日別アーカイブ: 2021年1月23日

沈黙の響き (その30)

 

ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その30)        123

教育はいのちといのちの呼応です!⑲

超凡破格の教育者 徳永康起先生

神渡良平

 

 今回、ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」をLINEHPに載せ、いろいろな方から返信をいただき、楽しい交流をしています。そうしたなか、オーストラリアの東海岸ブリスベーン郊外に住んでいる心友・西澤利明さんからメールが届きました。西澤さんがクイーンズランド州政府観光局日本局長だった時代、しばしば来日して日本政府と交渉をされていましたが、その際、私はしばしばお会いさせていただき、意見を交換していました。

 私たち2人の関心は「日本と欧米を融合させるものは何か?」でした。

西澤さんはオーストラリアのグリフィス州立大学を卒業したあと、欧米社会で仕事をしました。だからいつも脳裏を離れなかったのは、思考の根幹にある仏教(儒教)とキリスト教のことでした。

西澤さんはビジネス社会のまっただ中で活躍されていますが、日常的に起こる現象に振り回されることなく、東洋と西欧の精神的原理という視点で分析して、行動されていました。奥さまはオーストラリア人なので、家庭生活もキリスト教文化と切り離すことはできません。それらをいつも“日本”という視点で眺め、分析し、自分の行動指針とされていました。

 私は西澤さんがJTBのゴールドコースト支店長時代に知り合いました。その後、西澤さんはオーストラリア・クイーズランド州政府にヘッドハンティングされ、クイーンズランド州政府の観光行政に関わるようになりました。オーストラリア人の同僚たちには西澤さんの観点はとてもユニークに感じられ、日本との観光行政でも結果を出し、とうとう州政府観光局日本局長というトップに昇りつめたのでした。

 私が下手な解説をいろいろ述べる前に、西澤さんから届いたメールを読んでいただきましょう。おそらくそこに視点の斬新さを感じられるのではないかと思います。

 

≪隻手の音には存在の本質が隠されている≫

「神渡さんが今回のタイトルとされた『沈黙の響き』は、それ自体が深いメッセージを秘めたものです。世の中は“見えないもの”“聞こえないもの”で満ち満ちていますが、現象の背後にある息づかいに触れる貴重な感受性があってこそ、書かれた言葉を通して、読む側に貴重なメッセージを与えてくれます。

 禅に『隻手(せきしゅ)の音』と言う公案がありますが、片方の手が出す音、つまり聞こえないものの“静かな沈黙”にこそ、存在の本質が隠されているということでしょうか。

『沈黙』をまた量子力学的に“心情の波動”として捉えれば、至るところに全体として充満していることになります。それが言葉を通して意識化されると、一つの実体としてのメッセージとなるように、思います。

芸術の素晴らしさはその“沈黙の響き”を音楽に、あるいは文学にと具現化できるからです。具現化された文章にそれぞれの感性が反応すると、神が沈黙を破り、一人ひとりの心に現れるのです。詩人は詩を書き、画家はキャンバスに絵をかき、音楽家は弦の響きでそれを表現しようとします。

東洋は沈黙を空性として、何もない絶対無の世界だと捉えますが、絶対無はまた絶対有でもあるように思います。そこには汲めども尽きない無限の心情の宝庫があって、聖者はそれを“不二一元の真如”すなわち“真我”と呼んだのでした。

 神渡という名前は神のメッセンジャーという意味です。神渡さんの感性を通して伝わる“沈黙の響き”に耳を澄ませば、138億年の宇宙史の声が聞こえて来るのではないでしょうか。

 人間はどんなに小さな存在であったとしても、この世に生きたということこそが最大の奇跡であり恩寵です。日々の喧騒から離れ、しばしこの沈黙の響きを魂の奥で咀嚼できれば、語りかけてくる“大いなるもの”が私自身を通して現れ、表現しようとされていることに気づきます。

 私の目を通して、私の耳を通して、五体全ての感性は即仏性であり神性そのものです。まさに、『神を見しもの、我を見るなり』です。神渡さんが書いておられる『沈黙の響き』を読みながら、こうした感想を抱きました」

 

≪「沈黙の響き」が意味するもの≫

 西澤さんのメールで嬉しかったのは、私の「沈黙の響き」に共感し、日本文化の中心には「沈黙の響き」に聴き入ろうとする姿勢が連綿とあると評価されたことでした。しかしながら出版社はそのことがよくわからず、「哲学的過ぎ、抽象的でわかりづらい」などという感想が示されました。

 日本文化の特質を欧米キリスト教文化に注ぎ込むことによって、欧米文化=キリスト教が斬新に復活すると思うのですが、この点の理解はいまいちでした。

 それだけに西澤さんが示された理解に、「我が意を得たり」と思った次第でした。

 

≪「一隅を照らす」ことで、存在意義を示すことができる≫

 西澤さんは3年前に政府を退職し、現在はブリスベーンの郊外の自宅で、自分の人生の思想的な総括をしているそうです。そこで改めて“一隅を照らす”という生き方に共鳴したといいます。

「最後に残るものは、結局、どれだけ世のために尽くしたかということに尽きると思うようになりました。別に大それたことをしなくともいい、自分に与えられた天命に気付き、その与えられた場所で“一隅を照らすこと”が人生を手応えのあるものにできると思うようになりました。

ビルの清掃をする人も、コンピューターを操作する人も、政治を司る人も、与えられた仕事に真心を込めて励めば、その恩恵が人々に行くからです」

西澤さんの口から“一隅を照らす”という言葉が飛び出したので驚きました。

「私は従来のキリスト教の“天のどこかにいらっしゃる神”という考え方から、“人間を通して現れる神”というものに重きを置くようになりました。私の行為を通して、神そのものが顕現されるのであり、神ご自身の眼差しは自分の中にも重なって存在していると思うのです」

 西澤さんのこういう神観、宇宙観を聴いていると、無味乾燥に陥りがちな神学論争が吹き飛んでしまいます。先のメールに書いておられた「神を見しもの、我を見るなり」ということが、決して傲慢な発想から出たものではなく、人間存在の意義を重たく捉えているからです。

西欧世界は神と人間を切り離し過ぎたために、神不在となってしまいました。しかし日本に生きている「自分の行為が神そのものだ」という考え方を欧米社会に注入するとき、その文化は大きな脱皮をすることができると確信します。私は日本が欧米社会に真に貢献できる時代がやってきたように思います。


西澤利明さん