月別アーカイブ: 2020年12月

イエスと羊たち 

沈黙の響き (その26)

2020.12.26 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その26

教育はいのちといのちの呼応です!⑮

超凡破格の教育者 徳永康起先生

神渡良平

 

≪涙ながらの悔い改め≫

 

その後、徳永宗起寮長は一人寮を出て、海辺に行きました。暗い海面に月の光が穏やかにキラキラ反射し、一条の光の道ができていました。肌寒い夜の潮風が吹いていて、思わず襟を立てました。百発ものビンタを食らって腫れ上がった両頬と切れた唇を潮風に冷やしていると、さまざまな反省が浮んできました。寮長はいつしかひざまずいて祈っていました。

「天なる父よ、元はといえば私が悪いのです。お腹を空かしている彼らをもっといたわっていれば、お飾り餅を失敬して食べはしなかったと思います。親としての育む情が薄かった私をどうぞ許してください。いま彼らが一番欲しがっているのは、育くんでくれる親の愛でした……」

祈っていると溢れる涙を抑えることができません。冬だというのに、どこかで虫がチチチ……と鳴いています。澄み切った月が地上に穏やかな光を投げかけており、祈りの声はいつしか嗚咽に変わりました。

 

「いつの間にか、私は彼らを箸にも棒にもかからない連中だと見なし、更生させてやるんだと力んでいました……。でも、彼らが必要としていたのは叱責ではなく、育くんでくれる親の愛でした。それなのに私は居丈高に接し、立ち直らせてやろうと思っていたのです……。

 気がついてみると、瀬戸内寮は彼らを立ち直らせる場所である前に、私の愛を育てる道場なのでした……。私が成長して変れば、彼らがそれだけ自由になり、大きく成長できるのでした。それなのに私は自分のことは棚の上にあげて、彼らを更生させようと思っていたのです。折檻する直前になってそのことに気づかせていただき、罪を上塗りぜずにすみました。本当にありがとうございました……」

 

 祈り終わって目を開けると、奥さんが隣でいっしょに祈っていました。

「お前、申しわけなかった。気苦労ばかりかけて……はらはらしただろう。でもようやくイエスさまのことがわかってきた。キリスト教に入信してもう何年にもなるというのに、私はイエスさまの愛の奥行きの深さを全然知らず、ただ表面をなぞっているだけだった。今度のことで私はようやく神の秘跡に触れ、真に生まれ変わったように思う」

 静かな口調でそう言うと、奥さんはわっと泣きだしました。そして泣きはらした顔を上げて、ポツリと答えました。

「今まで少しも支えになることができず、申し訳ありませんでした。でもやっと曙光が見えましたね。これで瀬戸内寮も変わっていくでしょう。イエスさまに感謝します」

こうして瀬戸内寮は世間の人たちが一目置くような模範的な施設に変わっていきました。

 

≪規則が人を変えるのではない!≫

宗起さんがキリスト教に入信して洗礼を受けたので、父親は怒って勘当し、音信不通になりました。しかし弟の康起さんにはおおむね生活状況は知らせていました。康起さんは教師として就職すると、学校が夏休みに入る期間は毎年、救世軍で更生活動をしている宗起さんを訪ね、希望館や孝子寮、そして瀬戸内寮を手伝いました。

 

救世軍の更生活動を手伝うたびに、それは半端ではなく、義務教育の学校教育はまだまだ甘っちょろいと反省しました。徳永先生が恵まれない子どもたちに親身になって目をかけるようになったのは、宗起さんの感化だったといえます。

康起さんは昼間、保護少年の更生活動を手伝い、夜は寮長室で兄の話を聞きました。宗起さんは浴衣の胸を広げ、団扇で仰いで涼を取っています。明け放した窓から涼しい風が吹いてきて、窓辺に吊るされた風鈴をチリーンと鳴らしていました。

「昨冬起きた瀬戸内寮での往復ビンタのことを聴いて、あれが兄さんの更生教育の転換点になったと知りました」

 

 弟の質問が自分の更生教育の核心に触れたので、宗起寮長は心を込めて語りました。更生活動は信仰の具体的実践だったのです。

「そうなんだよ、あの日までは俺の中には、『こいつらの性根を叩き直して、まともな人間にしてやる』という思いがあった。一応、これでもキリスト教信者の端くれだから、表面からは居丈高なものは消しているんだが、本音では俺はあいつらのようにてれんぱれんしとらんと思っていた。だからおこがましくも、矯正してやろうなどという高慢な姿勢があったんだ」

「ところが意外な展開になって、直前になって、自分の姿勢をこそ正さなければいけないと気づいたんですね……」

 

「俺は『ヨハネによる福音書』8章に書かれているイエスさまのことがずっと頭にあった。姦淫の場で捕らえられた女が律法学者やパリサイ人によってイエスさまの前に引きずり出し、『モーセは律法に従って、こういう女は石で打ち殺せと命じている。さあ、お前はどうする!』と責めたてた……」

この箇所は「ヨハネによる福音書」の最も有名なところで、イエスの姿勢を端的に示しています。康起さんは兄の勧めによって聖書を読んでいたので、そのエピソードはよく知っていました。

 

「ところがイエスさまは身を屈めて、指で地面に何かを書いておられた。しかし、パリサイ人たちがやんやと責め立てるので、イエスさまは身を起こして彼らに言われた。

『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』

 それを聞くと、律法学者やパリサイ人たちは一人ひとり去ってしまい、ついに誰もいなくなった……。

あのとき、イエスさまは『あなたがたの中で罪のない者が………』と言われた。そう言われると、みんな思い当たることがいくつもあった。だから石を投げつけることができず、広場から去っていった……」

寮長の目が見る見るうちに潤んでいきました。そして件の聖句をそらんじました。

 

≪人を変えるのは〝愛〟なのだ!≫

 

「『女よ、みんなはどこにいるか? あなたを罰する者はなかったのか?』

『いえ、誰もございません』

『私もあなたを罰しない。さあ、行きなさい。今後はもう罪を犯さないように……』」

薄暗い電灯が宗起寮長を照らし、その光が窓の外の芝生の庭をほのかに照らしています。

「康起、俺はイエスさまが罪を犯した女に対して取られた姿勢をずっと考えていた。イエスさまは罪を犯した女を全然責めてはおられず、むしろそうなってしまった女の事情を汲みとり、いっしょに泣かれたのではないか。女はイエスさまが自分のことで胸をつぶし、泣いておられると感じたとき、はらはらと涙をこぼし、イエスさま、ごめんなさいと心からお詫びした。

 

 それに引き換え、俺はどうだ。みんなを責め、あまつさえ罰を加えようとしていた。律法の厳守を唱えて、正義面していたパリサイ人そのものじゃないか! そのことに気づいたから、俺はみんなに罰を下すことを止め、代わりに寮長である自分自身を罰することにしたんだ……」

「そうだったんですか。すんでのところで思いとどまったんですね。もし、あのままみんなを罰していたら、寮長と寮生の間にはもう越えることができない決定的な溝ができたでしょう」

「そうなんだ。瀬戸内寮は手をつけられないほどに混乱していただろう。

俺も寮生も共々、イエスさまに助けられたんだ」

 

「なるほど、正義を振り回すパリサイ人であってはならないというのはそういうことなんですか! 私は全然気づかなかった……。イエスさまの愛って深遠なんですね。もう一度静かに祈ってみます」

事の顚末を聞き、康起さんはイエスの教えの奥深さに改めて驚嘆し、祈り、黙想することの大切さを知りました。夏休みのたびに兄を訪ね、いっしょに活動して、康起さんは教師として一皮も二皮も剥けました。(続く)

 


イエスと羊たち 


涙をこぼされるイエスさま

沈黙の響き (その25)

2020.12.19 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その25

教育はいのちといのちの呼応です!⑭

超凡破格の教育者 徳永康起先生

神渡良平

 

≪お供えの飾り餅を食べてしまった!≫

昭和16年(1941)1月、宗起さんが寮長として香川県坂出市の少年収容施設・瀬戸内寮に勤めているときのことです。大阪の希望館が模範的な産業挺身隊に変わっていったように、瀬戸内寮も新しい徳永寮長の元、変わりつつありました。

ところが寮長が不在のとき、保護少年たちが食堂に供えられていた正月の飾り餅を焼いて食べるという不祥事が起きました。大東亜戦争が始まって物資や食糧が欠乏していたので、腹を空かせた少年たちが飾り餅を焼いて食べてしまったという事情はわかります。しかし宗起寮長は少年たちを厳しい口調で叱りました。

「君たちは、何という情けないことをしたのか。これは普通の餅じゃなくて、神さまへのお供えの餅だぞ。こんな愚かな行為で、私たちの産業挺身隊全体の名誉を傷つけてしまったではないか。()(さい)な行為とはいえ、私は不問にすることはできない。不問や見逃しは次の失敗に繋がるからだ。従ってしっかりとケジメをつける必要がある」

 50名ほど寮生がいる瀬戸内寮は産業挺身隊の名前で造船所や鉄工所などに人員を派遣し、優秀な成績を収めて表彰され、それが誇りとなっていたのです。でも、少年たちはたかが飾り餅を食べたぐらいで何だと軽く考え、せせら笑いすら浮かべていました。でも寮長は真剣です。

「今から、その責任者を処罰する。だがその前に君たちは私の言い付け通りに実行することを誓うか!」

と全員に、「従います」と強引なまでに約束させました。

その瞬間、寮長の中にイエスの声が臨みました。

(罰されるべきなのは彼らじゃない、お前だ。お前の姿勢は私のものとは似ても似つかず、パリサイ人そのものだ!)

それにはギョッとしました。明らかにイエスの声です。

(人を悔い改めさせるのは律法ではない! 愛だ。あの女が悔い改めたのは、『姦淫してはならない』という律法によってではなく、私があの女に流した涙ゆえだった。いま寮生たちを罰したら、みんなは態度を硬化して、お前をますます拒否し、逆の結果を招くことになってしまうぞ)

寮生を罰すべきではないという瞬時の教えでした。

 

≪罰として往復ビンタ百発!≫

「罰として責任者には、みんなで左右往復2発のビンタを食らわせる。いいな!

この寮の最高責任者はこの私だ。真っ先にお詫びしなければいけないのは私であって、懲罰を受けるべきなのは私だ。サアみんなで私を処罰して、ビンタを食らわせ!」

そう言って頭を差し出しました。一同は唖然とし、動揺が走りました。寮長はちっとも悪くないのに、なぜ寮長をお仕置きするの? でも、寮長は一人ずつ前に進ませ、順番に自分の頬を平手打ちさせました。遠慮して軽く叩いた者には、「駄目だ! もう一度やり直せ」と叱責し、再度叩かせました。

そのため宗起寮長の両頬は何十発もの往復ビンタを食らい、頬が赤く腫れ上がり、口の中が切れ、唇から血がしたたり落ちました。まさかの展開に寮生が涙声で、「先生、許してください。とても叩けません」とお詫びしました。でも寮長はふらふらして傾いてしまう体を奮い起こし、「駄目だ、約束だ。ちゃんとお仕置きしろ」と怒鳴りました。

みんなは正視できなくて、ある者はうつむき、ある者は天を仰いで必死に涙をこらえています。列の中で誰かが口を押えて嗚咽しています。叩く順番が回ってきた者が、

「先生、駄目です。かんべんしてください。とても叩けません」

と泣きだしました。徳永寮長は立っているのもやっとでふらふらで、よくぞ気を失わなかったものです。こうして50名全員が終わるころにはみんな泣いていました。

「先生、すみません。もう二度とやりません」

「さあ、終わった。みんな、厳しく折檻してくれてありがとう。私も心を入れ替える。これから瀬戸内寮が新しく出発する。お祝いしよう!」

 寮長は腫れあがった顔で、血糊がついた手のままで一人ひとりと握手し、再出発できたことを喜び合いました。(続き)

 


涙をこぼされるイエスさま

 

 


希望館の館長時代の徳永宗起さん

沈黙の響き (その24)

2020.12.12 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その24

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑬

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

≪少年保護事業所・大阪の希望館≫

 昭和14年(1939)、宗起さんは大阪少年審判所管内の少年保護事業である希望館の第四代館長代理になりました。前館長が病気で倒れたので、急遽指名されたのです。

 家族をつれて赴任してみると、わずか12名の寮生が起居している希望館なのに、窓ガラス38枚も割れたままで補修されておらず、荒れた状態でした。

 

 集合と声をかけても、のろのろとしか集まってこず、笑顔を忘れ、白い目で絶えず周囲をうかがっています。履物をはかせると脱走が多くなるというので、靴を履くことを禁止されていました。だから裸足で庭に降り、そのままその足で廊下に上がるので、廊下も講堂も礼拝堂も2階の居室も裸足の跡で汚れていました。布団は長いこと陽に干さないのか湿っており、寝室は異様な臭気が漂っていました。経営状態が悪いので、3度の食事は顔を見合わせるような粗食と量しか出ませんでした。

 

 先任の職員たちはサジを投げたような批評ばかり述べます。

「連中はタチの悪い悪質者ばかりで、箸にも棒にもかからない手合いです」

「とても粗暴で、油断も隙もできません」

「みんな危険な連中で、いつ不穏、不祥事が起こるかわかりません」

「やつらは改善感化の対象にふさわしくない連中ばかりです」

 これでは職員と少年たちがかみ合うはずがありません。

 

 職員たちが不平をこぼしたように、2週間経ち、3週間経っても、少年たちは一向に打ち解けてくれません。物心ついてからこの方、長い年月の間、彼らは家庭でも学校でも職場でも不良の烙印が押され、警戒され、白眼視されてきたので、硬い殻に閉じこもっており、簡単に敗れるものではありませんでした。彼らはすべての大人たちを疑っていて、指導者は眉唾ものと決め込んでいて、難攻不落なように見えました。

 

 これは絶好の神の摂理だ!

 どうやってこの壁を突き崩そうかと思案していたとき、ある考えが湧いてきました。

(私は4年で卒業して教壇に立つことができたのに、遠回りして、導かれるままに救世軍に身を投じた。そして結核療養所で一命を取り留め、その後、各地で178年間、任務を遂行し、いま思いもかけず、青少年の教育現場で働くようになった。

この青少年の教育というのは私がもともと志していたことではないか! ひねくれてかなり手ごわい相手だけれども、これを神の摂理、神の恵みといわず、何と言おうか。

 この境遇は世に貧民学校と指さされたころのペスタロッチの境遇と似通っている。私はこの少年たちを立ち直らせる力をつけるために、方々に遣わされて訓練され、いまここに遣わされたのだ! ここはすばらしい人生道場だぞ)

 そう思い至ったとき、宗起さんは神の配剤の妙なることに心打たれる思いがしました。だから俄然力が湧き、少年たちに対する愛と希望が燃え上がりました。すると不思議なことに、少年たちを悪く考える気持ちが消えてゆき、非行少年に対する世間の冷たさを見聞きすると、逆に非行少年たちの味方になり、かばっていました。

 協力的な職員が入院してしまって戦力から外れたり、非協力的な職員が割に合わない勤務から去っていったりして、希望館の混乱は続きましたが、宗起さんは悲観しませんでした。

 

≪私は掃除夫、妻は炊事係だと割り切る≫

 宗起さんは、私の肩書は館長代理かもしれないが、実際は廊下や各居室を掃除し、整理整頓する掃除夫で、妻は3度3度の炊事係だと思い込みました。毎朝、不承不承に起き出して、いやいやながら掃除をし、見えないところで手抜きする掃除が良かろうはずはありません。なるべく少年たちの目につかないよう、少年たちの勉学時間や労作時間を見計らって、便所、洗面所、居室と雑巾(ぞうきん)がけをしました。するとそれを続けているうちに、三吉という少年が「館長、手伝いまっさ」と申し出て、拭き掃除を始めました。

 

「三吉君、ありがとう。とても助かるよ」と感謝すると、敏捷な三吉君が館長の雑巾をひったくり、「ぼくに任せておくんなさい」とまめに掃除するので、だんだん廊下に泥が上がらなくなりました。

「こりゃすごい。廊下が、ぼくが髯を剃るとき使う鏡の代用になるほど、ピカピカに磨き上げてくれ」

 と館長は励ましました。三吉君が一生懸命やっているので、他の少年たちも協力するようになり、泥足の習慣はいつの間にか改善されました。廊下の輝きが増すにつれ、三吉君の人相も輝きを増していきました。

「おい、三吉君。ついでに君の心も磨けよな」

 と言うと、館長の冗談に三吉君は首を縮め、ぺろりと舌を出して照れました。

 奥さんは乏しい財政のなか、足繁く市場に通い、なるべく栄養価の高くて鮮度のいい食品を買い求め、満腹感を覚える献立つくりに苦心しました。食卓に心のこもった工夫のあとがありありと見え、食事の時間が華やいでいきました。奥さんは4人の小さい子どもたちの子育てをしながらだったので、寝る時間もありませんでした。

 

 ≪あっぱれ! A少年の井戸掘り≫

 12名の少年の中に、大阪の今宮辺りを根城に、恐喝、空き巣、かっぱらいをくり返していた(ちょう)()(きゅう)のワルがいました。ご多分に漏れず、彼には罪悪感など微塵もなく、悪の(かたまり)のようでした。

 

 ところが夕食後、庭で遊んでいる宗起さんの子どもたちが無邪気に、「〇△□のお兄ちゃん」と呼んでじゃれています。赴任するとき、小さな子どもたちのいっしょに行くというので、それは止めた方がいいと引き留められたのですが、無邪気な子どもたちの信じ切った笑顔が性悪たちの気持ちをほぐしていました。

 

A少年と子どもたちの交流が深まるにつれ、心なしかA君の人相も変ってきました。ある夕方、屑鉄(くずてつ)拾いに興味を持つA君が、庭の片隅で埋もれていた鉄片を掘り出しました。

「徳永先生、鉄板らしいものが埋もれていました。もっと掘ってもよろしうおますか?」

 許可すると、嬉々として掘り起こし、作業に熱中しています。

「A君、その調子で掘れば、水が出ないだろうか? そこに井戸ができると、庭木の潅水(かんすい)や洗濯、行水に便利なんだけどなあ」

 

 するとA君は「先生、やってみますか?」と請け負い、毎夕、休憩時間に独力で穴掘りを続け、とうとうきれいな水を掘り当てました。コンクリートの井戸枠を4、5本入れるころには他の少年たちも手伝い、ついに完成しました。徳永館長代理も奥さんもみんなも大喜びし、庭の打ち水に庭木の潅水に洗濯、行水にと、大助かりです。

 徳永館長や奥さんやみんなに感謝されて、A君はすっかり自信を持ちました。以後、亜鉛カン作業に抜群の成績を上げるようになり、とうとう退館(卒業)に漕ぎつけました。そして退館後は、道路一つ隔てた鉄工所で一番の働き手になり、重宝がられました。

 

 一つのことに自信を持ち、誇りを持てば、次の能力開発につながり、人間を立ち直らせることをA君は如実に示しました。そういう事例がどんどん出てきて、希望館は建設的な笑い声で満ちあふれるようになり、希望館は大阪で模範的な少年保護事業所に変っていきました。そして松下乾電池㈱の亜鉛カン作りを委託されたり、海軍監督工場である大正重機協同組合工場に生産挺身隊を送るよう要請されるようになりました。(続く)

 


希望館の館長時代の徳永宗起さん


沈黙の響き (その23)

2020.12.5 ウイークリーメッセージ(その23)⑫

(仮)『いのちの響き合い――徳永康起先生と子どもたち』の序文

                            神渡良平

(仮)『いのちの響き合い――徳永康起先生と子どもたち』を脱稿しました。今、ある出版社で検討していただいています。その序文をお送りします。

 

 人はそれぞれ天から授かっている封書があるといいます。私たちは天から〝いのち〟を賜(たまわ)っており、それぞれの〝いのち〟に使命が書き記されている封書が添えられているというのです。この人生をどうまとめ上げて天にお返しするか、誰しもが感じていることであり、生きている限り、このことをくり返し問うているともいえます。

 熊本の一教師徳永康(やす)起(き)先生もこの問題を終生自分に問いかけました。

 徳永先生は出会った教え子たちの心の支えとなる教師でありたいと自分に誓いました。例えば、八代市立太田郷(おおたごう)小学校5、6年生のとき、わずか2か年担任した生徒たちが、中学、高校と進み、社会人になっても交流が続きました。そして小学校卒業後の3年目、10年目と先生の手で文集が作成され、さらに15年目、今度は教え子たちが自分たちの手で、お礼の意味を込めて文集を刊行したのです。

 わずか5百部ほどの文集でしたが、それを読んだ人々、中でも教職にある人々はショックを受けました。教師が教え子たちの魂の成長に傾注したとき、ここまで感化できるのかと、とても考えさせられたのです。

 この文集が出版社の目に留まり、『教え子みな吾が師なり』(徳永康起編 浪速社)として出版されました。これを「国民教育の友」であり、教職者たちに支持者が多い森信三元神戸大学教授が激賞されたことから一気に火がつき、ブームになりました。

 昭和五十四年(一九七九)六月、徳永先生がこの世でのいのちを終え、葬式が営まれたとき、教え子を初め、同志同行の三百名を超す人々が詰めかけ、地元の熊本日日新聞もその逝去を悼(いた)んで報道しました。

 そういう事実を見るにつけ、一人の人間が自分の使命に目覚め、その実現に向けてひたむきに努力をすればどういうことが起きるのか、本書はその忠実な記録です。

 改めて、私たちはそれぞれ偉大な使命をいただいて、地上に送られているのだと痛感します。ここでいう偉大な使命とは、世間的に評価される使命という意味ではなく、その人にしか成就できない使命という意味です。

 この本があなたの人生に少しでも寄与できれば、幸せに存じます。

 令和2年11月吉日


超凡破格の教師といわれ、「康起菩薩」とも称えられた徳永先生