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ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その27) 1月2日
教育はいのちといのちの呼応です!⑯
超凡破格の教育者 徳永康起先生
神渡良平
昭和20年(1945)8月、長く続いた戦争がやっと終わりました。徳永康起先生は出征兵士として送り出した教え子のうち27名を戦死させていたので、その償いをし、供養をしたいと思いました。
一方で、徳永先生は類まれなる教育者だったので、教職15年目の昭和22年(1947)4月、田浦村の井牟田小学校の校長を拝命しました。しかし、前述の思いは強くなるばかりで、学校経営に携わるよりも、学級を担任し、子どもたちと直接携わりたい、それが教師としての自分が一番果たさなければならないことではないか……。
でも、自ら降格を願い出て、一教員にしてほしいと要請するのは、なかなかできることではありません。校長職に就任するというのは、教育委員会や教師仲間から評価されたことを意味するし、教師が切磋琢磨して努力する目標でもあります。それを捨て去るということは、立身出世の価値観を捨て、別な価値観に立たない限りできません。
私でなければできないようなことは何か……。
教育界で評価されて校長になることか。
それとも学級を担任し、子どもの成長に直接かかわることを最優先するべきか。
校長職はやってみると、教師の質の向上という重要な役割があるものの、学校経営に力を裂かれてしまい、肝心な子どもたちとの直接的な交わりから離れてしまうという問題がありました。これではいけない。もう一度、日々子どもたちと接触していたいと、思いは日増しに強くなっていきました。
それを後押ししたのが、兄が瀬戸内寮で示した百発ビンタの出来事でした。イエスの涙に触れ、人を責めるのではなく、痛みを分かち合うことが重要なんだと自覚し、それを実行することで瀬戸内寮がものの見事に変わっていった事実は、徳永先生の中に強烈に焼き付きました。
そこにこそ教育が持つ厳粛な力があり、自分も子どもたちとの交わりでそれを実現したい、そのためにはクラス担任となって、子どもたちの魂の成長に深く関わりたいと思いました。
≪教育界における立身出世主義≫
それともう一つ問題にしなければならないことがありました。それは教育界における立身出世主義です。どの職業においても優れた能力を示す者は抜擢され、指導するポストにつけられます。それはそれとして良いことですが、生徒の精神を教育する立場にある教師の場合、立身出世主義には警戒しなければならない要素があります。
教師の役割は、子どもたちの魂の成長に付き添い、芽が出たばかりの双葉には特に心を配り、すくすく伸びていくよう介添えを立て、土が乾き過ぎないよう潅水を施す必要があります。だからひと時たりとも手を抜くことはできません。
しかし、教師が立身出世主義に捉われ、学年主任や校長を目指してしまうと、子どもたちはないがしろにされ、繊細なケアをしてもらえない嫌いがあります。いかなる場合も、子どもの成長のために時間を割きたいと思っている徳永先生は、立身出世主義には目に見えない阻害要因が隠されていると感じました。
≪法然も驚いた仏教界に巣くっている立身出世主義≫
かつて比叡山で天台教学を学んで修行した法然(ほうねん)は、最初、西塔北谷の源光(げんこう)の下で修行し、ついで当代一流の碩学・皇円(こうえん)について学びました。ところが出家して俗世の欲望から解き放たれているはずの僧侶の世界に、権力争いや立身出世主義が横行しているのを知って愕然としました。法然はわずか三年で皇円の下を去り、西塔黒谷の叡空(えいくう)の下に遁世してしまいました。遁世というのは出家した者がさらに出家することをいい、仏教界での立身出世を拒否して、ただ一筋に求道の世界に生きることを意味します。
真摯な求道を続けた末、法然は「南無阿弥陀仏」という六字の名号を寝ても覚めてもひたすら唱えることで、弥陀の本願である救いが自分の身の上に成就すると確信しました。かくして浄土宗という新しい一派を切り拓き、しかも親鸞という逸材を育て上げ、浄土真宗を確立しました。法然は天台宗の頂点である天台座主にはなれなかったけれども、日本仏教の刷新を果たしたのです。
徳永校長は法然の生き方を鑑みたとき、改めて、
「どの世界であれ、立身出世主義は自分をそこなうことになりかねない! だから少なくとも自分は自分の中の名利を求める部分と闘い、あえて子どものために時間を割く教師であろう」
と思いました。
森先生の見解を調べてみると、やはり教育界における立身出世主義は教師自身をそこなってしまうと注意を喚起しておられました。では、実践するしかありません。ならば校長職を辞し、一教師に徹して自分の人生を終ろうと思いました。(続く)
※致知出版が『いのちの響き合い――徳永先生と子どもたち』