日別アーカイブ: 2021年3月6日

沈黙の響き (その38)

『沈黙の響き(その38)』

≪三浦綾子の『塩狩峠』が投げかけたもの≫

 

 

≪人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない≫

 

私はコロナ禍で外に出ることができないのを幸いに、過去、心の中に残った名著を取り出して読みふけりました。その中に、三浦綾子の『塩狩峠』(新潮文庫)がありました。三浦綾子もまた「沈黙の響き」に耳を傾け、あるかなきかのかすかなメッセージに聴き入った作家の一人です。

 

大正11年(1922)生まれの三浦綾子は長らく小学校の教師をしていました。ところが戦後すぐ肺結核で倒れ、療養を余儀なくされました。ところが闘病生活中、北大医学部を肺結核のため休学し、療養していた幼なじみの前川正と偶然再会しました。闘病中であっても希望を失わず、明るく振舞う前川がキリスト信者だと知って、三浦はキリストの信仰に興味を持ちました。

 その前川の影響で、三浦は昭和27年(1952)、30歳のとき洗礼を受けました。しかし、三浦の症状はなかなか好転せず、脊椎に転移して骨髄組織が壊死し、麻痺、排尿・排便に苦しみました。

 

 それから11年後の昭和38年(1963)、朝日新聞が創刊80周年事業として1000万円の懸賞小説を公募しました。それまでも創作活動をしていた三浦綾子は『氷点』で応募し、見事に入選しました。かくして新聞連載が始まり、それが終わって昭和41年(1966)に出版され、その年だけでも71万部を超す大ベストセラーとなりました。『氷点』は映画化され、さらなるブームを呼びました。

 

 その三浦が所属していた旭川六条教会に、明治40年ごろ、長野政雄(小説では長野信夫)という旭川運輸事務所の主任がおり、教会の信徒たちにも一般の人々にもとても慕われていました。

 

明治42年(1909)2月28日、旭川の北に位置する塩狩峠という難所で起きた鉄道事故で、たまたま乗り合わせていた客車の逆走を防ぎ、乗客の命を救おうと必死になり、ついに身を挺して客車の下敷きになって脱線転覆事故を防ぎました。

 

この話を知った三浦はこれを『塩狩峠』と題した小説を書きました。イエスが教え諭された聖句、

「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん」

 に、真っ正面から答えた小説です。

 

この小説の執筆を日本基督教団出版局が出している月刊誌『信徒の友』に依頼した張本人である文芸評論家の佐古純一郎は解説で、

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」

 という聖句を引いて、主人公永野信夫がイエスの模範に殉じた生き方をしたことを絶賛しました。

 

≪人間の極限の美しさを描いた『塩狩峠』≫

 

 主人公の永野信夫(実名長野政雄)は鉄道の勤務以外の時間は旭川六条教会で日曜学校を手伝い、手塩線沿線の各地でキリスト教青年会を世話していました。永野は吉川ふじ子というキリスト教徒に心を惹かれていました。

 

ふじ子肺結核患者で、しかも脊椎に移転してカリエスになり、寝たきりになりました。永野は、肺結核とカリエスを患いながら、キリストの信仰によって明るく振舞っているふじ子が回復したら結婚しようと考えていました。ふじ子の病気は六年を経てようやく快方に向かい、とうとう結婚できる目途が立ちました。

 

 永野は長年手塩にかけて育ててきた鉄道キリスト教青年会の支部が名寄(なよろ)で結成されるので記念講演をし、翌朝札幌に帰って、待ちに待った結納をする段取りにしていました。結成式には名寄、和寒(わっさむ)、士別(しべつ)などから五十名もの人々が詰めかけて祝い、大役を果たした永野は、翌朝札幌行きの汽車に乗り込みました。ところがこの汽車が和寒を出て急勾配の塩狩峠に差し掛かったとき、永野たちが乗っている最後部の客車が外れて、急速度で逆走し始めたのです。

 

線路沿いの樹木が飛ぶように過ぎ去っていき、乗客は転覆を恐れて騒然となりました。永野は客車の暴走を防ぎ、乗客を救う手立てはないかと模索しました。そんな永野の目に飛び込んできたのが、デッキの床に垂直に備えつけられたハンドブレーキでした。

永野はそれに飛びつき、全身の力をこめてハンドルを回しました。額から汗がしたたりおち、ブレーキが利いて次第に速度が落ちてきました。しかしそれ以上速度が落ちず、五十メートル先には急勾配のカーブが迫っていました。そこへ突っ込めば客車は脱線転覆し、多大な犠牲が出ることは必至です。

 

 すると永野はデッキから身を翻して線路に飛び降り、客車の下敷きになって、自分の体で客車を止めようとしたのです。客車の下から永野の絶叫が起き、鮮血が飛び散って、客車は永野の体に乗り上げて、ようやく停止しました。乗客は危うく助かったものの、自分たちが永野の犠牲で救われたと知って呆然となりました。

 

 札幌で新郎が着くことを今か今かと待っていたふじ子のもとに、永野が身を挺して客車の下敷きになり、乗客を救ったという知らせが伝えられました。明日は晴れて結納だという日に、そんな悲しい出来事が起こるとは信じられません。呆然となったふじ子は何としてでも永野を出迎えなければと思って駅に向かい、改札口に立ちました。

 

永野が乗ったはずの汽車が駅に着き、乗客がどんどん降りてきます。ふじ子は必死になって乗客の中に永野を探し、最後の乗客が改札口を出て行ったとき、永野が手を振って歩いてくるのが見えました。

「あ、信夫さん!」

 ふじ子もにっこり笑って手を挙げました。次の瞬間、永野の姿はかき消すように消えてしまい、ふじ子も気を失って、心配してついてきた兄の懐にくず折れてしまいました――。

 

≪この世的なものに挑戦した文学≫

 

 ふじ子が患っていた肺結核と脊椎カリエスは、三浦綾子が患っていた病気です。自分の闘病生活を参考にして描きながら、永野がふじ子に捧げる愛を描き、逆走する客車の下敷きになって乗客の命を救ったシーンは、イエスが人々の犠牲になって従容と十字架についた姿と重なって真に迫るものがあり、私は思わず落涙してしまいました。

 

 人の生きざまほど私たちをハッとさせるものはありません。そんな実例に触れたとき、私たちの人生はしゃきっとなります。先にも取り上げた佐古純一郎は三浦の作品をただ単なるエンターテインメントではなく、この世的なものに挑戦している文学だといいます。

 

 いや、イエス自身の生き方がこの世的なものに挑戦した生き方でしたから、その信徒である三浦の文学は当然、この世的なものに挑戦したものとなってもおかしくありません。

「沈黙の響き」に耳を傾け、宇宙の本質と一体となろうとしたとき、私たちは少々のことでは揺るがない者になります。その毅然とした態度が、世の中を浄化していくのではないでしょうか。

 

 世界の政治を見ると、多くの独裁者たちがやりたい放題のことをやっている無秩序の世界のように見えますが、それそれらも大きく包まれて世界は運行しているのです。泡沫(うたかた)のような存在に気を取られて腐ってしまうのではなく、自分の持ち場で一隅を照らす生き方をしましょう。それが世界を救います。

 

私たちの生き方が問われています。ごまかすことはできません。人生はたった一度しかないからこそ、ごまかすことなく、固い岩の上に立って、最高に充実して生きたいものです。(続き)

『塩狩峠』(三浦綾子著 新潮文庫)

写真=『塩狩峠』(三浦綾子著 新潮文庫)