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沈黙の響き (その17)

2020.10.24 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その17)

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑥             

  超凡破格の教育者・徳永康起(やすき)先生

神渡良平

 

 ≪同級生を送り出す≫

11月8日、ある女子は日記にこう書きました。

「昼の掃除が終わってから、大阪に転校する井村さんを送って、徳永先生といっしょに女子は八代駅まで見送りに行きました。男子は途中の踏み切りで見送ることになっていました。

駅まで行くと、井村さんが泣きだしてしまいました。いよいよ汽車が出発する時間になり、みんな泣いています。気丈な入口さんまで泣いています。私は、今泣いては井村さんを余計に悲しませることになると思い、ぐっとこらえていました。井村さんとの別れは私にとっても辛かった。汽車が発車すると、井村さんは泣きながら手を振りました」

徳永先生は井村さんが卒業を目前にして転校しなければならない事情を知っていたのでしょう。その日記にこうコメントを書きました。

「井村さんもこれから先、苦労するだろう。苦しまねば光らぬ――お互い人間です」

 苦しむことが問題じゃない。それを乗り越えてこそ光るのだ――そんな覚悟が伝わってくるコメントでした。やさしいだけじゃなく、現実に負けないだけ強くなければならない。

 

森先生の言葉は折につけて徳永先生の心を引き締めました。

「真の教育者は、一眼はつねに民族の行く手を展望しつつ、他の一眼は、自己の眼前に居並ぶいとけなき子らの魂への浸透に向けなければなるまい」

 師の的確な言葉は徳永先生をますます思いやりの深い、しかし強い教師に仕立て上げていきました。

 

 ≪卒業生たちの心の支えになった恩師≫

 徳永先生の事績で特筆することがあります。先生が担任したクラスが進級したり卒業すると、そのまま「サヨナラ」するのではなく、生徒たちは自ずからグループとなり、相互に励まし、助け合うようになりました。前に紹介した免田小学校の卒業生は「免田十年会」を作りました。というのは、先生が「この十年」ということを強調していたからです。

 

「人生には十年ごとに節がある。卒業後の最初の十年間を大切にすることで、学歴を超えることができるんだ」

 そして10年目、教え子のほとんどが社会人となったころ、彼らに先生のガリ版で刷った手作りの文集が届きました。その文集は「先生がいつまでも覚えておいてくださっている!」と、どれほどみんなを励ましたかわかりません。

 

八代市の太田郷小学校で5年生、6年生と2年間担任してもらった生徒たちも「ごぼく会」を作りました。これは5年5組、6年5組、そして1955年卒業と「5」という数字に縁があるので、卒業記念には5本の木を寄贈して植えたことにちなんだ名前です。そして卒業するとき、徳永先生は自らガリ版の原紙を切って、卒業生たちの記念文集『ごぼく1号』を作りました。

 

労をいとわず、鉄筆でガリ版を切って、謄写版印刷をして、ホッチキスで止め、一人ひとりに手渡されました。だから先生の右手の中指には鉄筆だこができていました。生徒たちが感激しないはずはありません。生徒たちは人のために苦労することを、先生を通して学んだのです。徳永先生がいつしか「鉄筆の聖者」と呼ばれるようになったのは、そういう努力を陰ながらされていたからです。

 

 ≪祝電「ニュウガクオメデトウ」≫

卒業生の一人、長瀬孝子(旧姓西村)さんが中学校に入学したとき、先生から一通の祝電が届きました。そのときの驚きと喜びを長瀬さんはこう書いています。

「太田郷小学校を卒業し、それぞれ一中、二中、五中、白百合中学と分かれ、私はただ一人、五中に入学しましたが、見知らぬ先生と生徒ばかりで、心細さでいっぱいでした。そんなとき、先生から『ニュウガクオメデトウ』と祝電が来ました。高校か大学の入学ならともかく、たかが中学入学に際して、それもできの悪い教え子に対してです。先生が、私たちが卒業したあとも心にかけてくださっていると知ったとき、うれしさのあまり、胸に熱いものがこみ上げてきました」

 

 徳永先生は、長瀬さんが実母と生別し、継母のもとで生活するようになって、あるいは愛情に飢えているかもしれないと思い、乾ききった心に一滴の水を注ぐことができればと祝電を打ったのでした。

 母という存在は人間にとって特別な存在です。徳永先生にとってもそうでした。師範学校を卒業して教職につく先生を、「人さまのお子を大切にするように」と言って送り出してくれました。それが徳永先生の「心願」となりました。(続く)

5年5組の卒業記念の植樹