日別アーカイブ: 2020年11月7日

徳永先生と教え子たちの強い絆を描いた卒業生の文集『ごぼく』

沈黙の響き (その19)

2020.11.7 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その19

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑧

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

≪「元祖複写はがき」と呼ばれて≫

森先生はあるとき徳永先生に「複写はがき」を書くように勧められました。複写はがきとはカーボン紙を使って複写式でハガキを書くことで、書いた内容が手元にストックされる仕組みです。

でも夜は校務や父兄の相談や添削があって、なかなか書く時間がありません。そこで早朝3時に起きて書くことにしました。一枚たりともなおざりなはがきにしたくなく、宛名は必ず筆で書きました。複写はがきを書くことが登校前の日課になり、13年間で460冊、約2万3千通となりました。

 

毎日分厚いはがきの束を配達する郵便局員が、

「これだけに返事を出すだけでも、はがき代が大変でしょう」

とねぎらうと、

「いえいえ、これらの手紙を配達してくださっているから、とても助かります」

 と逆にねぎらわれて、恐縮したそうです。現在では全国各地で「はがき祭り」が行われるようになり、複写はがきの「元祖」と呼ばれています。

 

≪『教え子みな吾が師なり』が刊行される≫

 徳永先生は太田郷小学校ごぼく会の生徒たちの中学卒業記念に、ガリ版刷りのB5版縦型の手作り冊子『ごぼく2』を、さらに中学卒業10年記念に『ごぼく3』を出して、みんなを激励されました。また同級生の一人が不慮の死で亡くなったときは、みんなの文章を集めて追悼号を出されています。3号まではまったく先生の努力によります。

 

大阪で森信三先生を迎えて大阪ごぼく会を行った際、実践人の会員で尼崎市の前川守先生のすすめもあって、今度は卒業生たち自身の手によって、369ページにも及ぶ小学校卒業15周年記念号『ごぼく4』が作られました。そこには徳永先生がいつも生徒たちに語っていた言葉が綴られていました。

「この広い世界に“自分”は一人しかいない。そして自分を育てるのは自分である」

その編集を担当した、当時大阪に在住していた植山洋一さんは「徳永先生と五木会」と題してこう書いています。

 

「人生につまずきかけたり、家庭の不孝など、悩み困っている者があると、徳永先生はすぐさま来て慰め励まし、本人がその不幸や苦しみから立ち直るまで、真剣に話してくださいました」

徳永先生と卒業生たちのいのちの響き合いを描いたこの冊子は教育者の間でたいへん評判となり、例えば大阪府堺市の辻屋弥三郎先生はこう書いています。

「教え子を師とし、教え子に詫びるなど、切々たる情がほとばしり出ており、今の日本の教育界に光るただ一つの星のような気がします。本当に頭がさがります」

 

 ≪教育は教師のいのちと生徒のいのちの共鳴だ≫

同じ熊本県菊池郡の工藤誠一先生はお礼の手紙にこう書かれました。

「ぴたりと引き付けられたのは柴藤清次さんの一節で、息もつかぬほど、一気に読みました。“名もなき民”のまごころの交流が流露しておりました。特別な優等生でもなさそうな、それも30に足らないぐらいの人たちがよくもすらすらと書けるものだと驚いています。日記をつけるなど、小さな努力の積み重ねがこうなったのでしょうか」

そして奥さんのつぶやくような感想を書き添えておられます。

「偉い人やな――徳永先生は。こんな人がこの日本におられるのかな――。信じられないくらい。小学校時代、わずか1、2年間担任されたぐらいで、こうもかわるものだろうか」

 

 そして尼崎市の前川守先生は20部注文して、植山洋一さんにこう書かれました。

「日本の教師の中で誰がこの喜びを味わい得たでしょう。多少の師弟のつながりはあっても、五木(ごぼく)の会員と徳永先生との固い絆で結ばれているものは、よもや他にはないのではないかとさえ思われるのです」

 

 あるいは東京都の()(へい)(かず)(つぐ)先生は徳永先生にこう書かれました。

「昨夜、『ごぼく』を味読し、一種の亢奮(こうふん)からでしょうか眠れず、午前2時ごろまで読みました。教育者というものは、ここまでくれば、地位とか、世間的名誉とか、物的財産とか――そんなものは、はるか断崖の下の方に眺められることになりますね」

 

だから500部刷ったのにまたたくまに無くなってしまいました。森先生は『ごぼく4』を激賞し、こう述べました。

「最後にごぼく会会員の方々にお願いしたいことは、どうぞ諸君たちの力によって、この“悲劇の大教育者”たる徳永康起先生の真の偉大さを、あなた方の“生”ある限り、広く世の人々に述べ伝えて頂きたいということである。かくしてのみ氏の今日までたどられた“悲劇”の道も、やがて“天意”によって導かれた“栄光の道”だったということになるであろう」

 

そしてこの「幻の書」をこのままにしておくのは惜しいと、いろいろな出版社に再出版を持ちかけました。その熱意に応えて浪速社が新たに徳永先生の文章を加えて、『教え子みな吾が師なり』として刊行し、日本の教育史に輝く異色の実践記録となりました。

 

ここで森先生が徳永先生を“悲劇の大教育者”と呼んでいるのは、折角、一大決心して平教師になったのに、三年半で教頭職にもどされてしまい、児童生徒と直接心の通いあう教育の場を断たれてしまったからです。徳永先生としては不本意でしたが、従わざるを得なかったので、それで“悲劇”と言われたのです。

 

≪「幻の書」が『教え子みな吾が師なり』として新装再出版される≫

鳥取県の校長で、森門下生の三傑の一人と目される小椋(おぐら)(まさ)()先生は、徳永先生と同じ明治45年(1912)生まれで、おい、お前と呼び合う非常に気心の通じた同志です。小椋先生は早速、個人誌『ませんろく』に『教え子みな吾が師なり』を次のように紹介されました。

「この書は『教え子を師』と考えるべきであるという理念を述べたものではなく、また『教え子を師』と思うべきであるという信念を述べたものでもない。徳永がその生涯を振りかえって、そういう感慨を吐露せざるを得なかった事実を羅列したものである。

 

『教え子みな吾が師なり』など教員のよく使うセリフで、キザであるが、こと徳永に関する限り私は一言の反揆もない。彼は思わせぶりな気のきいたシャレた言い方のできるほど器用な男ではない。彼はこの場合、こういうより外になかったのである。

 

もともとこの書は世間に売り広げるために作られたものではなく、彼が担任していた生徒たちが、小学校を卒業して15年を経た今日、師と共に過ごした子どもの頃をなつかしんで、その思い出をまとめて師に捧げたものである。

 

言わば、徳永という一個の肥後もっこすが、世間的な名声も校長の椅子もなげすてて、一途に子どもの中にとけこんだ生涯に対するたったひとつの最高最大の贈り物である。そのおすそわけを我等凡庸の教員が頂くわけである」                            

これは同じ教職にある者が捧げた最高の賛辞ではないでしょうか。(続く)

 徳永先生と教え子たちの強い絆を描いた卒業生の文集『ごぼく』徳永先生と教え子たちの強い絆を描いた卒業生の文集『ごぼく』