日別アーカイブ: 2019年8月27日

横浜市のみなと工業会での講演より

横浜市のみなと工業会で講演したものです。ご笑覧ください。

令和元年度の納涼事業は作家神渡良平氏の講演会

「笑顔は天の花」

 

神渡氏は病に倒れながらも、安岡正篤師に学んで懸命に生き、その体験からにじみ出る人間性、説得力に感銘を受けた講演でした!

 

令和元年度の納涼事業は87()18時より、HOTEL THE KNOT YOKOHAMAにて、人気作家、神渡良平氏をゲストに、51名の出席で開催されました。

 木通事業部員の司会で始まり、ご多忙のところ多数の頂いたことにお礼を述べ、「神渡先生におかれましては、1948年鹿児島県で生まれ、九州大学医学部中退後、新聞記者、雑誌記者等を経て独立されました。

38歳のときに脳梗塞で倒れ一時は半身不随となりましたが、必死のリハビリで再起。この闘病生活中「人生はたった一回しかないこと、また、どんな人にもなすべき使命があってこの地上に送られていることを痛感。闘病中に起草した『安岡正篤の世界』がベストセラーになりました。以後、次々にベストセラーをうみ出し、取材国は50数カ国に及んでいます。現在は講演や執筆活動に多忙の日々を送られております」とゲストを紹介し講演に入りました。(以下は講演の要旨です)

 

カンボジアで地雷撤去活動を行っている高山良二さん

 

今日はみなと工業会に呼んで頂きありがとうございます。まず最初にカンボジアで地雷撤去活動をされている高山良二さんの話をしたいと思います。高山さんは現在72歳ですが、カンボジアの中でもタイの国境に近い地域で17年間地雷撤去活動を続け、今までに東京ドームの41個分の田畑の地雷撤去をなさっています。

 昨年、私はある方から高山さんを紹介されてお会いし、お話を聴いて非常に感動しました。そこで横浜駅に隣接する崎陽軒の本社6Fで「横浜志帥会」(よこはましすいかい)という経営者の勉強会を行っているので、高山さんに来て頂き、地雷撤去活動のDVDを上映し、講演して頂きました。約70名が熱心に聴き入り、とても感銘を受け、是非ともその活動を現地に視察に行こうというということになりました。そして今年(2019年)2月、17名でカンボジアに行きました。

 カンボジアの乾季である2月の温度は30度を超しており、1日活動するとどっぷり汗をかき、宿舎に帰ると、まず最初にシャワー室に飛び込みます。シャワー室といってもトイレ兼用ですが、ペットボトルに穴を開けたシャワーを使っておられました。びっくりして、高山さんに訊ねると、こう言われます。

「支援してくださる方々から浄財を頂いて地雷撤去活動をしているので、それを私的なことに使いたくありません。だからペットボトルに穴を開けて使用しているんです」

 まったく頭が下がりました。高山さんの個人的生活は質素そのものでした。

高山さんはなぜそこまで思い入れて活動を続けているのかというと、そこにはこういう経験がありました。1992年、30年続いたカンボジア内戦が終わると、国連はカンボジアの復興に乗り出し、道路や橋梁の建設など、平和維持活動(PKO)を始めました。そこに日本の自衛隊が1200名派遣され、その中の1人が高山さんでした。

ある日、子どもが畑に牛を曳いてきて、その牛を杭に止めようとしました。ところが杭がグラグラしていたので、落ちていた鉄のかたまりで叩いたところ、それが不発弾だったので、バーンと破裂し、牛も子どもも吹き飛んで、ぼろ雑巾のようになってしまいました。高山さんは自分の目の前でそういう惨劇を見た時、自分のように自衛隊で不発弾の処理など専門的なことを学んでいる人間がちゃんと活動していれば、こんな悲劇は起こらないだろうにと悔やみました。当時は年間約800人ぐらいの人が命を落としたり、足を吹き飛ばされたりしていました。高山さんは当時44歳でしたが、勤務はあと10年ある、それが終わったら必ずカンボジアに帰って来て、地雷活動をやろうと決意しました。

 

たった1人の行動が17年間続けられて多くの人を巻き込んだ!

 

高山さんはそれから10年後に自衛隊を退官し、その3日後にカンボジアに渡り、タイ国境に近いタサエン村に入り、地雷撤去活動を始めました。ここはポルポト軍と政府軍が激戦をくり返したところで、地雷原が広がっています。高山さんは村人を地雷探知員として雇い、地雷探知機で地雷や不発弾を発見し、それを爆破処理して危険を除去していきました。内戦終了から30年近く経っても、135個は発見されて、爆破処理されています。

日中はそうした地雷撤去活動をしながら、貧しい村の経済を何とかしないといけないと考えました。タサエン村はとても貧しく、一ヵ月1万円~2万円ぐらいしか稼げません。おそらく日本の30分の1ぐらいでしょうか。高山さんは日本でPR活動をするとき、工場を建てて雇用を創出しませんかと働きかけました。その結果、4つの企業が応えてくれ、350人もの人々が雇用されました。

また小学校の数が少ないので、登校するのに2時間もかかります。学校数が増え、登校できるようになると、就学できる児童が増えます。高山さんは小学校建設も訴えました。それに呼応して、現在まで16校建ちました。村の子どもたちの重要な仕事は、川や池から水を汲んで運んでくることです。しかし川や池は濁っているので、衛生状態は悪く、疫病が流行ってしまいます。もし村々に井戸が掘られたら、子どもたちが重労働から解放され、衛生状態が改善されます。でもその設置には20万円かかります。

高山さんの呼びかけで、企業やロータリークラブやライオンズクラブなど各種団体が協力してくれ、それに小中学生も駅前で募金活動をするなどして資金作りしてくれ、これまで34基が設置されました。

地雷撤去活動は夜間できないので、高山さんは宿舎で日本語学校を始め、村の子どもたちに教えました。すると子どもたちは日本語がどんどん上手くなっていきます。中学生になり、高校を卒業すると、働く場所が必要です。ところが現地には何もないので、高山さんは日本の企業に技能実習生を雇いませんかと働きかけました。これにも多くの企業が応えてくれ、雇用先が増えていきました。

 

地雷原に建てられた供養塔

 

ある日、高山さんは私たちを地雷原に建てられている慰霊塔に案内してくれました。撤去活動を行っている最中に犠牲になって亡くなった方7名の霊が祀られていました。対戦車用の地雷が爆発して吹き飛ばされ、肉が千切れてどれが誰のものかわからない状態になったといいます。

その慰霊塔の前に立ち、高山さんはこう説明しました。

「悲しいことに7名の人達がこうして慰霊塔の中に入りました。もう犠牲者は絶対に出しません。8人目は私が入るつもりです」

私はその説明を聞きながら、高山さんはそう言う覚悟で活動をされているんだと思いました。そして名作『ビルマの竪琴』を思い出しました。ご承知のように、ビルマ戦線で戦っていた水島上等兵は終戦を迎えると、部隊から失踪し、戦友たちの慰霊を始めました。部隊がいよいよムドンから送還されるとき、頭を剃り、赤いビルマ僧の姿をした青年が埠頭に現れました。右の肩に青いインコが留まっており、水島上等兵の特長だったビルマ竪琴を持っています。その姿を見つけた戦友が、

「おい、あれは水島上等兵じゃないか」

と騒ぎだしました。

「そうだ、そうだ。あれは水島だ」

「おーい、水島、一緒に帰ろう」

しかし、水島上等兵は竪琴で「埴生の宿」を弾き、戦友たちに別れを告げました。

「私は帰れない。亡くなった戦友たちを残しては行けない。彼らの霊を弔いたいのです」

そう言い残して、群衆の中に消えていきました。慰霊塔の前で、犠牲となった方々の話をする高山さんの声を聞きながら、私はそんなことを思い出していました。

 村の通りを歩いていると、村の人たちから、「ターさ~ん! 漬物が漬かったから持っていって」とか、「ターさん、こっちの日影で涼んで行きな」と声が掛かります。高山さんはすっかり村人に溶け込んでいました。高山さんは慎ましい生活をしていることは村の人はみんな知っているから、とても尊敬しています。高山さんの宿舎があるヤシの木陰には日の丸の旗がひるがえっていました。それを見上げたとき、コツコツ頑張っている日本人がここにいる! と誇らしい思いがしました。

 

 支援が広がる高山さんの活動

 

 私は高山さんのことを拙著『いのちの讃歌』(致知出版社)に書きました。それが評判になり、『月刊致知』で対談してほしいと電話が来ました。早速カンボジアに電話して帰国の日程を確かめ、羽田空港で対談しました。その対談が『致知』7月号に「カンボジアの地雷撤去に我が後半生を懸けて」として掲載され、多くの人の感動を呼びました。

一方、ビートたけしがキャスターを務めるフジテレビの人気番組「アンビリーバボー」が高山さんの活動を取り上げるべく、取材班がカンボジアに飛びました。実は高山さんにはこんな秘話があったのです。奥様もカンボジアに行こうと準備しいているとき脳腫瘍が見つかり、急遽手術しました。幸いにして奥様は一命を取り留めました。看病している高山さんは気もそぞろです。それを見て、奥様は高山さんに言いました。

「あなたはカンボジアにやりかけたことがあるんでしょ。私のことは子ども達が看病してくれるから、カンボジアに帰って、やり掛けている仕事をなし遂げて」

 高山さんは奥様に背中を押されて、再びカンボジアに帰りました。この話も多くの人の感動を誘いました。

タサエン村を訪ね、地雷撤去活動を視察する人は年間170人ぐらいあります。その中には子どもたちや大学生もあり、「人生観が変わった!」と言う人もあります。たった一人の戦いが17年を経て大きなうねりとなっているのです。

あのテレビ放映後、カンボジアにお地蔵さんを贈ろうという運動が起こり、いま彫っている最中です。来年の2月頃には現地で除幕式を行うことになりそうです。

 

吉田松陰に恩返ししたグルメ回転寿司「すし銚子丸」の創業者堀地速男さん

 

もう一つの話として、グルメ回転寿司「銚子丸」の創業者堀地速男さんのことを話したいと思います。すし銚子丸は千葉県を中心に関東一円に91店舗あり、年商195億4千万円売り上げているいま旬の企業です。すし銚子丸はグルメ回転寿司のトップ企業で、3月もテレビ東京の「カンブリア宮殿」で採り上げられていました。

3年ほど前、創業者の堀地さんから「会いたい」と電話がありました。千葉本社ではなく、千葉大学病院に入院しているというので、不信に思いながら訪ねました。実は以前にある雑誌で銚子丸を取材したことがあり、堀地さんをよく知っていました。堀地さんは病室で切羽詰まった事情を打ち明けられました。

「実は癌が見つかり、あと半年生きられるかどうかわからないと宣告されました。100店舗を目標に頑張ってきたのに、直前で倒れてしまい、悔やんでも悔やみきれません。そこで私がグルメ回転寿司という新しいコンセプトを開拓し、業界で初めて上場した歴史を書いて欲しい」

しかし、あと半年では物理的に不可能です。原稿は何とか書き上げるとしても、出版社の事情もあることなので極めて難しい。しかし堀地さんは「遺された時間がない、どうか出版社に頼み込んで、私が生きている間に本にして欲しい」と言われ、大変な仕事が始まりました。昼間取材して夜原稿を書き、朝病室で原稿をチェックしてもらい、フィードバックしてもらって作業を進めました。

堀地さんは富山の高校を出て上京し、食品スーパーに勤めながら、昭和の思想家安岡正篤先生の勉強会に通って志を磨いた人です。私は昭和天皇が読み上げられた終戦の詔勅を書き、歴代の宰相の指南役と言われ、さらには多くの実業家師事していた安岡先生を書いた『安岡正篤の世界』がベストセラーになったこともあって、堀地さんともご縁をいただいていました。大変な勉強会の堀地さんは吉田松陰の影響も受けていました。

 銚子丸には全店舗に、「志を立て、もって万事の源となす』という松陰先生の幟が立っています。志を立ててこそ、企業も人も成長するものだと、松陰先生の思想で社員を育ててこられました。

 松陰先生が書き遺した本に、安政の大獄で捕縛され、伝馬町の牢獄にあったとき、29歳で刑死する直前に遺言として書き上げた留魂録』があります。私はこの本のどこが堀地さんの心に火を付けたのか、読み直しました。すると、こう言う一節がありました。

「全てのものには春夏秋冬がある。春に芽を出し、夏に繁茂し、秋に実って収穫され、冬には倉に納められる。しかし、私にとって収穫の秋はあったのだろうか。収穫の季節を迎えながら、何も実らないまま、処刑されようとしているのではないか」

明らかに松陰先生は弱気になり、迷っている――私はそう感じてなりませんでした。しかし、それを超えて松陰先生は確信に至りました。

「自分一個の人生としては何も形ができないまま去っていかねばならないとしても、それが弟子たちに受け継がれ、世代を超えて成就されていく。私は受け継がれるべき〝志〟を育んできたのだ」

そして感謝の思いが湧き上がっていきました。私はその下りを読みながら、そんなことを懊悩しながら、処刑される朝を迎えようとされていたのかと、胸に熱いものを感じました。

 翌朝堀地さんを訪ね、そのことを堀地さんと話合いました。

「あの松陰先生ですら、志半ばで倒れることを嘆かれています。でもそれを超えて、自分の中に培われた志は次の青年たちに引き継がれ、この国の中核を形成していくと確信されています。

堀地さん、あなたは目標としてきた100社を達成できないまま終わるかも知れないけれども、

あなたと一緒に頑張ってきた社員たちはその志を確実に受け継いでいます。だから堀地さん、彼らに願いを託し、後は頼むぞという気持ちで、人生の終わりを迎えようではありませんか」

堀地さんはベッドの中で泣いておられ、ました。

「私が銚子丸をここまで引っ張ってくることができたのは、社員と松陰先生のお陰です。その感謝の気持ちを松陰先生にお返ししたい。上田俊成宮司に今一番必要とされているものは何ですかとお訊きしたら、参集殿だと答えられました。現在のものは明治時代に建てられたもので、建て替えなければいけないのですが、先立つものがなくどうしたものかと困っているとおっしゃいました。そこで私は、参集殿を私が寄贈させてもらうことにしました」

堀地さんは4億円の資産を投じて、大きな参集殿を造り、「立志殿」と名付けました。

堀地さんの思いを書き綴った『志が人と組織を育てる――グルメ回転寿司「銚子丸」が吉田松陰から学んだ理念』は廣済堂出版から、逝去される3日前に上梓されました。私は先月、松陰神社を訪ね、立志殿で横浜志帥会の研修会を行い、故人の遺志を偲んだ次第でした。

 

志は苦境を通して磨かれる!

 

私は38歳の時、脳梗塞で倒れ、救急車で病院に担ぎ込まれました。でも閻魔様に「お前はまだ来ることならん」と蹴飛ばされ、目が覚めたのがベッドの上でした。それから闘病生活が始まりましたが、寝たきりで稼げないので会社をクビになりました。自分は麻痺して動けないのに、養わなければならない家族がおり、月々の給料が入らないということほど辛いことはありません。そんなとき、私を助けてくれたのが安岡正篤という漢学者でした。

安岡先生が『論語』について話される中で、冉求(ぜんきゅう)と言う青年に言及されました。

あるとき、時の政府から冉求に仕官しないかと話がありました。でも冉求は、

「私は先見の明がある訳でもなければ、何かができるわけでもありません。どうか私のことは忘れてください」

 と辞退しました。そのことを伝え聞いた孔子は、冉求に会って諭されました。

「趙さんにしろ、田さんにしろ、人間というものは、宇宙を創造した〝大いなる存在〟が地上に結晶化した存在だ。天はそれらの人々を使い、この世でなにがしかの仕事をさせようとしていらっしゃる。お前についても、しかるべき仕事を通して磨き、有用な人材に育てようとされているのだ」

そして、最後にこう言って締めくくられました。

「汝、限れり――。自分はこの程度の人間だと自分を見限っている。それがよくないんだ。天から見たらお前はもっともっと大きな可能性を秘めた存在なんだ。だから全て天に預けてしまえ。そこから新しい道が開けていくんだ」

そう諭されて、冉求はとうとう『論語』に名前が記されるほどの存在になりました。

その下り読みながら私は考えました。それまでは私は運が無い、ついていない、何でこんな破目になったんだ、世の中にはもっと悪い奴がいっぱいいるではないか、何でそいつらが脳梗塞で倒れず、俺みたいな真面目にやってきた人間が倒れるんだと、愚痴ばかりこぼしていました。

でも、安岡先生の『論語』の講義を読んだとき、はっと気づきました。

「天の導きというのは決してよいことだけではない。むしろついてなかった、何でこんな破目になったんだろうというようなことを通して導かれ、大きなことに気付かされていくんだ」

そう思ったとき、私は初めて逆境を受け入れる気持ちになりました。私の人生はここから始まるんだ。全て受けて立とうという気持ちになると、それまでおざなりにしていたリハビリにも積極的に取り組むようになりました。

私はかつて大学で医学を学んでいたころ、脳梗塞、脳溢血、くも膜下出血など脳の疾患の場合、後遺症は避けがたい。その後遺症を是正するのがリハビリで、早ければ早いほど良いと聞いていました。だから寝ている暇はないと思い、廊下で歩く練習をしました。リハビリ室では箸を取り、その箸で豆を摘んで別の皿に移し、右手の感覚を取り戻す練習をしました。

私が入院していた帝京大学溝口病院は多摩川のそばにあるので、病院を抜け出して多摩川の土手に行き、歩く練習をしました。右足を引きずりながら歩いていると、向こうから似たような人が歩いてきます。すれ違うと、「俺もあんな風に見えるのか」と、ついつい振り返ってしまいます。すると、向うの方もふり返っていて、ついつい目と目が合ってしまいます。お互いに頑張りましょうと言って一生懸命頑張りました。

そうやってやっと退院にこぎつけました。私は自分の目から鱗を落としてくれた安岡正篤という漢学者の伝記を書こうと思い立ちました。それをメインの仕事としたので、会社に勤めることはせず、アルバイトをして生活費を稼いでいたので、家計は火の車でした。

そのころ年末年始にかけてアルバイトしていたのはフーテンの寅さんで有名な柴又の帝釈天で、境内のテントで破魔矢を売っていました。家内がやっていたのはヤクルトの販売でした。

ヤクルトの営業所はどこでも保育所を持っているので、子育て中のご婦人たちは保育所に子どもを預けてヤクルトを販売できとても助かります。家内も半蔵門線で神田に出て、神田界隈でヤクルトを売って生活費を稼いでいました。

ある日、仕事が終わって家に帰って来ました。その頃、私は処女作『安岡正篤の世界』を執筆していましたが、なかなか思うように筆が進まず、苦しんでいました。そんな私に家内が、

「今日ねえ、私の気持ちにぴったりだったサラリーマン川柳を、ある新聞で読んだの」

と言うんです。どんな川柳だったと尋ねると、

 

玉の輿(こし)乗ったつもりが欠陥車

 

と言いました。私は九州の人間で、かなり自尊心が強いです。そんな男が欠陥車と言われたので、発奮しました。俺がここでこけたら、こいつの人生も駄目になってしまうと思い、もう一度褌の紐を締め直して、執筆しました。

幸いなことに処女作『安岡正篤の世界』がベストセラーになったことから、作家としての道が開け、いろいろな出版社から原稿依頼が来るようになりました。講演依頼も増え、一番忙しかった頃は一日に3回やるときもあり、年間100回ぐらいこなしました。ひと頃は食べていけずに四苦八苦していたのに、気がついたら70冊も本を出しており、まるで様変わりしてしまいました。

 

超ロングセラーを続けている『下座に生きる』

 

私の著書に致知出版社から出版した『下座に生きる』という本があります。大体普通の本は3、4年も経って売れ行きが止ると、出版社は倉庫代を苦にして絶版にするものです。ところがこの本は23年前に出した本ですが、今でも売れ続けており10万部を超えています。

この本が出版されてしばらく経ったころ、出版社から電話があり、柔道の山下泰裕監督から30冊注文されたと言われました。

「ほう、柔道の監督がこんな地味な本を評価してくださったのか」

 と感心していると、また30冊買われました、また30冊追加注文されましたと連絡がありました。私は山下さんにお会いして、なぜこの本をそれほどまでに購入されるのか聞いてみようと、東海大学に訪ねました。すると山下監督はこう言われました。

「私は加納治五郎先生から、柔道は体を鍛えるだけではなく、心も育てるのだと教えられました。その心技体を磨くことを念頭に、後輩たちを育てています。心を磨くという点で『下坐に生きる』はよい本だと思い、オリンピックの強化選手や大学のコーチの合宿などで、この本を勧めています」

 そして採り上げていた坂村真民さんの詩「尊いのは足の裏である」に言及されました。

 

尊いのは/頭でなく/手でなく/足の裏である

一生人に知られず/一生汚いところと接し/黙々として/その務めを果たしていく

足の裏が教えるもの/しんみんよ/足の裏的な仕事をし/足の裏的な人間になれ

頭から/光が出る/まだまだだめ/額から/光が出る/まだまだいかん

足の裏から光が出る/そのような方こそ/本当に偉い人である

 

「私はこれを読んだとき、障害を持った次男のことが心に浮かびました。大学の柔道場での練習が終わって家に帰ってみると、電気も点けない部屋で、家内がコミュニケーションを取ることができない息子をどうやって育てたらいいかと、苦しんで泣いていました。外ではロス五輪の金メダリストで、現役では203連勝、対外国人試合では113連勝、一度も負けたことがない世界最強の柔道家と称えられながら、家庭に帰るとそんな肩書きがまったく通用しない世界がありました。正しく家庭崩壊寸前でした。

だから足の裏が光るような人間にならなければ、家内や子どもたちを引っ張っていくことができないとつくづく感じました。だからこの本を皆に読んでもらおうと思い、みんなにこの本を渡しているんです」

山下監督はその後も読売新聞に「私が推薦するこの一冊」という推薦文を書かれたので、爆発的に売れ、10版、15版と重なっていきました。

そういう例を考えると、逆境やぶち当たっている壁は決して人間をつぶすためにあるのではなく、むしろ足腰を強くするためにあると思わざるを得ません。壁にぶち当たったとき、ついていないと嘆いていたら、そこからは何も学べません。でも、天はこの逆境から私に何を学べと言われているんだろうかと思ったとき、そこから突破口が開けていくのだと思います。

そういう意味で山下監督があの状況の中で摑んだものが、今日JOC(日本オリンピック委員会)会長に選ばれたことに繋がっているのだと思います。

 

何が起きようとも、真っ正面から受けて立とう!

 

問題に直面したとき、それをどう受け止めるかが全てのことを決めると思います。そう考えたとき、何が起きたとしても、真っ正面で受けて立とう、この逆境も私の目を開いてくれるきっかけになると思ったら、どんなことでも前向きで建設的で積極的な取り組みができるようになり、不動の心が持てるようになるものです。

そういう姿勢で人生に立ち向っている人は、部下はみんなわかっていて、あの上司は間違いない、あの人に付いて行けば必ずやこの壁を突破していくだろうと厚い信頼を寄せ、その企業集団は打って一丸になっていくのではないでしょうか。私は本にサインを頼まれると、「笑顔は天の花」と書きます。どんなに苦しい状況にあっても笑顔を持ち、感謝して受けていると、その笑顔が人々を引き寄せ、運勢が変わり、難題も突破していけます。不思議なもので、笑顔は人を引き寄せるものです。私も「笑顔は天の花」を人生訓として、自分に言い聞かせて日々頑張ってまいります。

 

神渡氏はこうした機会を与えていただきありがとうございましたと話して、演壇を降りました。脳梗塞で倒れ、苦しみながらも前向きに生き、その体験からにじみ出る人間性、説得力に出席された会員、経営者の方々は大変感銘を受けた講演でした。