月別アーカイブ: 2020年10月

沈黙の響き (その18)

2020.10.31 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その18

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑦

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

 ≪家出した田所君≫

 どんなにがんばっていても、人生はときに一筋縄ではいかないことが起きるものです。みんなに好かれて、うまくいっていたように見えても、どこかで掛け違いが生じてしまうと、ガタガタと崩れて、にっちもさっちもいかなくなったりします。

 田所君(仮名)の場合もそうでした。無事に学校を卒業し、ちゃんとした会社に就職でき、万端うまくいっているように見えたのですが、ある疑問にぶつかったことから、あらゆるものから逃避したくなり、仕事を投げだして突然家を出奔してしまいました。八方手を尽くして探しましたが、ようとしてわかりません。諦めかけていたとき、大分から親に手紙がありました。

「先生、あの子の居所が見つかりました。別府に行っていました」

 それで両親や徳永先生がいっしょになって、別府駅まで出迎えに行きました。

「お前なあ、随分探したんぞ! 何事もなくて、元気でよかったなあ」

 そう言って、泣きじゃくる田所君を抱きしめたとき、徳永先生はこみあげてくるものを押さえることができませんでした。

 教え子が路頭に迷い、助けを求めているとき、思い出してくれる教師。

 ああ、教師は聖職でなくて何ぞや――。

 徳永先生は改めて子どもたちの“助け手”でありたいと思いました。

 

≪突然襲った次男の死!≫

「コウヤシス シキュウコラレタシ タクオ」

 昭和昭和38年(1963)4月25日、横浜にいる長男の拓夫さんから突然電報が入りました。信じられない電報でした。取るものも取り上げず、夜行列車「さくらじま」に飛び乗って八代を発ち、息子の勤務地の静岡県富士市に向かいました。夜行列車で一睡もできず、あれやこれや思い惑っていた徳永先生を駅で出迎えた拓夫さんは、抱きかかるようにして、紘也さんの遺体が安置されている会社の寮に向かいました。

 

いろいろ聞いてみると、紘也さんは同僚が病気で夜勤に行けないというので代わりに行こうと、夜の9時過ぎ、自転車に乗って出かけました。ところが車輪が石に乗り上げてしまってバランスを崩し、猛烈な勢いで橋のコンクリート部分にぶつかって顔を痛打し、暗渠(あんきょ)に落ちて急死したのだといいます。

 

 志を達しないまま、冷たくなってしまった紘也さんに対面していると、今まで経験したこともない思いが湧きおこり、ああ、死んだんだ! という思いが体の中を吹き抜けていきます。悲しんでも悲しんでも悲哀は消えるものではありません。悲嘆に暮れた徳永先生は、

「ああ、森先生ならばこんなとき、どうなさるのだろうか」

 と恩師のことを偲びました。

 

徳永先生はこの苦しかった時期のことを手次のように書いておられます。

「私が苦しんでいる者の心が少しはわかりだし、学歴はなくても誠実に生きている人の偉さがわかりかけ、そして自分に与えられた天地に安らぎを覚え始めたのは、山また山の昭和38年の出来事があったからでした」

 

 徳永先生の深い悲しみは先生を人生の深奥へと導いていきました。

「次男の死は私の“生”に対する考えを根本的に変えました。そしてこの悲しみを何によって埋めようかと考えました。すると不思議に親のない子が頼ってくるようになりました。また学校では陽の当たらない子たちを抱きかかえようと思いました。それらの子どもが育つのがわが子への供養だと考えられるようになりました」

 

 紘也さんは大田郷小学校で教えたごぼくの子どもたちと同じ年でした。たくましく成長していくごぼくの子らを見るとき、

(ああ、紘也が生きていたら……)

 と連想しないことはなかったのです。悲しみを通さなければ、ものごとは見えてこないといいますが、それは徳永先生の場合も真理でした。辛く悲しい出来事も先生の魂を深化させ、よりいっそう多くの教え子たちと分かち合えるようにしていきました。

 その悲しみを追うように半年後の9月、今度は徳永先生自身の下腹部が異常な痛みに襲われ、転げまわって苦しみました。診察の結果は輸尿管結石。即手術。一命は取り留めたものの2ヵ月間、入院しなければなりませんでした。そのことを通して、いかに生命がはないものであるか、誰も明日のいのちは保証できないと痛感しました。森先生は常々、

「年々死を自覚してこそ、生は充実する」

と言われていましたが、そのことの意味合いをはっきり知りました。

 

 ≪君看よ、双眼の色≫

 相田みつをさんが「(うれい)」と名づけた詩にこう書いています。

 

  むかしの人の詩にありました

  君()よ、双眼の色

  語らざれば、憂い無きに似たり

  憂い……が無いのではありません

  悲しみ……が無いのでもありません

 語らない、だけなんです

  語れないほど、深い憂い――だからです

  語れないほど、重い悲しみ――だからです

  (中略)

  文字にも、ことばにも到底表せない

  深い憂い――を

  重い悲しみ――を

  心の底深く、ずっしり沈めて

  じっと黙っているから

  (まなこ)が澄んでくるのです

  (後略)

  君看よ、双眼の色

  語らざれば、憂い無きに似たり

 

 喜びも悲しみもその人を深化させるもののようです。(続く)

次男紘也さんの墓
次男紘也さんの墓


沈黙の響き (その17)

2020.10.24 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その17)

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑥             

  超凡破格の教育者・徳永康起(やすき)先生

神渡良平

 

 ≪同級生を送り出す≫

11月8日、ある女子は日記にこう書きました。

「昼の掃除が終わってから、大阪に転校する井村さんを送って、徳永先生といっしょに女子は八代駅まで見送りに行きました。男子は途中の踏み切りで見送ることになっていました。

駅まで行くと、井村さんが泣きだしてしまいました。いよいよ汽車が出発する時間になり、みんな泣いています。気丈な入口さんまで泣いています。私は、今泣いては井村さんを余計に悲しませることになると思い、ぐっとこらえていました。井村さんとの別れは私にとっても辛かった。汽車が発車すると、井村さんは泣きながら手を振りました」

徳永先生は井村さんが卒業を目前にして転校しなければならない事情を知っていたのでしょう。その日記にこうコメントを書きました。

「井村さんもこれから先、苦労するだろう。苦しまねば光らぬ――お互い人間です」

 苦しむことが問題じゃない。それを乗り越えてこそ光るのだ――そんな覚悟が伝わってくるコメントでした。やさしいだけじゃなく、現実に負けないだけ強くなければならない。

 

森先生の言葉は折につけて徳永先生の心を引き締めました。

「真の教育者は、一眼はつねに民族の行く手を展望しつつ、他の一眼は、自己の眼前に居並ぶいとけなき子らの魂への浸透に向けなければなるまい」

 師の的確な言葉は徳永先生をますます思いやりの深い、しかし強い教師に仕立て上げていきました。

 

 ≪卒業生たちの心の支えになった恩師≫

 徳永先生の事績で特筆することがあります。先生が担任したクラスが進級したり卒業すると、そのまま「サヨナラ」するのではなく、生徒たちは自ずからグループとなり、相互に励まし、助け合うようになりました。前に紹介した免田小学校の卒業生は「免田十年会」を作りました。というのは、先生が「この十年」ということを強調していたからです。

 

「人生には十年ごとに節がある。卒業後の最初の十年間を大切にすることで、学歴を超えることができるんだ」

 そして10年目、教え子のほとんどが社会人となったころ、彼らに先生のガリ版で刷った手作りの文集が届きました。その文集は「先生がいつまでも覚えておいてくださっている!」と、どれほどみんなを励ましたかわかりません。

 

八代市の太田郷小学校で5年生、6年生と2年間担任してもらった生徒たちも「ごぼく会」を作りました。これは5年5組、6年5組、そして1955年卒業と「5」という数字に縁があるので、卒業記念には5本の木を寄贈して植えたことにちなんだ名前です。そして卒業するとき、徳永先生は自らガリ版の原紙を切って、卒業生たちの記念文集『ごぼく1号』を作りました。

 

労をいとわず、鉄筆でガリ版を切って、謄写版印刷をして、ホッチキスで止め、一人ひとりに手渡されました。だから先生の右手の中指には鉄筆だこができていました。生徒たちが感激しないはずはありません。生徒たちは人のために苦労することを、先生を通して学んだのです。徳永先生がいつしか「鉄筆の聖者」と呼ばれるようになったのは、そういう努力を陰ながらされていたからです。

 

 ≪祝電「ニュウガクオメデトウ」≫

卒業生の一人、長瀬孝子(旧姓西村)さんが中学校に入学したとき、先生から一通の祝電が届きました。そのときの驚きと喜びを長瀬さんはこう書いています。

「太田郷小学校を卒業し、それぞれ一中、二中、五中、白百合中学と分かれ、私はただ一人、五中に入学しましたが、見知らぬ先生と生徒ばかりで、心細さでいっぱいでした。そんなとき、先生から『ニュウガクオメデトウ』と祝電が来ました。高校か大学の入学ならともかく、たかが中学入学に際して、それもできの悪い教え子に対してです。先生が、私たちが卒業したあとも心にかけてくださっていると知ったとき、うれしさのあまり、胸に熱いものがこみ上げてきました」

 

 徳永先生は、長瀬さんが実母と生別し、継母のもとで生活するようになって、あるいは愛情に飢えているかもしれないと思い、乾ききった心に一滴の水を注ぐことができればと祝電を打ったのでした。

 母という存在は人間にとって特別な存在です。徳永先生にとってもそうでした。師範学校を卒業して教職につく先生を、「人さまのお子を大切にするように」と言って送り出してくれました。それが徳永先生の「心願」となりました。(続く)

5年5組の卒業記念の植樹


沈黙の響き (その16)

2020.10.17 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その16

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑤

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

 ≪便所磨きは徳永学級の得意技≫

 徳永先生は教職についてから15年目、36歳の若さで校長に抜擢されました。2つの学校で約5年間校長を勤めましたが、行政的な用事が多くて困りました。そこでもっと直接子どもたちに接して学び合い、共に成長したいと考え、“一教員”への降格を願い出ました。前代未聞のことで、県の教育委員会は困りました。

 

それでも先生の希望が受け入れられ、太田郷小学校に赴任しました。徳永先生にとって太田郷小学校は一平教員に戻って本物の人間教育をしようとした最初の学校だったので、思いがこもりました。

 

八代市の(おお)()(ごう)小学校は2千人に近い生徒数の大規模校です。5年5組の徳永先生の学級は便所掃除を受け持ちました。先生の学級では“便所当番”とは言わずに“便所磨き”と呼びました。先生もいっしょになって便器を磨きました。

 

校庭の片隅に八角便所と呼ばれていている便所があり、とても汚れていました。徳永先生の発案で、みんなで掃除することになりました。みんなはいつもより早く登校し、瓦の欠片(かけら)で壁や床のしつこい汚れをそぎ落とし、数日後にはピカピカになりました。

あるとき便所に行くと、とてつもなく大きな(ふん)がしてあり、便器にかかって汚れていました。

「こりゃほんまに人間がしたんかな!」

 と、先生もみんなも驚き、大笑いして糞を洗い落としてきれいにしました。こうしてみんなにとって便所は汚いところではなく、ピカピカに磨き上げるところになり、だんだん5組が誇りとするようになりました。

 

 ≪犬を飼っていた徳永学級≫

 徳永先生が担任をしている5年5組は毎日日記を付けて、朝提出しています。その中に井村知子さんが学級で飼っている子犬のゴロ(五郎)のことを書いています。

「五の五には犬が一匹います。名前はゴロでとてもかわいらしいのです。ろうかをふいていると後ろから走ってきます。女子も男子も宝物のようにかわいがっています。明日も犬がいると思うととても楽しみです」

 

 ゴロは日本犬の雑種で、まだ生後3、4か月の子犬です。校庭に迷い込んできたので、みんなで育てようということになりました。ゴロの首輪に誰かが、「ぼくは50人の一人です」と書いていたので、徳永先生は吹き出してしまいました。徳永先生は、「動物をかわいがる子どもの気持ちを妨げてはならないし、子犬を通じて子どもたちのものの見方も向上するのでは」と思い、飼うことを許しました。休み時間になるとみんなで汗だくだくになって運動場を走らせ、食事は給食のミルクやパンを与えました。それに自宅からみんながご馳走を持ってくるので、余り過ぎるくらいです。

 

徳永先生は破顔して喜びました。

「ゴロが来てから、50人の気持ちが一つに固く結ばれた。みんな明るく、喧嘩はなくなったし、何よりも気持ちが和やかになって、素直さが増したよ」

 そしていつしか“クラスの歌”が生まれ、

「♪5年5組は、いつでも、どこでも、みんなの心が輪をつくる……」

 と歌いました。このユニークな「愛犬学級」のことを聞きつけて、を朝日新聞が取材に来て、新聞に載りました。こうしてゴロは学校中の人気者になりました。

 

 ≪パイロットになった教え子≫

徳永先生の教え子に、父親が無く、母親の手一つで育った植山洋一君がいました。ひねくれて育ってもおかしくない環境でしたが、

「たとえ父親が無かったとしても、この子を一人前の立派な人間にしなければならない」

という母親の祈りに支えられて、曲がることなく立派に育ちました。人をお世話することに少しも労を惜しまない植山君は言います。

 

「私には学歴も何もありませんが、ただ一つ、宝の母があります。私を育てるために、母はどんなに苦労したかわかりません。私は母に連れられて、足手まといになりながら、母と一緒に雑貨を売り歩いたこともありました。母は昼間、雑貨を売り歩き、夜は針仕事をしていました。

 

でもだんだん目が悪くなってきたので、私が母の手を引いて雑貨を売り歩きました。母は乏しい収入の中から工面して、半月ほど私を幼稚園にやってもらったことが、今でも忘れられません。小学校に上がると、目の悪い母のために、20本ぐらいの針に糸を通して学校に行きました」

 

そんな植山君に徳永先生の言葉は身に沁みました。

(みょう)()の芽が出るころ、私は決まって母のことを思います。祈ることだけ知って、その他のことは知らなかった母でした。だから母の最後の写真一葉は肌身離さず持っています」

 植山君自身がそうだったからです。

植山君は母に学資の迷惑をかけないで自分で自分の道を切り拓こうと、中学を卒業すると陸上自衛隊に入り、後に輸送ヘリの操縦士となって、普賢岳災害、阪神淡路大震災などの復興にも従事しました。そして忙しい隊務のかたわら、クラス会の小学校卒業15周年記念文集の編集を引き受け、大阪在住の教え子5人で見事にやり遂げました。

 

森先生の言葉は折につけて徳永先生の心を引き締めました。

「真の教育者は、一眼はつねに民族の行く手を展望しつつ、他の一眼は、自己の眼前に居並ぶいとけなき子らの魂への浸透に向けなければなるまい」

 師の的確な言葉は徳永先生をますます思いやりの深い教師に仕立て上げていきました。先生を囲む卒業生たちの集まりは、太田郷ごぼく会、免田十年会、伊牟田大木会、大阪ごぼく会、ごぼく八代会、阿蘇ごぼく会と増えていきました。植山さんは卒業後66年になる現在も、クラス会の事務局として会の連絡をとっています。(続く)

 

上自衛隊の大型ヘリの前で沖縄・石垣島の子どもたちと写った植山洋一さん上自衛隊の大型ヘリの前で沖縄・石垣島の子どもたちと写った植山洋一さ


沈黙の響き (その15)

2020.10.10 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その15

「教育はいのちといのちの呼応です!」④

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

≪病床に残された日記≫

 徳永先生は山の分教場の次に、(めん)()村(現あさぎり町)の免田小学校に3年間勤めました。この教え子たちは、卒業後10年間たとい血の涙を流しても頑張ろうと約束し、「免田十年会」が結成されました。

 

その中に田中保という生徒がいました。田中君は母子家庭で、卒業後、家の働き手として生活を支えるようになった矢先、病のために亡くなってしまいました。田中君は死の二日前、昏睡状態に陥りました。徳永先生が駆けつけると、突然目を開けて先生を凝視し、半身を起こして、「先生、せんせーい!」と言って抱きつきました。そして夢や幻でないことを確認するように、先生の腕や肩をいとおしそうに撫でさすりました。でも、田中君は看病の甲斐なく、静かに息を引き取りました。

 

彼の病床から「徳永先生手跡」と書いたノートが見つかりました。これは彼の日記の後に、徳永先生が赤ペンでコメントを書いていたものを切り抜き、日時やどんな時にという解説が付け加えてありました。

 

徳永先生は生徒との一対一の呼応は日記以外にないと思い、生徒が朝提出した日記の末尾に、赤ペンで丹念に感想を書いていたのです。それを田中君は大事にして、病床の枕元に置いていたのでした。このことから、徳永先生は日記の末尾に付けるコメントも、あだやおろそかに書いてはならないと思い、いっそう丹念に書くようになりました。

 

「あの声、あの目の輝き、あの握力は忘れることができません」

と徳永先生は涙を隠しません。田中君はかけがえのない絆とはどういうものか、身をもって教えてくれたのでした。

 

≪生徒たちの日記に書き添えられた先生の感想≫

田中君も書いていたように、徳永先生は生徒一人ひとりの日記に赤いインクで丹念に感想を書きました。徳永先生は日記ほど、生徒一人ひとりのいのちと呼応し合うものはないと思っていたからです。生徒たちはその感想を読むのが楽しみで、心を込めて書きました。

通信簿は単に5段階の評価付けをするだけではなく、観察指導内容を詳細に示すためにページを張り足して長所をほめ、努力すべき方向性を示されました。だから生徒たちは通信簿のコメント欄を読むのが楽しみでした。例えば太田郷小学校の横田忠道君の通信簿にはこういう観察が書き添えてありました。

 

「今までの日記に、先生が赤いインクで書いたものを読んでごらん。先生が君の進み方をどんなに楽しみにしているか、よくわかると思う。体がとても強くなったね。これで一安心だ。どもりが近ごろ少しも聞かれなくなったよ。心が落ち着いてきた証拠だね。君の伸びを楽しんでいる」

こんなコメントを読んだら、誰でも自分は大切にされていると思うでしょう。「一人ひとりに対応する」――これが徳永先生の姿勢でした。

 

≪石牟礼道子さんとの出会い≫

 昭和20年(1945)、()(しき)小学校に赴任した徳永先生は生徒たちを教えるかたわら、村内の実照寺に開設されていた代用教員錬成所でも授業しました。そこで(いし)牟礼(むれ)道子さん(旧姓吉田)に会いました。

 

悩み多き女学生だった石牟礼さんは戦争のこと、国家のこと、人生のことを問いかけ、その悩みに徳永先生は真摯に向き合ってくれ、2人の間を手紙が何度も往復しました。石牟礼さんはまだ16歳でしたが、とても非凡なものを感じました。石牟礼さんが戦争孤児を引き取って育てた話を聞いて、徳永先生はそれを文章にまとめるよう薦めました。そして書き上がったのが石牟礼さんの初めての習作『タデ子の記』です。

 

昭和44年(1969)1月、石牟礼さんは『苦海浄土――わが水俣病』(講談社)を、方言を駆使して書き、鎮魂の文学として絶賛され、第一回大宅(おおや)壮一(そういち)ノンフィクション賞を与えられましたが辞退しました。副賞に2千ドルの賞金と飛行機による世界一周の恩典が与えられているのに、水俣病患者の救済の目途が立たない限り、賞を受けるわけにはいかないというのです。いかにも肥後もっこすらしい理由です。

その翌年、徳永先生は『タデ子の記』をガリ版で刷って石牟礼さんに贈呈しました。石牟礼さんはこの習作が突然、25年ぶりに出現したことに驚き、早速先生に電話しました。

「あれは私がきちんとした文章で書いた最初の物語です。原稿を保存していてくださっていてありがとうございます」

 

そして『不知火(しらぬい)おとめ』(藤原書店)に徳永先生へ宛てた若いころの手紙11通を載せ、師の愛に感謝しました。また「幻の処女作」は『石牟礼道子全集』(藤原書店)にも収録されました。また昭和43年(1973)にはアジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞を受賞しました。(続く)

徳永先生が出された年賀状徳永先生が出された年賀状

 


沈黙の響き (その14)

2020.10.3 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その14

「教育はいのちといのちの呼応です!」③

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

 ≪切り出しナイフが無くなった!≫

 話は前後しますが、戦前のことです。徳永先生は一人ひとりの生徒が傷つかないようにとても心を配りました。そのことを示す好例のエピソードがあります。

あるとき、学校で工作用に切り出しナイフが必要になりました。みんな親にお願いして買ってもらいました。ところがA君はそれを親に頼むことができませんでした。決して貧しい家庭ではなかったのですが、頭のできがよかった兄さんと比べられて、A君は「何とお前はぼんくらなんだ」と叱られてばかりいました。

 

学校でお金が要るとき、長男が頼むと快く出してくれるのに、A君が頼むと渋い顔をされます。だから言いだすことができず、おとなしい同級生のナイフを盗みました。

その子が「ナイフが無くなった」と騒ぎだし、当然クラスの誰かに嫌疑がかかりました。これはまずいと思った徳永先生は昼休みになると、「みんな外で遊んできなさい」と教室の外に出し、疑わしい生徒の机に行き、「彼でなければいいが……」と願いながら、机のフタを開けました。すると刃はキラキラ光って新品なのに、さやは削って墨を塗り、古く見せようとしたナイフが見つかりました。

 

徳永先生はA君の家庭の状況をよく知っていたので、親に頼めなかったA君の事情を思い、かわいそうになりました。そこですぐさま自転車で学校の近くの文具店に行き、同じ切り出しナイフを買って帰ると、無くなったと騒いでいた生徒の本の間に挟み、机の一番奥に入れました。

 

 昼休みが終わってみんなが校庭から帰ると、徳永先生は、無くなったと騒いでいた生徒に言いました。

「君はあわて者だから、よく調べてみなさい。無くなったといわれたら、他の者は気持ちが悪いからね」

 するとその子は机の奥まで探し、教科書の間に挟まっていたナイフを見つけ、

「あった!」

 と大喜びし、みんなに「すまなかった」と詫びました。徳永先生が盗んだ生徒をちらっと見ると、涙をいっぱいためて徳永先生を見ていました。先生はひと言もその生徒を責めませんでした。

 

 ≪墓前に添えられた八重くちなしの花≫

 昭和19年(1944511日、ニューギニアに出撃したA君は、明日はいよいよ米軍と空中戦というとき、もはや生きて帰れないと思い、徳永先生に手紙を書きました。

「先生はあのとき、ぼくをかばって許してくださいました。本当にありがとうございました。死に臨むにあたって、先生にくり返し、ありがとうございましたとお礼を申し上げます」

 そして最後に書き添えてありました。

 

「先生、ぼくのような子どもがいたら、どうぞ助けてやってください。先生、本当にありがとうございました。さようなら」

 そしてホーランジャでの米軍との空中戦で(さん)()したのです。

 

 徳永先生は八重くちなしの苗を買い求めて、彼の墓前に植えました。

「八重くちなしの花は香りがよくて、土の中で眠っている君の魂まで届き、芳香で温かく包んでくれるだろうと思って……。この花が咲くころ、きっと君は生きていたころ、いろいろ苦しかったことを思いだすだろう。だから君のお墓は八重くちなしの匂いで包んでやりたいんです」

 

 徳永先生の教え子の中からたくさんの戦死者が出ました。彼らの墓前にも植えました。(続く)

玄関前にたたずまれる徳永先生ご夫妻