日別アーカイブ: 2019年10月22日

闘病生活は覚醒のときだった

今度の闘病生活のことを少しまとめました。ご笑覧ください。

闘病生活は覚醒のときだった

神渡良平

 

 

「まさか!」という坂――狭心症の手術

 

 思いもしなったことが起きるのが人生です。

 昨年の秋ごろから私は胸に息苦しさを覚え、体調がおかしいと思っていました。自宅から最寄りの駅まで、昇り下りのある坂道を歩いて二十分かかりますが、歩くことは全然苦にならず、ノンストップで歩いていました。ところが歩くことがだんだん苦痛になり、荒い息をハーハー、ゼーゼーと吐いて二度休み、三度休みするようになりました。呼吸を整えてからでないと、歩き出せないのです。

「随分体力が落ちたな。もっともっと体力をつけなきゃ」

 そう思った私は、それまで五、六年通ってきたフィットネスジムの頻度を上げ、週に四回はウォーキング、レッグプレス、背筋、腹筋、二十五キロのバーベルを担いでのスクワットなどをやって汗を掻きました。

ところが息苦しさは一向に改善されないので、とうとう大学病院で精密検査を受け、循環器内科でカテーテル検査をして心臓の様子を詳しく検査してもらいました。カテーテルとは血管に挿入する柔らかい管のことで、造影剤などの点滴を注入するのに用います。

その結果、心臓に栄養や酸素を送っている冠状動脈(冠動脈)三本のうち、すでに右冠動脈は完全閉塞により下壁が壊死して心筋梗塞(こうそく)を起こしており、他の二本(左回旋枝と左前下行枝)も高度狭窄(きょうさく)をきたして心臓肥大になり、左室収縮機能は四一パーセントまで下がっていると診断されました。医師は映像を見ながら、渋い顔をして言われました。

「胸を開いてバイパス手術を施す以外にありません。このままフィットネスジムで筋トレを続けていれば途中で倒れ、救急車で搬送される途中に、突然死んでしまってもおかしくなかった!」

 私はどうも真逆のことをやっていたようです。冠動脈のバイパス手術となると簡単なことではありません。友人の勧めによって、信頼できる医師のセカンドオピニオンを聴くことになりました。勧められたのは、千葉県松戸市にある新東京病院の副院長兼心臓血管外科主任部長の中尾達也先生でした。

 

 高い評価を受けている新東京病院心臓血管外科

 

新東京病院心臓血管外科は高い評価のある病院で、世界で初めて右胃大網動脈を使用した冠動脈バイパス手術を開発した須磨久善先生を初代の心臓外科部長として招聘し開設されました。二代目は天皇陛下の冠動脈バイパス手術を施行された天野(あつし)先生が務められ、現在は中尾先生が五代目として務めておられます。

 中尾先生は心臓のバイパス手術を含む開心術をこの十年間三千件あまり手掛けている超ベテランで、私ども夫婦は中尾先生が想定されている手術、つまり術前の検査で中等度の大動脈弁狭窄(きょうさく)症も認められたため、冠動脈バイパス手術に加えて、大動脈弁置換術も同時に施行するという手術の詳しい説明を聴いて納得し、お願いすることに決めました。

 九月一日、どうしてもキャンセルするわけにはいかなかった講演を済ませ、翌日入院し、三日に手術しました。バイパス手術に用いる血管として、両足の大伏在静脈を膝から下三十センチ切り取とって準備しました。その上で胸を十五センチ開け、胸骨正中をストライカーで切って開き、胸に張り付いている左内胸動脈を採取して心臓を露出させ、異常をきたしている冠動脈三本の四ヵ所にバイパス手術がなされ、併せて大動脈弁もウシ心膜生体弁に置換されました。

 もちろん私は手術開始とともに完全麻酔で眠らされ、何がなされているのか、全く知りません。手術後も麻酔がかかったまま集中治療室(ICU)に運ばれ、こんこんと眠り続けました。

 今回、執刀された新東京病院の中尾医師にとって、心臓のバイパス手術を含めた心臓手術は毎週三、四例行っていることなので、ごく普通の手術です。でも手術台に乗っている私は、何しろ胸を十五センチも切り裂かれ、胸骨を切り、心膜を開けて心臓をむき出しにし、冠動脈にバイパス手術を施すという大手術を受けているので、本能的に命の危機にさらされていると直感したようです。

 人間は生命の危機にさらされると、自分の使命について根源的に考えるものです。手術中の六時間、麻酔のため意識は全然ないのですが、私の人生に決定的影響を与えた人々と再会し、もう一度自分の使命について考えさせられたように思います。

 

死ぬ瞬間のフラッシュバック

 

 人間は死ぬとき、自分の生涯が走馬燈のようにフラッシュバックされると聞きますが、私は体験上、あれは本当のことだと思います。

 兵庫県の(よう)鹿()小学校の校長を務めた詩人の東井義雄さんは、人生の深奥の秘儀をこう表現しました。

 

拝まない者も

おがまれている

拝まないときも

おがまれている

 

 私ははっとしました。

「私は独り寂しく人生の荒野を歩いていたんじゃなかった……落ち込んだとき、私は独りだ、孤独だと悲しんでいたが、実はその背後でみ仏が見守っていてくださっていたのだ」

 四国を歩き遍路したとき、そのことを想起させる出来事がありました。平成十年(一九九八)八月、私は四国八十八ヵ所千八百キロの歩き遍路の旅に出ました。脳梗塞で倒れたものの、危うく助かっただけではなく、とても大切なことに気づかせていただいたので、どうしてもお礼を申し上げたいと思い、八十八ヵ寺の行脚を思い立ったのです。

 ところが当初立てた一日三十五キロ踏破するという計画はなかなか達成困難で、難行苦行の旅になりました。一日の計画を達成すべく、早朝の四時半から、まだ麻痺が残っている右足を引きずりながら歩いていました。そんな私を通りかかったお婆さんが手を合わせて拝まれました。積年のご苦労が(しわ)になって刻み込まれているような方でした。私は気恥ずかしくなって言いました。

「私は煩悩のかたまりのような人間で、とても拝まれるような者ではないんです」

 ところがお婆さんはしわがれ声で答えられました。

「あなたの若さで遍路に回っておられるとは見上げたものです。そのお心を尊いと思い、拝ませていただきました」

「いえいえ、拝まれると恥ずかしくて、穴があったら入りたいぐらいです」

 そう言って別れましたが、拝まれた私は気恥ずかしく思うと同時に、嬉しさに包まれ、終日ほのぼのとした気持ちが消えませんでした。東井さんの詩は私にそのことを思い出させました。

 

 日本武尊が持った神秘的体験

 

自分を超えた〝大いなる存在〟に見守り導かれているということでは、陸奥(みちのく)の平定を終えた日本(やまと)(たける)が敵将の(みち)(おく)を従えて、多賀城の近くの七ヶ浜の渚を歩いたときもありました。平成十九年(二〇〇七)七月に出版した拙著『(あま)()ける日本武尊(やまとたけるのみこと)(上下)』(()()出版社)の下巻の一九八ページから二〇二ページにかけてこう描きました。

 

戦いが終わると、武は道奥を伴って七ヶ浜の渚に出た。何里も続く渚を歩きながら、天と会話したかったのだ。春の海は穏やかだった。

 ザップーン

 ザップーン

 ゆったりしたリズムで、波は浜辺に打ち寄せていた。

武はふと立ち止まり、暗い海の方を眺めた。海は黒々とした闇の中に吸い込まれていた。ただ砂浜に打ち寄せる波の頭だけが白く光って見えている。

(この音は遠い昔、どこかで聞いたことがあるような気がする……。

遠い昔の記憶……。

母のお腹にいた時か……。

それとももっと昔の太古の記憶か……)

どこからか母の子守唄が聞えてきたような気がした。

夜空を仰ぐと、数えきれないほどの星がお互い(ささや)き合うように(またた)いていた。

すると一篇の詩が聞えてきた。天から降ってきたようでもあったし、心の中に湧いてきたようでもあり、不思議な感じだった――。

 

武はただ強いだけの武人ではなく、人間の世界を超えたものにも心惹かれる繊細な詩人でもありました。武の回想はこうくり広げられました。

 

――私は夢を見た

(あめ)御祖(みおや)の神と手を(つな)ぎ、暮れなずむ渚を歩いていた

親なる神の手から伝わってくる温かさが

私に心の安らぎを与えてくれていた

 

神と私の後ろには二人の足跡が続いていた

ところがその中に足跡が一つしかないところがあった

それは私が苦境に落ち哀しみに打ちひしがれていたときのものだった

 

私は天の御祖の神に訊いた

あなたはいつも私の側にいてくださるはずでした

でも、あの辛かったとき、どうして私を独りにしておかれたのですか

神は私から視線を外し、何も言われなかった

私はきつい口調で、もう一度尋ねた

どうして私を独りにしておかれたのですか

 

天の御祖の神はやっと口を開かれた

私の分霊(わけみたま)よ、私はお前の側を離れたことはなかった

お前が見たたった一つしかない足跡とは

苦しみ傷ついていたお前をそっと抱いて歩いていた私の足跡なのだよ

 

武はあっと言って立ち止まり、茫然となってその場に立ちすくんだ。

(あなたは私を抱き上げ、共に歩いておられたのですか。私は長いこと、私は独りだ、誰もわかってくれないと嘆いていました。何ということだ、私はああ……)

武は両手で顔を覆った。(ざん)()の思いが胸を()いた――。

 

天の御心と現身(うつしみ)の私たちとの間にはしばしばすれ違いが起き、私たちは途方に暮れてしまいます。でも、それはすれ違いゆえに起こる迷いです。もし〝大いなる存在〟の見守りが確信できたら、堂々たる人生を歩めるはずです。

 

執筆を励ましてくださった中山みきさん

 

この日本武尊と弟橘媛尊(おとたちばなひめのみこと)を中心とした物語を書くことを励ましてくださったのは、江戸時代の寛政十年(一七九八)から明治二十年(一八八七)にかけて活動された天理教の教祖中山みきさんでした。

私は日本武尊のことを書くべく、『古事記』や『日本書紀』、そしてそれらの原書と見られる『(ほつ)()(つたえ)』を丹念に調べていた平成十七年(二〇〇五)十一月三十日、百十八年前に亡くなった中山みきさんに呼ばれて、中野区東中野の芹沢文子さんのお屋敷に呼ばれていきました。具体的にはいつも中山みきさんと交霊されている大徳寺(てる)(あき)さんに呼ばれて、芹沢先生のお屋敷を訪ねました。

そのお屋敷は尊敬する作家の芹沢(こう)()(ろう)さんが生前、住んでおられた所で、そのころは武蔵野音大元教授の文子さんが住んでおられました。芹沢光次良さんの最晩年の名著『神の微笑(ほほえみ)』『天の調べ』などの「神シリーズ」(新潮社)には、中山みきさんが日本の救済のために、大徳寺さんを手塩にかけて育ててこられた天界の仕組みが詳述されています。

その中山みきさんが大徳寺さんを通して、私に語りかけてこられました。

今日呼んだのは、実はわしからあんさんに言うておかなければいけないことがあるからです。わしはあんさんが本を書き終えると目を通して、いろいろに心をかけておりました。今日は芹沢光治良さんも、この場にお越しくださっています。文学というもんは何やろか? 文子さん、光治良さんが文学とは何とおっしゃっていたか覚えておますか?

(質問に答えて、芹沢文子さん)

『はい。神の意思に言葉を与えることだと申していました』

そうです。文学は神の意思に言葉を与えるものです」

私はこの世は目で見える物質界と目では見えない霊界から成り立っていると思っていましたが、目の前で百十八年前に亡くなった中山みきさんが老婆の声で、大徳寺さんを通して語りかけてこられたとき、やはり霊界はあるのだと思いました。中山さんは私のペンネームに触れて、述べられました。

「あんさんは奇しくも『神渡』と名乗っておられますね。あんさんはペンネームを決めるに当たって、天の啓示を受けて神という字を選び、『神渡』という美しい名前を充てられました。あんさんの書く文章によって、神が渡ってこられ、神の美しい心が人々に伝わっていくように願うてね……。

まさに天の浮橋を通って、神さんが高天原から下りてこられるような優しい文章を、これから心の目を開いて書かせてもらわなあきまへん。『神渡』という深い意味の名前を与えられたというのは、偶然ではありません。

よく人は名前を使うにあたって、ペンネームだとか、芸名だとか、いろいろ名前を選びます。でもそれは自分が選んだんではなくて、神さんが意味を持って与えたのです。だから神さんが意味を持って与えたものが、あんさんが書くものに表れてこなければいけません。心して取り組んでおくれやす」

そう述べて、話は懸案の日本武尊のことに及びました。

「日本武尊の物語は、日本武尊がちゃんと導いてくださっているから、見事なものが書き上がるでしょ。あんさんが日本武尊を心から愛し、信頼し、日本武尊の心を本当にご自分の中で温めていったら、必ずその道は開かれます。

あんさんはもう日本武尊に導かれているのです。あんさんが今日この芹沢の家に来たのも偶然ではありません。光次良さんの出身地の沼津も、日本武尊や弟橘媛命のご縁ある場所です。また、わしが住んでいた奈良のお地場も、日本武尊の父君景行(けいこう)天皇が素晴らしい御所をお持ちだった所であり、ご縁のある場所でした。

日本武尊はあんさんをちゃんと導いてくれています。それを忘れてはいけません。そやから美しい素直な心で、一筆一筆魂を入れて書くことです。一文字一文字心を込め、あんさんが生命を与えていくのです。日本武尊はまたそこで命を吹き返すことでありましょう」

そういうこともあって、戦が終わった七ヶ浜の散策のシーンで、神と武が対話し、武が深い気づきに導かれていく場面を右のように描いたのでした。

私の師匠である安岡正篤先生は陽明学者として知られていましたが、晩年は日本そのものに惹かれ、「死ぬ前に日本とは何かを書きたい」と言っておられました。しかし、晩年になればなるほど忙しくなり、とうとう念願を果たすことなく、昭和五十八年(一九八三)十二月、八十五歳で亡くなりました。

そんなことがあったので、私は非力であることは重々承知していますが、安岡先生の宿願を果たしたいと、日本武尊を採り上げて、「日本とは何か」を掘り下げようと試みました。主人公は日本武尊でありながら、古代史全体を()(かん)しようと努めました。

日本武尊は、神とも言われ天とも表現される「上位概念」を持っていた人で、私たち日本人の原型であり、淵源(えんげん)であるとも言えます。

 

本質をつかんだ道元の人間観

 

このスピリチュアルな旅で、私は道元にも引き会されました。禅宗では炊事を担当する僧侶を(てん)()といいます。庫裏(くり)で他の僧たちの食事を作る典座は、座敷で経典を学び、禅堂で坐禅に励む修行僧に比べたらきつい労働で、新参の下っ端の僧の仕事のように見えます。しかし、道元はそうは見ませんでした。

「師をたずね道を求めて各地を巡り、あたかも行雲流水のように一ヵ所にとどまらずに修行する雲水(うんすい)たちは、尊いみ仏に生まれ変わろうと修行している尊い方々です。その雲水たちの血となり肉となる食事を作っているのですから、典座の仕事はそれと同じように尊い仕事です。どうぞ心して取り組んでください」

道元が修行していた宋のある寺でこんなことがありました。暑い日の昼、腰の曲がった老典座が本堂の脇で、杖をつきながら、汗だくになって海藻を干していました。見るにみかねた道元が、

「こんな暑い日ですから、誰か若い人にでもさせるか、せめてもう少し涼しい日にしたら良いのでは」

と声を掛けると、(くだん)の老典座は言下に言いました。

「他の者にさせたのではわしの修行にならん。それに今せずにいつするというのだ」

この返答に道元は大きなショックを受け、仏法に対する認識を根底からくつがえされたと言います。そうしたことが『典座教訓』に書かれていますが、そこに道元の「人はみな光り輝くみ仏をその内に宿しているのだ」という人間観が表現されています。道元からそのことを再度教えられました。

 

マザー・テレサの施設でボランティアした日々

 

手術中の無意識の中で、マザー・テレサのことも浮んできました。私は平成八年(一九九六)十二月、ボランティア活動をするために、インドのコルカタ(旧カルカッタ)にマザー・テレサを訪ねましたが、そのときの記憶が蘇ったのです。ボランティア活動の間、私はマザー・テレサの修道会である「神の愛の宣教者会」の朝晩のミサに預かっていました。ミサの最後、シスターたちの口をついて、聖フランチェスコの祈りが唱えられます。

 

Make me an instrument of
your Peace.

(あなたの平安を届ける道具として私をお使いください)

という祈りに続いて、シスターや参会者たちの祈りが満堂に響き渡ります。

 

憎しみのあるところには、愛を

不当な扱いのあるところには、(ゆる)しを

分裂のあるところには、一致を

 

と続き、祈りの後段になると、心の姿勢がより積極的に変わっていきます。それは静かな変貌とも言えます。

 

慰められることを求めるよりは、慰めることを

理解されることよりは、理解することを

愛されることよりは、愛すること

求める心をお与えください

 

シスターたちの祈りに唱和していると、私もいつしか強くされていくのでした。いつまでも子どものように、こうして欲しい、ああして欲しいと要求ばかりしているのではなく、人にそうしてあげられる自分になりたいと思いました。ミサは私の心の姿勢を正してくれる時間となり、かくして日中のいろいろな施設での奉仕がより献身的なものに変わっていきました。そのささやかな経験が拙著『マザー・テレサへの旅路』(サンマーク出版)に書かれています。

 

 喧噪な時代が私の意識を覚醒してくれた

 

 私の神秘的な旅は、「下坐に生きる」生き方を示した一燈園の西田天香さんに及びました。私が天香さんに会ったのは大学一年のときでした。七〇年安保を直前にして大学は安保反対運動に揺れ、過激派が学長や学部長の髪の毛をつかんで引きずりまわし、総括を要求するような()()(きょう)(かん)(ちまた)と化していました。主義主張が違う者を反動と非難し、糾弾している独断的な大学が嫌で、私は書物の中に人間の真の生き方を求めました。

 そんなころ、(いっ)(とう)(えん)の創始者西田(てん)(こう)さんが大正十年(一九二一)に書いた『(ざん)()の生活』(春秋社)を読みました。北海道で開拓を指揮していた天香さん(当時の名は市太郎)は開拓の資金を提供してくれた経済人と開拓農民の争いに巻き込まれ、にっちもさっちもいかなくなり、とうとう開拓主監を辞めて、故郷の滋賀県長浜に返ってきました。

そして八幡神社の境内にある愛染(あいぜん)明王堂に籠り、

「人間はいがみ合わなければ、生きていけないのか……」

と悩みました。ところが三日目の朝、どこからともなく、赤ん坊の泣き声が聞こえてきました。お母さんにお腹がすいたようと訴えているのでしょうか。するとしばらくしてその泣き声がやみました。駆けつけたお母さんがおっぱいを含ませ、「いい子、いい子」とあやしている様子が伝わってきます。

「!」

 こういう母子の生き方がすでに存在している、ということはむさぼらないでも生きていけるという証左ではないのか! そう確信した天香さんは自然に「人々の魂を拝む」生活を始め、次第に一燈園と呼ばれるグループが育っていきました。

 その一燈園に文学者の倉田百三(ひゃくぞう)が入門しました。倉田は天香さんについて雑巾(ぞうきん)バケツを持って家々を訪問し、便所掃除に精を出しました。便所をピカピカに磨き上げ、天香さんをまねて、そこからその一家の幸せを祈る生活をしていました。

 倉田はかねがね親鸞(しんらん)のことを書きたいと思っていたので、天香さんといっしょに下坐に下りた生活をしているうち、親鸞は天香さんのような人だったのではないかと思うようになりました。そこで一気に書き上げたのが戯曲『出家とその弟子』(岩波書店)です。これが大正時代最大のベストセラーになりました。それにフランス文学の頂点に立つロマン・ロランが『出家とその弟子』を絶賛したので、英語、フランス語、ドイツ語、エスペラント語、中国語に翻訳され、世界中に広がっていきました。

 日本国内には、倉田百三の親鸞観はキリスト教的な解釈が強過ぎるという批判もありましたが、逆にキリスト教的な解釈に基づく親鸞観だったから、キリスト教文化圏でも高く評価されたと言えます。特に青年層には多くの共感をもって読まれ、文学界に空前の親鸞ブームを巻き起こしました。

「倉田百三が現代の親鸞とも慕い、師事している天香さんとはどういう人なのか」

 と、人々の関心は一気に高まりました。出版社は天香さんに本を書かせようと追いかけましたが、天香さんは断り続けました。

「私は下坐の仕事をさせていただき、人々にお詫びするために生まれてきたのです。どうぞ原稿を書くのは勘弁してください」

 そこで出版社は、天香さんが呼ばれていった先々で話した講話を原稿にし、『懺悔の生活』と題して出版しました。この本が『出家とその弟子』以上に大ベストセラーになり、天香さんは一躍世に知られるようになりました。

私はその天香さんに人生の方向性を決められるほど、影響を受けました。天香さんのことは『許されて生きる』(廣済堂出版)に詳しく書きましたが、手術の間中、完全麻酔がかかった無意識の中で、天香さんと対話しながら、人間の生き方を再確認していたように思います。

 

 アッシジのフランチェスコが語ってくれたこと

 

 天香さんはしばしば「東洋のフランチェスコ」と呼ばれました。その清貧の生活が余りにも似ているからです。私の意識は当然、アッシジのフランチェスコにも向かいました。アッシジのフランチェスコはカトリック教会を建て直すに至ったフランチェスコ修道会の創始者です。

フランチェスコは一三世紀のアッシジの富裕な呉服商の跡取り息子でした。若いころのフランチェスコは多くの友人を引き連れて遊びまわり、贅沢三昧に明け暮れる普通の青年でした。それに貴族の館で催されるパーティで「アーサー王と円卓の騎士」などを語る吟遊詩人にあこがれ、騎士になりたいと思っていました。

しかし、一方では華美を競い合う世俗の生活では満たされないものを感じ、もっと本質的なものを求めていました。そんなある日、フランチェスコが馬に乗ってアッシジの麓をポルチウンクラに向けて進んでいるとき、サン・サルバトーレ・デッレ・パレティというライ病院があるところにさしかかると、向うからライ病患者の腐った臭いが漂ってきました。思わず鼻を被い、急いで逃げようとしたとき、イエスの言葉が望みました。

「私は世の人々から嫌われ、遠ざけられているライ病患者の悲しみと共にいる。私を理解したいと思ったら、あの人たちを遠ざけてはならない!」

 そう言われて、フランチェスコは馬を降り、鼻がもげ、目が見えなくなり、指がただれ、棍棒のようになったライ病患者を迎え、むかつきそうになるのをこらえ、恐怖と闘いながら、潰瘍(かいよう)で覆われた指に接吻し、その手になにがしかの施しをしました。

するとあれほど恐れていた思いが消え、かわりに歓喜が飛び込んできたのです。驚くべき変化でした。神はもっとも貧しい人たちと共にいらっしゃるのではと感じました。

 フランチェスコは翌日もライ病院を訪ねました。顔が半ば崩れ、棍棒のようになった足でぎこちなく歩くライ病患者たちの吐く息は悪臭に満ちていました。でも昨日のようにぞっとする気持ちは無くなっており、逆にいとおしく感じ、どの手にも接吻し、なにがしかの施し物をしました。そしてライ病患者の中で自由に振るまえるようになりました。

「ああ、イエスの愛が私から恐怖を取り去ってくださったのだ!」

 フランチェスコは自分が生まれ変わったような驚きを発見しました。

 そんなある日、アッシジの麓にある朽ちかけたサン・ダミアノ修道院で祭壇にかかっていた十字架を仰いでいたとき、再びイエスの声が望み、

「私の教会を修復しなさい」

 と言われました。それを文字通りに受け止めたフランチェスコはレンガとしっくいで教会堂の修復を始めました。レンガを積みながら、フランチェスコは泣けてなりませんでした。自分を立ち直らせるために、イエスは進んで十字架の道を歩いてくださったというのに、自分はおもしろおかしく遊びほうけていた――。

 フランチェスコが泣きながらレンガを積んでいるのをみた人が、どうして泣いているのかと尋ねました。フランチェスコが理由を話すと、その人も一緒に涙を流しました。こうしてフランチェスコの周りに青年たちが集い、自然発生的に「小さな兄弟会」が生まれました。これはいつしか修道会として成長し、ついにはカトリック教会全体を刷新するまでになったのでした。

 私はこうした気づきを通して、この世の不動の真理を再確認させられました。真理は「下坐に生きる」生き方にあるようです。

 

アッシジにフランチェスコの足跡を訪ねて

 

私は十年前の平成二十一年(二〇〇九)十月、二十二名の読者と一緒にイタリアを訪ねた折、その足でフランチェスコゆかりのアッシジを訪ねたことがあります。その翌日、私はホテル近くの教会の礼拝堂を借り切り、参加しておられたソプラノ歌手の橋本恵子(アイカ)さんのミニコンサートを開きました。というのは、アイカさんからこういう話を聞いていたからです。

平成十八年(二〇〇六)、ロンドンの英国王立ロイヤルバンクェッティング・ハウスとイタリアのフィレンツェにあるピッティ宮殿で「ネオジャパネスク二〇〇六」が開催された折、アイカさんも招かれて歌いました。
その模様はBS朝日でドキュメンタリー放送されたので、観られた方もいらっしゃるのではないかと思います。

その催し物の後、アイカさんは日本から来られたファンの方々を案内して、中世の面影を留める中部イタリアの小さな真珠のような町アッシジを訪ねました。崖の上にそびえる聖フランチェスコ大聖堂に(もう)で、中世の石畳の坂道を歩いて町の中心部のコムーネ広場に行きました。そこには高い列柱を配したギリシャ建築が建っており、世界中から観光客が訪れていました。今は聖母教会として使われているところです。

そこに来たとき、日本のファンの方々が、アイカさんにカッチーニ作曲の『アヴェ・マリア』を歌ってほしいと願い出ました。ロンドンやフィレンツェでのコンサートで、その歌がよほど印象深かったのでしょう。

他の大勢の観光客もあるし、司祭の許可も必要なので相談すると、司祭は心安く許可してくださいました。アイカさんが心を込めて歌うと、多くの観光客から、「ブラボー!」という声が上がり、アンコールが掛かりました。そこでまた『アヴェ・マリア』を歌うと、またアンコールが掛かりました。みんなアイカさんの歌声に酔いしれたのです。すると今度は司祭が願い出られました。

「実は今夜、修道士たちの会合があるんです。もしよろしければその会合で『アヴェ・マリア』を歌っていただけませんか。修道士たちの疲れが吹き飛びます」

 アイカさんは喜んで夜の会合でも歌わせていただきました。

 

 アッシジでのコンサートはアイカさんにとって蘇りのときだった

 

 私自身はまだアイカさんの歌唱を聴いたことがなかったのですが、アッシジの旅の終わりに『アヴェ・マリア』を聴くことができれば、最高の締めくくりになると思いました。

 アイカさんは急遽計画されたミニコンサートで、『アメイジング・グレイス』や『ジュピター』『グリーンスリーブス』などを披露し、最後に『アヴェ・マリア』を熱唱しました。石造りの教会の重厚な壁にアイカさんの歌声が反響し、渦巻き(スパイラル)しながら天上に昇っていきました。歌う人も泣き、聴いている私たちも感動して泣き、涙、涙のコンサートになりました。

 その頃私は知らなかったのですが、実はアイカさんは乳腺ガンを患っていて、それが転移して首に(こぶ)ができ、甲状腺ガンと宣告されていました。医師は即刻摘出手術を勧めましたが、声帯に影響があると、歌は歌えなくなるかもしれないという懸念も伝えました。

(えっ、もう歌が歌えないの?)

 とんでもない話です。歌を取るか、生存を取るか、アイカさんは悩みました。そして出した結論は、摘出手術はせず、東洋医学で治そうというのです。一か八かです。漢方薬、鍼灸(はりきゅう)、そして瞑想によって自然治癒力を高めて甲状腺がんを克服するつもりでした。

 不安はありましたが、そうした不安よりも、本来あるべき姿にフォーカスし、瞑想によって自然治癒力を高めていきました。アイカさんは後がないという切羽詰まった真剣勝負の最中だったのです。アイカさんはアッシジでのコンサートのことをこう語りました。

「私は自分自身の命が消えるかも知れない不安の中で、母なるマリアに祈りました。

『どうぞ私に今後も歌を歌わせてください。でもそれは私が歌いたいからではなく、あなたの御心を成就し、広めるために歌わせてください』

そうして歌っているうちに、天界からの光に包まれ、自分が溶けて消えてしまうような光一元の奇跡的体験をしました。私の体がまるで天の笛の筒のようになり、膨大な光が通り抜けていったのです。私は歌いながら止めどもなく涙が(あふ)れ出ました。歌えなくなるほどに感極まっていました。私も泣きましたが、聴いてくださっている方々も、何かに打たれたように号泣されていました。たった二十一名の小さな小さなコンサートでしたが、あれほど魂を揺さぶられたコンサートはあとさきありません」

瞑想によって自然治癒力を高めるという治療方法は効果を上げ、首の瘤は外から見てもわからないほどに小さくなりました。アイカさんの甲状腺ガンは自然退縮し、十年を過ぎた現在、ほとんど完治しました。

 

みんなにみ仏が内在されている!

 

私は以前、脳梗塞で倒れ、右半身不随になったとき、孔子の「汝、限れり!」という言葉に助けられました。

「私はついていないんじゃない。この逆境こそが天の導きなのだ。逆境と思えるようなことも天の導きであって、壁を乗り越えさせることで、脱皮させようとしておられるのだ」

そう思えたとき、私は自分が置かれた状況を受け入れ、そこから立ち上がる決意をしました。それが私の人生の転機になり、道が開けていきました。

今度はそれに加えて更なる目覚めがやってきました。

「どの人も〝み仏のいのち〟をいただいている。神道的にいえば、どの人も〝神の分霊(わけみたま)〟であるから尊いのだ。四国巡礼のとき、ある老婆が私を拝んでくださったのは、私の中の〝み仏〟を拝んでくださっていたのだ。

ある人がなにがしかのことを成し遂げ、世の中の称讃さんを得ているからすごいのではない。その人の存在自体が素晴らしいのだ。ある人は何事も成し遂げていないから駄目だと自分を攻めているけれど、自分の中に光り輝く〝み仏〟が内在していることに気づき、自分を礼拝(らいはい)することだ。自分を卑下するのではない! 感謝して拝むことからすべてが始まるのだ――」

そう気づいたとき、私の周りの人みんなからそれぞれのいのちが持っている本来の輝きがあふれ出て、輝いていました。今回の闘病生活はそんな宇宙の真理に気づかせてくれました。

 

深遠な宇宙の仕組みに気付かされて

 

手術中そんな体験をし、ICUで意識が戻り、二日後にさらに一般病棟に移され、歩行訓練のためのリハビリが開始されました。七階の病室からは関東平野の遥か向うに富士山が望めました。迫りくる夕闇にシルエットとなって屹立(きつりつ)し、辺りに凛とした雰囲気を払っている雄姿に心を打たれました。

昔から古人は東洋的諦観(ていかん)を、

()いて、山さらに(かす)かなり

と表現しました。鳥が一声高く啼き、静まり返った山深くに響いていきます。すると自分は改めて深山幽谷にいることに気づきます。

鏡のように静まりかえった湖面に小石を投げ入れると、幾重にも波紋が広がっていきます。それと同じで、一つの出来事が起こると、それによって次のことが大きく喚起され、展開が始まります。私は今回受けた心臓バイパス手術によって深遠な宇宙の仕組みに気付き、自分が地上に送られている使命を再確認しました。

「これからの人生は与えられたものだ。やり残したことがないよう、思う存分仕事をしよう」

と思いました。心臓の手術によって、ポンコツになった肉体のエンジンがリニューアルされ、精神的にも脱皮できました。

東洋思想に「天に()(ぶつ)なし」という考え方があります。天には何一つ()てたものはなく、すべて意味があり、それをしっかり受け止めたとき、状況は大きく好転するというのです。

そう捉えると何も怖いものがなくなり、何であろうとも受け止めようという気持ちになります。私も「天に棄物なし」と肝に銘じて、日々頑張ろうと思います。