物、地下資源を意味するミナスという言葉を冠しているとおり、この州は鉱物や地下資源が豊かで肥沃な土地である。

 昭和五十三(一九七八)年三月、北海道大学農学部を卒業し、大志を抱いてブラジルに移民し、苦労して活路を開き、コーヒー農場を営むに至った鈴木功さんは、そのミナス・ジェライス州の南部にあるパラカツに住んでいる。パラカツとはインディオの言葉で良い川、すばらしい川を意味し、魚影豊かな川が何本も流れている。ここにも古くから金鉱があって長年にわたって金を産出しており、十年ほど前イギリスの多国籍企業が進出して、さらに本格的に金を産出している。

 鈴木さんが大学を卒業するとき、もちろん安定した国家・地方公務員、あるいは大企業のサラリーマンになる道はあったが、なぜかしらその方面には心が向かなかった。

「そんな道に進んではだめだ! もっと困難を経験し、もっと苦労して、自分自身を鍛えなければだめだ」

 という声が聞こえるのだ。

 そんなある日、新聞にブラジル移民の記事が出ていた。それを呼んだ瞬間、「これだ。ブラジルに行こう!」と決めた。伝手も何もない異国で、ゼロから出発して、いったいどれほどの成功を収めることができるか、まったく予想できなかったが、覚悟を決めた。しかし、親は大反対だった。

「何を好き好んでブラジルくんだりまで行くんだ。ブラジルの経済が上向き調子になるかどうか、わかったもんじゃない」

 でも、鈴木さんの決意は固かったので、親は最後は涙を呑んで送り出してくれた。そういう事情があっての渡伯だったので、鈴木さんは成功しなければ帰れない運命を背負いこんでいた。

 夢に見た新天地ブラジルでの闘いは並大抵ではなかった。最初に入った農場は同じミナス・ジェライス州のサンゴタルドにある四〇〇ヘクタールもある大農場だった。もちろんトラクターに乗って農耕するのだが、来る日も来る日も同じ仕事である。乾季にはモウモウとした埃に包まれ、一日の仕事が終わるころには、埃で真っ黒な顔になっていた。ここで二年間働き、その後、現在のパラカツに移って五年間下働きをした。一緒に移民した三十名の独身青年たちは次第に脱落してゆき、現在は鈴木さんを含め二名しか残っていない。やはり異国の地で、何もないところからひとり立ちするのは、並大抵のことではないのだ

 それでも鈴木さんは奮闘の末、パラカツ郊外に六三ヘクタールのコーヒー農園を持つに至った。農場の経営者になったというと聞こえはいいが、その農場は数年前まで電気も通っていない辺鄙なな所だ。鈴木さんは妻子をパラカツの町に住まわせ、自分は単身農場に寝泊まりして、農場労働者のブラジル人を指揮してコーヒーを栽培した。

 

 難病の女子高校生の言葉

  しかしコーヒー農園の経営は思った以上に困難で、景気の波をもろにかぶってしまう。そのため、四度も破産の危機に追い込まれ、眠れない夜が続いた。ノイローゼ気味になり、自殺する人の気持ちもわかった。

 鈴木さんは日本の社会教育団体である財団法人モラロジー研究所に入っており、感謝の念を持つことが大切であることは知っていた。しかし、頭の中で知っていることと、骨の髄に透徹するほどに知っていることとは違う。眠れない夜が続く窮地から、一歩一歩、魂の夜明けが近づいてきた。

 その大きな転機の一つになったのが、機関誌「れいろう」平成七(一九九五)年一月号に載った松岡さわこさんの文章だ。松岡さんは高校三年生、一八歳の青春のまっ只中、脊椎と全身の関節に激しい疼痛が起こり、次第に歩けなくなっていった。病名は強直性脊椎炎。原因も治療法もわからない難病である。元気に闊歩している友達と自分を見比べて落ち込み、夜中に人知れず泣いた。

 しかし、みなそれぞれ違った事情を背負って生きているから比べようがないのであり、他人より努力したかではなく、自分自身せいいぱい生きたかどうかだと気づいてから、「独りよがりな悲劇のヒロイン」を演じることは止めてしまった。

 松岡さんは麻痺している体に毎日、「がんばってくれて、ありがとう」と言ってマッサージした。花は人のねぎらいの声を聴いて、大輪の花を咲かせるのだから、賢い人間の細胞はなおのこと自分の声を聴いて喜んでいるに違いないと思った。長い間、病気をしていると、麻痺して動かない体がはがゆくて、情けなく思ったりしたが、一番いたわってあげなければいけないのは自分の体だと思ったのだ。

 その松岡さんは長い闘病生活の末に、こういう考え方に至ったと書いていた。

「大事なことは、自分にないものを要求して、自分を苦しめるのではなく、今自分にあるものを肯定してせいいっぱい活かして使うこと」

「以前は『人に迷惑をかけずに生きてゆきたい』と頑固に思っていましたが、今は『迷惑をかけたり、かけられたりでええのや』と思えるようになりました」

「病気は苦の種だとずっと思ってきましたが、逆に病気は”病気をしている私自身“を許して受け入れることから始まって、いろいろなものを受け入れることを教えてくれました」「ご飯を食べることができて、雨風がしのげて、痛いところがなかったら、人生もうけもんだね」          
 

 これらの言葉が悶々としていた鈴木さんの心に風穴を開けた。

(松岡さんは私よりもっとひどい状態にあるというのに一所懸命生き、すばらしい考え方に至っておられる。松岡さんに比べたら、私はなんと情けないんだろう。

 私は借金が返せず、農場がつぶれそうになっているだけじゃないか。返せなくたって殺されるわけじゃないし、家族がバラバラになるわけじゃない。自分さえしっかりしておれば、どんなふうになったとしても、食べていくぐらいはできるはずだ・・・)

 つらつら考えてみると、自分の人生がうまくいかないのは、感謝の念が足らず、いつも不平不満をこぼしているからではないかと反省させられた。

(この生活態度を変えないと、私の人生は根本的に良くはならないのではないか)

 そこで「ありがとう」を唱えてみることにしました。最初は一日百回、五百回、千回と徐々に増やしたが、そのうちマンネリ化してきた。

(こんなことやっていても仕方がない。馬鹿らしいことはもうやめよう)

ところが購読していた月刊「致知」で、鍵山秀三郎イエローハット相談役が「やり続けると習慣になる。習慣になると、今度は続けられるようになる」と書いておられるのを読んで、気を持ち直した。

(鍵山相談役もはじめのころはトイレ掃除を止めようかと思うこともあったに違いない。でも続けているうちに習慣になり、会社も繁盛するようになったのだ。私も習慣になるまで続けてみよう)

 習慣になるまでは時間がかかったが、どうにかこうにか一日一万回は唱えられるようになった。農場経営が苦しいとき、「ありがとう」を唱えていると、となえている間だけでも不安が消えていく。それは新しい発見で励みになった。

 

 日本への出稼ぎ

 しかしながら、経営は一向に好転しない。コーヒーの先行きを考えると、無農薬有機コーヒーに切り替えたほうが期待できる。でも、無農薬有機栽培に切り替え、日本に輸出するとなると、JAS(日本農林規格)認定を得る必要があり、それには三年かかる。この間は当然普通のコーヒーとして販売しなければならず、販売はとても厳しい。その間の経営をどうするか。

 迷った挙げ句、鈴木さんは日本へ出稼ぎに行って苦境を乗り切ることにしたが、経営状態は最悪で、日本へ行く旅費さえ都合ができなかった。

 ところが北大農学部の同期卒業生で、サントリーに入社し、ブラジルにも何度か出張で来て、鈴木さんの農場を訪れたことがある坂嵜潮さんが援助の手を差し伸べてくれ、日本への往復航空券をプレゼントしてくれたのだ。

 坂嵜さんはその後サントリーを退社し、自分の会社を立ち上げ、花の新品種をつくる仕事をしている。ブラジルにも一年に一度は来て、鈴木さんの農場にも何度か寝泊まりしている。

 平成十五(二〇〇三)年七月、一年の予定で来日した。

 東京では、当時モラロジーの理事で、東京一円でうどん専門店チェーン「三国一」を経営している橋本賢社長の会社の寮に泊めてもらった。そして昼はガードマン、夜は地下鉄の工事現場と、昼夜兼行で働いた。一円でも多くブラジルに持って帰らなければならなかった。昼夜兼行だから寮に帰って寝る時間はなく、地下鉄やJRの駅で一、二時間仮眠を取って、次の現場に向かった。

 その後、地下鉄の工事現場の仕事をやめ、ガードマンを昼夜兼務するようになった。規則ではそういう勤務はしてはいけないのだが、人手不足なので会社も人集めで苦労しており、黙認した。あるときなど欠員の補填ができないので鈴木さんが頼まれ、三日間ぶっ続けで働いたこともあった。鈴木さんにとって体が疲れるよりも、収入になることのほうが嬉しかった。

 鈴木さんはガードマンをしていても地下鉄の工事現場でも「ありがとう」を唱え続け、自分の思考を変えようと努めた。そんなある日、道路の脇に座って自動車の交通量をカウンターでカウントしている調査員を見かけた。「これは使える!」と思い、早速カウンターを活用したので、数えるのに弾みがついた。一万回唱え終わっても続け、二万回を超すこともしばしばあった。そしていつの間にか、きわめてポジティブなものの考え方をするようになっっていることに気づいた。

 

 他人の姿を見て気づけ

  地下鉄の工事現場で働いている人には、社会的に恵まれない人もある。それらの人々と話をしてみると、自分がいかに恵まれた人生を歩いてきたか再認識させられた。それにそれらの人々の中には、その日その日を食べていけばいいと刹那的な生き方をしている人もいた。それらの人は自分の人生は自分次第でどうにでもなるということに気づいていない様子で、愚痴が多く、投げやりで思いやりがなく、自暴自棄だった。それはまるで昔の自分を見るようだった。

(ああ、やっぱり運勢は自分で引き寄せているんだ。ものの考え方が退嬰的であれば、運勢も去っていくんだ)

 それは他山の石だった。こういうところで働くようになったのも天の計らいであり、他人の姿を見て気づけという配慮のように思え、これも感謝だった。

 あるとき、工事現場で恰幅の良い労働者に出会った。以前はかなりの事業を営んでいたようだが倒産し、魂の抜け殻のようになっていた。ちょうどそのころ、鈴木さんは飯田史彦氏の『生きがいの創造』(PHP研究所)を夢中になって読んでいたのでそれを渡し、「これを読んでみるといいですよ。きっと気づかされることがあると思います」と勧めた。すると四、五日後、その人は眼の色を変えて挨拶に来、

「いい本を紹介してくださった。これで私も立ち直れる。もう一度やり直してみます」

と嬉々としてしゃべっていった。そんなことが同僚のガードマンにも起きたので、鈴木さんはみんな立ち直るきっかけを求めているのだが、方法がわからないのだと思わずにいられなかった。「ありがとう」を唱えて、自分の発想をポジティブなものに変えていくことは自分自身の人生を実りあるものにするためには欠かせないと思った。

 

 何かが変わり始めた!

 1年後ブラジルに帰国した鈴木さんを迎えて、奥様の真理子さんが開口一番、

「お父さん、変わったね。顔付きがずいぶん穏やかになったよ」

 と言った。この言葉には励まされた。何かが変わりつつあると手応えを感じた。

 久しぶりに農園に出た鈴木さんはコーヒーの木がいとおしくて、一本一本撫でさすった。農園で瞑想し、愛と感謝の念波を送った。いやコーヒーの木だけではなく、農場労働者、トラクターや自家用車、家、倉庫、鶏、犬、猫、樹木など、すべてに感謝の念を送った。

 以前は事業に成功して大農場主になってみんなを見返し、故郷に錦を飾りたいと思っていたが、そんな気持ちが薄らいで、周囲の人が喜んでくれるのがうれしいと思うようになった。足元で可憐に咲いている花、さえずりながら空を飛んでいる鳥、夕空を黄金色に染めてくり広げられる壮大なドラマ、夜空にきらめく無数の星ーー、そういうものに感動して涙すら浮かべている自分がいる。以前はそんなことに気づきもしなかったのだ。

(ああ、何かが変わり始めている。長かった暗闇が終わりつつある・・・)

 そう思うと、うれしくて、ありがたくて、涙がこぼれた。

 鈴木さんは一年間、パラカツの農場で働くと、再び日本に出稼ぎに行き、平成十八(二〇〇六)年五月にブラジルに帰った。留守中、奥さんと農業労働者たちがEM(乳酸菌、酵母、光合成細菌を主体とする有用な微生物の共生体)と牛糞で世話し続けてくれた無農薬有機コーヒーも順調に生育していた。

 EM菌の活性液はコーヒー園だけでなく、農場全体に散布し続けたので、ハエがほとんどいなくなり、野菜もおいしくなり、鶏も病気しなくなった。そしてついに念願のJASの認定が取れたので、日本への輸出の道が開けた。もうすぐ、「鈴木功が栽培した無農薬有機コーヒー」として日本の店頭に並ぶ。

 鈴木さんは今でも朝四時に農場に出ると、まずコーヒーの木に「ありがとう」の感謝の念を送る。次に宇宙すべての存在の幸福と進化を祈念する。日中農場で働いているときも「ありがとう」を唱え続け、周囲によい波動を送ろうと心がける。

 ただ機械的に繰り返すだけでなく、お金が入ってきたときは具体的に、

「幸せを運んでくれてありがとう」

といって感謝し、出ていくときは、

「他の人のところに幸せを運んで行ってね」

と祝福して送り出した。感謝する気持ちが以前より格段に増えた。感謝することがいっぱいあることにも気づいた。少々の困難にはめげなくなった。そして素晴らしい出会いや出来事が次々に増えた。感謝してしっかり手入れしているせか、トラクターや農機具もめったに壊れないようになった。

 あるとき所用で八十五キロ離れた町まで自家用車で出かけたとき、町中で故障してくれたおかげで、すぐ修理してもらい乗って帰ることができた。広大なブラジルでは、車がめったに通らない道で故障しようものなら、お手上げなのだ。

 こういうふうに何でもいいふうにとらえられるようになって、人生が楽しくなった。農場ですっかり日焼けした鈴木さんから満面の笑みがこぼれる。

「もう大丈夫です。一時は挫けそうになりましたが、今はなんでも感謝して受けられるようになりました。宇宙の幸せの方程式をしっかりつかんだような気がします。再出発はまだ緒に就いたばかりで、みなさんに証明する何物もないのでのですが、気持ちが切り替わったことだけは間違いありません。どうもありがとうございました」