月別アーカイブ: 2020年8月

中川千都子さんと筆者神渡良平

沈黙の響き (その9)

2020.8.29 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その9)

「言葉こそは人間形成の中核だと気づきました」

神渡良平

 

ユダヤ人が教えてくれた「人生を変える魔法の言葉」

そんな頃、中川千都子さんは友人から、五日市(いつかいち)(つよし)さんの講演録『ツキを呼ぶ魔法の言葉』(とやの健康ヴィレッジ)をプレゼントされました。五日市さんは二十六歳のころ、悩むことがあって心が折れたままイスラエルに旅行したそうです。その旅で一人のおばあさんに出会い、その方の家に泊めてもらいました。その晩、おばあさんに自分の悩みを打ち明けると、

「人生を変える魔法の言葉があるんだけど、あなた、知りたいと思わない?」

()かれました。人生を変える魔法の言葉? そんなものがあるわけはないと思いつつも、教えてくださいと頼むと、意外な返事が返ってきました。すごく簡単なことで、「ありがとうございます」と「感謝します」の二つの言葉をことあるごとに唱えるといいというのです。

半信半疑でしたが、そのおばあさんには妙にその気にさせるものがありました。それ以来、五日市さんはこの二つの魔法の言葉をくり返し言うようになり、人生が驚くほどに好転していきました。

こんな不思議な話は、中川さんがもし切羽詰まっていなかったら、まったく頭に入ってこなかったでしょう。しかしこのときは素直に、「そうなのか、言葉がキーポイントなんやな」と思えました。自分を振り返ってみると、「辛い」「しんどい」「悲しい」「情けない」「運が悪い」「痛い」といった否定的な言葉を使っていたことが多かったことに気づきました。

 

成功した人の多くが、「言葉を変えれば人生が変わる」と本に書いていると、知識としては知っていましたが、このとき中川さんは初めて「ありがとうございます」を日常の中でもっとたくさんくり返してみようと思いました。

 

一人ひとりの魂を拝み、心から感謝できるようになる

心の中で、「ありがとうございます」とくり返し言っていると、ある朝、顔を洗ったとき全然染みないことに気がつきました。何と皮膚炎が治っていたのです。そのときは半信半疑でしたが、これはもしかしたら〝ありがとうございます〟とくり返し言っていたからかもしれないと思い、もう少し続けてみようと思いました。すると次は目の病気が治り、さらに、口内炎や婦人科の病気も治って元気になり、減っていた体重もだんだん元に戻ってふっくらしてきました。

 

何があっても「ありがとうございます」と言っていると、自分の中で驚くべき変化が起きていきました。病欠の期間を終えて会社に復帰すると、会社の入口に守衛さんが立っていました。それまで中川さんは守衛さんのことなど気にも留めず、当然名前も知りませんでした。ところが守衛さんがニコっと笑って、

「お帰りなさい」

と言ってくれたのです。明らかに中川さんが長い病欠を終えて、久々に出勤したと知っていたようです。自分が長い間、気にも留めていなかった守衛さんが、自分のことを気遣ってくれていたとは!

「そのときの感動と喜びは今も忘れられません」

 中川さんの価値観が変化し始めました。

 

 会社に復帰してしばらくたったある日、地下鉄の階段を降りていたとき、みんなはどうしてこんなによくやってくれるんだろうとありがたくて、涙があふれでました。それまで当然だと受け止めていたことが当然ではなく、

「何とありがたいことだろう!」

と思え、一人ひとりに手を合わせて拝みたいほどでした。

「人さまのお陰で、ものごとがうまく回っているんだ。自分が知らなかったところで、助けられていたんだ! 感謝しなかったら罰が当たってしまう」

 そう思うと、踊りだしたいほどでした。新しく何かが動き始め、中川さんの中で物事の受け止め方が変わっていきました。自分が日々の生活で使っている言葉が人間形成の中核なんだと思うようになりました。(続く)


中川千都子さん

沈黙の響き (その8)

2020.8.22 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その8)

「言葉こそは人間形成の中核だと気づきました」①

神渡良平

 人生は予想もしなかったようなさまざまなことが起きるものです。世の中には「ショック療法」という言葉がありますが、そういうことを経験してみると、実に言い得て妙な言葉だなあと思います。

わたしたち人間は否応もなくショッキングなことに遭遇すると、それを乗り越えようとして必死になります。そのお陰で何とか窮地を脱することができ、以来、以前の生き方とはすっかり変わってしまうことが多々あります。

一方で、その危難を乗り越えられなくて死を迎える人があるのも厳然たる事実です。そこには容易には乗り越えられない厳しい分岐点があります。だから安易には「人生の大道」などということは言うことができません。背水の陣を敷いて本気で取り組まないと乗り越えられませんし、死ぬ覚悟で取り組まないと、道は拓(ひら)けないように思います。

わたしたちは試行錯誤をしながら、人生の理(ことわり)を一つひとつ身に着けて、成長しているように思えます。そこで今回から三週にわたって、一人の女性がどうやって新しい生き方を身に着けるようになったかを紹介したいと思います。

突然ガンに襲われた中川千都子さん

 大阪で心理カウンセラー、産業カウンセラーとして活躍し、ラジオ番組も持っている中川千都子(ちづこ)さんもそういう苦渋の期間を経て、新しい生き方をつかんだ人です。中川さんは十年前まで、ある企業で管理職としてバリバリ働き、海外出張にも派遣され、全身をブランド物で身を固めたカッコいいキャリアウーマンでした。

中川さんは小さい時からがんばり屋さんで負けず嫌いでした。お母さんが「あんたはやれないことはない。何やっても成功する」と言って育ててくれたため、がんばったら大概のものは手に入れることができたし、いつもがんばって頂点を極めていました。

仕事でも、女性で初めて管理職として登用され、成功しました。本人はそれでも満足することなく、上を上をと目指していました。

 ところが平成十八年(二〇〇六)九月のある日、乳房のしこりに気づきました。ひょっとすると思いつつ、病院で検診してもらうと、

「乳がんです。即刻手術が必要で、五年は持ちません」

と告げられました。

「えっ、五年ですか! そんな、どうしてなの?」

これまで営々と築き上げてきた人生のすべてが、がらがらと音を立てて崩れていくようでした。

即刻乳房を切除する手術を受けたものの、精神的なショックはとても大きく、手術後も放射線治療と抗ガン剤の治療が続きました。自分の人生はこの先どうなるのか、とても不安でなりませんでした。

 壊れていく自分がどうにもならなかった!

 会社から長期の休みをもらって静養したものの、病院の外には新たな悲しみがありました。

「街を歩いていると、道行く人がみんな幸せそうに見えるんです。特に女性を見ると、この人たちはみなさんきれいなおっぱいをされているんだと思ってしまいます」

そう思うと、辛くて悲しくて、幸せそうな人がやたらまぶしく、サングラスなしでは街を歩けないほどでした。そんな状態ですから、家事などできるはずもありません。会社員のご主人や、当時中学一年生だった息子さんは気を遣って優しく接してくれたものの、心が折れている中川さんはその気遣いさえわずらわしく感じました。

そんなある日、息子さんが体操服を忘れて学校へ行きました。息子さんは普段から忘れ物が多かったので、珍しいことではなかったのですが、なぜかその日は猛烈な怒りが込み上げてきました。その怒りは息子さんが学校から帰ってくるまで止まりませんでした。

夕方、息子さんが「ただいま」と明るく帰ってくるやいなや、中川さんは体操服を入れた袋で息子を叩きまくり、「なんで体操服を忘れるんや!」とわめきました。それ以前は息子さんに手をあげることなどなかったのに、です。

息子さんはとてもびっくりしました。

「お母さんは病気だからこんなふうになってしまった……

と口をぎゅっと結び、「ぼくが我慢したらいいんだ」と叩かれるままにしていました。中川さんは感情が爆発して、自分を止めることができませんでした。(続き)


パウロ

沈黙の響き (その7)

2020.8.15 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その7)

 

ダマスコに行く途上、パウロに起きた異変

神渡良平

 

わたしはこのウィークリーメッセージで、名曲「ユー・レイズ・ミー・アップ」がさまざまなシ-ンで人々を助け起こし、励ましてきたと語りました。初代教会の最大の立役者パウロもこの言葉と切り離すことはできません。パウロもイエスに「ユー・レイズ・ミー・アップ!」と涙を流して感謝した人の一人です。

 

パウロは「人は行いによるのではなく、神の恩恵により、信仰のみによって義とされる」と説いて、ユダヤ教とキリスト教の違いを鮮明にし、キリスト教が成立するのに大きな貢献をしました。アウグスティヌスはこの「信仰義認論」を高く評価し、さらにルターなどの宗教改革者たちが(とな)える「信仰義認論」の核心となりました。パウロはキリスト教が世界宗教として飛躍するうえで決定的な役割を果たしたといえます。

 

パウロがユダヤ教からキリスト教に回心するに至ったダマスコ(現シリアの首都ダマスカス)に行く途上での出来事を、『新約聖書』「使徒行伝」はこのように書いています。

ユダヤ教の正統派ともいうべきパリサイ派の熱心な信徒だったサウロ(パウロのへブル名)は、ユダヤ人でありながら律法を軽視すると見られるキリスト教徒を許しておけず、先頭に立って彼らを責め立てていました。モーセの律法を遵守してユダヤの伝統を守ろうと思ったら、イエスはその伝統を破壊する者にしか見えなかったのです。サウロは大祭司から、ダマスコに居住するユダヤ人の中で、イエスに従う不届きなユダヤ人を拘束して、エルサレムに連行する権限を与えられてダマスコに向かいました。

 

ところがその旅の途上、突然天から強い光が射してサウロを照らし、憂いに満ちた声が臨みました。

「サウロよ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか……」

 普通、敵対する者を詰問するときは難詰調になるものですが、その声にはそんな調子は全然なく、むしろ悲しい響きすらありました。

〈えっ……なぜ、どうして……〉

 サウロはそれが意外でした。その声はあまりに神々しい光から発していたので、サウロは目が(くら)んで昏倒(こんとう)してしまいました。そして倒れたまま、悲しみの声の主に問い返しました。

「あなたは……一体どなた……なんですか?」

「……わたしはお前が迫害しているイエスだ。お前は間違ったことをしている。わたしに反対するなど、そんな無意味なことにお前の貴重な人生を費やしている暇はないんだよ」

 イエスの声色(こわいろ)にはサウロを責める響きは全然ありません。それよりもこの歴史の大きな転換点で、リード役としての役割を失敗してはならないという配慮が感じられました。

 

「さあ、立ち上がりなさい。ダマスコに行けば、そこでお前がこれから何をしなければならないか告げられるだろう」

イエスの声に助け起こされ、立ち上がろうとしましたが、サウロはうろたえました。目が見えなくなっていたのです。まわりの人々に何か声を聴かなかったかと(たず)ねましたが、みんなは口々に何も聴かなかったと答えます。

〈では、あれは幻聴だったのか。そんなはずはない。わたしは確かに聞いた。それに目が見えなくなっている。何かが起こったに違いない〉

 

サウロはとりあえず、他の人々に手を引かれてダマスコ市内に入り、ユダの家に泊まりました。その日起きたことがあまりにもショックで、一体どう解釈したらいいのか、ひたすら祈り求めました。

〈あのまばゆいほどの光に包まれ、絶大な威厳を持ったイエスというお方は一体何者ですか……。これまでわたしは、イエスはモーセの律法を軽んじる者だと思い、それを阻止しようと、急先鋒に立っていましたが、とんでもない思い違いをしていたのではないかと迷っています。どうぞ答えてください〉

両の頬を涙が伝い、床を叩いて祈り求めました。しかし、静寂な空間は何も答えません。小机の上に置かれたランプの炎が揺らいでいます。

 

真実を明かしてくださいと祈り求める声は来る日も来る日も続き、食べることも飲むこともできません。その間、イエスは信徒のアナニヤに現れて、サウロの目を癒してくれるよう頼みました。

「アナニヤよ、ユダの家にサウロというタルソ(びと)が泊っている。わたしはサウロに、お前が訪ねてきて目に手を当てて祈り、再び見えるようにしてくれると伝えている。訪ねていって介抱してあげなさい」

でも、アナニヤはその要請に素直に従うことができません。

「主よ、あの人はエルサレムで信徒たちにどんなにひどいことをしたか、わたしは多くの仲間から聞いています。彼がダマスクにやって来たのも、祭司長からキリストに従うユダヤ人を捕縛して、エルサレムに移送する権限を与えられたからです。そんな(やつ)の手当なんかできません」

 

ところが主はアナニヤの抗議には意に留めず、サウロは自分が選んだ者だと言われました。

「あの人は異邦人、王たち、そしてイスラエルの子たちにも、わたしの名前を伝える者としてわたしが選んだ者です。わたしの名前を伝え広めるために、これからサウロは大変苦しむことになります……」

アナニヤはようやく納得し、サウロの目を癒して元通り見えるようにしました。

目が見えるようになったサウロは、アナニヤのようなキリスト教徒に与えられている不思議な霊力に心を動かされ、洗礼(バブテスマ)を受けて回心しました。

 

この劇的な回心以後、サウロはキリストの熱心な(あか)(びと)となり、特に異邦人への布教を使命として、小アジア、マケドニアなど、エーゲ海沿岸一帯に前後三回にわたって福音を伝えました。しかもパウロが小アジアの信徒たちに書き送り、心の持ち方について説いた深遠な手紙が新約聖書の中核部分となり、キリスト教の根幹を形成しました。

 

パウロもまたイエスに「ユー・レイズ・ミー・アップ!(あなたがわたしを助け起こしてくださいました)」と告白し、その後の人生すべてをかけて恩返ししました。「つまづき倒れているわたしを抱き起し、励まし、肩を押してくださったのは、あなたでした」――わたしたちも友人にそう言われるように、誠心誠意を尽くしたいものです。

 

名曲「ユー・レイズ・ミー・アップ」にまつわる話はこれで終わり、次回から別なテーマに移ります。


カミーノイメージ画像

沈黙の響き (その6)

2020.8.8

スペインの巡礼道カミーノをもう一度歩こう!

 

闘病生活中に書き上げた『沈黙の響き――宇宙の呼び声』はPHP研究所から秋には出版されることになりました。書名は多少変更されるかもしれません。私が住んでいる千葉県佐倉市は印旛沼という名勝があります。私の自宅からクルマで15分ぐらいの距離です。

 

いまこの湖畔を時間が許す日は汗だくだくになって、4時間ぐらい歩いています。お陰で真っ黒に日焼けしてしまいました。杖をついての歩行なので、1時間に2キロぐらしか歩けませんが、来年の春はスペインの巡礼道カミーノ800キロを歩く予定です。

 

1日20キロ歩くとして、40日はかかります。途中、怪我や病気で休まなければならない日もあるでしょうから、60日間、2ヵ月はかかるかもしれません。

 

実は先月、NHKで三晩にわたってカミーノを特集しており、それを見ている間、53歳のとき、カミーノを歩いたことを思い出し、そうだ、カミーノをもう一度歩こうと思いました。

しかし、昨年9月、心臓の冠動脈のバイパス手術をやり、すっかり体力が弱ってしまいました。歩けないどころか、杖をつくようになってしまいました。

 

幸いなことに、いつも通っていたスポーツジムが6月に解禁になったので、そこに通って体力回復を計っていました。そのうちに距離を歩く必要性を感じ、印旛沼の湖畔のサイクリングロードを歩くようになりました。

 

広大な印旛沼の広がりを満喫しながら歩くと、喜びを感じます。ここはかつて小出門下生の有森裕子選手や高橋尚子選手が金メダルを目指してランニングしていたところで、「裕子金メダルロード」とも呼ばれています。

 

その道を歩いていると、多くのサイクリング選手やマラソン選手とすれ違います。この炎天下、立派だなあと感心し、私も健康で若い息吹を満喫しています。