月別アーカイブ: 2021年2月

沈黙の響き (その37)

 「沈黙の響き」(その37)

≪父母の恩愛に包まれて≫ 

 

私たちの魂の成長には父母を初めとして、多くの人々が関わってくださっています。

次の、小学校三年生の康子ちゃん(仮名)のチョコレート万引き事件の指導には、担任の灰谷健次郎先生が深く関わってくださり、危うく脱線しそうになった康子ちゃんを助けてくださいました。

灰谷先生とはミリオンセラーとなって映画化された『兎の眼』(角川文庫)、あるいは50万部も売れて映画化された『太陽の子』(角川文庫)など、出色の作品を世に送り出した児童文学の作家で、作家になる前は小学校の先生でした。

 

ある日、母親に連れられて、ちっちゃな女の子がしぶしぶ灰谷先生のところにやってきました。あるお店でチューインガムを一箇盗んだので、叱ってくださいというのです。見ると、お母さんに書かされたのでしょうか、反省の気持ちを書いた小さな紙きれを持っています。

「わたしはお店にはいって、チューインガムをとりました。もうしません。せんせい、ゆるしてください」

 と書いてありました。灰谷先生はお母さんに帰ってもらい、康子ちゃんに話しかけました。

「どういういきさつからそういうことをしでかしたのか、本当のことを話してごらん」

康子ちゃんは少し話しては泣き、また話しては泣きして、一部始終を話しました。

そして先生に進められるままに、詩を書きました。

 

   チューインガム一つ

 

 せんせい おこらんとって

 せんせい おこらんとってね

 わたし ものすごくわるいことをした

 

 わたし おみせやさんのチューインガム とってん

 一年生の子とふたりで チューインガム とってしもてん

 すぐ みつかってしもた

 きっと かみさんがおばさんにしらせたんや

 わたし ものもいわれへん

 からだが おもちゃみたいに カタカタふるえるねん

 わたしが一年生の子に「とり」いうてん

 一年生の子が「あんたもとり」いうたけど

 わたしはみつかったらいややから いややいうた

 一年生の子が とったんや

 

 でも わたしは その子の百ばいも 千ばいもわるい

 わるい わるい わるい わたしがわるい

 おかあちゃんにみつからへんと おもとったのに

 やっぱりすぐみつかった

 

 あんなおかあちゃんのこわいかお 見たことない

 あんなおかあちゃんのかなしそうなかお 見たことない

 しぬくらいたたかれて

 「こんな子 うちの子とちがう 出ていき!」

 おかあちゃんはなきながら そないいうねん

 わたし ひとりで出ていってん

 いつでもいくこうえんにいったら

 よその国へいったみたいな気がしたよ

 せんせい どこかへいってしまおとおもた

 でも なんぼあるいても

 どこへもいくところあらへん

 なんぼ かんがえても あしばっかりふるえて

 なんにも かんがえられへん

 

 おそうに うちへかえって

 さかなみたいに おかあちゃんにあやまってん

 けど おかあちゃんは わたしのかおを見て ないてばかりいる

 わたし どうして あんなわるいこと してんやろ

 もう二日もたっているのに

 おかあちゃんは まだ さみしそうにないている

 せんせい どないしよう

 

ここには康子ちゃんの痛切な反省の気持ちがほとばしり出ています。この詩にいたく感じ入った灰谷先生は、康子ちゃんに手紙を書きました。

「ほんとうにきびしい人間は、いつだってじぶんをごまかしたりしません。康子ちゃんがこの詩をかいたことは、うそのない人間になろうとしているあかしだと思います。だからこそ先生は、康子ちゃんの詩をよんで、なみだがでたのです。先生はあなたをしんらいしています」

 康子ちゃんは詩にお母さんが泣いていると書きました。

「あんなおかあちゃんのこわいかお 見たことない

 あんなおかあちゃんのかなしそうなかお 見たことない

 こんな子 うちの子とちがう 出ていき!

 おかあちゃんはなきながら そないいうねん」

お母さんが自分のこととして恥じ入っている様子が伝わってきて、康子ちゃんは真剣に反省しました。お母さんの涙を見たからこそ、万引きなど二度としないと反省したのです。

 

≪新生の喜びに満たされる≫

 

これに対して、「子どもが出来心からやったことじゃないか。そんなにきつく反省させなくてもいいのではないか」と寛容な意見を示す人もいます。それは一見寛容に見えますが、決して寛容ではありません。

 

康子ちゃんは「おかあちゃんにとんでもない迷惑をかけてしもうた。申し訳ない」と、平謝りに謝まりました。そこでいっそうはっきりと見えてきたのは、泣いているお母さんの顔でした。「もう2日も経っているのに、まだ泣いていて、さみしそうだ。せんせい、どないしよう」と途方に暮れました。そして何よりもお母さんが康子ちゃんをどれほどいとおしく思い、大切にしてくれていたのか気づいたのです。

 

灰谷先生も康子ちゃんを責めるどころか、「うそのない人間になろうとしている」と受け止め、康子ちゃんへの手紙に、「康子ちゃんの真剣さに涙が出た」と書かれました。「先生も信頼している!」という言葉に、康子ちゃんはどれほど励まされたことでしょうか。

 

だから康子ちゃんは真剣な反省を通して、お母さんや灰谷先生が康子ちゃんに投げかけていた愛を発見したのです。愛は強ければ強いほど、裏切ることはできません。愛されている、期待されていると感じれば感じるほど嬉しくなり、よーし、頑張るぞと、再出発の力が湧いてきます。

 

≪内観は自分を包んでいる愛に気づく方法≫

 

ところで、この康子ちゃんの立ち直りの事例は、内観という精神修養法を想起させるものがあります。内観はもともと浄土真宗の僧侶の修行方法でしたが、昭和に入って吉本伊信さんが宗教色を抜いて、精神修養法として確立したものです。

一週間の集中内観では外部と遮断して、父母や祖父母、兄弟や親しい人に対して、①お世話になったこと、②それに対してご恩返ししたこと、③迷惑をかけたことを、2年おきぐらいに細かく調べます。

その結果、自分は何と一人よがりだったかに気づいて非を詫びます。人によっては号泣するほどです。心の底からの悔い改めにいたると、不思議な感覚が訪れます。体が軽くなって温かくなったように感じるのです。そして自分はいかに愛されていたのか発見し、ただただありがたくて、嬉しくて、涙が込み上げてきます。

 

いや涙がこみ上げるという程度ではなく、嗚咽するほどです。泣き終ったとき平安な静寂に包まれ、こんな自分でも生かされている! とやすらぎが訪れてくるのです。細胞の一つひとつが感謝の念で満たされ、転げまわって喜びたいほどです。すると上から目線の態度が消え、人間関係がよくなり、家庭も円満になります。もちろん取り引き先も、あなたは変わったねえ、とても柔らかになったよと驚き、仕事もスムーズにいくようになります。

 

私はこれまで4度ほど集中内観をやり、そんな満ち足りたやすらぎを味わいました。その後、内観の面接者を4年ほど務め、内観の効果を目の当たりにしました。

おそらく康子ちゃんも深い悔い改めの末、晴ればれとした気持ちになり、以前よりもっと明るくなったのではないでしょうか。お母さんや灰谷先生が康子ちゃんの万引きをお座なりにせず、そこまで導いてくださったのだろうと想像します。

康子ちゃんが曲がることなく、無事再出発できたのは、そんなお二人のお陰です。ただただ感謝です。(続く)

写真=樹間に射してくる神々しい光、光、あふれる光


沈黙の響き (その36)

沈黙の響き (その36)

沈黙の響きから曲想を得る作曲家

 

世界でたった一人の音楽巡礼者 西村直記の世界

 

「沈黙の響き」は私たちに天来の声を伝えてくれ、創造の源泉です。毎週いろいろな方々の意見を読んでいたら、本物の音楽家から投稿がありました。作曲家・シンセサイザー奏者の西村直記先生も初回から「沈黙の響き」を読んでおられ、私たちの創造論の展開に興味津々だったようです。

 

 実は西村先生と私はコラボして、先生が演奏されるシンセサイザーのメロディーをバックに、私が自作の詩を朗読し、CD『いと高き者の子守唄』を制作したことがあります。そのとき、 ニューヨーク州立大学の病院のロビーに掲げられている詩『神のおもんぱかり』も朗読し、多大な反響を得ました。

 

 西村先生は郷里の松山にいたころは神童と呼ばれ、注目の的だったそうですが、西村先生に言わせると、「東京芸大に進学してみると、まわりはみんな神童ばっかりなので驚いた!」そうで、みんなを笑わせている気さくな面もあります。

西村先生はテレビやコンサートで私たちを魅力的な宇宙の旅に誘ってくださっていますが、今日は文章によって「西村直記の世界」を味わっていただきましょう。

 

「私たち人間は、すべての生き物を含めて豊かな感性が備わっています。私の場合、自然からのメッセージに感じ入り、それを音楽で表現しています。私が作曲し、演奏した曲を聴いて感動し、涙を流したという感想を聴くと、ああ一緒に楽しんでくださったんだなと嬉しくなります。

 

音楽家は自身の才能とは別に、天(神仏)から降ってくるものを表現しようと努めます。さらに会場で聴いていらっしゃる方々たちからの波動も一緒に共有します。これはものすごく大きな影響力があります。上質の観衆たちの心は演奏者に伝わり、その結果、奏でる音楽も相乗作用によって深く感動的なものになります。

 

決して演奏家一人だけの力ではありません。演奏者と観客が一体となることは、作曲した作品を伝えるためにとても必要なことです。私の場合、演奏を始める前、毎回上に向かって手を挙げるポーズを取りますが、これは天からのメッセージ(霊感)を頂くために行うものです。その姿と奏でられる響きが、みなさんに伝わると思っています。

 

この『沈黙の響き』で、西澤利明さんをはじめ、澁谷美知子さん、柏木満美さんなどの投稿を読んで一人感心していました。沈黙の響きから得たインスピレーションがどういうふうに私の創作活動に影響しているか、ささやかな体験を書かせてもらおうと思います。

 

 私が30歳のとき、人生の転機となった大事故が起きました。東京芸大を卒業し、松山市を拠点に音楽活動をしているとき、妊娠5ヶ月の妻と4歳だった長男が大事故に遭いました。救急車で病院に運ばれ、救急措置を受けました。脊椎や脚を損傷していたため、医者からは『助からないかもしれません。助かったとしても、一生寝たきりになるかもしれません』と宣告されました。

 

私は目の前が真っ暗になり、病院をふらふらさ迷い出て、どこをどう歩いたかわからないまま、ふと気がつくと、幼いころ遊んでいた石手寺に来ていました。石手寺には線香の煙が立ち込め、手を合わせて一心不乱に拝むお遍路さんの読経の声が満ちていて、とても心が和みました。

 

そんな光景に包まれてぼーっとしていると、光が見えてきました。ひょっとしたら妻子は助かるかもしれない、そして自分もこの苦節を経て、新たな次元に引き上げられるのではないかと予感したのです。

  

 そんな思いを感じて帰宅し、母にそのことを伝えると、『石手寺は四国八十八か所の51番札所のお寺だよ』と教えられました。不思議に私の中に八十八か所のお遍路をやろうという気持ちが大きくなってきたのです。

『無意識のうちに導かれて、八十八か所の札所に詣でていたのは何か意味があるのではないか。私もお遍路をし、家族を助けてくださるよう祈ろう』

 そこで毎朝水を被り、一時間あまり読経し、神仏に祈るようになりました。

 

 こうしてお遍路が始まりましたが、不思議なことにお寺を訪れるたびごとにメロディーが浮かんできました。それらを書きとめ、7年半かけて八十八か所すべてのお寺を巡りました。私にとってお遍路は物見遊山の旅ではなく、家族を救ってください! という切実な祈りの旅だったのです。音楽は当然祈りの音楽となり、組曲が全曲完成しました。

 幸いにして妻子は多少の後遺症は残ったものの、助かりました。でも毎朝の水業と読経はあれから40年経った今でも続けています。

 

 NHKがお遍路の番組を企画したとき、私に白羽の矢が立って音楽を担当しました。だから番組の視聴者はリアルな四国八十八か所を体験できて大好評だったようです。それがいま販売されているNHKエンタープライズのCDDVD『心を旅する四国八十八か所』です。

 

 昭和63年(1988)2月3日、四国八十八か所の到達点である高野山を訪れました。そのとき、高野山は四国八十八か所の到達点でもあるけれども、新しい出発点でもあると感じました。それからのことは、天の導きとしかいいようがありません。自分の意思を超えたサムシング・グレートの導きのまま、思ってもみない方向に進んでいきました」

 これがご縁となって西村先生は出家得度し、新たな音楽活動が始まりました。

 

世界音楽巡礼への旅立ち

 

昭和63年(1988)9月3日、高野山根本大塔で西村先生が世界音楽巡礼の旅に出発するための儀式が行われました。全国から参加された88人の方たちが22人ずつ東西南北に並び、金剛界曼荼羅の儀式にのっとって、西村先生たち4人の演奏に合わせて金剛界曼荼羅図のまわりを廻りました。こうして88人の方々が西村先生の世界音楽巡礼の旅の立会人になりました。

 夜は野外の特設ステージでコンサートが行われ、西村先生が作曲した『スペースオデッセイ 宇宙巡礼 如来(にょらい)寂音(しずね)』が演奏されました。バリトン歌手は鎌田直純、シンセサイザーは西村先生、箏は吉崎克彦、尺八は横山勝也です。

 こうして、ニューヨークやハワイ、ベルリン、エルサレム、南京、第二次世界大戦中にタイとビルマ(現ミャンマー)をつないでいた泰緬鉄道など世界各地の紛争地を訪れ、和解と癒しのためのコンサートを開きました。平成2年(199012月にはバチカンを訪れ、和解と癒しのコンサートをする予定でした。

ところがヨハネ・パウロ二世ローマ教皇は思いのほか、世界音楽巡礼の旅の趣旨を理解してくださり、謁見のときは御前で『宇宙巡礼・イン・バチカン』を演奏することになりました。演奏が終わって教皇にご挨拶すると、『世界の平和のために、この世界音楽巡礼を続けるように』と祝福をくださり、強く後押しされました。

 

西村先生のプロとしての最初のデビューアルバムCD『宇宙巡礼・イン・バチカン』の中に、ヨハネ・パウロ二世教皇のお言葉に添えて、ご一緒に写った写真が同封されています。世界音楽巡礼で、カーネギーホールやニューヨークの国連本部、あるいはハワイ大学など、欧米各国で演奏するときには、いつもこの作品を演奏しています。

 

≪とうとうやってきた大ブレーク!≫

 

私は前々から西村先生に尋ねたいことがありました。

「西村先生は奥さまとご長男が事故に遭われたとき、病院からふらふらさ迷い歩いて、石手寺に行かれましたね。あのとき、もうもうたる線香の煙に包まれ、巡礼者たちの読経の声を聴いているとき、この苦境を乗り超えたら、新しい次元の人生が始まるのではないかと予感されましたが、それが実現したのですね」

それは大変ポイントをついた質問だったようで、西村先生は右手で顎髭をいじりながら、当時を思い出して返事されました。

「ヨハネ・パウロ二世との謁見演奏のライブは東京でレコーディングされて発売され、新聞や雑誌などがこぞって書きたてました。私はすでに42歳になっていましたが、おじさんがプロデビューしたのです。それほどローマ教皇の前での謁見演奏は画期的なことでした」

「やっぱり新しい歯車が回りだしたのですね」

「私の同級生たちはとうの昔にデビューしていたので、おそらく私が最後のデビューでしょう。NHKエンタープライズが売り出したCDDVD『心を旅する四国八十八か所』は人々の心を大変打ったようで、総本山大覚寺、高野山金剛峯寺、仁和寺、醍醐寺など、各地の名刹が相次いでCD制作を依頼してきて、大忙しとなりました。

 そこでこれを機に10年間務めていた愛媛大学を退官し、生徒が40人いたニシムラピアノアカデミー(音楽教室)もやめ、音楽制作に専念することにしました」

 

やはり劇的な変化があったのです。その後、西村先生はアニメ映画などの音楽を担当し、フジテレビのテーマ音楽や大型番組の音楽を担当するようになりました。世に知られるようになり、ファンができると、ライブコンサートも手がけました。海の中の魚たちの視点で有名になった詩人金子みすゞの全詩512篇を作曲し、キングレコードから発売したのもこのころです。

 

「幸いにもNHKが四国お遍路物なら西村直記だと評価し、『心を旅する四国八十八か所』のテーマと全88曲を放映し、CD4枚組とDVDNHKエンタープライズから発売しました。その後、制作した『ユネスコ認定 世界遺産ビデオ』(10本組)が50万セット売れ、世界音楽巡礼でできた借金を全部返済できました。これはCDアルバムが500万枚売れたのと同じ計算になります」

 

 しかしながら、良いことだけが続いたわけではありませんでした。平成18年(20188月、エストニア男性合唱団を経て、世界トップクラスの混声合唱団、エストニアフィルハーモニック室内合唱団員として活躍していた長男の英将(ひであき)さんがガンで亡くなりました。自分より先に息子に死なれることほど辛いことはありません。それも受けて立たなければならない試練でした。

 

 西村先生は音楽活動のかたわら、現在も『世界八十八か所音楽巡礼の旅』を続けています。この一年はコロナ禍で中断していますが、現在3巡目の旅を行っている最中で、イスラエルで24か所目を終えました。

 西村先生は最後に、「沈黙の響き」と人間との関係についてこう語ります。

「私の人生の大方を歩いてきてつくづく感じているのは、神仏に委ねることの大切さです。取るに足らない存在ですが、どうぞ私を用いて、人々を励ましてくださいと祈ることです。それで随分肩の力が抜け、神仏が使いやすくなることを請け合います」

天の導きはただ単に音楽そのものだけでなく、西村先生の人生そのものを大きく変えました。そんな天と人間との関りを、音楽を通して表現している昨今です。(続く)

①シンセサイザーを演奏中の西村直記先生

②話題となったヨハネ・パウロ二世ローマ教皇との謁見

③西村先生の近影

写真=①シンセサイザーを演奏中の西村直記先生 ②話題となったヨハネ・パウロ二世ローマ教皇との謁見 ③西村先生の近影


真珠の首飾り

沈黙の響き (その35)

沈黙の響き (その35)

沈黙の響きが意味するもの

 

≪“沈黙の響き”に聴き入ることは力の源泉の一つです≫

 

  一月、オーストラリア在住の西澤利明さんが投稿された「沈黙の響き」についての文章はとても反響を呼び、いろいろな方がメールをくださいました。その中で、ある匿名希望の方は次のようなご意見を述べておられます。

「今回、オーストラリア在住の西澤さまが投稿された文章はとても深い内容で、心に沁み入って参りました。LINE上で神渡先生のウィークリーメッセージ『沈黙の響き』が始まり、そのタイトルを読んだとき、心の奥からこみ上げてくる感覚があり、共感しました。

それに去年の心臓病の手術をして九死に一生を得た体験を、『闘病生活は覚醒のときでした』と述べられたとき、そうだ、そうだと強い共感を覚えました。私自身、ナースという職業柄、多くの患者さんと接していて、闘病生活は『沈黙の響き』がもっとも聴こえやすい時で、大きな精神的脱皮のときだと常々思っていました。

 

 私は幼い頃から敏感な体質で、長じて気功や太極拳を訓練するようになり、深い呼吸ができるようになってから、共感力や共鳴力が増幅してきたように思います。ですから西澤さまが言われる「意識の波動」が実感としてわかります。

 ナースは心が病んでいる方々と日々触れています。それだけにいつも一隅を照らす者でありたいと心がけています。神渡先生はこうも語っておられます。

『この年になってようやくわかったことがあります。感動とは感じて動くことであって、頭で理解して動くということではないということです。だから世の中には“理動”という言葉はありません。共感し、共鳴することがすべての出発点で、私たちの“いのちの源泉”であるように思います。そのことがまだわかっていなかったころは、私は随分鼻持ちならない人間だっただろうなと思うと、恥ずかしくて穴に入りたいほどです』

  私も感じ取れる自分でありたいと思います。心の動きを大切にされる先生に出会えたことに心から感謝しております」

 

≪宇宙の響きが持つ深遠なメッセージ≫

 

 私がウィークリーレターのタイトルを「沈黙の響き」としたのは理由があります。「沈黙」は耳に何も聴こえず、目にも形が見えませんが、まったく「虚無」なのではありません。耳に何も聴こえず、目に何も見えないはずの沈黙ですが、かすかに響きを伴っています。それに耳を澄まして聴き入ると、いつしか天空に引き上げられ、地上のしがらみから解放されて屈託なく、とても自由になるものです。

私は昨年9月、心臓のバイパス手術をしました。体力も気力も弱り、俺が俺がという自己顕示欲が薄らぐと、自分の心に響いてくるものがありました。導かれるままに内観すると、心の奥深いところに光が見えてきて、立ち直る力が与えられると知りました。だから「沈黙の響き」に心耳を澄ますことほど大切なものはないと実感したので、このニュースレターを「沈黙の響き」としました。

 

≪“沈黙の響き”こそが芸術の源です≫

 

前にも紹介したことのある詩人の柏木満美さんから届いたメールはとても啓発されるものがあったので紹介します。

「私は西澤さんの『聴こえるか聴こえないか、見えるか見えないかという、とてもかすかな“沈黙の響き”から得られたメッセージが、敏感な繊細な魂たちによって「芸術」として表わされるのだと思います』というご意見にとても共感しました。

そしてその“沈黙の響き”に心の耳を澄まして聴き入り、そこで感じたものをそれぞれの感性によって音楽や絵画や詩文に表わしたとき、それが共感を得て広がっていくというのも私自身経験してよくわかります。その意味で、誰もが芸術家なのですね。

 そう思ったとき、その思いが禅の大家鈴木大拙老師の言葉と結びついて、ああ! またつながったと、魂が震えました。鈴木老師は23冊もの英文の著書を通して、海外に日本の禅文化を知らしめた功労者で、梅原猛先生も近代日本の最大の仏教学者だと評価されています。

その鈴木老師が『とにかく人生は詩です』と言い、私たちと芸術との関りを次のように説いています。

『我々は自然の恵みによって、人間たる以上、誰でも芸術家たることを許されている。芸術家といっても、画家とか彫刻家、音楽家、詩人という特殊な芸術家をいうのではない。“生きることの芸術家(アーティスト・オブ・ライフ)”なのである。実際のところ我々は皆、“生きることの芸術家”として生まれてきているわけである』

 芸術家というと、どうしても浮世離れした高尚な人々を想起してしまいますが、鈴木老師はそうではなく、宇宙の響きに心耳を澄ませば、人間誰しもが“生きることの芸術家”になり得るのだと力説されます。そしてこうも付け加えておられます。

『芸術家は創造という仕事に従事している。彼らの使命は神の仕事に参加することにある。このことがほんの少しでもわかるならば、芸術作品は神の魂に触れ、人間の品位を高め、人間の人格の質的変化を助成するものとなる』

私も言葉をつむいで詩を書くようになり、それが多くの人々の共感を得て広がっていく様子を見て、もしかしたら私も神の仕事に参加し、人間の品位を高め、人間の人格の質的変化を助成することに繋がる仕事ができるかもしれない、いや、していきたいと、背筋がピーンと伸びるような思いになりました。改めて生きる力を得ている今日この頃です」

鈴木老師が「芸術家は神の仕事に参加しているのだ」と述べておられたとは知りませんでした。

  私たちも“沈黙の響き”に心耳を澄まし、老師がおっしゃるように、“生きることの芸術家(アーティスト・オブ・ライフ)”になり、創造的な生活を送りたいものです。(続く)

真珠の首飾り
写真=けがれなき天のしずく


沈黙の響き (その34)

 みなさんから「超凡破格の教師」だとか「百年に一人現れる教師」と呼ばれ慕われた徳永康起先生は、授業でしばしば坂村真民さんの詩を採り上げて鑑賞されました。そんなことから、徳永学級の子どもたちはよく真民さんに手紙を出し、生きる力を得ていました。

 これは徳永先生が八代市立氷川中学校で国語の担当をされていたとき、一女生徒が真民さんに手紙を出し、それに丁寧な返事をくださいました。その心の交流の記録です。

 

中学校の一女生徒からの手紙

 

「私は氷川中学二年生の西田園子です。徳永先生からいつも坂村先生の詩や、手紙などを見せてもらっています。坂村先生のことは国語の授業や、徳永先生が毎月出しておられる個人雑誌『氷川』でいろいろと知りました。徳永先生から一か月ほど前、坂村先生の『リンリン』という詩をもらいました。

詩を配られた翌日、徳永先生は私に『リンリン』は何を言おうとしていると思うか? と訊かれました。私は何と答えようかととまどい、返事できませんでした。でも、どういうふうに感じたかと訊かれたら、少しは自分の意見を言えたかも知れません。

坂村先生の詩はみんな私の心を動かし、私を苦しめます。私はこの詩から何かピンと張りつめたものを感じ、詩の中にとけこみ、リンリンを味わいたいのです。坂村先生の詩をくり返しくり返し読んで、その詩の中にとけこんで、自分をなぐさめています。そしてもっと強く、根強く生きなければと思っています。

 

それから私のことについて坂村先生に聞いてもらいたいことがあります。私は今、人生について真剣に考えています。私は今、幸福です。しかし何かが足りないように思います。そして急激に寂しさが私の心をかきたてて、どうしてよいのかわからなくなるのです。涙が出てしかたありません。

 

私は人生や人間性についていろいろと深く考えています。現在の自分に期待をかけ、常に希望を持ち、前進しなくてはならないのだと思います。それに決して人に頼らず、自分だけの歴史をつくりたいと思います。もちろん人の意見は尊重し、人と人との和は守るつもりです。しかし相手に頼るようではいけないと思います。人間は孤独です。ですから寂しさを感じ、友を持ちたいと誰もが望みます。でも結局自分は自分一人です。そういうことを考えると、根本は自分で自分をしっかりさせてゆかなくてはならないのです。

 

坂村先生の詩を読んでわからないところもあるんですが、でもやはりこの詩全体から、何かを分けてもらったように思います。坂村先生や徳永先生を私は心から尊敬し、私の身辺がみんなこういう先生だったらと思い、私も先生方のような立派な人間になりたいと思っています。私は地位とか名誉とかがある人にあえてなろうとは思いません。ただ自分は人間でよかった、人生を無事に、自分なりに送ることができたと、自分で自分をほめることができるのを夢みて、前進したいのです。どうか先生、私の気持をわかってください」

 

そう訴える西田園子さんへ、審問さんはこう返事しました。

「お手紙ありがとうございました。今の私を勇気づけ、今の私に生きる希望を与えてくれるのは、私の詩を読んで下さった人からの、心からなる声援と激励のことばです。

徳永先生がご自分の便箋の上段に記しておられる”生命の呼応”こそ、私が願っている根源的なものです。

現代西洋文明は日一日と、この呼応の心を破壊していますが、東洋独自の美しい心は対立でなく呼び合う調和なのです。あなたが未知の私にくださった心も、この呼応の心のあらわれなのです。

 

呼応は純粋さから生れてきます。しかしこの純粋さも、今の世にはむしろ珍しがられるほど、次第に消え去ってゆきつつあります。どう生きたらよいか。それはちょっと今すぐは決められません。なぜなら人間一生の問題だからです。

 

これは一人ひとりに与えられた一番大きな試験問題です。私たちは与えられた白い紙に何と解答すべきか、長い間かかって考えてゆかねばなりませんが、多くの人はそんな根本問題など忘れてしまって、いや進んで捨ててしまって、世俗的なことばかり求めて、二度とないこの尊い人生を終ってしまいがちです。

どうかあなたはあなたで考えてください。今は幼稚な結論でもいいのです。自分で考え、自分で出した結論なら、それはあなたにとって尊いものです。

 

私の『リンリン』の詩も、そうした問題究明の苦しさから、火花のように生れてきた叫びと思っていただいたらいいと考えます。徳永先生が『リンリン』の詩をとりあげてくださったのは、徳永先生は普通の教師とちがった道の実践者だからです。その点徳永先生に心からお礼を申上げます。徳永先生がおられなかったら、あなたたちと親しくなることもできなかったし、こうした呼応の喜びも生れてこなかった。私が良く言う輪廻(りんね)の不思議です。どうかこれからもあなたの純粋な心で、私を励ましてください。

 

打ち明けて言うと、あなたの手紙を読んで、私の方が受太刀となりました。元来私は手紙の下書などしたことはめったにありませんが、あなたへの手紙は一度ノートに書きしるしました。それほどあなたの手紙は人生の根本に触れ、人間の本質に迫っていました。あなたの見つめる眼の深さに本当に感嘆してしまいました。

 

別便で住井すゑさんのすぐれた作品(毎日出版文化賞受賞)『夜あけ朝あけ』を送ります。有名な本だから、あるいは読まれたかも知れませんが。これは著者から頂いた本です。”永遠に新しきもの 大地”とあるのは住井さんのサインです。この本にはタンポポのことが各所に出てきます。

タンポポは八代の路傍にも咲いているでしょう。その花をじっと見つめていると、人生の問題、人間の生き方の問題など、いろいろと教えてくれます。一木一草といえども私たちの教師です。読んでしまったらお友達にも貸してあげて、一人でも多くの人に読んでもらってください。

『人生は一度きりだが、物は必ず二度生かせ』

これは私のモットーです。いつか縁があったらお会いできるでしょう。”念ずれば花ひらく”です。しっかり勉強してください。三月六日 夜明け」

 中学二年生への手紙に、下書きをしたという真民さ。まさに“いのちの呼応”がなされました。詩「リンリン」をご存知でない方もあるかと思うので、ご参考までに書き添えておきます。

 

燐(りん)火(び)のように/リンリンと/燃えていなければならない

鈴虫のように/リンリンと/訴えていなければならない

禅僧のように/リンリンと/鍛えていなければならない

梅花のように/リンリンと/冴えていなければならない

写真=ありし日の坂村真民さん


沈黙の響き(その33)

沈黙の響き(その33)

めぐりあいの不思議

 

「沈黙の響き」より来月中旬、致知出版社から『人を育てる道――伝説の教師徳永康起の生き方』が発売されます。この本の取材で随分お世話になった方で、徳永先生の教え子・植山洋一さんから、「めぐりあいの不思議」と題して投稿をいただきました。

 植山さんは昭和27年(1952)4月、熊本県八代市立太田郷小学校5年5組で徳永先生に受け持たれました。それまで担任の先生に叱られることの多かった植山さんは、先生との親しみが持てず恐い存在でした。

 それまでの先生は、勉強のできる生徒をかわいがり、勉強が苦手の植山さんは叱られることが多く、学校はつまりませんでした。植山さんは母と妹と3人の母子家庭で、母は裁縫で生計を立てていました。でも暗い電灯の下での縫物のため、母は次第に目が不自由になり、小さな文字が見えないようになりました。だから植山さんは登校する前、母が仕事に困らないよう10本ぐらいの針に糸を通していました。 

 学校から帰ると母の品物を届けに行ったり、依頼の着物を預かってきたりしました。暗くなり帰りが遅くなると、母は心配して家の前に出て帰りを待っていてくれました。母はだんだん視力が落ちて一人で外歩きができなくなったため、植山さんが手を引いて歩くようになりました。そのような家庭環境だったので、あまり勉強にはこだわりませんでした。

だから5年生になり徳永先生に出会っても、あまり期待していませんでした。ところが徳永先生はやさしいまなざしで、みんなを一人ひとり温かく包んでくださるので驚きました。そんな徳永先生のまなざしにひかれて学校に通うのが楽しくなり、欠席することもなくなりました。クラスには春のような暖かい光がさし、みんなの笑顔の花が咲くようになり、植山さんにとってもほんとうに居心地のいいところとなりました。

5年生の初めごろ、教室の入り口の横に1枚の色紙が掲げられました。筆で『自分を育てる者は自分である』と書いてありました。それが植山さんの指針となりました。

家が貧しくて高等学校に進めなかった植山さんは、母のことを妹に頼んで陸上自衛隊に入り、がんばって輸送ヘリの操縦士になりました。その植山さんからの次のような投稿があったので、披露します。

 

 

「めぐりあいの不思議」      徳永先生の教え子「ごぼく会」事務局 植山洋一

この神渡良平先生のコラム「沈黙の響き」に私たちの恩師徳永康起先生を取り上げて頂き、教え子として感謝の極みです。徳永先生のことは2月中旬に出版される本をお読みいただくとして、今日は神渡先生と私たちとのめぐり合いから今日に至るまでの経緯などについてお話したいと思います。

令和元年(2019)、故徳永康起先生を偲ぶ「第40回広島ハガキ祭り」が広島読書会有志の方々により開催されました。そしてその会のメイン講師として招かれた神渡先生の講話をお聴きし、その後懇親会の場で初めてご挨拶し、恩師徳永先生についてお話しする機会を得ました。

 

 神渡先生は以前から故森信三先生のグループの機関誌『実践人』に『森信三の世界』を連載されており、徳永先生のことも記述されてよくご存じでした。しかし徳永先生と教え子たちとの交流を話すと、俄然興味を持たれました。

そこで家から一次資料をお送りするとそれらに強くインパクトを受けられ、次々と質問がありました。その後も古い資料を探し出してお送りすると鋭い筆問が返ってきて、作家魂に驚きました。

神渡先生は子どもたちのいのちを全力で育て上げようとされる徳永先生の教育者の姿勢にいたく共感され、これを取り上げようと思われるようになりました。

 

そこで現地取材が始まり、ごぼく会の城代家老とも呼ばれている吉川征一君と私が昨年(2020)11月、熊本県各地を案内しました。案内したのは、熊本県南の生誕の地大野村と大野小学校、そして球磨郡の免田小学校、私たちの母校八代市立太田郷小学校の記念樹と記念碑を案内、それぞれの学校では校長先生と懇談の機会がありました。また徳永先生の遺品(資料)が保管されている球磨郡錦町在住の先生の次女園田由美さん宅もお伺いし、資料をいろいろ拝見しました。

 

また徳永先生が少年時代、師範学校に行く前に1年間在籍した県北合志市の「合志義塾」跡地を訪ね、あわせて宮本武蔵が最晩年『五輪書』を書き上げた霊厳洞も案内することができました。不慣れな案内ながら、私たちは神渡先生のほっこりとした柔和な会話に、たくさんの話しができ、楽しい思い出をいただきました。

 

私たち徳永先生の教え子は、小学校卒業以来、「ごぼく会」というクラス会を徳永康起先生の名のもとに集い、67年間の思い出の多くの記録を積み上げてまいりました。徳永先生との小学校5年生時の出会いからするとまもなく70年になる自慢のクラス会だと自負いたしております。 

 

41年前に徳永先生が亡くなられて後、毎年、広島の有志の方々により徳永先生を偲び「広島ハガキ祭り」が開催されています。なぜ広島での偲ぶ会かと言えば、戦前、徳永先生の実兄宗起氏が、瀬戸内で救世軍の免囚保護者の指導者として活動されていました。徳永先生が教師になりたての頃、夏休みになると瀬戸内の宗起氏の勤務地を訪れ、ペスタロッチの如き慈愛に満ちた活動を目の当たりにして深い感動を覚え、その様子が瀬戸内の潮風とともに脳裏に深く焼き付いていました。(その具体的内容は、今度の本に見事に活写されているのでご参照ください)

 

昭和43年(1968)、徳永先生が実践人夏季研修会で知り合った岡野浩司先生に招かれ、因島の三庄中学校、福山市の戸出小学校でお話する機会がありました。これを機に瀬戸内周辺の他の学校からも呼ばれることが多くなりました。そのような関係で、瀬戸内の島々や広島とのご縁が深くなっていきました。

 

徳永先生没後の翌昭和55年(1980)6月、以前から森信三先生の著書を教本として読書会を尾道の自宅で開いておられた漁師の川原作太郎さんが、徳永先生が亡くなられたことを知ってご自宅で徳永先生を偲ぶ会を催されました。これが徳永先生を偲ぶ会の始まりとなり、後に会場が広島に移され、「広島ハガキ祭り」と名前を変更されました。ご存知のように徳永先生は複写ハガキの元祖でもあり、14年間で複写ハガキ綴り460冊、合計2万3千通ものハガキを書き、人々と交流しておられます。

 

広島ハガキ祭りは毎年6月に開催され、絶えることなく続き、一昨年には第40回を数えるにいたりました。現在では、広島読書会の方々が全国にご案内され、北海道から九州まで約百名からの人が集まり、40回の節目には160人余の方々が参加されました。徳永先生の偲ぶ会が異郷の地である広島で長年開催されてきたことは稀有であり、教え子として広島読書会の皆様に深く感謝しています。

 

この記念すべき広島ハガキ祭りで、初めて神渡先生とお会いできたのは、まさに「めぐりあいの不思議」そのものです。その後の交流が徳永先生の取材と発展し、出版の運びとなり、教え子としたら願ってもない展開となりました。

森信三先生は、「人は会うべき人に必ず出会うものです。それも一瞬早からず 一瞬遅からないときに」と言われましたが、私もいまそれを実感しています。このありがたい出会いをお導き頂いた森信三先生、広島読書会の皆様に、教え子として心から感謝申し上げます。(続き)

陸上自衛隊で輸送ヘリの操縦士をしていたころの植山さん