週刊 「先見経済」 連載99

古典に学んだビジネスのコツ - グルメ回転寿司で成功した堀地速男さん

月刊 「関西師友」 12月号

グルメ指向の回転寿司誕生!
「さあ、いらっしゃい!」
 ドアを開けてグルメ回転寿司「すし銚子丸」に入ると、白い帽子を被った板前さんから威勢のいい声が飛んできた。活気に満ちた寿司屋だ。まるで大漁旗を掲げて喜び勇んで寄港した漁船の中のような賑わいだ。
「よく言ってくださいました。それが店を運営している私たちの目標なんです」
 と言うのは、一都三県で七十三店舗の直営店を経営し、五百名の社員と三千名のアルバイトを指揮して、年商百八十億円を稼ぎ出している堀地速男社長である。六十九歳になった現在でも、土曜、日曜、祝日には店舗を回っている白髪が美しい総帥である。
「私たちは漁船の上でお客さんに新鮮な寿司を握っておもてなししている漁師のような気持ちでいます。北海道の沖合いで鮭を獲るヤン衆ようなの気持ちです。海の香りがする漁船の上で、獲れたばかりの魚をバサバサ切って出している雰囲気を味わってほしいから、漁師のような大声を出して接待しています。
私たちがそう振る舞うことによって店そのものの鮮度もよくなり、お客さまにも楽しんでもらえます」
堀地社長は「店舗は舞台。お客様は観客。私たちスタッフは銚子丸一座の劇団員」と考えている。お客様にはもちろん新鮮なネタを提供するが、商品は魚だけでなく、接客サービスも重要な商品だというのだ。板前さんの掛け声がよく響き、ホール係りもキビキビ行動しているから、お店に活気がある。だからお客様は駐車場に止めた車まで歩きながら、「楽しかったわ! また来たいね」と感想を言う。まさに劇場型の回転寿司屋だ。

低価格の回転寿司からグルメ回転寿司へ
回転寿司というと、できるだけコストを下げて安価な値段で提供しようと、寿司米を握るのも機械化し、そこに薄く切ったネタを載せて回転テーブルでお客様に提供している店だ。堀地社長が昭和六十二(一九八七)年に千葉県浦安市に開店した「回転すしABC」もそういう通常の回転寿司屋だった。
しかしお客様の中には、寿司の味まで犠牲にして低価格を実現するのではなく、値段よりもちゃんとした寿司を求める人もいた。堀地社長は試行錯誤の末、平成十(一九九八)年十月、回転テーブルで提供するけれども、寿司そのものは極上のネタを、築地の寿司屋と同じように板前さんが握る寿司を提供するような、ワンランク上のグルメ回転寿司に特化し、「すし銚子丸市川店」をオープンした。グルメ指向の回転寿司という新しいタイプの業態の誕生である。
ネタは最高においしく新鮮なものを提供するため、マグロはキハダマグロやメバチマグロではなく最もおいしい本マグロにこだわった。冷凍したものを解凍して出すと、どうしても味が落ちることから、地中海で獲れたものを氷浸けにして空輸して提供した。
サケはノルウェーからフランクフルト経由で成田に空輸すると六十二時間かかる。それをヘルシンキ経由で、しかも氷浸けして生のまま三十六時間で空輸できるようにした。そこまで鮮度と味にこだわったからお客様は敏感に反応し、すし銚子丸の評判はうなぎ登りに上昇していった。
日本で消費されるマグロは年間四万トンだが、日本最大の大口消費者である銚子丸はその一パーセントの約四百トンを消費している。近年、欧米や中国、韓国でもマグロを食べるようになったことから、マグロが高騰し、入手しがたくなった。そのことを報じるテレビは決まって銚子丸を取材するのは、すし銚子丸が日本最大の消費者だからである。

お客様を飽きさせない工夫
堀地社長はお客様の意表を突き、驚かせて飽きさせないために、いろいろな工夫を凝らしている。その一つが、スーパーマーケットにおけるタイムサービスのような「本日の新鮮組」とか「本日の心づくし」である。
折を見てそういうイベントが行われ、品数限定で、通常の倍もある切り身が乗った寿司や、イクラが山盛りされた軍艦巻きや、マグロの中落ちを満載した握りが提供される。あるいはカニが提供されたりするので、明らかに得をした感じになる。
お客様に喜んでもらおうと、昨年(平成二十一年)は応募した四千三百三十七通の中から当選した八組十六名をノルウェーに招待し、サケを捕獲している漁場を見学してもらった。今年(平成二十二年)は二千六百五十四通の応募者から選ばれた七組十四名がトルコに行き、地中海のマグロの養殖場の見学をしてもらった。
「そのため招待旅行には約五百万円かかりました。でもお客坂に楽しんでいただくのが一番です。今年は地中海のマグロ漁なので、いっそう盛り上がりました」
 そう語る堀地社長の頬が紅潮している。そんなイベントをお客様と一緒に楽しんでいるのだ。

遠回りして学んだ商売のコツ
「でも、いささかサービスのし過ぎではないですか? きれいごとばかりは言っておれないでしょう」と聞くと、「いやいや、そうではありません。私は外食産業を三十三年やってきて、お客様を喜ばせることが先で、利益は後だということにようやく気付きました。以前は中華や和食、持ち帰り寿司、回転寿司、とんかつの五種類の店をやっていました。
外食産業はすべてカバーするという意気込みで、会社名も㈱オールとしていました。鼻息が荒く、単純に売り上げと利益を追っかけていました。しかし売り上げも利益もあがらないです。
 どうしてうまくいかないんだろうと悩んでいるとき、平成九(一九九七)年五月、アメリカの某大手ハンバーグ・チェーンの視察に行きました。その経営者はビジネスを立て直すために、理念を明確にしたと説明してくれました。
『私たちは何のためにハンバーグを売っているのか、目的を明確にしました。利益を上げることを追及していると、お客様は逃げていきます。お客様の喜びのためにハンバーグを提供する。お客様の喜びが先であって、それに奉仕する形でハンバーグというモノを売っているんです。
 お客様の喜びに奉仕しているかどうかという観点で、店舗のインテリアもハンバーグの内容も全面的に見直してリニューアルすると、売り上げも利益も伸びていきました」
 その観点は堀地社長には非常に新鮮に響いた。当たり前のことのようだが、わかっていなかったと反省した。
「薬局は薬を売るのが目的ではなく、人の命を救うために薬を売っています。それを本末転倒して、薬を売って利益を上げることが主になってくると、利益は逃げていくというのです。私は一番基本的なところで心得違いをしていると反省しました」
 そして接客の姿勢を全面的に変え、それを「朝礼の詩」に「今日も一日お客様に真心を提供して、感謝と喜びをいただくためにがんばろう!」と書き、朝礼において全員で唱和して意識改革に努めた。この意識改革が効果を上げ、お店の雰囲気はぐんぐん変わっていった。

「利によって行えば怨み多し」
 ところがある日、安岡先生が書かれた『論語の活学』(プレジデント社)を読んでいて驚いた。
「孔子は『利によって行えば怨み多し』と言っているというのです。その箇所を引用します。
『「論語」里仁篇に「利によって行へば怨多し」とある。これは今日でも同じことで、人びとはみな利を追って暮らしているが、利を求めてかえって利を失い、利によって誤まり際限もなく怨みを作っている。それは「利とは何であるか」ということを知らないからである』
 まったくの勉強不足でした。東洋思想はすでに二千五百年前から説いていたというのです。安岡先生によると、『春秋左伝』はそれを『利の本は義』と表現し、『易経』は『利は義の和なり』と説いているというのです。東洋思想は間違うことなく、利の本質は何であるか、説いていたのです。それを知らなかったばかりに私は試行錯誤して苦しみ、アメリカで研修を受けて初めて目覚めたのですから、随分遠回り道をしてしまったものです。
安岡先生は同書で、『本当に利益を得ようとすれば、「いかにすることが〝義〟か」という根本に立ち返らなければならない。これは千古易わらぬ事実であり、法則である』と書いておられました。
 従業員の人生を預かっている舵取り役であるからには、もっと人生の哲理を学ばなければいけないと思いました」
苦労人であるだけに、身にしみたのだ。それから堀地社長は安岡先生の講演会に積極的に参加するようになった。新宿にあった全国師友協会の事務所にも出入りし、常務理事の林繁之さんや、事務局長で機関誌『師と友』の編集長を務めていた山口勝郎さんとも親しく交わった。

 社名変更にかけた思い
㈱オールをどういうお店にしたいか問題意識を持った堀地社長は、ヒントを求めていろいろな経営者の本を読み、参考にしたい企業を探した。そして最終的にトヨタ、セブン-イレブン、ユニクロ、ディズニーランド、ロードストローム(米国のデパート)五社に絞った。
 トヨタは極力在庫を持たない看板方式で知られているが、もともとは在庫を置かず、その日のうちに使い切ってしまう寿司屋の商法から学んだものらしい。自分たちの良さをトヨタから知らされたのだ。
 セブン-イレブンはたとえばおにぎり一つでも品質にこだわって改良の努力を続けた結果、他のコンビニと大きな差がついた。いいものを提供する努力がお店のブランドを高めている。
 ユニクロからは工場から直接店舗に商品を供給することによって、中間マージンを削って低価格を実現することを学んだ。
 ディズニーランドとロードストロームからは接客姿勢を学んだ。すし銚子丸が自分たちを銚子丸一座の団員と見なしているのは、その成果である。
 そして中華も和食も寿司も提供するという姿勢を改めて、社名も㈱銚子丸と変えて、グルメ回転寿司に専念した。それが成功を収め、一都三県に七十三店舗を展開するまでになったのだ。
「私は全国展開を考えていません」と堀地社長。「私の目が届く範囲の首都圏で二百店舗展開しようと思っています。フランチャイズはやりません。これをやると、個々の経営者はどうしても利益追求に走ってしまい、私が作ろうとしているすし銚子丸とは似ても似つかないものになりかねません。お客様の喜びを先に利益は後にという哲学はなかなか学べるものではありませんから」
 それだけ自分がつかんだ経営哲学に自信があるのだ。

 経営者のあるべき姿と安岡哲学
 生き馬の目を抜くような実業の世界で、生き延びなければならないからこそ、堀地社長の学びも真剣だ。そんな堀地社長を『知名と立命』(プレジデント社)の次の一節は励ました。
「牢獄へ入れられても島流しにあっても、悠然としてふだんと変わらないようになるのには、よほど自分を作らなければいけない。そういう意味では、不遇・逆境というものは、自己を練るもっともいいときだ。心がけがよければ、牢獄のなかでもずいぶん学問はできる」
 有力な取引先が倒産して大変な額の負債を負ってしまうなど、予想もしなかったことが起きるのがビジネスの世界だが、そんなとき社長があわてふためいてしまったら、社員はいっそう動揺してしまう。修行や鍛錬は自分のためだけではないのだ。
「安岡先生は『論語の活学』(プレジデント社)で、植木を育てるコツになぞらえて、人間のあり方を説いておられました。これは非常にわかりやすくて参考になりました。
『木の五衰といって、植木栽培の哲学がある。幸田露伴も『洗心廣録』という本の中で面白く説いておりますが、木の衰える原因を五つ挙げて、いましめておるわけです。
まず衰えの始まりは懐の蒸れ。枝葉が繁茂すると、日当りや風通しが悪くなって、懐が蒸れる。懐が蒸れると、どうしても虫がつく。そうして木が弱って伸びが止まる。これを梢止まりという。
伸びが止まると、根上がり、裾上がりといって根が地表へ出て来る。そうなると必ずてっぺんから枯れ始める。いわゆる梢枯れというものです。
これが五衰でありますが、中でも根上がり、裾上がりが一番いけない。そこで土をかけたりして、出きるだけ根が深くなるようにしてやるわけです。この現象は花の咲く木も、実の成る木もみな同じことでありますが、特に人間から言って名木というような木ほど陥りやすいものである』」
安岡先生はその植木栽培のコツから、次のような人間学を展開しておられた。
「人間も木と同じですね。少し財産だの、地位だの、名誉だの、というようなものが出来て社会的存在が聞こえてくると、懐の蒸れといっしょで、いい気になって真理を聞かなくなる、道を学ばなくなる。つまり風通しや日当りが悪くなるわけです。
 よく言われることですが、『名士というものは名士になるまでが名士であって、名士になるにしたがって迷士になる』などと申しますが、本当にそうですね。
 そうなるといろいろ虫に喰われてつまらぬ事件などを起こし、意外に早く進歩が止まって、やがて根が浮き上がり、最後には枯れてしまう。実業家と称する者を見ても、政治家と称する者を見ても、あるいは学者だの芸術家と称する者を見ても、およそ名士というようなものはそういうものであります」(同掲書)
 堀地社長はこれが安岡先生の本の特徴で、あらゆることから人間のあり方を学ぼうとされていると言う。
「安岡先生はこの章の最後にこう述べておられます。
『本当の偉人というものは、真人というものは、名誉や権勢の人の中にはなくて、かえって無名の人の中にある。したがって人間は権勢よりももっと本当のもの、真実のものを求めて、それで偉くならなければならないのであります』
 私は反省しきりでした。経営は経営者にとって、仕事は社員にとって、人格練磨に直結しているんですね。一番の基本を見失うことなく、すし銚子丸を作っていくことに使命感すら感じています」
 かくして堀地社長は安岡先生の書物をひも解くのが楽しくなった。『朝の論語』(明徳出版社)の次のような一節を読むとホッとし、肩の力みが消えるという。
「人間の諸内容、もろもろの徳が和合してまいりますと、宇宙も生命人格も一つのリズム・風韻をなしてきます。人間そのもの、人格自体がどこか音楽的なものになってきます。これを風格・風韻・韻致などと称します。人格ができてきますと、どこかしっとりと落ち着いて、和らかく、なごやかに、声もどことなく含み、潤い、響きがあって、その人全体がリズミカルになるものです」
 最後にお勧めの本を聞くと、すかさず『王陽明研究』(明徳出版社)を挙げられた。
「この本は安岡先生の原点で、中でもこの一節は含蓄が深い。
『偽るとは誰を偽るのでもない。自己を偽るのである。これに反して自己を偽らぬこと、真に内面的必然に率うこと、これを誠という』
 凜としていますね。私もかくありたいと思います」
 孔子は道を楽しんだという。堀地社長は今なおビジネスの最前線に立ち、そのビジネスに道を楽しんでおられるような余裕を見受けたのだった。