中村天風「幸せを呼び込む」思考 神渡 良平著 講談社+α新書 - 二 成功の条件は精神の集中だ

桑原健輔さんの抜粋の第7回目です。

中村天風「幸せを呼び込む」思考     神渡 良平著  講談社+α新書

アンナプルナ
アンナプルナ

 

二 成功の条件は精神の集中だ

 

  「人間は誰でも、大した経験や学問をしなくても、完全な人間生活、いわゆる心身を統一できる人間であれば、男でも、女でも、誰でもひとかどの成功ができるようになっているのである。心身を統一し、人間本来の面目に即した活き方、どんなときも、『清く、尊く、強く、正しい積極的な心』であれば、万物創造の力ある神韻縹渺たる気と、計り知れない幽玄微妙な働きを持つ霊智が、量多く人間の生命の中に送り込まれてくるからである」(『運命を拓く』中村天風著 講談社)

 

 精神一到、何事かならざらん

  これは大変な祝福であり、大激励である。天風は、
「学校を出ていなくても、大企業に勤めていなくても、精神集中さえできれば、ひとかどの人物になれるようになっている」

 と言って、私たちを励ましてくれているのだ。実際、精神集中ほど、持てる能力を引き出すものはない。そしてこれもただお世辞で誉め言葉を言っているのではなく、事実そうなのだ。わかってもらうために、実例をあげよう。

 実例というのは、百七十六チ―ム、五千八百名が参加するほどの大きな青少年健全育成を目的とした踊りの祭りに発展した「大阪メチャハピ―祭」の仕掛け人である欠野アズ沙さんのことである。

  今でこそ欠野さんは税理士として、大阪・京橋で大きな会計事務所を経営するに至っているが、高校を出ただけで資格も何も持たなかった。

 そんな欠野さんが、家庭の事情から経済的に自立しなければならなくなったとき、税理士の資格をとって、開業しようと思った。税理士になるには五科目の試験に合格しなければならない。堅実に毎年一科目ずつ受験することもできるが、そのかわりうまくいっても五年はかかることになる。一年に何科目か取得できたとしても、数年はかかる。

 大学で経済や法律を学んだわけでもなく、商業高校を出たわけでもないので、簿記すら知らない欠野さんは、二人の幼児を育てる主婦だった。炊事、洗濯、育児に加えて、数室の貸室がある貸室貸家の管理の仕事もしなければならなかった。だから誰もが、

「止めたほうがいい。十年かかっても合格しないよ」

と忠告した。事実、昼間は会計事務所に勤め、夜は専門学校に通って税理士資格を目指している人ですら、五年も七年も、いや、それ以上かかってやっと合格していたのだ。 

 しかし、欠野さんは心を決めた。そして精神集中して受験勉強した。その結果、昭和四十七(一九七二)年十二月、とうとう難関を突破して、税理士試験に合格した。日本商工会議所の簿記一級は試験に挑戦してから二年目に合格、税理士試験は挑戦してから三年目の快挙だった。

 

 

  甦りの誦句

  この欠野さんに大きな影響を与えた一人が、中村天風だ。欠野さんは京セラの稲盛和夫名誉会長が主宰する盛和塾北大阪代表世話人でもあり、稲盛さんを経営哲学の師と仰いでいる。この稲盛さんも師は安岡正篤と中村天風と言っている。  

 欠野さんは他に、少林窟道場の井上希道老師、偉大な教育者の故森信三、それに全国各地に「掃除に学ぶ会」を誕生させ、日々清掃に徹しておられる鍵山秀三郎さんを師として仰いでいる。

 欠野さんに「言葉の威力」や「心の用い方」を教えてくれたのが、天風だ。

「朝旦偈辞」とも呼ばれる「甦りの誦句」は欠野さんがもっとも愛する誦句だ。 

「我は今、力と勇気と信念とをもって甦り、新しき元気をもって、正しい人間としての本領の発揮と、その本分の実践に向かわんとするのである。  

  我はまた、我が日々の仕事に、溢るる熱誠をもって赴く。

  我はまた、欣びと感謝に満たされて進み行かん。

 一切の希望、一切の目的は、厳粛に正しいものをもって標準として定めよう。

 そして、恒に明るく朗らかに統一道を実践し、ひたむきに、人の世のために役だつ自己を完成することに、努力しよう」

 唱えるだけで背筋が伸び、気持ちがしゃきっとする。欠野さんにとって、積極的で建設的なところが性に合っている。

 ところで、この欠野さんは単なる企業人ではない。冒頭で述べたように、大阪メチャハピー祭の仕掛け人でもあり、育ての親でもある。以下、大阪メチャハピー祭の立ち上げを中心に欠野さんの人生を見てみよう。そこに見事に天風精神が生きているのを見つけられるはずである。

  

 

 熱気に満ちた大阪メチャハピー祭
 平成二十(二00八)年十月十三日、大阪メチャハピー祭のメイン会場・大阪城ホールでのファイナル・ステージ、毎年素晴らしい踊りで受賞を続けている注目の寝屋川市立梅が丘小学校SOHRANが「構え」「オー」の号令で一斉に踊り出した。

 踊り子のエネルギーがはじけ、ステージいっぱいに活気があふれ、汗が飛び散る。
観ている観客もその熱気に巻き込まれ、リズムに合わせて身体を動かしている。

 最後、「やー!」の掛け声で踊りが終わったとき、会場から「ゥオーッ!」という歓声が上がり、割れんばかりの拍手が湧き起こった。

 青少年の犯罪が全国一多かった大阪の将来を憂い、大阪を非行no.1から笑顔no の街にしたいと、九年前、青少年健全育成を目的とした市民参加型の大阪メチャハピー祭を立ち上げ、軌道に乗せ、今日まで運営してきた理事長の欠野アズ紗さんは感慨無量だった。

 九年前の第-回のときは参加者四十三チーム、千六百名(うち十八歳以下の青少年は六百名)だったが、平成二十(二00八)年は百七十六チーム、五千八百名(うち十八歳以下の青少年が三千名)にまで膨れ上がった。

 会場もメイン会場の大阪城ホール以外に、サブ会場として京橋駅前広場、ラブリータウン古川橋、枚方市駅前、大阪国際会議場(中之島)、大阪城公園、OBP東側道路パークアベニュウーの六会場に広がり、その熱気をテレビが放映するまでになっていた。

 何がそこまでの盛り上がりを引き出したのだろうか。

 すべての始まりは、平成九年(一九九七)年六月、欠野さんが札幌で行われた第六回YOSAKOIソーラン祭 に踊り手として参加したことからだった。

 大阪で会計事務所を経営する欠野さんに講演を依頼した札幌の会社社長から、お祭りにソーランチームを出して参加するので、いっしょに踊って欲しいと誘われたのだ。しかもわが社のチームには欠野さんの笑顔が欠かせませんと持ち上げられたので、あのテンポの速いリズムについていけるかしらと思いつつ、恐る恐る参加した。

 ところが聴衆の声援や拍手にはやされて踊っていると、楽しくて仕方がない。身体の内側から強烈な喜びが湧き上がってくる。細胞の一つひとつが活性化しているようで、欠野さんは何もかも忘れて踊り続けた。そして瞬く間にYOSAKOIソーラン祭の大フアンになってしまった。

 

  

 日本一荒れた中学校を立て直した

 それだけではない。見る者すべての目を引きつけた中学生たちの弾けるような踊りを見たのだ。お揃いの濃紺のハッピの裾に波をかたどり、背中に「学び座」と染め抜いて、魂の叫びかと思えるほどに、一心不乱に踊っている。

 生きることの喜びや悲しみを身体いっぱいに表現している。

「何という踊りだろう! そして、どこの中学生たちだろう!」

 欠野さんは感動の余り、身体が震えるのをどうすることもできなかった。

 後で彼らが稚内市立稚内南中学校(以下、南中)の生徒たちで、北海道では知らない者はいないほど有名であることを知らされた。彼等はこの踊りで、日本一荒れていた南中を立て直したのだ。

 昭和五十年代半ばから六十年代の初めごろ、稚内は二百カイリ問題で漁業権が縮小され、町の産業は大打撃を受けていた。町には失業者があふれ、暗い沈滞ムードに覆われていた。

 落ち込んだ町の雰囲気は南中にも影響し、荒んだ気持ちは校内暴力や授業無視となって表れ、校舎への落書き、喫煙、シンナー吸引なども日常茶飯事の荒れた中学校となっていった。

 その極めつけが、放火による校舎の炎上だった。幾度となく続いた小さな放火事件の結末だった。南中を立て直さなければいけない! と教職員や保護者、生徒たちがいっしょになって立ち上がった。 

 その牽引車となったのが、新しく赴任してきた横山耕一校長(現稚内市長)である。

 横山校長は教職員、保護者、生徒たちをまとめて改革を進め、ついに南中の荒れは収まっていった。横山校長の後任として赴任した大久保慧校長は生徒たちのエネルギーを発散させるものとして、南中ソーランの踊りを採用した。南中郷土芸能部はロック調にアレンジし直したアップテンポでビートの利いたソーラン節で、自分たちを表現することを知った。

 

  

 日本民謡民舞大賞で日本一に

 平成四(一九九二)年十二月、南中郷土芸能部は、はじめて参加した「第九回日本民謡民舞大賞」で五位に相当する審査員奨励賞を獲得した。

 そして翌平成五(一九九三)年十二月、「第十回日本民謡民舞大賞」では、並み居るプロの踊り子たちをさしおいて、とうとう日本一の栄冠を手にしたのだ。

 南中ソーランがどれほどのものか、いまや南中のスポークマンになった感のある欠野さんが、自著『南中ソーランの真実』(新風書房)に見事に活写している。
「キラキラと照らされるスポットライト。一心不乱に踊る若者たち。荒ぶる北海の海が見事に表現されていく。

 若々しくたくましい二十人の群れ、地をうねり、天を突き刺す激しい動き。魂の叫びが聞こえる。

 ――どうだ、おれたちの海のうねりが聞こえるか?
 ――これがおれたちが生きている北の海なんだ!

 刹那、大きく盛り上がった波が岩に砕け、新しいしぶきとなって散っていく――」
そしてこうも書いた。

「なぜ、この中学生たちの踊りがこうも私たちの胸を打つのでしょうか?

 もしかするとそれは、彼らの踊りが、私たちが大人になるにつれていつしか忘れてしまった大事なことを思い出させてくれるからかもしれません。後先を気にせず、一瞬一瞬を必死で生きるけなげさ、あるいは仲間たちと協力しあって、ひとつの目標を目指し、達成する楽しさ、すがすがしさなどを‥‥。彼らの踊りにはそんな爽快感があるのです。そして明るさがあり、自由がある」
欠野さんの心の中に、南中ソーランには青少年たちの心を掻きたてる何か特別なもの

があると刻み込まれたのだ。 

 

  

 大阪で始動した南中ソーラン

  平成十(一九九八)年十一月、欠野さんは偶然、稚内中学校を舞台にした映画『稚内発「学び座」――ソーランの歌が聞こえる』があることを知った。この映画は劇場で上映されておらず、全国各地で有志が自主上映会を開いているという。

(大阪でもこの映画を観てもらって、大阪を笑顔いっぱいの街にしたい!)

 その念願の成就に向けて欠野さんは動き出した。

 というのは冒頭にも書いたように、大阪の少年非行は、都道府県別の検挙・補導人員においては常にワーストクラス、人口比(九~十六歳の少年人口千人あたりの検挙・補導人員)でも全国平均を大きく上回っていた。南中ソーランの導入によって、非行no.1に歯止めをかけることはできないかと思ったのだ。

 年が明けて平成十一(一九九九)年一月二十三日、百五十人が定員の会場に、主に学校の先生たち二百二十名が集まり、大阪で最初の上映会が行われた。これが大成功し、次は四月十日、八百名を収容できる会場で、今度は上映だけでなく、南中立て直しの主役である大久保元校長も呼んで講演をしてもらう「共育フォーラム」として行うことになった。

 関係者が必死で勧誘したかいがあって、何と千名を超す人が集まり、「南中ソーランを自分の学校でも踊りたい」という子供たちが続出したのだ。子供たちが口々に「カッコいい」と言うのだ。各学校でも上映会が開かれ始めた。そして『稚内発「学び座」』の上映回数が一番少ないと言われていた大阪府が、逆に全国でも一番多い所になっていった。

 それからしばらくして、「共育フォーラム」を企画した「大阪をメチャハピーにするプロジェクト」のメンバー約三十名が集まった。その場でみんなの口から出たのは、

「大阪でも、札幌のYOSAKOIソーラン祭のような、市民が自由に参加できる祭りを興せないだろうか」

 という意見だった。そこでその実現に向けて動き出したところへ、欠野さんが会計事務所を開いている京橋の商店街から、京橋祭りで踊ってほしいという依頼が来た。これは絶好のチャンスと引き受けたものの、踊れるのは欠野さんだけだ。

 そこから猛練習が始まった。園児たちと踊りなれている幼稚園の若い先生方はアップテンポの踊りにもついていけて、すぐに覚えられたが、中年の経営者たちはなかなかそうはいかない。そこでみんな家にビデオを持ち帰って練習し、覚えてもらうことになった。

 ところが、彼らが家でビデオを観ながら振り付けを覚えていると、子供たちが「そこで右にターン!」「もっと天を突き上げるようにして!」などと手伝ってくれる。お陰で日頃会話の少なかった親子の交流が図られたと、思わぬ副産物もあった。

 こうして七月三十一日の京橋祭りでは大勢の見物客の前で踊り、大喝采を得た。

「大勢の人に観られて踊るというのは本当に気持ちがいいものです」と欠野さん。「もう幸せではちきれそうなほどの快感なのです。この喜びを子供たちにも味あわせてあげたいと思うと、大阪メチャハピー祭の開催に向けて拍車がかかりました」

 次のステップになったのが、平成十二(二〇〇〇)年七月二十五日に開催される予定だった天神祭だ。それまで盆踊りにも出演したが、いま一つかみ合わないものがあり、もっと斬新なものはないかと探していた。そこへテレビ大阪のプロデューサーが出演を持ちかけてきたのだ。

 天神様といえば、日本三大祭りの一つに数えられている大イベントだ。そこで踊れるというのだから、これ以上の舞台はない。そこで即座にOKした。

 しかし、大舞台なのだから、わずか三十人で踊るわけにはいかない。そこで上映会をやった小学校・中学校・高等学校に呼びかけた。嬉しいことに「テレビカメラの前で、南中ソーランを踊ってみたい」という児童・生徒たちが多く、出張指導に出向いた。全体練習は廃校になった小学校の体育館で、週に一回、夜七時から九時まで行った。

 ところが祭りまであと一ヶ月となった六月、皇太后さまがお亡くなりになり、斂葬の儀は天神祭の当日に執り行われることになり、天神祭は中止になってしまったのだ。これまで練習を積み重ね、ようやく成功させられる自信が湧いてきたときだったので、落胆は大きかった。欠野さんも何もする気になれず、「あと一歩だったのに・・・」と唇をかんだ。

 

  

 大阪メチャハピー祭開催   

  ところが、捨てる神もあれば、拾う神もある。

 七月二十七日、大阪ロータリークラブで講演をすると、講演の後で一人の紳士が話しかけてきた。

 「欠野さん、お祭りで道路を使いたいでしょう。なら、祝日か日曜日にしなさいよ。ぼくも応援するから」

 何と、元大阪府警本部長の四方修さんだ。これで一度は鎮火しかけた心に再び火が点いた。それから先はまるでジェットコースターに乗ったように動き出し、祭りの名前は「大阪メチャハピー祭」、開催は十一月三日の文化の日、会場は大阪ビジネスパークのツイン21ギャラリー、パークアベニューに決まった。参加チームは四十三チーム、総勢千六百人(うち子供は六百人)である。

 十一月三日、会場は色とりどりのハッピと大音響に包まれた。どのチームもこの日を目指して必死に練習してきたのだ。どの顔も輝いている。

 本番を迎え、いっせいに舞台に飛び出すと、スピード感のある音楽に乗って、一心不乱に踊る。踊り終わって舞台の袖に戻ってきた子供たちの顔は、汗と涙でぐちゃぐちゃだ。先生と生徒たちが抱き合って喜んでいる。その姿は欠野さんが三年前、札幌で見た稚内市立南中学校の生徒たちと同じものだ。それを見たとき、やってよかった!と苦労が報いられたように思って、泣けてならなかった。そして心に残ったのは感謝だけだった。

 第1回の大阪メチャハピー祭を振り返って、欠野さんはこう語る。

「天神祭が流れたことは天の配剤だったのです。あれが流れたお陰で、開催が七月から 十一月に延期になり、より多くのチームが参加でき、十分に練習できました。

 それに元は天神祭の一イベントとして踊る予定だったのに、すべて自分たちの手による新しい祭りを興すことができたのです。

 また近畿通産局(現近畿経済産業局)、大阪府、大阪市、大阪府教育委員会、テレビ大阪などの後援も取り付けることができ、多くの企業が協賛してくださいました。他にも挙げたらきりがないほどたくさんの支援があり、形になりました。感謝以外の何ものでもありません」

 

  

 脳内出血になったご主人

 こうして大阪メチャハピー祭が誕生した背景をたどったが、実はそのキーパーソンとなった欠野さんが、ある苦境を通して、ひと皮もふた皮も剥けたから実現にいたったといえる。その苦境について述べてみよう。

 平成二(一九九〇)年三月一六日夜九時半、欠野さんのご主人は豊中市のレストランで会計事務所の職員たちと、確定申告をやり終えた労をねぎらい、夕食会を開いていた。そしてトイレに行ったところで倒れ、その拍子に頭蓋骨を骨折して意識不明になった。急いで千里にある国立循環器病センターに担ぎ込まれた。診断は右頭蓋骨折、および出血。左前頭葉出血、側頭部出血。出血は止まったが、脳がどんどん腫れている。今日、明日が山場という危篤状態だ。

 しかし幸いにもその危機的状況を乗り越えることができ、闘病生活が始まった。欠野さんは一心不乱に看病に努めた。

 でも意識が回復したご主人は別人のような気難しい人に変わっていた。ご主人が癇癪を爆発させても、欠野さんは身体が思うように動かないから、イライラが募って爆発したのだと思い、ひたすら耐えた。ご主人は二ヶ月後には退院に漕ぎ着けた。

 欠野さんは、ご主人は自宅でリラックスして療養すれば、元のおだやかな状態に戻るに違いないと思ったが、その期待は見事に裏切られてしまった。ご主人はますますネガティブなエネルギーの塊となり、欠野さんを責めさいなんだ。欠野さんがやることなすこと全部気に入らないようで、手のほどこしようがなかった。こうして結果的には自分自身を逃げ場のないどん底状態に追い込んでしまった。

 周囲は見るに見かねて離婚を勧めたが、欠野さんは、それでもご主人を看病し続けた。

 あるときは身の危険を感じ、裸足で家を飛び出し、赤信号を無視して横断歩道を突っ走った。危うくトラックに轢かれそうになったが、不思議にケガはなかった。

 退院するとき病院の先生から、「奥さん、絶対一緒に暮らしてはいけません。ご主人のご兄弟に話して、引き取ってもらいなさい」と言われていたことの意味がやっとわかった。 平成五(一九九三)年六月半ばのある日、欠野さんの友達が遊びにきているとき、ご主人が些細なことで怒りだし、突っかかってきた。友達はとっさに欠野さんをかばい、ご主人に激しく噛み付いた。

「あなたが今ここに生きておれるのは誰のお陰だと思っているの! 彼女の必死の看病があったからじゃないの。感謝こそして当たり前なのに、彼女が苦しむことばかりして。どういうつもりなの!」

 友達はすごい剣幕で怒ったが、効果はなかった。

 欠野さんはその日、家を出た。着の身着のままだった。すべて、ご主人の思うようにさせてあげよう。すべてを失ってしまい、家具も何もない、新たに借りたマンションの一室で、ただただ茫然自失していた・・・。

 

  

 あらゆる試練は愛の裏返し

 看病疲れと別居の痛手から憔悴しきっていて、いつ倒れてもおかしくなかった。

 そんなある日、欠野さんは案の定、倒れて入院した。医師は重い肺炎にかかっていると告げた。肺がんに発展する可能性もある、大阪大学医学部付属病院に転院しなきゃいけないと深刻だ。

 しかし、欠野さんの心は違った。あれほど憔悴しきっていたのに、何だか嬉しくてたまらないのだ。

「ここで一ヶ月も休養したら、私はきっと治ります」

と医師を説得した。医師が驚いて、

「欠野さん、私が医師なんですよ。病気のことは私のほうがよくわかります。そんなことを言える状態じゃないんです」

 と言うものの、喜びで満たされている欠野さんには馬耳東風、馬の耳に念仏だった。

 そんなところに、ご主人が離婚届にハンコをつき、市役所に提出したと聞いた。欠野さんがまったく知らないうちに行われたのだ。欠野さんはそれを感謝して受け入れた。

 病気は欠野さんが言ったとおり、一ヶ月で快癒し、退院した。

 それからしばらくして、欠野さんは渋滞の中を、天満橋に向かって車を走らせていた。

 そのとき、温かくて心地よいものが身体の中から湧き上がってきて、欠野さんを覆い包んだのだ。

(ナニ、ナニ、これは何なの!)

と思う間もなく、涙があふれ出した。悲しいのでもなくうれしいのでもなく、ただただ涙があふれ出てくる。涙で前方が見えなくなり、運転することもできない。

 そしてそれまでの人生の苦境が走馬灯のように思い出された。

 ――どうしても大学に行きたい!

 ――駄目だ、女の子は嫁に行くのが一番だ。学問なんか要らない。

 ――あなた、おきて!私はこんなルーズな生活はもう嫌よ!

 ――ママ、ぼくは一人で遊べるから、ママは勉強しな。 

  ――手のかかる子供が二人もいる人は雇えません。

  ――なんで俺を助けた。天国は美しい花園で、死ぬのがすごく気持ちよかったのに!

なぜ助けた!

 一つの山を越えると、また次の山が現れた。その山をやっとの想いで越えると、次はもっと高く険しい山が現れた。そのくり返しだった。何のために、こんなきつい山を乗り越えなければならないのか。考える暇も無く、次の山がやって来た・・・。

 それまで欠野さんはそう思っていたが、そこには理由があったのだ!

 すべての苦境は欠野さんに、「私は愛に包まれているんだ!」ということを気づかせるためにあったのだ。

 窓の外を見ると、とても鮮やかな街路樹の緑が目に飛び込んできた。道行く人たちに 微笑みかけたくなる。渋滞すら心地よい――。

 そこで、あれっと気がついた。悲しみや辛い思いが消えてなくなっている。そしてありがとうという気持ちと、すべてをいつくしみ喜ぶ気持ちに変わっていたのだ。

(ああ、そうだったのか。試練だと思ったあの出来事もこの出来事も、私の心の幅を広げるためにあったのか。それを何度も繰り返して、心は無限に広がっていき、森羅万象とひとつになっていく。そうして何もさしさわるものがない融通無碍の状態になっていくのだ。

 とすれば、あらゆる試練は愛の裏返しなんだ。試練が大きければ大きいほど、与えられるものも大きいのだ!)

 そう思ったとき、欠野さんは降りかかってきたあらゆる試練に感謝したくなった。

(これらの試練は私が超えられるからこそ与えられたものなんだ。それらを超えたとき、私は以前にも増して愛の素晴らしさを感じられるに違いない)

 そう思うと、肺の痛みにも感謝でき、嬉しくてうれしくてならなかった。 

 

  

 新しい飛躍の始まり

  それからの欠野さんの生活は一変した。いつまでも感謝と喜びの状態が続くのだ。仕事が忙しくて疲れていても感謝。睡眠時間が少なくても感謝。とにかく二十四時間すべてが愛になった。

 心が充実すると、日常生活が変わってきた。集中力が増し、判断力が高まるので、仕事の効率は飛躍的に上がった。そして不思議なことだが、部屋に飾ってある鉢植えの花がいつまでも枯れず、生き生きしているのだ。

 前述の札幌YOSAKOIソーラン祭や稚内南中郷土芸能部との出会い、そして大阪メチャハピー祭を立ち上げる話は、この後に続くのだ。

 欠野さんは来し方を振り返って言った。

「大きく悟って天馬空を行くがごとき状態になるのは、良かったね、これでお終い! というのではなく、そこでつかんだ心境でもっと多くの人に尽くしなさいということです。すべては愛なり、でした」

 私はそこに宇宙の仕組みを見る思いがした。

 人は自分を養うだけのことは誰でもできる。問題はその次だ。

 もし人を雇って給料を払うことができたら、それだけ人のお手伝いができていることになるから、すごいことだ。それに加えて、もしもっと多くの人を精神的に励ますことができるとしたら、これはもっとすごいことである。

 天は私たちにそれができる可能性を与え、その可能性が花開くよう、育み育ててくださっている。その期待に応え得たとき、人は心から充足する。欠野さんは一歩一歩その階段を上がっている。それを見て、欠野さんに大きな影響を与えた泉下の中村、安岡両翁は、大変喜ばれているのではなかろうか。

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