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沈黙の響き (その21)

2020.11.14 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その21

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑩

  超凡破格の教育者・徳永康起先生

神渡良平

 

 

≪「幸薄きわが子に届け!」と母の祈り≫

 T子さんは3歳のとき、生みの母と離別し、父親は水商売上りの女性と再婚しました。

 徳永先生は小学校五年生のT子さんを担任して気になったので、家庭訪問しました。訪ねてみると、これではあんまりだと思わざるを得ない状況でした。T子さんは寂しかったのでしょう、先生に飛び下がり、よく甘えてきました。

 

 一学期が終わろうとするころ、鹿児島から一通の手紙が来ました。開けてみると、T子さんの母親からです。生み落としたわが子を手放さざるを得なかった母の悲しみが綴られ、T子さんがひねくれてはいないだろうかと案じていました。

 追い出される前夜は絶望のあまり目の前が真っ暗になり、わが子を抱いて鉄橋に立ったそうです。しかし、T子の泣き声でわれに返り、後ろ髪を引かれる思いでわが子を手放し、鹿児島に去ったというのです。

 

 徳永先生が大丈夫、しっかり育っていると返事を出すと、先生宛にお金や洋服や学用品が送られてきました。徳永先生は継母に知られないよう用心に用心を重ね、先生がご褒美をあげたことにして、そっとT子さんに渡していました。しかし継母にすぐにばれてしまい、要らぬおせっかいはするなと怒鳴られました。

 

 T子ちゃんが入学するとき、その晴れ姿を一目見たいと鹿児島からやってきて、校門のところに隠れて見ていましたが、後妻に見つかり、人々とT子ちゃんの面前でこずき回し、田んぼに押し倒してののしりました。そのときT子ちゃんは生みの母にしがみついて離れなかったそうですが、後妻に押し返さざるを得ませんでした。

 

 神さまは幼いT子ちゃんに、「生みのお母さんの祈りを忘れてはいけないよ」とささやかれたのでしょうか、T子ちゃんはまっすぐ育ちました。

 それに引き換え、継母はいつも酒を飲み、ふしだらな姿をさらけ出していましたが、涙に濡れた生みの母の顔を忘れることはありませんでした。

 

 中学を卒業してT子さんはあるお店に勤めましたが、継母はわずかな給料を取り上げて酒代にしました。そこに父親が急死したのです。T子さんは途方に暮れ、どうしたらいいかそっと相談に来ました。もっと金にしようと、歓楽街で強制的に働かされるに決まっています。徳永先生は躊躇することなく、鹿児島のお母さんのところに逃げなさいと勧めました。

 

 生みのお母さんはある病院の付添婦として自活していました。T子さんは継母から籍を抜いて生母の籍に入り、2人して生きていく道を探しました。その結果、名古屋に出て、働きました。

 神さまは一生懸命生きる者を見捨てたりはされません。T子さんはさる時計商会で働いている青年と縁談がまとまり、昭和39年(1964)の秋、見事に結婚しました。新居には母を迎えて親孝行するのだと張り切っています。

 徳永先生は黒板の前だけの教師ではなく、人生の伴走者でもありました。どれほど多くの人が助けられ、励まされたかわかりません。

 

 ≪森先生から届いたハガキ≫

 そんなある日、森先生から便りが届きました。

「拝、昨日、家内の35日の忌明けの仏事を務め、今日あなたの『天意』を拝受。例により非常に豊富な内容に、ピチピチした充実感が感じられます。

 あなたがあのまま校長をしておられたら、もちろん現在の校長さんたちの間では、断然群を抜いて業績を上げられているに違いありません。しかし、あなたが今日なすっておられるような独特の光彩(りく)()たる教育活動は絶対に不可能だったでしょう。

 

 私、近頃しみじみと痛感するのですが、『この世の中で両方良いことはない』ということです。そしてこれが本当にわかれば、哲学も宗教もいらぬとも言えましょう。

 一代、学問をし、道を求めて、齢70を超えて到達した真理が、そのような“偉大なる平凡”だったということは、我ながら驚きかつ(あき)れています」

 

 森先生は昭和45年(197010月1日消印のこの手紙で、徳永先生の教育活動を「独特の光彩を陸離と放っている」と述べておられますが、恩師にそこまで評価され、徳永先生は滂沱の涙を禁じ得なかったのではなかろうかと思います。

 

 昭和38年(1963)9月、徳永先生が輸尿管結石で倒れたとき、何と181名もの人々がお見舞いに駆けつけたのも、それだけ深く慕っていたからだといえましょう。(続き)

 

【取材メモ】

 1118日、19日は熊本県八代市に取材に行き、現場の大野小学校、免田小学校それに太田郷小学校などを訪ね、故徳永先生の教え子たちの話を聞きました。精魂込めて尽くした一人の教師の生きざまがこうも教え子たちの心に残り、彼らや彼女たちを奮起させ、それぞれ見事な人生を歩いておられるのを知った時間でした。

太田郷小学校の側を日本三大急流の一つといわれる球磨川が流れていました。遠足でこの球磨川の川原まで歩いて行ったんだという話を聞きながら、私も紅顔の美少年(?)だったころのことを思い出しました。

 


ある年の年賀状は先生の手彫りの絵ハガキでした