自然農に生き、日本農士学校の再建を夢見る今野時雄さん

すわ! 『沈黙の春』の再来か
東京・池袋から北へ一時間ほど行った所にある埼玉県小川町で、四群のニホンミツバチが死んだ! 
「ひょっとするとこれは『沈黙の春』の再来ではないか」
同町で、不耕起、無肥料、完全無農薬で自然農を営んでいる今野時雄さんたちは色めきたった。従来の有機リン系農薬にとって変わり、現行の主農薬となりつつあるネオニコチノイド系農薬の被害ではないかと危惧したのだ。
実は五年前、岩手県を初め、各県の自治体でミツバチの大量死が起きていた。日本在来種みつばちの会の会長を務める藤原誠太さん(盛岡市の藤原養蜂場長)が死蜂を検査機関に分析依頼すると、〇・〇21PPMのクロチアニジンが検出された。その後も各地でミツバチの大量死が続出し、大騒ぎとなっている。
人類は食糧の大半を植物に依存している。そして植物の受粉の八〇%はミツバチが行なっている。従ってミツバチの大量死は農業に深刻な打撃を与える。アメリカでも四分の一のミツバチが巣箱から逃げ去ったり、死滅する現象(蜂群崩壊症候群)が起きており、ミツバチ不足は世界的な問題になっている。
実はこの問題はかつて大問題となり完全禁止となったDDT汚染と直結しているのだ。
一九四三年に実用化されたDDTは害虫の駆除能力が高いことから大量に空中散布され、「夢の化学物質」と称讃されて、現代農業は大きな恩恵を受けてきた。そのため一九四八年、DDTの発明者パウル・ミュラーはノーベル賞を授与されたほどだった。
ところが米国の生物学者レイチェル・カーソンが『沈黙の春』(新潮社)で、DDTの空中散布によって生態系に異変が起き、昆虫が死滅していることから、それを餌にしている小鳥のさえずりが春になっても聞こえてこないと、DDT使用に警鐘を鳴らした。それによってようやくDDTの深刻な被害に目覚めたケネディ大統領(当時)は殺虫剤の研究を命じ、DDTを全面的に禁止したのだった。

ネオニコチノイド系農薬の恐怖
 危機感を抱いた今野さんは、環境・歴史・文明の専門誌「環」(二〇一〇年夏季号 第42巻)に、「『沈黙の春』の再来か――ネオニコチノイド系農薬の恐怖」と題して論文を発表した。そのセンセーショナルな内容が人々の注目を集め、俄然話題となった。そのメッセージを要約するとこうだ。
「一九九〇年代に入って有機リン系農薬にとって変わりつつあるのがネオニコチノイド系農薬だ。『害虫は駆除するけれども、体にはやさしい』という歌い文句だ。しかし、この農薬は浸透性が強く、無臭で水溶性であるため、河川の水に溶けやすい。そのため、水生動物が死滅するだけでなく、河川の水を飲んだミツバチも脳神経をやられて死滅することになる。作物の根から養分とともに吸収されたネオニコチノイド系農薬は、実や葉に残留するため、それをかじった昆虫は死滅する。そうした理由から、ミツバチの大量死はこのネオニコチノイド系農薬が原因ではないかと推量する。
体重比較で換算すると地中の生物の八〇%にあたるミミズや、土壌細菌や微生物が死滅すると、土壌が死んでしまう。土壌が死ぬと農業はますます化学肥料に頼らざるを得なくなり、悪循環に陥ってしまう。
ネオニコチノイド系農薬の地下への浸透は七日間で一〇五センチ、残留農薬の半減期は四か月から一年なので、地下水や河川は確実に汚染されてしまう。最近、トンボやアメンボやミズスマシやホタル、それに蛙やイモリも見かけなくなったが、これは生態系に重大な異変が起きている証拠だ。だから『沈黙の春』の再来ではないのかと危惧するのだ」
今野さんの問題提起は私たちがうすうす気付いていることの真相を明らかにしてくれる。
「秋になるとどこの田んぼでもスズメを追い散らすガス鉄砲が鳴り響いたものだが、それがトンと聞かれなくなった。これはスズメが農薬を浴びた昆虫を食べて中毒死しているからか、あるいは昆虫そのものが減ってしまい、それを餌としているから餓死しているかに違いない。
 ネオニコチノイド系農薬は水溶性なので、スズメは稲に吸収され、残留農薬が蓄積されたモミを食べて死んだのではないか。キジバトの主食も落ち穂なので、最近キジバトを見かけなくなったのもこの農薬の中毒死ではないか。
 昔は磯にはフナムシが一杯いたのに、最近はそれが減っているのも、ネオニコチノイド系農薬の空中散布が原因ではないだろうか。ネオニコチノイド系農薬の危険性に気づいた欧州では、オランダが二〇〇〇年、仏が二〇〇六年、ドイツ、イタリアは二〇〇八年に禁止している。
ところがまだ日本では何の規制もされていない。これでは農水省役人の天下り先が農薬メーカーだからと揶揄されてもしかたがない」
 今野さんの告発論文は歯に衣を着せず、鋭かった。現に農業を営んでいる人からの告発なので、人々の注目を集めたのだ。

なぜ自然農に目覚めたのか
今野さんはパナソニックの情報通信機器を企業に販売する会社を経営していた。しかし早くから農業に関心を持ち、第二の人生は農業をしようと考えた。そして福岡正信さんの『ワラ一本の革命』(春秋社)を読み、自然農法に関心を持つようになった。また同じ農業観に立つ奈良の川口由一さんや「奇跡のりんご」で有名になった青森の木村秋則さんに共鳴し、草や虫や土中の微生物を大切にする不耕起農業をやり出した。
その実践を踏まえて、今野さんは自然農の良さをこう説明する。
「私は実践してみて、福岡さんや川口さん、それに木村さんたちの主張に一つひとつ納得できました。自然界を見ると、たくさんのいのちが豊かに栄えている場はどこも耕していませんよね。休耕田にうっそうとした草が生えているのは、それだけ草木が繁茂できる舞台になっているからです。
 これは耕やさないで自然に任せているから、豊かな土壌になったのだと考えられませんか。自然界の草木たちは生きるに必要な養分を空気中から集め、太陽の恵みを存分に受けて繁茂しているんです。
 耕すということは、微生物や土壌細菌が住んでいる家をガタガタに壊していることになります。耕作と農薬によって彼らの活動を断ち切っているから土が固くなるのです。土が固くなるからまた耕し、化学肥料をやり、微生物や土壌細菌を死滅させるから、土壌はますますやせるんです。だからまた化学肥料に頼るという悪循環をくり返しています。
 この悪循環を断ち切り、微生物や土壌細菌が活動するのを辛抱強く待ったら、必ず土は復活し、フカフカになるのです。
 木村さんは『畑で毎年大豆と麦を五年間育てれば、地力が回復するよ』と言いました。大豆の根にある根粒細菌によって空気中の窒素が土中に固定され、地力がつくからです。
 ちなみにライ麦は支根の総数が約千三百万本あり、それをつなぐと六百キロ、ほぼ北極と南極をつなぐ距離に匹敵します。そこには微細な毛根が百四十億本生えています。ライ麦の根が枯れて土に返るとそこが空気孔となり、フカフカの土壌になっていきます。木村さんはそういう例をあげて、自然の知恵を活用しない手はないと言います。
 小さじ一杯の土に一億個から十億個のいのちが棲息しているといわれます。これらが出す糞や死骸が天然の養分になります。田畑を一年休ませて草茫々にしておくと、翌年作物が育つのはこの理由からです」
 表土が一センチできるのに一千年かかるといわれるが、人間はその自然の営みを大切にしなければと今野さんは説く。そこには大自然の前にあくまでも謙虚な人の姿があった。

金儲けを採って大切なものを犠牲にするか
「しかし、自然農が今ひとつ広がっていかないのは、そこに何か問題があるからではないでしょうか」
と問うと、今野さんは「それは価値観の問題と深く関わっています」と説明した。
「自然農は化学肥料を逐使する現行農法に比べて、反収(十アールあたりの収穫量)が三分の一から半分しかありません。化学肥料を施せば二毛作ができますが、不耕起の自然農では四分の一毛作しかできません。だから農家は『効率が悪い』だの、『儲からない。それじゃ食えない』などと言って敬遠します。
 私は最初の数年はまったく収穫はありませんでした。でも不耕起、無肥料の田畑で大豆と麦を連作し、草を茫々にして、地味が肥えるのをジッと待ちました。収入がないんですから、辛い日々でした。しかし五年目に入った頃から何か変化が現れ、収穫できるようになってきました。
最初は十アールの田畑でしたが、今では六ヘクタールになりました。だから急いではいけないのです。微生物や土壌細菌の働きを信じて、ジッと待つのです。彼らと共生するのです。そこからみんなが喜べる新しい世界が生まれて来るのです」
 それに自然農を営んでいると、多くの生命から喜びを与えられ、彼らと共生しようという思いが強くなってくるという。
「一回でも農薬を散布すると、葉面のクチクラ層が破壊されてしまうから、ずっと散布し続けなければならなくなるんです。化学肥料も耕作機械も要ります。効率や金儲けを優先すると、支払わなければならない代価が致命的になるんです。
 ところが自然農を営んでいると、お金はかかりません。畑を歩くと無数の昆虫や小動物が一斉に飛び出すので、思わず歓喜の声をあげてしまいます。そこには多くの生命が躍動しており、癒しがあり、詩があり、ファンタジーがあります。鳥がさえずり、ニワトリが鳴き、犬が吠えて、小川のせせらぎが聞こえてきて、人間に安らぎを与えてくれます。
質素ではあっても、大地に足がついた健康な生活があるのです。金銭には変えられない豊かな精神生活があります。だから私は自然農のとりこになってしまいました」
と今野さんは屈託がない。この屈託のなさも自然農的生活からいただいたものだという。そこには大自然の前にあくまでも謙虚である人の姿があった。

日本農士学校の再建を願って
不耕起、無肥料、無農薬の自然農に精力的に取り組む今野さんは、農業だけに留まらず、教育の分野にも眼を向ける。
「古来から人間教育は、文武両道が必要だと言いますね。そこには経験に裏打ちされた、人間性への深い洞察があるように思います」
今野さんは健全な精神を養うためには、学問を通して聖賢の学を学び、宇宙の叡智をつかむ必要があると考えるようになった。
その意を強くしたのは、子供たちへの論語教育で知られた伊丹市の丹養塾幼稚園の吉田良治園長(故人)の紹介で、埼玉県嵐山町にある郷学研修所が主催する安岡教学セミナーに参加したことからだ。そこで農業と古典教育による人間教育を目指して、日本農士学校を運営された安岡正篤先生を知り、その教学を学ぶようになった。
安岡先生の著書を読めば読むほど、その思想に傾倒し、今野さんも自然農的生活と人間学教育で人材の育成を志すようになった。こうして平成二十年(二〇〇八)年四月一日、数名の塾生とともに『論語』の素読を始めた。
素読の冒頭では高らかに「継続は力なり。読書百遍意自ずから通ず」と唱和する。文言の解釈はせず、ただ素読して肌に響きを感じさせた。頭でっかちで理屈好きな現代人はすぐ文言の解釈に走ろうとするが、それを厳に戒めて、ひたすら素読に徹した。
不思議なもので、何百回も素読をくり返しているとソラで暗記してしまい、農作業をやっていると、文言が浮かんできて、「ああ、そう言うことか!」と意味が通じるのだ。古典が頭ではなく、体にしみ込んでくると感じるのはこうした時だ。
素読は『論語』から始めて、順次『大学』『中庸』『孝経』『教育勅語』『般若心経』へと広がっていった。
五名の塾生と素読を始めたとき、今野さんは安岡先生が昭和六(一九三一)年、同地に設立された「日本農士学校」の再建を夢見た。だからこの私塾に「私塾日本農士学校」と名づけ、思いを込めて再建趣意書を書き上げた。関係各位に図っていたら、議論が空回りするばかりで、一向に前に進まない懸念がある。そこでとにもかくにも行動を起こそうと素読を始めたのである。
次に今野さんが書き上げた趣意書を掲げよう。

  私塾日本農士学校創立理念
言うまでもないが、人間にとって教育ほど大切なものはない。国家の運命も教育如何にある。我々は、教育の荒廃を憂えるものである。その原因は科学教育の偏りにあり、道徳教育を中心とした教学の軽視にある。倫理観の喪失、道徳の退廃はその極に達している感が否めない。私利私欲に堕した「偽」の世界は、商品の生産・流通のみならず、農業を始めあらゆる分野で蔓延している。また、国の生命線である諸問題が無責任な未解決状態に甘んじている。凜とした国、それは凜とした国民に依らねばならない。
教学は、人の心の真実を探求する普遍的な学問である。身を修め、志を立て、信念をもって道を歩まんとする質実剛健な青少年を育てる人間活学である。
自然農は、自然の営み生命の巡りに添った農の営みであり、耕さず草々や虫たちを敵としない天地の造化に委た究極の農的生活である。そこには「偽」がない。社稷は無代の天徳である。故に我々は天地の化育に参賛し、身心ともに喜び、生かされていることに気付き、敬と感謝の念に包まれる。
天徳には人徳をもって報いねばならない。自然は至高の尊師である。よって、農作業は学びであり奉仕となる。
我々は念をここに潜めて、世の指導的人物たるには如何なる学問修行に励むべきかを研究し、中江藤樹や二宮尊徳、碩学安岡正篤らの道統を継ぎ、自然農生活と教学に特化した知行合一を希求し、強恕な人傑を育てるべく、茲に地を卜して日本農士学校を創立し、素志の達成に努力するものである。
本校は、空無我の真心からなされる完全なる慈善である三輪空施(布施)によって運営・維持される。

 実に高潔な宣言である。その言や良し! 今野さんの悲願が成就することを願って止まない。

 二次産品で産業の育成を!
 今野さんは農作物や稲の収穫だけで終わりたくないと考え、その収穫物から味噌、醤油、豆腐、納豆、梅干、天然酵母パン、生ラーメン、生うどん、蜂蜜などの加工品を作り出している。それは自給自足するだけではなく、食品工場などで雇用を創出し、幸福度の高いコミュニティ(新自治)をつくりたいという思いがあるからである。
 それにはモデルがある。
明治時代の初期、二宮尊徳の思想で静岡県の寒村に過ぎなかった庵原村(現・静岡市)が立ち直り、豊かに農産品を産み出すようになっただけではなく、製メン、製パン、搾油、醤油醸造、精糖、および酪農製品を産み出すようになり、豊かな村に生まれ変わった。
 庵原村の復興については、不良少年を農的生活で更正させた東京の巣鴨家庭学校や北海道家庭学校を創立し、社会福祉の先駆者となった留岡幸助が、明治三十八(一九〇五)年、この庵原村で「農業と二宮尊徳」と題して講演を行なっているが、この講演はものの見事に庵原村復興運動の本質を突いていた。
今野さんは偶然、その講演録を入手し、わが意を強くした。農業は凛とした精神に裏打ちされてこそ、真価を発揮するのだ。少し長いが引用しよう。

  抑も農業なる物は天然自然を相手にするものであるから嘘偽りがあってはならぬ。二宮先生は、人間というものは真面目でなければならぬということを頻りに説かれた。そして、「もし、一人の心の田地を開拓出来れば、百万町の荒蕪地があっても、最早憂うるに足らない」と云われた。
私の浅い研究から申し上げますれば、二宮先生は土地を拓くのは第二の目的であった。第一の目的は人間の心を啓くということである。報徳というものは人間の心を清浄潔白にするのが趣意である。天徳に報いるのが報徳である。
その天徳とは何か。五穀でも魚類でも我々が是を得るのは天の賜である。初鯛一尾が二円するとせば、これを本当の値打ちであると思うのは間違いである。その真価は百万両するかも知れない。二円というのは漁夫が海へ出て獲る処の労銀である。鯛は天から無料で貰って居る。
米一石が十三円とするなれば、それは米の真価ではない。農夫が田へ出て作り上げた労銀である。米一石の真価は百万円するかも知れない。それを我々は天から無代で貰って居る。
我々は天と共に仕事をしているのである。天は其の仕事の幾部分を我々に託したのである。而して我々は衣食住の大部分を無代価で天より貰って居るのである。我々は其様にして天の徳を蒙って居る。故に我々は此の天の徳に報いるに人間の徳を以てしなければならないというので報徳教というものが起こってきた。
報徳事業のなかで、農業が一番良いもので、また貴いものである。なぜ貴いかというと大小便や土壌を取り扱うのが貴いのではなく、其の土の中に熱血赤誠を注ぎ込んで居るからである。真面目が貴いのである。
其の故に、同じ農業でも算盤玉ばかりで凡てを弾き出すのは、報徳の趣旨に適わないのである。己の誠を田面に移せという諺があるが、赤誠という肥料を田畝に施す。そうすると多くの収穫を為すことが出来る。是が報徳の事業であります。報徳の事業は物質的事業であるが、ずっと奥に這入ると、精神的事業で御座ります。

  今野さんは明治時代、庵原村で達成されたことをここで実現し、そのノウハウを全国に展開し、ひいては「国家百年の計」につなげたいと考えている。
溌剌とした精神の重要さを自覚した今野さんは、ますます古典の素読に力を入れている。この改革運動は一隅を照らし出すだけのささやかな運動で終わるかもしれない。しかし、口先だけの評論家的人間が多い現代にあって、知行合一の猶興の士でありたいと思う。
今野さんは三年間の試行期間を経て確信を持ったので、いよいよ来年(平成二十三年)私塾日本農士学校塾生の公募を行い、新たに十名を補充しようとしている。
  当年六十九歳。まだまだ気力に富んでいる今野さんにモットーを聞いた。するとすかさず今野さんの口を突いて出たのは松下幸之助の言葉だった。
松下は経営者たちから成功の秘訣を訊かれて、ひと言こうつぶやいたという。
「思うことやなあ」
  今野さんは日本農士学校の復興を願って行動を興したが、その悲願を成就するため思い続けたいと言う。夢を語る今野さんは青年のように熱かった。