古今の先哲によって志を磨く - 濵田総一郎パスポート社長①

月刊 「関西師友」 4月号

人生の門出で出会った平泉澄先生
この人生をいかに生きるべきか!
人間誰しも懊悩するこの永遠のテーマを苦しんでいる青年がいた。後に川崎市を本拠地にして、関東、東日本、北陸一帯で、生鮮&酒&業務用スーパー38店を経営し、242億5千万円を売り上げている㈱パスポートの社長になる濵田総一郎さんである。
これを解決するためにも、何としても師として仰げる人に出会わなければならない。それに肝胆相照らす友も欲しかった。
模索する濵田さんに好機が訪れたのは、昭和48年(1973)4月、武蔵大学に進学するにあたって、元東京帝国大学の国史学教授だった平泉澄先生が主宰される青々塾に入ったことだ。濵田酒造の当主で、鹿児島県会議員を務めている父がかねてから平泉先生に師事していたので、息子の魂の育成を平泉先生に預けたのだ。
平泉先生とは皇国史観の頂点に立つ歴史家で、昭和20年(1945)8月17日、敗戦の責任を率先して取って地位も名誉も弊履のごとく捨て、東京帝国大学教授を辞任して、故郷福井県大野郡平泉寺村に隠遁し、白山神社の宮司を務めていた。しかし一世を風靡した碩学のオピニオン・リーダーであるから、隠遁は許されるはずもなく、全国各地から引っ張り出されて、講演行脚に回っていた。
東京・品川にあった居宅で、痩身の平泉先生が裂帛の気迫を込めて語られる講義は濵田さんを揺さぶった。たとえば人間の持つべき歴史的自覚について、次のように語られた。
「歴史とは単なる時間的経過をいうのではありません。歴史の最高最深最幽最玄の意味において、歴史は明らかに高き精神作用の所産であり、人格があって初めて存在し、自覚あって初めて生ずるものです。
 昔、孔夫子は、われ十有五にして学に志すと言いました。志を立てることによって、初めてその人の歴史が始まるのです。志がまだ立たない間のことは、単に背景として見るべきであり、立志以前と以後とに存する重大なる変化は、史家のまさに刮目して観察しなければならないところです。
 それゆえに、いまだ自覚することなく、志なお立たざる者においては、歴史はいまだ存在していません。酔生夢死の徒輩はついに歴史とは無縁の衆生であります」
 平泉先生には生命をやりとりするような真剣さがあり、天に通じる至誠があった。濵田さんはそれまで志などというものを考えたことがなかったので瞠目し、思わず身が引き締まった。自分はまさに酔生夢死の輩に過ぎなかったのだ。
 青々塾では先輩たちが足しげく後輩の指導に訪れ、平泉先生の著書をテキストに人のあるべき姿を説いた。そんな一人が中央大学を卒業後、運輸省(現・国土交通省)に入り、現在広島県の呉市長を務めている小村和年さんだ。
濵田さんは小村さんの指導ではじめて平泉先生著の『少年日本史』(時事通信社。現在は『物語日本史』と改題されて講談社学術文庫に所収)を読んだ。この本は土光敏夫元経団連会長が石坂泰三元経団連会長に薦められて読んで感動し、すぐさま財界人に読むようにと数十冊配ったという逸話が残っている。
 この本も平泉先生の面目が躍如している本で、人間にとって一番大切なのは誠実さで、それを守るには非常な勇気がいること、日本の歴史は誠実と勇気によって作られたものであることを教えられた。日本史の要所要所を至誠の人物たちが活路を開いてきたのだ。日本にとても誇りを持った。

 安岡正篤先生との出会い
 濵田さんの求道は伊藤肇財界編集長が月刊『財界』に連載していた文章によって、安岡正篤先生を知るようになった。伊藤肇さんは『帝王学ノート』(PHP研究所)や『人間的魅力の研究』(日本経済新聞社)などの著書によっても安岡先生の人となりを紹介しており、こんな人物が生きて活躍しているのかと唸らざるを得なかった。
それで安岡先生の著書を読むようになった。安岡先生は『禅と陽明学』(プレジデント社)に「猶興の人物とは何か」と次のように書いていた。
「『孟子』尽心上篇に、『文王(周王朝の始祖)を待ちて興る者は凡民なり。』
――誰か偉い指導者がいて、それにくっついて、その褌で相撲をとるなどというのは凡民です。
『夫の豪傑の士のごときは、文王なしといえども猶興る。』
――本当の優れた人物というものは、文王なしといえども猶興る。要するに有象無象では駄目。体制順応、付和雷同の人物では駄目で、天下の形成、周囲の状況がいかにあろうが、自分の良心に顧みて、いわゆる『文王なしといえども猶興る』という、そういう豪傑の士でなければ、こういうことを言っても何にもならない。とても望むべき相手ではないと」
いかに潔い男であるべきかと模索していた濵田さんにとって、安岡先生の人間観にはたいへん共感できた。また同書で王陽明についてこうも述べていた。
「何にしても陽明先生は命懸けで思索工夫し、命懸けでこの学問修道をしてきた人である。それだけに、単なる眠たい講壇の学問教育なんかと違う。
霊活という言葉があるが、本当に心霊の躍動する学風である。だから意気地のない人間だとか、徒に苟安(一時の安楽をむさぶること)の易きことを貪る連中からいうと、陽明学はあまりに真剣である。それで、とかく陽明学というと物騒がる、気味悪がるようになった」
こうした思想に導かれて、濵田さんの学生時代は極めて充実した。

西郷隆盛の真価を説いてくれた平泉先生
濵田さんは鹿児島県の出身なので、西郷隆盛には思い入れが強い。西郷の思想についてはいろいろな歴史家や作家が評論しているが、平泉先生の『首丘の人大西郷』(原書房)は出色だった。
「西郷の詩、凡そ百三十余首、私の最も感銘するものは、右の『獄中感有り』であるが、それについで忘れ難いのは、有名な逸題の詩、

 幾たびか辛酸を経て、志始めて堅し
 丈夫は玉砕、甎全を愧づ
 我家の遺法、人知るや否や
 児孫の為に美田を買はず

である。詩の意味は頗る明白であって、説明を必要としないやうに見えるが、然し反復吟味してゐるうちに、容易ならぬ内容と気がついた。
先ず其の第一句、『たびたび苦労をして、その結果、志が始めて堅くなつた』と訳して良いであらうが、苦労を重ねる時は、自然に志が堅くなるものだと早合点してはならぬ。
世間を見るに、たびたび苦労に遭ひ、やがて苦労に負けて志を棄て、人生かくの如し、理想も道徳もあるものかと悪ざとりして、便宜主義、都合主義になる者が、随分多い。
それを千辛万苦少しも屈せず、苦労を却つて研磨とし肥料として、いよいよ心を励ますのは、大勇豪傑の士にして始めて可能である。西郷は三十二歳のくれから三十八歳の春までを罪人として離島に監禁されてゐた。男ざかりの五、六年を、罪人扱ひせられたのでは、大抵の者であれば腐るところであらうに、英傑の士は之を鍛錬の機会として魂を磨き、力を加へて行くのである。その告白が此の詩に外ならぬ。
してみれば西郷は、その精神気魄、艱難辛苦のうちに、百錬千磨を経たのである。かかる英傑は困難が加はれば加はるほど、強くなつて行くにきまつている。それ故に岩倉や大久保が権威を以て西郷を押へつけようとした所に間違があるので、西郷のやうな英傑は威力を以て屈服せしむべきでなく、礼を正し情理をつくして理解を求めるより外は無いのだ」
ここでも平泉先生は西郷の人生を通して、人生の理法を浮き彫りにされていた。ちなみに「獄中感有り」は次の詩である。

 朝に恩遇を蒙り、夕に焚坑せらる
 人生の浮沈、晦明に似たり
 縦へ光を回らさざるも、葵は日に向ひ
 若し運開くなくとも、意は誠を推す
 洛陽の知己、皆鬼となり
南嶼の俘囚、独り生をぬすむ
生死何ぞ疑はむ、天の附与なるを
願はくは魂魄を留めて、皇城を護らむ

平泉先生はこの詩の解釈の最後に、こう付け加えておられた。
「私は此の詩を誦して、此の句に及ぶ毎に、おのづから心身の引きしまるを覚える。いはんや末句、『願はくは魂魄を留めて皇城を護らん』といふに至つては、皇国の道義、発揮せられて余蘊無く、日本男児の真面目、描出して明々白々なるを見る。我が敗残の老躯、病中の疲弊をかへりみず、西郷の為に一文を捧げ、その忠誠を慰めむと欲するは、実に此の詩、此の句の感動の忘れむとして忘るる能はざるに依る」
こんな解説に触発されて、若き日の濵田さんも、西郷が信条としていた「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽くし人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」を指針とするようになった。
大学卒業後、昭和52年(1977)4月、東武鉄道に入社し、運輸管理業務に携わった。しかし3年後、父が経営する濵田酒造の経営がおかしくなったので、退社して鹿児島に帰ることになった。そのとき濵田さんは、平泉先生がその機関誌「桃李」に書いておられた詩を抜き書きして、自分の決意に代えた。

 こまぬきて傍観す
 怯懦、是れ猿に劣らむ
 苦難はた何かあるべき
 尊ぶはその志
 
 名にし負ふ杉、名を裏切りて
 曲がりくねらば、誰か柱とせむ
 心に操持なく、浮草のただよはば
 人間畢竟何するものぞ

濵田酒造では営業本部長、常務取締役として再建に努力し、平成3年(1991)、川崎市に酒類販売会社、ワールドリカーズ㈱(後に㈱パスポートと社名変更)を興した。
若い日々、先哲に学び、自己を錬成することに努めたことが事業家として立ったとき、大きく花開いていった。現在はパスポートの代表取締役を務めるだけではなく、稲盛和夫京セラ名誉会長が若手経営者を育てるために開いている盛和塾の横浜の代表世話人に選出されている。光る石は路傍に捨ておかれることはないのだ。
(続く)