月別アーカイブ: 2021年4月

宇宙からみずみずしいいのちの惑星・地球に見入っているあなた

沈黙の響き (その47)

『沈黙の響き』(その47

はるかなる宇宙からの呼び声(2)

 

≪最初から悪い子なんておらんよ≫

 今はすっかり白髪になってしまった故辻光文(こうぶん)先生は、自分に転機をもたらしてくれたS子ちゃんのことをこう語りました(インタビューは2015年)。

「問題はS子ちゃんにあったのではなく、S子ちゃんを全面的には受け入れていなかった私にあったのです。ことわざに『窮鼠(きゅうそ)猫を噛む』とあるように、猫よりも弱いネズミは普段猫に嚙みつきませんが、追い詰められると猫にでも噛みつきます。

 問題児といわれる子は追い詰められてそうなっており、その事情を理解せず、問題児というレッテルを貼っていた私の方に問題があったのです。S子ちゃんはそのことを私に教えてくれたのでした。

 学園に新しい子が来るとみんな決まって、先生、今度来る子ってどんな悪さをやらかした子なの? と訊くもんです。でも私はみんなを諭します。

『最初から悪い子っておらんよ。あんたらもここに来るときは、どんなところに行かされるんやろと心配やったろ。それと同じや。ほやからその子がどんな無茶をしようが腹を立てんと、仲ようしてあげてよ。よう面倒見てあげるんやで』

 すると、よっしゃ、わかった、まかしとき! と受け入れ態勢をつくるもんです。子どもの内からの叫びを聞いてあげたとき、錨を下ろす港がなくてほっつき歩かざるを得なかった子どもは落ち着いてくるんです」

 ややもすると私たちは、表面上、当座はおとなしくしている問題児の行動を近視眼的な目で見て、「教育の効果が出た」などと喜んでいます。ところが自分の期待に反する行動に直面すると、「裏切られた」と怒り、訳知り顔に「一度道を踏み外した者が立ち直るのは難しい!」などと憤慨します。

でも、そうなんでしょうか。

そうではないと辻先生は断言します。子どもたちは辻先生から大きく受け入れられたから、自由で屈託なく過ごすようになりました。子どもたちは落ち着きを取り戻し、情緒が育ち、辻さんの家庭学寮は錨を下ろすことができる母港になり、ごく普通の子どもになっていきました。子どもたちと辻先生の心の交流を支えた「交流日記」は実に800冊あまりになりました。そういう目に見えないコツコツとした努力が、問題を抱えた子どもたちを立ち直らせたのです。

 

≪生きているだけではいけませんか?≫

 小舎夫婦制という教師夫婦の献身的努力に支えられた教護教育は、子どもたちと生活しながらの24時間教育なので大変です。しかし、子どもたちは裏表のない真実の愛に敏感に反応してくるので、極めて効果が上がります。

 学園の教師たちは問題を起こした子どもを引き取りに警察署に行ったりして、なぜ誠意が子どもに通じないのかと途方に暮れたりします。辻先生も子どもたちに翻弄されてくたくたに疲れることもありましたが、それでも不思議な充実感に満たされました。

「教護教育の効果があったとか、なかったとか、そんなこざかしい思いを超えて、子どもの体の中で息づいている“いのち”を見ると感動します。みんな、途方もなく広い宇宙の厳粛なる“いのち”をいただいて尊く輝いているのです。私たちはその“いのち”を感謝して、精いっぱい生きればいいのです」

 辻先生は子どもたちの“いのち”にみ仏の力を感じていたのです。そして驚くべき信条に言及されました。

「だからこそ絶対肯定! そして絶対肯定! さらに進んで絶対肯定! 何があっても絶対的に肯定します。それがみ仏を信じ、その子を信じるということです」

 信じるということはそういうことかと思わざるを得ませんでした。南禅寺の柴山老師が太鼓判を押したように、辻先生の“受容”には絶大なものがありました。

 辻先生はそれを「生きているだけではいけませんか!」という詩で表現しました。長い詩なので、ここでは最後の三分の一ほどの部分を紹介します。

 

そもそも人間とは、

そしていのちとは、

この自分とは何なのですか?

「いのちはつながっている!」と平易に言った人がいます。

それはすべてのものの、きれめのない、つなぎめのない、

東洋の「空」の世界でした。

 

障害者も、健常者も、子どもも、老人も、病む人も、あなたも、わたしも、

区別はできても、切り離しては存在し得ない“いのち”。

“いのち”そのものです。

それは虫も、動物も、山も、川も、海も、雨も、風も、空も、太陽も、

宇宙の塵の果てまでつながる“いのち”なのです。

 

劫初(ごうしょ)よりこの方、重々無尽(じゅうじゅうむじん)に織りなす“いのち”の流れとして、その中に今、私がいるのです。

すべては生きている。というより、生かされて、今ここにいる“いのち”です。

その私からの出発です。

すべてはみな、生かされている。

その“いのち”の自覚の中に、宇宙続きの、唯一、人間の感動があり、

愛が感じられるのです。

本当はみんな愛の中にあるのです。

生きているだけではいけませんか。

 

大自然の“いのち”はそこここに、これ見よかしと噴出し、わが世の春とばかりに謳歌しています。そのことを誰よりも感じている辻先生は“いのち”を謳歌することを全面的に支援されています。

「“いのち”は全部つながっているのです。そして私たちはお互い助け合うようになっています。自分の物差しに合わないからと切り捨ててはいけなせん。遠い太古の昔から、重々無尽に、子どもたちに流れ込んでいる“いのち”を生き切るようお手伝いしたい。それが私の役目だと自覚しています」

 

≪〝いのち〟のよび声に耳を澄まそう!≫

 辻先生は、ややもすると四角四面の規則を押し付けることになりがちな道徳教育を脱して、子どもたちそれぞれがみ仏から授かっている〝いのち〟を全うさせようとされた〝いのちの教育者〟でした。

“いのち”は響きを持っています。あるか無きかのかそけき響きですが、メッセージを発しています。忙しくしている人の耳には届きませんが、しかしとても重要なメッセージです。辻先生のような繊細な魂はその〝沈黙の響き〟を聴き取ってその人とのコミュニケーションがなり立ち、手を差しのべました。

“沈黙の響き”は“いのち”が発している声です。その声を聴き分ける人は魂を救う人であり、世の救いです。そんな人がいる社会は決してみずみずしさを失いません。だから辻先生のような“沈黙の響き”に耳を傾ける人が、ここにもあそこにも必要なのです。こうして私たちのコミュニティは心豊かな人間社会に一歩一歩近づいていきます。かそけき声に耳を傾けることはとても大切なことでした。

ああ、はるかなる宇宙からの呼び声よ! 

ただただ心耳を澄まし、ありがたく合掌し、自分の務めを果たていくばかりです。(続き)

宇宙からみずみずしいいのちの惑星・地球に見入っているあなた

写真=宇宙からみずみずしいいのちの惑星・地球に見入っているあなた


辻先生にインタビューする筆者

沈黙の響き (その46)

『沈黙の響き(その46)』

はるかなる宇宙からの呼び声(1)

 

≪生徒たちの〝いのち〟に手を合わせて拝む辻先生≫

 日光の「光のしずく安らぎの里」が主宰するオンライン講演会で、先週414日夜、大阪の縄文の家「まだま村」を主宰されている立花之則(ゆきのり)先生が話をされました。立花先生は大阪府高槻(たかつき)市の矯正施設、阿武山(あぶやま)学園で長らく教師をされていた故辻光文(こうぶん)先生のことを採り上げられました。辻先生とは日常的に交流されており、50回ぐらいは会ったと話されていました。

 

立花先生はまったく謙遜して、そのころは辻先生の人間理解の深さには気がつかず、私が辻先生について書いた『苦しみとの向き合い方――言志四録の人間学』(PHP研究所)や講演録『共に生きる』(夢工房だいあん)を読んで、教えられるところが多かったと述べておられました。ところで立花先生も指摘されていた辻先生の宇宙観は、極めて大切な観点を含んでいるので、ここで改めて言及したいと思います。

 

 辻先生が教師をされていた阿武山学園は、問題を起こした青少年たちを父母代わりの教師夫妻の家庭に預けて、人間関係を培(つちか)うことによって人生に立ち向かう姿勢をつくり上げるという大阪府独特の小舎夫婦制の学園です。辻先生はそこで教師をされていましたが、元々は臨済宗の僧侶を目指して修行された在家仏教徒です。

 

でも葬式仏教を嫌い、本当に助け手を必要としている人たちの力になりたいと、阿武山学園に住み込んで、道を踏み外してしまった非行少年少女たちが立ち直るための助力をされていました。

 

辻先生は子どもたちの魂に手を合わせて拝むように接しておられました。すると荒れていた子どもたちは穏やかになり、落ち着いてくるのです。こうして模範的な学寮を営むようになられ、大阪府が矯正教育の研修会を開くときはいつも辻先生を講師として招き、心掛けを教えてもらっていました。

 

辻先生が定年退職後、高槻市に住まわれると、卒業生たちは「結婚しました」とか、「子どもが生まれました」とか言って、ことあるたびに辻先生を訪ねて歓談していました。辻先生のご自宅は「縁庵」(えにしあん)といいますが、文字通り縁が縁を呼んで、みんなが寄り集う場所だったのです。

 

「“いのち”は一つつながりです。自分と他人を分けていたのは、私がまだまだ本当のいのちの実相に気づいていなかったからでした。本当はみんな縁で繋がっているのです。だからこの家は“えにし庵”なのです」

と言われる辻先生に私は地涌(ぢゆう)の菩薩を見た思いがしました。

 

地涌の菩薩とは法華経にある教えで、菩薩は天界から静々と降りてくるのではなく、泥にまみれて地から涌き出してくる存在だといいます。

 

辻先生が宇宙の本質をつかんだのは、S子ちゃんという少女との出会いからでした。そのことは拙著『苦しみとの向き合い方――言志四録(げんししろく)の人間学』(PHP研究所)に書きました。しかしこの本は絶版となって入手できないので、その要点をここに紹介したいと思います。

 

≪母に捨てられたS子ちゃんの悲しみ≫

「あれは1年生に上がるまえのことやった」

不良少女とレッテルを貼られ、こんなに反抗的で扱いにくい子はいないと嫌われていたS子ちゃんは、日記に自分の生い立ちのことをこう書いています。

 

「おかあちゃんがキャンディ買うておいでとお金をくれはった。そいでお店に買いに行ってキャンディ買うて帰ってきたら、おかあちゃんがよそのおっちゃんとダンプカーに荷物をつんではった。弟はもう車に乗せられとった。

 

 私が早う帰ってきて、おかあちゃんがダンプカーに荷物をつんでいるのを見られたのがまずかったのか、おかあちゃんはまた私をつれて買い物にいかはった。さいしょはぞうりを買うてくれ、つぎに洋服を買うてくれはるという。200円お金をもろうたので、いろいろ洋服を見て回っていると、おかあちゃんがいなくなった。2階の売りばもさがし回ったけど、見えあらへん。わんわん泣いてさがしまわっとったら、店の人が放送してくれはったけど、おかあちゃんは姿を見せへんかった。

 

たまたまおらはった近所の人が家につれて帰ってくれはったけど、家にもおかあちゃんも弟もおれへんかった。おかあちゃんは弟だけつれて、ダンプカーのおっちゃんとどこかに行ってしもうた。私をひとりのこして……」

 

日記には信じられないような出来事が書きつづられていました。S子ちゃんは父と共に捨てられ、その父はほどなくして別の女性と再婚し、S子ちゃんは施設に預けられました。

そのショックでS子ちゃんの心は粉みじんに砕け、いつしか陰日向のあるいじけた性格になってしまいました。その場をとりつくろうために白々とした嘘をつき、他の子といさかいをし、先生に反抗してはたびたび施設を逃げ出しました。父親の元に舞い戻ってもそこには居場所がなく、施設に連れ戻されました。いつしか万引きや盗みを繰り返すようになり、とうとう警察のお世話になるようになりました。

 

≪手に負えない子になってしまったS子ちゃん≫

 S子ちゃんを預かった施設では手におえないので、大阪府北摂の丘陵にある阿武山学園に回されてきて、辻先生の学寮に入りました。S子ちゃんはトラブルが多い子どもでしたが、それでもまだ父親が会いに来てくれている間はよかった。ところがその父がしばらくして音信を絶ってしまいました。S子ちゃんは心配して父親の居所を探すと、父親は行き倒れ、身元がわからないまま火葬されていたと判明しました。

 

精神状態はますます不安定なものになり、生活態度はいっそうふてぶてしく、表面的なごまかしが多く、トラブルばかりでした。悪態をついて暴れ、せっかく落ち着いている他の子どもも巻き込んで悪さをするので、辻先生はS子ちゃんを持てあまし、この子さえいなければ……と、ため息をつくこともしばしばありました。

 

≪私はS子ちゃんの“いのち”を見ていなかった!≫

 ところがS子ちゃんに異変が起きました。中学2年生になった夏、以前から異常を訴えていた首と左手指が引きつるようになったのです。精密検査した結果、悪性腫瘍と診断され、急遽入院しました。医者は暗い顔をして、助からないかもしれないと嘆息しました。

 

辻先生はS子ちゃんが間もなくこの世を去ってしまうかもしれないと恐れ、S子ちゃんが本当にいとおしく思えて、どんなことでもしてあげたいと思いました。それまでの自分の中にあった「私はS子を適切に指導している! 私はS子を矯正できる」という思いをお詫びすると、S子ちゃんを見詰める眼差しが柔らかくなっていきました。

 

 S子ちゃんの入院生活は1か月続き、無事退院できました。それからのS子ちゃんはすっかり変わりました。嘘をつかなくなり、新しく入学してくる子どもたちの世話も積極的にするようになったのです。

 

 中学生を終えて阿武山学園を卒業し、准看護師として病院に勤務しながら、看護学校に通いました。ところが惜しくも挫折して看護学校を中退したので、看護師にはなれませんでした。でも気を取り直して、レストランのウエイトレスとして元気に働くようになりました。

 

 ところで私はこの小論のタイトルを「はるかなる宇宙からの呼び声」としました。なぜかというと、子どもたちのどの魂からも、「私を愛して!」というはるかなる呼び声が上がっているからです。それは宇宙の深奥からの呼び声でもあります。その声を聴き分け、私たちの態度を改め、一人ひとりをいつくしみ育むとき、子どもたちは元の素直な姿に立ち返っていくのです。(続き)

辻先生にインタビューする筆者

写真=辻先生にインタビューする筆者

 


シイタケ菌を植える作業

沈黙の響き (その45)

「沈黙の響き(その45)」

森の中でシイタケ菌を植え、神磯の鳥居で神に合う

 

≪那須塩原の森の中の別荘≫

コロナ禍の自粛が続いてうんざりしていたところ、那須塩原に素敵な別荘を持つ人から、

150本のホダ木にシイタケ菌を植えて別荘の松林で養生し、秋に収穫する予定だけど、そのアクティビティに参加しませんか?」

という誘いがありました。その別荘・銀の森俱楽部は5000坪もある広大な松林に囲まれており、シイタケ菌を植えた夜はみんなでバーべキュー・パーティを楽しむ計画だといいます。

 

私は以前、その銀の森俱楽部で地元の中小企業家同友会の経営者たちの研修会を開いていたこともあってよく知っているので、すぐさま参加を申し出ました。このコロナ禍で開放感を味わいたいと思っているのは私一人ではあるまいと思い、横浜で開いている勉強会・横浜志帥会(しすいかい)の面々に声を掛けました。

 

「別荘といっても立派な別荘ではなく、夜は雑魚寝なんですが……」

 と弁解すると、雑魚寝? それがまたいい、学生時代を思い出すなあとの返事で、すぐさま15名の方々が応募してきました。寝室が広ければ、もっと声を掛けたかったのですが。

 

≪森の中でシイタケを栽培≫

 私たちにシイタケ菌の植えつけを指導してくれた御園孝さんは、いつもは植木屋を経営しており、作業をしながらシイタケ栽培を実地に教えてくれました。コナラやクヌギのホダ木にドリルで穴を開け、シイタケ菌やナメコ、ヒラタケの菌を沁み込ませたコマを木槌で打ち込みます。

キノコは種類によって栽培用のホダ木が違います。シイタケにはコナラやクヌギなど、ドングリがなる木が適しており、ナメコやヒラタケはサクラの木が適しています。私たちの場合も違う種類のホダ木が数種類用意されていました。

 

コマを打ち込んだホダ木は松林に運んで横に伏せて積み上げて寝かせ、菌が活着するように仮伏せします。ホダ木は保湿のため孤(こも)を被せ、2、3か月して、コマの周りが白くなって菌糸が広がっていることが確認して、風通しがよくて直射日光が当たらない場所にホダ木を組んで立てかけます。

 

これを本伏せといい、雨が多いとその年の秋から、普通は1、2年でキノコが生えてきて収穫できます。収穫は春と秋、年に2回行い、5年間は収穫できます。収穫は手でむしり取ります。ナイフやハサミを使うと、そこから雑菌が入ってその後取れなくなる可能性があるので、むしり取ります。

 

≪里山を活用する≫

 御園さんは大自然の植栽のことにはとても詳しく、近代化の波が里山の自然にも悪影響を及ぼしていることを、いろいろ例を挙げて話してくれました。

 人間はもともと山で獲物を採り、自然の恵みのクリやアケビを山で採取して生活していました。そのうち定住するようになり、食べられる作物を住居の周りで栽培して収穫して食べるようになりました。それでも獲物は山で採っていたので、集落の周りの森無しでは生活できませんでした。

 

 燃料用の薪も山で採っていましたが、その後、薪よりも使い勝ってのいい炭が出てきたので、森の木は炭用に大量に使うようになりました。森の木はもちろんキノコ栽培のホダ木としても活用されました。

 森の木の落葉はかき集めて、落ち葉堆肥にしました。堆肥場を箱型に組んで作り、そこの稲のワラや落ち葉を入れ、水を撒いて踏み込みます。すると堆肥は発熱して温床となるので、春夏用の野菜の種を撒きました。温床は温かいので発芽が早く、春夏の野菜の栽培には重宝なのです。ところがこれも電気の熱で育てた苗に代わってしまいました。

 

 落ち葉かきをするのに林床の篠竹は邪魔だから下草刈りをしました。林床は明るくなり、きれいになると、春はカタクリの花が咲き乱れます。落ち葉堆肥は肥料として畑に入れたので、全部循環して畑の地味は増していました。

 近代化の波はこの循環を断ち切りました。薪や炭は便利なガスや電気に取って代わられ、キノコ栽培も原木栽培はされなくなり、天候に左右されない、室内の菌床栽培が主流になってしまいました。その結果、里山の木は伐る必要がなくなり、肥料も化学肥料に取って代わられた結果、落ち葉は必要なくなり、里山は荒れてしまいました。

 

 それでも新しい兆候が出てきたと、御園さんは喜びます。

「最近は、荒廃した里山を憂いて整備する里山クラブができて、手入れするようになりました。それでも森の木を伐ってホダ木にしてキノコ栽培に活用するところまでは行っていません。里山を生活の場として活用するようになったら、精神面も含めて、人間は大助かりになるはずです」

 

 御園さんは「精神面も含めて」と言いましたが、森の中の開放感は人間をホッとさせて余りあるものがあります。仲間たちに「シイタケ菌を植えに行かない?」と誘いかけたとき、みんながその企画に飛びついてきたのは、森の中の開放感を知っていたからでしょう。

 

 夜、庭で行ったバーベキュー・パーティは格別でした。焼き上がった牛肉や鶏肉、それにホタテ貝の味と香りに舌鼓を打ち、仲間との会話は森の中に吸い込まれていきました。それに焚き火の炎は、私たちが獣を追って狩猟して生活した頃を思い出させてくれました。焚き火は私たちを太古の昔に誘う何かを持っているようです。

 

≪この世のものとは思えないほど神々しい雰囲気に包まれた神磯の鳥居≫

明けて44日、私たちは東京への帰路、茨城県の大洗(おおあらい)海岸にある神磯(かみいそ)の鳥居を訪ねました。というのは、茨城の宇宙航空研究開発機構(JAXA ジャクサ)に勤めている私の友人が神磯の鳥居に詣でてきたと告げ、フェイスブックに写真をアップしているのを見ました。いつもは宇宙ロケットを飛ばして時代の最先端を行っている一方、磯の岩の上に祀られている神社に詣でているというので、そのコントラストの大きさに驚きました。

 

彼がアップした、荒波に洗われている神磯の鳥居を見て、私たち日本人は縄文の昔から、極めて素朴に、果てしなく広がる大海原に自然に手を合わせて拝んできたんだと思いました。そこで帰路、立ち寄ったのですが、詣でたのは正解でした。

荒波に洗われている神磯の鳥居を見たとき、何か神々しいものを感じ、思わず手を合わせました。そこには私たちを“大本のもの”に引き合わせる何かがありました。

 

目下、私は(仮)『沈黙の響き――内なる声を聴く』と題して本を書いていますが、そこにはまさに「沈黙の響き」――根源なるものに導いてくれるものがありました。「沈黙の響き」に触れるとき、私たちは最早ブレなくなり、一途に天命を全うしようと努力するようになるような気がします。(続く)

シイタケ菌を植える作業

大洗海岸の神磯の鳥居

神磯の鳥居を背景に

写真=➀シイタケ菌を植える作業 ➁大洗海岸の神磯の鳥居 ③神磯の鳥居を背景に


青春を爆発させる聖光学院のナイン

沈黙の響き (その44)

「沈黙の響き」(その44

下坐に下りると落ち着きが得られる

 

≪山下泰裕柔道監督が得た気づき≫ 

3月27日の夜、私は聖光学院の野球部の選手たちに、下坐におりることで人間的な落ち着きが得られると、こんな例を話しました。

 私は24年前の平成9年、致知出版社から『下坐に生きる』を出版しました。するとしばらくして出版社から、柔道の山下泰裕監督が30冊ほどお買い上げくださいましたと連絡が入りました。「ほう、柔道の監督がこんな本に感心を持たれるのかな?」とびっくりしました。すると続いてすぐ、「また30冊注文がありました」というのです。こうして100冊あまり購入されたので、私は東海大学に会いに行きました。

 するとこう言われるのです。

「私は柔道の指導者として心技体共々の成長を心がけています。そのうち、心を養うのにこの本ほど心に沁みるものはありません。そこで大学柔道や社会人柔道のコーチたちの集まりがあるたびに、この本を配って読むように勧めています」

 この本で私は坂村真民さんの詩「尊いのは足の裏である」を採り上げて論じていました。

「尊いのは頭でなく/手でなく/足の裏である/一生人に知られず/一生きたない処と接し/黙々としてその努めを果たしてゆく

足の裏が教えるもの/しんみんよ/足の裏的な仕事をし/足の裏的な人間になれ

頭から光が出る/まだまだだめ/額から光が出る/まだまだいかん

足の裏から光が出る/そのような方こそ/本当に偉い人である」

 この詩を指して、山下さんはこう言われました。

「私は外ではロザンゼルス・オリンピックの金メダリトで、世界最強の柔道家などともてはやされます。ところが一歩家に帰ると、そういう肩書など全然通用しない現実がありました。私の次男は自閉症なので子育てはなかなか大変で、家内はほとほと疲れ果て、家庭崩壊一歩手前にありました。

 そんなときに、『尊いのは足の裏である』を読みました。下坐におりて、足の裏が光るようでなければ、家内や子どもを包み込む大きな愛は持てないんですね。この詩に気づかされて、私は時間を取って家内と一緒に自閉症の保護者の集まりに出るようになり、家族が団欒できるようになりました」

 山下監督が読売新聞に「私が推薦するこの一冊」と書かれたことから、この本がベストセラーになり、さらにロングセラーとなり、24年を経た現在でも増刷され、売れ続けています。それはなぜか? 現在、日本オリンピック委員会会長を務める山下会長はこう言われます。

「偉そうにするのではなく、誰よりも下坐に降りて人に接するようになると、不思議に心が落ち着くものです。スポーツ選手が不動心を持とうとしても、急なものは付け焼刃で終わってしまいます。それよりも日常から下坐におりるようにすると、持続するのではないでしょうか」

 日常のあり方から取り組んでいくと、より持続したものになると言われます。

 

≪心臓の冠動脈のバイパス手術のとき、聴こえてきた声≫

ところで私は71歳のとき、心臓の冠動脈のバイパス手術をするという羽目になりました。胸を切り開いて肋骨を開け、8時間もの手術が行われると、切り刻まれた体はちょっとヤバいことになったと思うのでしょうか、フラッシュバックが起きて、人生のさまざまな局面を見せられます。

また手術で体力を消耗し、肉体的に追い詰められていたので、精神的にも気弱になって落ち込み、人生を悲観していました。

そんなある日、暴風雨が襲いました。私は夜更け、7階の病室の窓から風雨が荒れ狂う外を眺めていました。窓ガラスには風雨が叩きつけ、遠くには松戸市の街明かりがほのかに見えていました。そこにかそけき声が聴こえてきました。

「私は君を通して何事かを成そうとしてきた。そのためにあえて艱難辛苦の道を通らせて鍛えてきた。今度は心臓の冠動脈の3本のうち1本が詰まってしまい、手術しなければならないことになった。大変な手術だったけど、手術は何とか成功して、先の展望が開けた。

 ところが君はすっかり落ち込んでしまい、気弱になり、泣きべそをかいている……。

泣くのもいい。しおれるのもいい。しばらくはぼーっとしていたらいい……。

 でもな、忘れないでほしい。

私は君が気を取り戻すのを待っているってことを。私はいつも君といっしょだ」

 「……」

 私は返す言葉がありませんでした。その通りですっかりしょげ返って、しょぼんとしていました。そんな私を慰めるように、声は続きました。

「思えば、君は随分苦労してきた。でもその苦労があったから、君が語っていることが、同じような境遇にあって苦しんでいる人たちの心に響いて、『よォし、私も涙を拭って立ち上がろう』という気持ちになってくれたんだ……。

 泣くだけ泣いて気が清々し、もう一度立ち上がろうという気持ちになったら、私が待っていることを思い出してほしい……。またいっしょにやろうよ……」

 心に響いてくる声は決して押しつけがましくはありませんでした。気落ちしていた私に寄り添ってくれました。

 7階の病室の窓の外では、時折り稲光が走って一瞬闇と光が逆転します。そしてドーンと音が響きました。雷がどこかに落ちたのでしょう。松戸市の街明かりが殴りつけるような風雨の中にかすんで見えていました。するとまた内なる声が聴こえてきました。

「泣くだけ泣いて気持ちが晴れ、また立ち上がろうという気になってきたようだね。

君がグラグラしたら、私たちがいっしょになって実現しようとしてきた理想は実現できないまま、つぶれてしまうんだ。

だから私は君のことをつぶれないでほしい、何とか乗り越えてほしい、と祈ったよ。

 君は独りじゃない、私といっしょだ。

迷うのではない、心をしっかり持つんだ! みんなの運命がかかっているんだ!」

私は窓辺に立って風雨が荒れ狂う戸外を見詰めていましたが、いつしか涙が頬を伝っていました。

「君は独りじゃない。私といっしょだ」

その声が私の中で、くり返し、くり返しリフレインしました。

(申し訳ありません。私が気弱なばっかりに、あなたを心配させてしまいました。でも、もう大丈夫です。気持ちを取り戻しました。この間、見守っていてくださり、ありがとうございました)

 ちょっと不思議な体験を書きましたが、私はこんな声が斎藤監督にも臨んでいるのではないかと思います。人間は強いときだけじゃありません。落ち込むときも、気弱になることもあり、悲観的になることだってあります。そんなとき、ぼーっとした時間を過ごすと、

「泣くだけ泣いて気が清々し、もう一度立ち上がろうという気持ちになったら、私が待っていることを思い出してほしい……またいっしょにやろうよ……」

 という声が聴こえてきます。そうして立ち上がった人間は、とてつもなく強い。なぜなら、もはや人間的な成功欲ではなく、“永遠なる存在”に裏打ちされた使命感を帯び、“宇宙の叡智”を汲んで限りない知恵に満たされるからです。

 本当の闘いはそこから始まります。斎藤監督の聖光学院が甲子園で優勝旗を手にすることを、県立や市立の高校野球の関係者はみんな待っています。なぜならみんな県境を越えてリクルートすることはできず、現有選手を教育し、練成強化して、戦いを勝ち抜くしかないからです。いわば同じ制約された状況で予想以上の成果を挙げている斎藤監督と聖光学園は、自分たちの同類だと見なしているから、その勝利を心待ちにしているのです。

斎藤監督と聖光学院の戦いはもはや自分たちのためだけの戦いではありません。みんなのためにも新しい歴史を切り開く使命があるのです。今年の夏の甲子園の戦いは新しい次元の戦いです。2回戦、3回戦と勝ちぬいて、必ずや優勝旗を握りましょう。(続く)

青春を爆発させる聖光学院のナイン

写真=青春を爆発させる聖光学院のナイン


練習が終わって、宿舎の鴨川グランドホテルで野球部員に話をする筆者

沈黙の響き (その43)

「沈黙の響き(その43)」

≪野球のグラウンドで学ぶ人間学≫

 

≪聖光学院野球部を応援≫

327日、昼間は市営球場で聖光学院野球部の練習を見、夜は宿舎で野球部の諸君に1時間あまり話をしました。

私との斎藤監督の出会いは21年前の平成12(2000)、斎藤監督が12年間の部長時代を経て、初めて監督になったときです。当時は日大東北高校と学法石川高校の二強の時代で、いつも2強に勝てず、悔し涙を呑んでいました。

そんなある日、インテリアの会社を経営されていた前野栄社長が斎藤監督に『安岡正篤 人生を拓く』(講談社+α新書)を読むよう贈呈されました。当時、私は福島市で定期的に経営者の研修会をやっており、その一人が前野社長だったのです。

 

この本に私は脳梗塞で倒れて一時は寝た切りになったものの、幸いなことに社会復帰できたので、お礼参りするため四国88カ所札所をお遍路し、全行程1400キロメートルを36日間かけて歩いたことを書いていました。その経験から次のような教訓を得たと書きました。

「人生に起きるいかなる出来事も、その人をつぶそうとして起きるのではない。目を覚まさせ、覚悟を与えて、持っている能力を花開かせるために起こる。そのことがわかると、どんなことでも受けて立とうという心境になってくる。そこから不動心が芽生えてくる」

 

その文章を読んで、斎藤監督はこれだ! と思いました。

「〈不動心〉とは何かということが今一つはっきりせず、もやもやしていましたが、これでやっていけます」

 不動心は何か固定的なものではなく、目下展開している出来事を通してつちかわれていくのだと書きました。それが契機となって引き会され、交流が始まりました。

斎藤監督は「不動心」と大書してグラウンドのネットに高く掲げ、野球部のモットーとしました。学校の近くを東北新幹線が走っていますが、そこからもこの「不動心」が見えます。

 

≪私は落ちこぼれだった!≫

私は大学を中退して世の中に出ました。学歴も国家資格も何もなかったので、競争社会で生きていくのはとても厳しいものがありました。さらに38歳のとき、脳梗塞で倒れ、救急車で病院に運ばれ、寝た切りになりました。稼げないので解雇され、月々の給料が入らないという窮地に立たされました。

 

私は医師として、右手でメスを持ち、左手でペンを持とうと考えていましたが、医師になれずメスを握れなくなったので、残された道で、ペンで立つことを決意しました。

そこでアルバイトで生活費を稼ぎ、一日のメインの時間は執筆に費やすようにし、有名な作家の助手として働きました。でも文筆だけでは食べていけないので、寅さんで有名な柴又の帝釈天で破魔矢(はまや)を売って生計を立てました。いわゆる的屋(てきや)をやりました。

 

それからずっと後のことになりますが、下村博文文科相大臣(現政調会長)のことを書いたことがきっかけとなって、高田馬場にある大学を助けてくれませんかと頼まれ、理事になりました。ところが理事長は私が70数冊の本を書いている人気作家であると知って、大学で人間学の講座を持ってほしいと依頼されました。私は大学中退で、学位も何も持っていませんが、そんなんでも教壇に立っていいんですかと訊くと、社会的実績があるから大丈夫、やってほしいとのことでした。

 

そこで授業を持つようになり、学生たちと接すると、みんなコンプレックスを持っていました。隣の大学は私学のトップの早稲田大学。こちらは3流か4流の大学で、あちこち受験したけれども全部すべり、しようがないから入学したような大学。だからみんなは自分の大学名は言いたがりませんでした。

 

そこで私は開口一番に言いました。

「私は高卒で、学位も何も持っていない人間です。元は柴又の帝釈天で的屋をやっていた男で、たまたま本が売れて作家になり、こんなところに出張ってくることになってしまいました」

みなさんはそうそうたる学歴を持つ大学教授を予想していたのでしょう、唖然としました。でも話がおもしろくて、そんじょそこらのしかつめらしい人間学の授業とは違い、すぐにでも実践できるヒントが多く含まれています。たちまち人気になり、私は学生たちを励ましました。

 

「君らは大学受験では偏差値が遠く及ばなかったので、隣の早稲田大学には入れず、こちらにやってきた。そのときは差があったんだと認めようよ。でもね、いつまでも負け犬でいるわけじゃない。勝負はこれからだ。これからの戦いいかんでは、早稲田など目じゃない結果が出せる。的屋でしかなかった私が、不思議ないきさつから今は大学教授としてやっているんだから、君らだってやれる。これからだよ。頑張ろう」

拍手大喝采です。ある学生は心に点火されたように言いました。

 

「私はあちこち受験して失敗し、しようがないのでこの大学に来ました。でも、先生に会ってよかった! あちこち受験に失敗してここに来るようになったのは、先生に会うためだったんです。そうでなかったら、私は負け犬になったまま、いつもひがみ根性で生きていたに違いありません。勝負はこれからなんですね。よーし、やるぞという気持ちになりました」

 

 そう言われて私は落ちこぼれて人生が始まってよかったと思いました。出版社の編集者が私に執筆を依頼するとき、決まって言われます。

「とにかく読者が先生の本を読んで励まされるんです。こんな難しい立場を潜ってきた作家なのか! だったら俺が今直面している苦境は全然悲観することはないな。

それにこの本にも、逆境を乗り越えて人生に花を咲かせた人たちのことが書かれている。よーし、俺も頑張ろう。ここで負けないぞ」

私は人間それぞれ捨てたものじゃないことを、本を通して伝えることができてとてもうれしいです。

 

≪斎藤監督も落ちこぼれだった!≫

ところで、斎藤監督は聖光学院を率いて、これまで甲子園に、春が5回、夏16回、計21回出場されています。そのうち2回は強豪校に勝ってベスト8になり、全国制覇に手が届くところまで来ました。高校野球連盟は監督を育てるために「監督塾」を開いていますが、その塾にいつも呼ばれて、後輩の監督たちにヒントを授けておられます。

 

現在は自信満々で、光り輝いている斎藤監督ですが、昔は落ちこぼれでした。福島県一の進学校といえば福島高校で野球部キャプテンを努めていました。父親は経済的な事情から国立大学しかやれないというので、体育学部のある筑波大学を目指しましたが、受験に失敗しました。浪人するなど考えられない経済事情でしたが、父親はもう一年挑戦することを許してくれました。

 

そこで再挑戦したのですが、またもや不合格となり、不本意ながらある私立大学に入りました。自分では小馬鹿にしていた大学だったから、ちっぽけなプライドが砕け散って、学生生活が楽しめるはずはなく荒れました。それを克服するのに4年かかりました。

 

 昭和62年(1987)3月、聖光学院高校に赴任してみると、自分が荒れていた頃と同じ姿を高校生たちの中に見ました。聖光学院は今でこそ福島県では誰もが知っているあこがれの名門高校となりましたが、当時は滑り止めのような私立高校だったので、どの生徒も、「俺はここに来るようなレベルじゃない」とふて腐れ、しょげていたのです。

 

同じことが野球部にも言えました。中学野球で抜きん出ていた選手が、強豪高校から特待生としてお呼びがかかることを期待していたにもかかわらず、強豪校から声がかからず、挫折感を抱き、せめて甲子園に行けるようなチームにと思って、聖光学院に来ました。だからチームの主力選手になるはずの彼らにもコンプレックスがあり、負け犬根性を引きずっていました。これを見逃したら、自分より能力が下の選手を見下し、真に団結したチームはつくりようがありません。そこで斎藤監督は選手たちに語りかけました。

 

「もう低いレベルのコンプレックスは卒業しよう。あの時点で劣っていたことは確かなのだから、それは認めようじゃないか。受け入れるんだ。自分の出発点はここだと認め、そして前を向こう。

負け犬根性を克服するには、認めることが一番だ。認めると変なコンプレックスが消え、本来の力が発揮できるようになる。俺といっしょに頑張って努力して、押しも押されもしない実績を出し、彼らの上を行こうじゃないか」

 そうして福島県代表の座を勝ち取り、甲子園に駒を進めて、勝利するようになりました。

 

≪決して諦めない! 斎藤監督の負けじ魂≫

 それまで斎藤監督はあまり本を読んだことはありませんでした。しかし、監督をやってみて、勝負はメンタルな部分に影響されることが多いことに気づき、本を読んで心を養うようになりました。

 

 あるとき、尊敬してやまない東洋思想家の安岡正篤先生の本を読んでいると、『大学』の中から「疾風(しっぷう)に勁草(けいそう)を知る」を引用されていました。「疾風に勁草を知る」とは、「すべてをなぎ倒してしまうような激しい風が吹いてはじめて、そんな烈風にも吹き飛ばされない強い草を見分けることができる」という意味です。困難や試練に直面したとき、はじめてその人の意志の強さや節操の固さ、志の高さ、人間としての値打ちがわかるというのです。自分を練り鍛えるには最高の言葉です。

 

 そこで斎藤監督はチームのミーティングで、この言葉を踏まえて語りました。

「聖光学院は圧倒的強さを見せつけるようなチームではない。苦戦を強いられることが多々ある。そんなとき打ちひしがれるのではなく、この言葉を思い出して、なにくそ、負けてたまるかと奮起しようじゃないか」

 

≪人間学でメンタルを鍛えよう≫

 あるときはこうも語りました。

「美空ひばりの演歌『柔(やわら)』に、『勝つと思うな。思えば負けよ』とあるが、自分もそこが大事だと思っている。大事な局面で勝ちを意識したら、金縛りにあって自由にプレーできない場合が多い。不利な展開になればなるほど、金縛りに合ってしまうよな。

勝とうとしたら駄目だ。勝ち負けを度外視したら、のびのびとプレーができる」

 

「前後裁断」という言葉はしばしば斎藤監督の口を突いて出てくる言葉ですが、これも斎藤監督が現場でつかんだ言葉です。

「勝とうと思うな。いさぎよく負けよう。われわれは力のないチームだと謙虚に受け止めよう。そして今を生き切ろう。前後を裁断するんだ。前もない、後もない。今、ただ今だけだ。〈今〉に集中して戦おう」

 

 そんな具合に、ここぞという局面で、人間学の名言が出てくるのです。斎藤監督は「人間学」という「宇宙の叡智」を駆使して、チームの力を倍増させようとしているのです。他の強豪チームはリクルートという方法で、運動能力が秀でた選手を全国から集めてチームの強化を図っており、まるでプロ野球と同じです。親もわが子がいくらで売れるかと考え、中学野球界をスカウトが狂奔しています。そこには高校野球が本来持っていたはずの〈教育〉という視点がまったく抜けているのです。

 

 財力のある私立高校は有望選手をリクルートして、強いチームをつくることができますが、公立高校はそれができません。斎藤監督は〈教育〉という視点を見失っていないので、リクルートに走るのではなく、現有の選手たちを鍛えて、勝てるチームをつくろうと努力してきました。いわば「人間学」という「宇宙の叡智」によって、道を切り拓いてきたのです。

 だから聖光学院が勝ち抜けば勝ち抜くほど、公立高校の野球の指導者たちが拍手大喝采するのです。

 

 稀代の実践哲学者の森信三先生は「教師たる者、魂の点火者であれ」と激励し、拙著『人を育てる道――伝説の教師徳永康起の生き方』(致知出版社)で書いた徳永康起先生を育て、「百年に一人出るか否かの逸材」と評価されました。

 監督は魂の点火者であって初めて強いチームを育て上げることができるし、選手たちも野球を通して人生哲学をつかみます。そこに教育効果が上がるのです。斎藤監督と聖光学院が全国制覇を果たすよう、心から応援してやみません。(続き)

練習が終わって、宿舎の鴨川グランドホテルで野球部員に話をする筆者

写真=練習が終わって、宿舎の鴨川グランドホテルで野球部員に話をする筆者