国鉄の労働運動の精神的支柱を『言志四録』に求めた窪田哲夫さん

月刊 「関西師友」 2月号・3月号

日本の存亡を賭けた国鉄改革
戦後の日本を振り返ると、乗り越えなければならないいくつかの大きな節目があった。その1が敗戦後の混乱の中で、自由主義陣営、共産主義陣営いずれに属するかを決めなければならなかったことで、それをめぐって国論が二分した。
その2が炭坑の衰退に伴うエネルギー政策の転換が余儀なくされたことで、炭坑の労働争議などは日本を震撼させた。
その3が37兆円もの累積赤字を抱え、日本そのものを崩壊させかねないほどになってしまった国鉄の再建問題だ。
この負債がどの程度の額かというと、昭和58年(1983)当時、国家破綻に追い込まれたメキシコやブラジルの累積債務が2千億ドル(約27兆円)で、それを10兆円も上回っていた。国鉄の年間売り上げは3兆1千億円なのに、その数十倍もの赤字を抱えており、国営公社だから存続しているものの、民間企業ならとうの昔に倒産していた。
というのも国鉄は国営企業なので経営は国会に縛られており、加えて地方自治体や地元住民の意を受けた国会議員が干渉してきて、経営に自由裁量がなかったことが大きい。それに階級闘争至上主義に立つ総評系の国鉄労働組合(国労)、動力車労働組合(動労)を抱えた労使関係は最悪だった。国鉄が破産すれば、22兆円もの国鉄債務は返済不能となり、国家経済に与える影響は甚大なものがあった。
昭和39年(1964)、東海道新幹線が開通した年といえば、国鉄の歴史の一ページを飾る輝かしい年のはずだが、国鉄はすでにこの年、単年度赤字に転落していた。日本は高度成長期に入り、高速道路も格段に整備され、自動車やトラック輸送が発達した。後に2兆円産業に発展する宅配便は急速に伸びており、国鉄貨物部門の大きな脅威になりつつあったが、国鉄は時代の変化についていけず、大幅な赤字を垂れ流していたのだ。
これではいけないと国鉄の経営陣は近代化、合理化、省力化を図って生産性向上運動を始めたが、階級闘争至上主義に立つ国労、動労は、これは形を変えた労働強化だとして合理化反対闘争を展開した。年中無法なストライキが行われ、お客様への対応が悪く、管理職を吊るしあげるなど、職場内の暴力事件も多発し、職場は荒れに荒れていた。
自浄能力を失っていた国鉄に我慢しきれず、とうとう政府が国鉄改革に乗り出し、昭和56年(1983)、土光敏夫経団連会長が率いる第二次臨時行政調査会は、第2特別部会と第3特別部会で国鉄再建を論議した。そして翌年7月に出された第3次答申で、分割民営化が打ち出された。
土光会長はそれまで第2臨調で第3部会長を務めていた亀井正夫住友電工会長に、第3次答申を実現するための国鉄再建管理委員会委員長を頼んだ。
当時35万6千人の職員を抱えていた国鉄が私鉄並みの生産性を発揮するためには、18万3千人体制にしなければならない。そのためには新会社に何万人か抱え、なおかつ希望退職等の施策をして約9万人の雇用対策をしなければならない。
加えて亀井委員長は、
「階級闘争至上主義に立っているような国労と動労を解体しなければダメだ。戦後の左翼的な労働運動史の終焉を国鉄改革によってめざす」
と明言していたので、国労、動労や総評(日本労働組合総評議会)、その支持政党である社会党、全国鉄動力車労働組合(全動労)やその支持政党である共産党は、「亀井は首切りに来た」と猛反発した。亀井委員長は国会の予算委員会や運輸委員会に36回出て事情を説明したが、野党の抵抗は強く、脅迫状や脅迫電話は引きも切らなかった。
国鉄内部では7つあった労働組合が組織を食い合って熾烈な闘争をくり返し、死者まで出すほどになっていた。それでも亀井委員長は臆することなく、
「人員がだぶついて大赤字になっているのだから、人員を削減し、広域配置転換はする」
と信念を貫き、
「しかしながら一人も路頭に迷う者は出さない」
と明言して、全国の経営者団体や都道府県知事、公共部門等に国鉄職員の再雇用を頼んで歩いた。そして昭和62年(1987)4月1日、国鉄は地域別旅客6社と貨物部門のJR貨物に分割民営化された。
亀井委員長を中心に全委員たちの奮闘に応えて国鉄の内部から分割民営化を推進していったのが、「国鉄改革の志士」といわれたJR西日本の井手正敬元社長、JR東海の葛西敬之元社長、JR東日本の松田昌士元社長などである。合理化、効率化を頑として拒否する国労、動労、改革反対をする政治勢力を相手にして闘い、動労に戦略的転換を迫り、その壁に大きな穴を開け、あらゆる手を尽くし新生JRを創りあげていった。

国鉄の労働運動改革に挺身して
そんな頃、国鉄の末端にあって国鉄の労働運動の正常化に腐心している男があった。同盟系の鉄道労働組合(鉄労)のオルグ(本部から派遣されて、組織の拡大や組合員の教育を担当する人)窪田哲夫さんである。
窪田さんは昭和41年(1966)、慶應義塾で夜働きながら拓殖大学に通ううちに日米安保反対闘争を含む大学紛争に遭遇したが、日共系、反日共系双方の学生運動に批判的だった。そんなある日、鉄労を母体として民社党代議士になっていた故中村正雄氏(民社党副中央執行委員長)に紹介され、昭和45年(1970)、鉄労に入った。そして国労、動労に対抗し、全国オルグとして文字通り東奔西走した。国鉄が分割民営化された昭和62年(1987)は、鉄労の副書記長として迎えた。
現在、㈱ジェイアール東海エージェンシー常務取締役を務めている窪田さんは当時を振り返って語った。
「私が鉄労運動に参加したころは国労の全盛時代で、国労、動労の組織員数はそれぞれ24万人、4万5千人、一方鉄労は4万6千人でした。本社、管理局幹部は強い国労のご機嫌をうかがって引き回されていました。鉄労は健全で、自由にして民主的な労働運動を目ざしているのに、世間やマスコミにも無視され、孤立無援の状態でした。
 管理者の中には、国労、動労から原潜寄港阻止、日米安保反対など職場には全然関係ない政治的要求や、シャンプーやちり紙よこせなど1千項目に及ぶ職場要求を突き付けられてノイローゼになり、自殺に追い込まれる人もあったほどです。
 鉄労は国労や動労から御用組合とか第2組合とののしられ、勤務が終わって風呂に入っている間に衣服に水をかけられたり、寒中に何時間も執拗なつるし上げに合ったりしました。暴行を受けてあばら骨を折り、意識不明の重体になった人もありました。夜中に自宅にサーチライトを当てられ、クラクションを鳴らして家族を苦しめられたりもしました。私たちが告訴した事件だけで3百件をくだりません。
私たちの子供たちも『やあーい、2組の子、ニクメ、ニクメ』と嘲笑され、馬鹿にされました。職場に鉄労の組合員が数名しかいないため、村八分に遭って腰砕けになりそうな組合員を、励ましてまわりました。
 当時、私は鉄労の中で教育担当の中央執行委員をしており、御殿場や伊豆高原、岡山友愛の丘、北海道友愛、九州三学舎などで、年30回あまり研修会をやりました。善良な職員であるだけでは駄目だと、街宣車に乗って、マイクを握って街頭演説をする訓練もし、戦う闘志を養成しました。そのかたわらで現場を回って勉強会もしていました」。
窪田さんは夜学の出身で苦労しているので、決して上から目線で人を見ることをしない。それで何でも相談できて、面倒見のいいオルグだとみんなから慕われていたので、国労、動労は目の仇にし、しばしば暴力沙汰が起き、何度も危ない目に遭っていた。
「窪田、お前は粛清対象の4番目にあがっているんだぞ。夜道は気をつけて歩け!」
 と脅されもした。それだけに信念がなければやっていけなかった。 

 精神的支柱となった『言志四録』
そんな折、千葉県舟橋市立二宮中学校の越川春樹元校長が書いた『人間学言志録』(以文社)を読んで感銘を受けた。越川校長は生徒の大半が進学組で少数の就職組が寂しい思いをしているのを見て、それらの就職組を誘って、古典から人間的素養を学ぼうと、学校内に懐徳塾を開講した。それが話題を呼び、教職員や保護者も参加するようになり、日教組に支配されていた二宮中学の改革に発展していった。
越川校長の「教育の場を職場闘争の場にすべきではない」という信念が多くの教師に支持されるようになり、二宮中学の職員組合は集団脱退した。しかもその動きが他の小中学校に広がり始めたのだ。
危機感を抱いた日教組や社会党、共産党は電柱に「反動校長を追放しろ」というビラを貼り、街宣車を繰り出して、中学校の側でがなりたてた。全組織をあげてのすさまじい迫害となった。
しかし越川校長は一歩も引くことなく、校長室の壁に幕末の儒学者佐藤一斎が書いた『言志四録』の一節を大書して、理不尽な抗議行動に毅然と耐えた。
「当今の毀誉は懼るるに足らず。後世の毀誉は懼るべし。一身の得喪は慮るに足らず。子孫の得喪は慮るべし」
(今現在、自分に向けられている褒めたりけなしたりする言葉は恐れるに足らない。しかし自分が死んだ後、あの人の先祖はああだったこうだったと子孫が謗られることになるのは恐れなければならない。
 今現在、自分が得たり失ったりするのは、ある意味で自業自得ともいえるから一向に気にしない。しかし子孫が私ゆえにものを失うことは考えなければならない)
 越川校長はこの天下分け目の戦いに勝ち、日教組を集団脱退する学校が増えていった。
 国鉄で職場の民主化において同じような立場にあった窪田さんは大いに共感した。越川校長は『言志四録』の一節「士はまさに己れにあるものを恃むべし。動転境地極大の事業も、またすべて一己より締造す」(志に生きる男子は、己れの中にある真の自己を頼みとすべきである。天を動かし、地を驚かすような大事業も、すべて己れ自身からつくりだされるものである)を解説して、同書に次のように書いていた。
「士は説文学的にいえば十と一の会意文字である。十なる欲求群を一の志によって統括する意で、その志によって統括された人格生活者を士というのである。すなわち志に生きる男子のことである。
そういう士君子というものは常に己れの中にある一己――良心を恃みとして生きる者である。動転境地の大事業もこの真の自己――一己が主体で成されるというのである」
どのページも刮目する文章に満ちており、窪田さんは夜が更けるのも忘れて読みふけった。それからは次から次に『言志四録』に関する本を読みあさり、これを精神的支柱にしようと思うようになった。

佐藤一斎と『言志四録』とは
佐藤一斎は幕府官学の総本山で、湯島にあった
昌平黌(昌平坂学問所)を主宰した儒官である。この昌平黌が後に大学南校となり、東京帝国大学に発展していくので、いわば東京帝大総長のような地位にあった人である。
この湯島の聖堂は徳川3百年のうち、一斎の時代が最も栄えたといわれ、全国230有余あった藩校で優秀な成績を収めた青年武士は江戸に遊学し、さらに一斎の下で勉学に励んだ。従って幕末の青年武士の中で、優秀な青年武士であればあるほど一斎の教えを受けている。
門下生には佐久間象山、山田方谷、渡辺崋山などがあり、佐久間象山の弟子に勝海舟、橋本左内、吉田松陰、坂本竜馬、高杉晋作、小林虎三郎などがおり、山田方谷の門から河井継之助が出ている。また水戸の藤田東湖とも親交があり、大坂の大塩中斎との間には往復書簡がある。西郷隆盛は遠島中に『言志四録』から101条を書き写して『西郷南洲手抄言志録』を編み、修行の糧とした。熊本藩が生んだ英傑横井小楠も佐藤一斎の影響を受けている。
それら若い俊秀を教えるにつれ、佐藤一斎はつくづく「志が人生を決める」と確信し、志を養うために『言志録』『言志後録』『言志晩録』『言志耋録』を書いた。これが国難に遭遇した幕末、明治維新の時代に、多くの人々の心を奮い立たせた。この四冊を合わせて『言志四録』と呼ぶ。
越川校長は『言志四録』をほとばしるような思いをもって解説していた。
「真の男子――士というものは、人に頼らず、主体性をもって自ら信じることを堂々と行動してくところに貴さがある。権勢のあるものにこびへつらって、自分の栄達や利益を求めるような考えを起こすべきではない」
「独立自信とは自ら信じることを堂々と行うことであるが、それは独善であってはならない。理想・見識に照らして、自らの良心にやましくないことを『千万人といえども我ゆかん』というのが独立自信である。この心なくして、ただ権威にこびへつらってゆく人間は、士とはいえないのである」
 こうした言葉に窪田さんは奮い立った。一高校長、東京帝国大学教授、国際連盟次長などを歴任し、名著『武士道』で明治の思想界をリードした新渡戸稲造も『言志四録』を取りあげて絶賛していた。
 そこで窪田さんは鉄労の組合員への講話の中でしばしば佐藤一斎の『言志四録』に言及したが、組合員には難しくてわからなかった。そこで五七五の俳句調に直して語った。例えば、
「わが身より子孫の得喪考えよ!」
「信用を重ねることが事を成す!」
「独り行く、自分の影に恥じないか!」
 などである。それで、窪田さんの説明はわかりやすい! と評判になり、教化の実をあげた。
 真珠湾攻撃を指揮した山本五十六海軍大将は窪田さんと同じ長岡の出身で、窪田さんが尊敬する人物の一人である。その山本が、

やって見せ言って聞かせてさせてみて
    褒めてやらねば人は動かじ

 と言い、見事に人心をつかんでいた。
窪田さんもそれをモットーとして率先して実践したので、鉄労組合員は信頼してついていった。職場の主流は国労、動労で、その中で鉄労の主張を貫くことは自殺にも等しいことだが、組織率はじりじりと変わっていき、全国各地で逆転していった。
窪田さんのもう1つの役割はマスコミに働きかけ、適正な報道をしてもらうことだ。そのため学者、言論人とも接触した。また同盟系労組の造船、全繊、自動車、電力、全郵政、それ以外の電機、鉄鋼など、多くの民間労組との提携を模索した。だから自然に各労組や青年会議所などでも講演することが増えていった。    

安岡正篤先生との出会い
ところで不思議なもので、窪田さんに『言志四録』の魅力を教えてくれた越川校長は日本農士学校で安岡正篤先生から直接学びを受けている。学生時代から優秀な学生で、卒業後もしばしば安岡先生を小石川の自宅に訪ねて近況を報告していた。
そういう親しい交わりだったから安岡先生は越川校長が退職するに当たって開かれた退職慰労祝賀会に駆けつけ、次のような祝辞を述べた。
「現役の間は志があっても世間の俗事に煩わされるあまり、志ある人ほど、現実の多忙な仕事に終われて、心ならずも年をとりやすい。そこで志ある人は、ある時期が来ると、一応現職を去って少しく自由を回復して、今まで思いながら遂げられなかった真実の生活のため多くの努力をしようとするものです。
これがすなわち道に入る、入道ということであります。隠居は入道のための隠居であり、入道すればこそ隠居に意味があります。
 越川君はある意味において教育界から隠居するわけですが、同時に入道するわけでもあります。これでまた大いに新たな内心の満足を伴う活動・生活をされることになり、ここに本当の意義があるように思います。これが本来の素心であり、平生からの志であります。そういう意味から、この退任は祝賀すべきことであります」
 越川さんは退職後も千葉県匝瑳郡光町(現山武郡横芝光町)の自宅で、現役時代から続けていた古典の勉強会・懐徳塾を続けた。月1回の集まりには毎回30名あまりが集まって聖賢の叡智を学んだ。
 窪田さんが驚いたのは、その越川元校長も、国鉄再建に取り組んでいる亀井委員長も井手社長も安岡先生の熱心な門下生だったことだ。みんな安岡先生に気骨を与えられていた。だから世の中は不思議な糸でつながっていると思わざるを得なかった。

 郷土の偉人河井継之助のこと
 実は窪田さんは拓殖大学の先輩から勧められて、安岡先生が主宰する全国師友協会の機関誌「師と友」を講読していた。ところが昭和52年(1977)11月号(333号)を受け取ってみると、安岡先生が越後長岡藩の筆頭家老河井継之助について講演された内容が載った。窪田さんは幼少年期の15年間を長岡で過ごしていることもあって、司馬遼太郎が『峠』の主人公として描いた河井継之助にほれ込んでいた。だからこの文章に引き込まれた。
 河井継之助は大所高所の見地から誰よりも早く徳川幕府の崩壊を予期し、戊辰戦争などしているときではない、一刻も早く挙国一致の体制を作り上げなければならないと、徳川幕府と新政府の橋渡し役として奔走したが、志は理解されず、北越戦争の露として消えた人物である。
 安岡先生は河井継之助の言葉「人間というものは棺桶の中に入れられて、上から蓋をされ、釘を打たれ、土の中に埋められても諦めず、そこから脱出するほどの心意気を持たなければ何の役にも立たない。この本源から改革に着手してゆかねば、善事をしてもみな上辺だけのことになってしまう。天下を経綸しても、根本から改造することは到底むつかしい」を引用して、河井継之助の気骨を述べておられた。
 そして333号の巻頭には河井邸の庭に植えられている喬松(樹高がある松)の写真を掲げ、河井の号「蒼龍窟」を解読するのの一助となるようにと、漢の王襃の言葉「生きては喬松の如く、太陽に向かって呼吸すべし」が添えられていた。
 英雄は英雄を知るである。安岡先生の高い評価に、窪田さんは膝を叩いて共感した。これでますます安岡ファンとなった。
 それで安岡先生に会いたいと思って、新宿にあった全国師友協会の事務所に訪ねていった。すぐ行動を起こすところ窪田さんらしいところだ。しかし残念ながらその日、安岡先生は風邪をひいて休んでいらっしゃったので、お会いできなかった。その後は忙しさにかまけて、とうとうお目に
かかることはできなかった。

 活学こそ人生を彩る
 窪田さんは新潟大学附属中学校を出ると、名門長岡高校に進学する予定だったが、家庭の事情で就職せざるを得なく、友人の多くは東大や有力大学に進む中、町工場で汗や油にまみれて働いて都立高校の夜間部に通い、道を開いてきた人である。だから、学問は活学――活きた学問でなければならないという安岡先生の主張には深く共感するものがあった。
 例えば『人間学のすすめ』(福村出版)にこういう一節がある。
「学問というものは現実から遊離したものは駄目であって、自分の身につけて、足が地を離れないようにし、これを自分の環境に及ぼしていくという実践性がなければ、活きた学問――活学ではない。
 われわれは今後本当に、人間を作り、家庭を作り、社会を作る上に役立つ生命のある思想学問を興し、これを政治経済百般に適用してゆかなければならない。いわゆる実学、活学をやらねばならない」
 この一節を読んだとき、窪田さんは驚いて目を見開いた。
「――このような文章はただの学者には書けるものではない。自分達のように地の底を這いずり廻ってきた人間が共感するようなことを書くなんて、この人は只者ではない」
だから当然窪田さんの講演でも、安岡先生の「活学」「学実合一」という言葉を引用して聴衆に訴えた。
窪田さんは国鉄の労働運動の中にあって、文字通り命を賭けて正常化に挺身していたので、安岡先生の「われわれのなすことはすべて一燈照隅行、万燈遍照行でなければならない」という訴えは心に響いた。
安岡先生は随処で血を吐くような激励をされていた。
「内外の状況を深思しよう。このままで往けば、日本は自滅する外はない。われわれはこれをどうすることもできないのだろうか。
われわれが何とかするほかはないのである。
 われわれは日本を変えることができる。暗黒を嘆くより一燈を点けよう。われわれはまずわれわれの周囲の闇を照らす一燈になろう。
 かすかなりとも一隅を照らそう。手の届く限り、到るところに燈明を供えよう。一人一燈なれば、万人万燈である。日本はたちまち明るくなる。これがわれわれの一燈照隅行、即、万燈遍照行である。互いに真剣にこの世直し行を励もうではないか」
 まさにこれこそは自分の思いであり、そう思って日々の闘いを勝ち抜いてきたのだ。
 しかし、「一燈照隅、万燈遍照」を念じて行動すると、どうしても国士気取りになりやすい。それを戒めて、安岡先生はこう諭されていた。
「諸君は宜しく平凡にして、その味わい飽かざる人たるべし。無名にして有力な人たるべし。もし自ずからして、奇抜或は有名となることあらば、力めて捉われざる工夫をなすべし」
「有名無力であることを懼れ、むしろ無名有力たれ」と諭されるこの言葉は、昭和17年(1942)3月、安岡先生が主宰されていた農村指導者を育てる学校である日本農士学校第11期卒業生に送られた送別の辞である。
 窪田さんの深い彫りの顔。一度決めたら何としてでもやり遂げるという決意。その身体中から、歴戦の兵という雰囲気が伝わってくる。
「私は安岡先生とは何か不思議な縁があるのを感じます」
 窪田さんは漆黒の長い髪をかきあげて言った。
「安岡先生が国士を育てるために、昭和2年(1927)に金?学院を造られましたね。そこに金鶏神社がありましたが、あれは源頼義、義家ゆかりのものです。
 私は越後新発田藩の家老窪田平兵衛の縁のものですが、遠祖は源頼義、義家なんです。不思議なご縁です。窪田平兵衛については自分のルーツを明らかにしようと、実は本も書いているんです」
 安岡先生は「縁尋機妙!」――縁ほど不思議なものはない。神仏の導きはその縁に現れてくると言われたが、窪田さんもそれを感じている。

テレビを駆使して佐藤一斎を普及
 平成2年6月(1990)、労働運動の第一線から身を引き、新幹線など鉄道関係の広告を一手に引き受けるジェイアール東海エージェンシーで仕事をするようになった。平成13年(2001)11月、小泉内閣で外務大臣を務めていた田中真紀子代議士(長岡出身)が外務官僚を使いこなせず、立ち往生した。そこで小泉首相は田中外務大臣に佐藤一斎の『重職心得箇条』を手渡し、「これを読んだらいい。教えられることが多々あるよ」と一読をすすめた。しかし田中外務大臣は「これ、ナニ?」と首を傾げ、注意を払わなかった。おそらく読まなかったに違いない。
それを新聞報道で読んだ窪田さんは、そこに「有名無力」「無名有力」の典型を見るような気がして、日本人の精神的遺産がないがしろにされていると悲しくなった。
安岡先生は『重職心得箇条』を高く評価し、解説もされている。この本は人の上に立つ者が必読すべき本で、品格ある行動指針が書かれている。
そこで窪田さんは長らく労働運動を闘ってきた後輩のためにも、これを簡約しようと思い立った。そして平成18年(2006)12月、『重職心得箇条――人の上に立つ者、必読の「品格の行動指針」』を書き、自費出版した。さすがに労働運動の現場で戦ってきた百戦錬磨の勇士の書き下ろしだけあって、わかりやすく、説得に飛んでいた。
評判を得たこの本が佐藤一斎の故郷(美濃岩村藩)、恵那市の可知義明市長の目に止まった。恵那市は佐藤一斎の故郷であることから生涯学習に力を入れている。窪田さんが佐藤一斎に私淑しているのを知って面会を申し込み、わざわざ上京してこられた。
可知市長は歓談が終わると、恵那市の参与になってほしいと頼まれたが、まだ民間会社の役員をやっている身であるから重複するわけにはいかないと断った。すると、
「では観光大使ではどうですか」
 と再度の依頼である。
「それもお受けできません。でも佐藤一斎にはぞっこん惚れているから、佐藤一斎の思想を普及するお役目をさせていただきましょう」
 喜んだ可知市長は窪田さんを「佐藤一斎『言志四録』普及特命大使」に任命した。
 こうして佐藤一斎の思想を普及することになった窪田さんは、一斎を全国に知らしめるためにはどうしたらいいか考えた。
窪田さんは広告業界に身を置いていて、かねがねテレビの威力は熟知している。そこで「何でも探偵団」で佐藤一斎を取り上げるよう企画した。これに取りあげられたら、全国区になる。放映は首尾よく運んだ。
また、日本テレビのニュース・ゼロでも取りあげられ、番組の村尾信尚キャスターが信念について語る中で、一斎の名言「一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うるなかれ。ただ一燈を頼め」を紹介し、解説を加えたのだ。こうして佐藤一斎の名前と思想は徐々に人口に会するようになっていった。
「佐藤一斎がNHKの大河ドラマや民放の特番で取りあげられたらおもしろいですね」
 と、窪田さんの夢は尽きない。

業界20位にこぎ着けた広告代理店
現在、窪田さんが勤務するジェイアール東海エージェンシーは、東海道新幹線関連の交通広告を扱っていた㈱アドメディアセンターと、JR発足に伴って設立された㈱アド東海を合併させ、平成2年(1990)に設立された総合広告代理店である。
「この会社に移って多くのプロジェクトをやってきましたが、子や孫に誇れることは、新幹線300系がデビューするとき、その名称選びで、広告会社側の企画責任者をやったことです」
 窪田さんから意外な発言が飛び出した。そういえばもう労働運動家でなく、広告マンなのである。
「あのとき、『こだま』や『ひかり』を超える名前を、時空を超えて速さを感じさせる名前をと、JR東海幹部や学識経験者など皆さんが検討を重ねました。ローマ字に直して、行き先案内の電光表示板に入らなければなりません。世界の列車名、日本の列車名、造語、自然語から100に絞り、30に絞り、10に絞って、やっと『のぞみ』に決定しました。
 最初は「高のぞみ」などの揶揄もありましたが、お陰さまで大変好評で、みなさんに親しまれています。あのプロジェクトに参加できたのはいい思い出となりました」。
ジェイアール東海エージェンシーは広告主で組織する日本アドバタイザーズ協会から金賞や銅賞を受けるなどして実力をつけてきた。現在では大手電通をはじめ100社を超える広告代理店の中で20位前後に着けて健闘している。
「私は不完全燃焼で、まだまだやり残したことがあります。国鉄改革推進の途上には、鉄労組合員はじめ、国鉄内外に名も無き無名の戦士、志ある志士達が大勢いて、自己と闘い、鉄道を再生し国民のものするために果敢に闘ったということを是非解っていただきたい。
労働運動の面ではJR東日本、JR北海道、JR貨物などまだまだ問題を残していますし……。民主党政権は発足したとはいえ、試行錯誤が続き、まだまだ危なっかしい。私がやらなければならない問題は山積しています」。
 窪田さんはまだまだ夢を見果てない現役である。東日本大震災をきっかけに求められている新生日本の確立のために果さなければならない課題が待っている。