中村天風「幸せを呼び込む」思考 神渡 良平著 講談社+α新書 - 十六 中村天風を貫いた歓喜

桑原健輔さんの抜粋の第16回目です。 

中村天風「幸せを呼び込む」思考     神渡 良平著  講談社+α新書

天空の舞い
天空の舞い

 

十六 中村天風を貫いた歓喜 

 

 「あなた方の心のなかの考え方や思い方が、あなたたちを現在のあるがごときあなた方にしているんです。俺は体が弱いと思ってりゃ体が弱くなる。俺は長生きできないと思っていりゃ長生きできない。俺は一生不運だと思っていりゃ不運になる。つまりあなた方が考えているとおりのあなた方にあなた方がしているんです。自分の念願や宿願、やさしく言えば、思うことや考えていることは必ず叶います。叶わないということは、原因が外部にあるんじゃない、みんな、あなたたちの命に与えられている心の思いよう、考え方の中にあるんだということを知らなきゃいけない」(『盛大な人生』中村天風著 日本経営合理化協会)

 

 

 考え方で人生は変わる 

 これはそのものずばりの指摘である。実際、私たちがその中で生を営んでいる宇宙の仕組みは、自分の中で思い描いたことが実人生で展開していくようになっている。このことの発見は、天動説をくつがえして地動説を唱えたコペルニクスのような大発見である。

 このことに気がついた天風はヒマラヤの山中で狂喜した。その雄叫びはヒマラヤ山中に響き渡り、獣という獣は何が起きたのかと背伸びして周囲を見渡したに違いない。天風はこみ上げてくる喜びをどうすることもできず、肺結核という死の病はいつの間にか吹き飛んでしまったのだ。

 病は身体の外から治療薬を入れ、病原菌を叩いて治すという方法もあるが、自分の内からこみ上げてくる情熱で病を吹き飛ばすという方法もある。天風の場合、宇宙の仕組みについて覚醒したことが大変な興奮を呼び起こし、ついには病も消えてなくなったということだ。

 画家や音楽家、陶芸家など、クリエイティブな仕事に従事する人に長生きする人が多いのも、この内なる情熱に関係があるのではなかろうか。芸術家は発見の喜びや創造の喜びに打ち震え、食べるのも寝るのも忘れて創作に打ち込むというが、この内なる情熱は天風が宇宙の天理を発見したときの歓喜に通じるのではなかろうか。

 ということは、私たちが携わっている仕事を単なる身過ぎ世過ぎのレベルから芸術の域にまで高めたとき、私たちも日常的に震えるような感動を覚え、それが長寿にもつながるということである。

 松下幸之助は、「経営は芸術です」と言ったそうだが、松下にとってもはや経営は利益追求のものではなく、芸術の域にまで高まっていたのだろう。これは極めて世俗的に見える経営にもそういう領域があるということを教えてくれており,私たちは何と幸せなことだろうか。また一つ目標ができた思いである。

 

 

 要はやっぱり自分

 そこでもう一度、天風を覚醒させたメッセージ「あなた方が考えているとおりのあなた方に、あなた方がしている」を吟味してみよう。

「あなた方が考えているとおりのあなた方に、あなた方がしている」ということは、実は怖ろしいことである。「あなた方が考えているとおりの私に、あなた方がしている」という考えを受け入れると、もはや人のせいにして責任逃れすることはできず、身震いするほどに緊張する。人間が自分の人生の主人公であるように仕組まれているということは、両刃の剣といおうか、怖ろしいほどのことなのである。

 また、「あなた方が考えているとおりのあなた方に、あなた方がしている。」と聞いて耳が痛くない人はあるまい。原因を自分の外に求め、あいつが悪い、上司が悪い、社会体制が悪いと言っていれば気が楽だ。自分は改善の努力をしないですむのだから。

 これまで私たちは事業が伸びない理由を外に求め、近年とみに増す経営環境の厳しさを問題にしてきたが、「私が考えているとおりの私に、私がしている」と自覚したら,自分の事業の見直しに本腰が入る。初めて「待ったなし!」の緊張感がよみがえってくる。

 そしてそういう目覚めた眼差しで周囲を見渡してみたら、この厳しい時代にも、着々と事業を伸ばしている経営者があることに気づく。要はやっぱり自分なのである。

 

 

 すべての出来事には意味がある

 ニューヨークのマンハッタンにあるニューヨーク州立大学病院医療センター内にあるラスク研究所のロビーに、人生の真相を突いたレリーフが掲げられている。原題は「ある病者の信条」となっている。平成六〈一九九四〉年四月、はじめてこの詩を読んだとき、私は大変な衝撃を受けた。詩を紹介しよう。

 

大きなことを成し遂げるために

力を与えてほしいと神に求めたのに

謙虚さを学ぶようにと、弱さを授かった

より偉大なことができるようにと、健康を求めたのに

より良きことができるようにと、病弱を与えられた

幸せになろうとして、富を求めたのに

賢明であるようにと、貧困を授かった

世の人々の賞讃を得ようとして、成功を求めたのに

得意にならないようにと、失敗を授かった

人生を楽しもうと、たくさんのものを求めたのに

むしろ人生を味わうようにと、シンプルな生活を与えられた

求めたものは何一つとして与えられなかったが

願いはすべて聞き届けられていた

私はあらゆる人の中で、もっとも豊に祝福されていたのだ

 

 この詩が契機になって、私はさまざまなことを考えた

(確かにそうだなあ。一見マイナスなように思えたり、ついてないと思われるような出来事も、「なぜ自分だけこんな羽目になるんだ!」と拒否してはいけない。それよりもすべての出来事は意味があって起きているのだと思い、素直に受け入れ、心の耳を澄ませて聴き入ったら、逆に目から鱗が落ち、とても大切なことに気づかされ、人生は好転していくのだ!
人生で起きるさまざまな出来事に一喜一憂し、ああでもない、こうでもないと思い悩むのではない。その出来事が起きたおかげで、深い気づきに至ることができた! と気づくのだ)

 こうして私がよって立っている天の理法を理解するのに役立ってくれた。

 

 

私は独りでいるのではない

 その一つが、「私は独りでいるのではない。大いなる存在に見守られているんだ」という自覚だ。

 最近は日本人学者が多数ノーベル賞を受賞しているが、現在ノーベル賞にもっとも近い人物といわれているのが村上和雄筑波大学名誉教授だ。村上教授はサムシング・グレートの存在を唱え、「人間は独りでいるのではない。サムシング・グレートに見守られているんだ」と力説しておられる。

 古来、勝れた人物はことごとく、名称は神仏などいろいろあれ、サムシング・グレートの存在を説き、「人間は独りでいるのではない。サムシング・グレートに見守られているんだ」と説いてきた。それを世界的科学者が科学の目で捉え、唱えたから新鮮だったのだ。

 そして天風も同じことを言っている。こうした世界観に立つと人間は動じなくなる。何があったとしても、悪くなることはなく、好転していくのだと達観できる。

 実は予想外のことが起きる人生において、もっとも必要なのがこの捉え方である。

 この詩が放つメッセージに大いに共感した私は、この詩のことを調べた。そして先に述べたように、ニューヨーク州立大学病院医療センター内にあるラスク研究所のロビーに掲げられていることを突き止めた。

 そこで同年十一月に出版した『安岡正篤に見る指導者の条件』(大和出版)に、この詩を改題して「神の慮(おもんばか)り」として紹介した。

 案の定、多くの読者から共感の手紙があった。その後も『マザー・テレサへの旅路』(サンマーク出版)などいくつかの著書で紹介し、おりおり感じることを書いた。するとその都度、多くの読者から共感の手紙をいただいた。

 そこで音楽家の西村直記さんと瞑想のためのCD「いと高き者の子守唄」を制作することになったとき、西村さんが作曲したシンセサイザーの曲を背景に、私がこの詩を朗読し、平成十五(二〇〇三)年二月にリリースした。残念ながらこのCDは一般の流通ルートに乗っておらず、私のところでの直販のみなのだが、口コミで広がり、注文が殺到した。

 そんな人の中に、ホスピスで緩和ケアを受けている末期ガンの患者の家族が多かったので、注文された理由を訊ねると、こういう返事が返ってきた。

「ガンを患っている夫(妻)が言うには、昼間は家族や見舞い客などあって気がまぎれていますが,夜になって独りになると、どうしても直面している死について考えてしまいます。時には恐怖にさいなまれ、発狂しそうになったりするそうですが、同じ仲間の患者さんから借りたあのCDを聴いていると、大いなる存在から見守られていて、大丈夫だよ、心配しないで・・・とやさしく諭されているような気がして、いつしか穏やかな気分になるというのです」

 そういう癒やしの効果があると聞いて嬉しかった。

 あるいはまた治療院からの注文も多い。鍼灸やマッサージ、アロマセラピーなどを施すときにこのCDを流していると、患者さんからあのCDを入手してほしいと頼まれるのだという。人生の深い智慧が語られており、大いなる存在に見守られていると感じられて、深い安堵感を覚えるらしい。

 

 

 屈託のない、のどかな世界 

 その後、所用でニューヨークを訪れた私は、この詩のレリーフが掲げられているニューヨーク州立大学病院医療センターを訪ねた。ニューヨーク州立大学は、南北をマンハッタンの三十丁目から三十四丁目までを占め、東西は1番街からイースト川沿いに走っているFDルーズベルト・ドライブに至る広大な敷地を占めていた。

 五番街に面した三十三丁目から三十四丁目の一画には、私たちにも馴染みの深いエンパイヤ・ステート・ビルがあり、そこからブロードウェイを越えてもう少し西の七番街まで行くと、ペンシルベニア駅やマジソン・スクエア・ガーデンがあり、六番街と七番街の間にはメイシーズ百貨店があり、観光客が集まるにぎやかな通りを形成している。いわばマンハッタンの中心部だ。

 しかし五番街を境に、マンハッタンの東側イーストエンドには西側の喧騒はなく、マンションやコンドミニアムが立ち並ぶ閑静な住宅街が広がっている。ニューヨーク州立大学病院医療センターはその地域に位置している。

 私はロビーでこの詩のレリーフを眺めると、庭に出て木の下を歩き、ベンチに座った。

 心地よい風が頬を伝う。日本のような湿気がないので、さらりとして気持ちがいい。

 私はナップサックの中から原詩を取り出し、繰り返し繰り返し何度も読んだ。

 木漏れ日がちらちらこぼれ、詩が書かれた紙の上で躍っている。

 そこには人間世界の思いわずらいとはほど遠い、屈託のない、のどかな世界が広がっていた。

(これを忘れると、眉間に皺を寄せるようなことになってしまう。
預けることだ。大いなる存在に預けてしまえ。
思いわずらったところで、どうにかなるものではない。胃に穴が開くだけだ。古人も「明日のことは明日自身が思いわずらうであろう」と言っているではないか。私もそれにならい、今を精一杯歩もう)

 私はナップサックの中からペットボトルを取り出すと、清水を飲み干した。

すると足元に数羽のハトが舞い下りてきた。私が何か食べ物を持っていると思ったのだろう。

(ウーン、何かなかったかな? そうだ、少しクラッカーが残っていたぞ。あれをやろう)

 私がクラッカーを取り出して投げ与えると、それを目ざとく見つけた他のハトたちが寄ってきてついばんでいる。その様子を楽しみながら、午後の時間が流れていった。

 私がCDで詩「神の慮り」を朗読してからしばらくして、ボストンの近郊に長らく住んでいる日本人から、次のようなメールが届いた。

「私は生長の家の信徒なのですが、神渡先生が生長の家大阪教区栄える会で講演なさったものを、そのウエブサイトで聴かせていただき、詩『神の慮り』のことを知りました。もう二〇回以上聴いていますが、毎回涙が出て、心が洗われます。本当にそうだと心から納得します。

 ところで先日、‘Laughing Matters’  という本に,先生が紹介されている詩『神の慮り』の原型ではないかと思われる詩が載っていました。著者のフィル・キャラウエイ氏によると、この詩は南北戦争のときに南軍の無名兵士が書いたものだそうです。

 アメリカはホスピス制度がよく発達しており、病院にはチャプレンと呼ばれる牧師が常駐しておられます。そんなチャプレンがガンの患者さんにくださったパンフレットに書いてあったものを、共感した患者さんが壁に書き写されたのではないでしょうか」

 私はこの詩が全米に広がっていることを知って驚くばかりだった。

 この詩は誰が書いたものなのかと、いろいろな人が調べているようだ。ニューヨーク州立大学病院医療センターのレリーフには作者不詳となっているが、ある人はセントルイスに住むイエズス会の修道士が書いたものだという。しかし、作者は誰であれ、すごい真理をつかんでいることは確かだ。そうでなければ、これほど多くの人々が共感することはあるまい。

 昔から「真理は汝を自由にする」という。この詩は私たちの背後に「大いなる存在」の眼差し が投げかけられていることに気づかせてくれている。天風も指摘するように、「大いなる存在」と「宇宙の仕組み」に目覚めるかどうかで、人生は大きく変わってくるのだ。

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