2020.7.31 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その5)
イエスが姦淫の女に示した愛
神渡良平
今回も名曲「ユー・レイズ・ミー・アップ」を巡って、雑感をお届けします。「ユー・レイズ・ミー・アップ」はスマホの動画を検索して聴いてください。歌詞の中で使われている「raise」(抱き起す。勇気づける)からこんなことが連想されました。
「ヨハネによる福音書」第八章に、姦淫を犯した現場で捕らえられ、イエスのところに引き立てられてきた女のことが書かれています。律法では姦淫を犯せば石打ちの刑で死刑に処すと定められているので、イエスがユダヤの律法を遵守するのであれば、この女は石打ちの刑にしなければなりません。だから祭司、律法学者、それにパリサイ人などのユダヤの指導者たちは女を引き立ててイエスの前に突き出し、どう裁くのかと迫りました。イエスが反ユダヤ的であると告発するのに、恰好な出来事が起きたのです。
律法とは神が祭司や預言者を通じて示した生活と行動の細かい規範のことで、狭義では『モーセ五書』に依拠します。パリサイ派、もしくはパリサイ人とは、律法を厳格に守り、細部に至るまで忠実に実行することによって神の正義を実現しようとする人々ですが、形式に従うだけの偽善に陥ってしまったので、偽善者の代名詞になってしまいました。
律法学者やパリサイ人が『モーセ五書』を持ちだして裁く限り、誰も反対することができず、姦淫を犯した女は石打ちの刑によって殺されるしかありません。律法学者やパリサイ人は姦淫の女をイエスがどう裁くかを見ることによって、イエスは正統派のユダヤ教徒なのか、それとも異端なのかを判別し、イエス糾弾の根拠としようとしたのです。一歩間違えば、イエス自身が糾弾の矢面に立たされてしまいます。
イエスは身をかがめ、黙って指で地面に何か書かれ、騒ぎに巻き込まれません。祭司や律法学者、パリサイ人がやかましく責め立てるので、イエスは身を起して言われました。誰も責めることはしない、静かな、哀しみさえ含んでいる口調でした。
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げなさい」
ずしりと重たい言葉が発せられました。祭司や律法学者はみんな絶句してしまい、振り上げていた拳を下すことができません。気まずくなって、一人去り、二人去りして、みんないなくなってしまいました。
ついに女だけになると、イエスは身を起して訊かれました。
「女よ、みんなはどこに行ったのか。あなたを罰する者はなかったのですか」
「主よ、……誰もありません」
イエスもひとこと言われました。
「わたしもあなたを罰しません。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」
そこには咎めるような態度は全然ありませんでした。しかし天地の理法の前に厳然と立たされ、もう罪はくり返すまいと、堅く誓いました。
イエスは身をもって女をかばい、助け起こして(raise)くださいました。You raise me up というフレーズは、「主よ、あなたがわたしを助け起こし、気持ちを強く持たせ、背中を押してくださいました」という意味でもあります。こういうふうに一つの曲が二つにも三つにも異なったふうに解釈され、全世界に広がっていきました(続く)。