月別アーカイブ: 2021年5月

街頭で歌を披露するハーケンスの写真

沈黙の響き (その51)

「沈黙の響き(その51)」

「ユー・レイズ・ミー・アップ」が心を振るわせた!

 

≪「まさか!」という坂≫

 思いもしなったことが起きるのが人生です。令和元年(2019)の春ごろから、私は胸に息苦しさを覚え、体調がおかしいと感じていました。自宅から最寄りの駅まで、昇り下りのある坂道を歩いて20分かかりますが、それまでは歩くことは全然苦にならず、ノンストップですたすた歩いていました。

ところが歩くことがだんだん苦痛になり、荒い息をハーハー、ゼーゼーと吐いて、2度休み、3度休みするようになりました。その度に呼吸を整えないと歩けなくなったのです。

「随分体力が落ちたなあ。もっと体力をつけなきゃ」

 そう思った私は、それまで5、6年通ってきたフィットネスジムに通う頻度を上げ、週に4回は通って、ウォーキング、レッグプレス、背筋、腹筋、25キロのバーベルを担いでスクワットなどをして、体力をつけようと努力しました。

ところが息苦しさは一向に改善されないので、とうとう東邦大学医療センター佐倉病院で診察を受けました。すると心筋梗塞(こうそく)や狭心症の疑いがあると診断され、急遽検査入院しました。

 

≪心筋梗塞と狭窄症を起こしていた心臓≫

診断結果は、心臓の冠動脈の右冠動脈が壊死して心筋梗塞を起こしており、残り2本の左冠動脈前下行枝と左冠動脈回施枝も高度狭窄(きょうさく)をきたして心臓肥大になり、左室収縮機能は41パーセントまで低下しているというのです。

危ないところでしたね。即刻胸を開いてバイパス手術を施す以外にありません。このままフィットネスジムで筋トレを続けていれば、突然倒れて救急車で搬送される途中、突然死してもおかしくありませんでしたよ」

 いやはや、私は真逆のことをやっていたようです。

心臓冠動脈の手術についてはセカンドオピニオンを取り、より経験豊富な、新東京病院の副院長を務めておられる中尾達也心臓血管外科部長に執刀してもらうことにしました。両脚の膝下から30センチメートルの静脈を切り取り、次に胸を30センチメートルほど切り、心臓を保護している肋骨を切り開けて心臓を露出させ、狭窄している冠動脈を、脚から切り取った血管に取り代える手術は8時間かかりました。

人間は死に直面するとフラッシュバックが起き、自分の人生を走馬燈のように見せられるそうですが、私にもそれが起きました。フラッシュバックは私の心を引き締め、人生の最終章に臨もうとする覚悟を新たにしてくれました。

 

≪どこからともなく聴こえてきた「ユー・レイズ・ミー・アップ」≫

手術が終わって集中治療室に移された私は、今は夜なのか昼なのか定かにわからないまま、夢うつつの中で空中をさ迷っていました。2日経ってようやく意識がもどって一般の病室に移されたとき、どこからともなく「ユー・レイズ・ミー・アップ」(You Raise Me Up=君がぼくに力をくれたんだ)の渋い歌声が聴こえてきました。オランダの初老のオペラ歌手マーティン・ハーケンスのテノールです。人生の裏も表も知り尽くした老境の人が渋い声で歌いかけます。

 

♪とても気が滅入って/苦境に遭って心が折れそうになるとき/静けさの中でぼくはじっと待っている/君がここに来て座ってくれるのを/君はぼくに勇気をくれるんだ/だから山頂にだって立てるんだ/君はぼくの背中を押してくれる/この荒波を越えるようにと

 ぼくは強くなれるよ/君の支えがある限り/君はぼくを励ましてくれる/ぼくが思っている以上にね

 

歌唱はサビに入り、愛する人の励ましを得て限りない力を与えられ、道が開けていったと、魂の叫びがほとばしり出ます。

 

♪君はこんなぼくでも立ち上がらせてくれた/嵐が吹き荒れる荒海を乗り越えるようにと/君は頼りないぼくを励ましてくれた/だから山頂にも立つことができる

ぼくは強くなれる/君の支えがある限り/君は背中を押してくれる/ぼくが想像している以上にね

 

 私はその歌声に聴きながら、そうだ、そうなんだよ、私も愛してくれる人によって励まされ、再び立ち上がる力を得たんだと反芻していました。大きな手術に耐えて体力を使い果たし、静養していたときだっただけに、心にしみ入ってきたのです。

 

≪老境にさしかかった歌手マーティン・ハーケンスの渋い歌声≫

歌い手のマーティン・ハーケンスは、若いころオペラ歌手を目指しました。しかし念願を果たせず、食べるためにパン職人になりました。もちろんその間もレッスンを続け、挑戦し続けましたがチャンスは訪れず、挙句の果てはパン職人の仕事さえ失ってしまいました。やむなく路上ミュージシャンとなって街頭で歌い続け、人々からなにがしかのドーネーション(献金)をもらって生計を立てていました。

娘さんがそんな父親の窮状を見るに見かねて、本人には無断でテレビのオーディション番組に応募しました。するとハーケンスはその番組でどんどん勝ち抜き、あれよあれよという間に優勝してしまいました。優勝の副賞としてCDが発売され、とうとう念願のデビューを果たしたのです! 「ユー・レイズ・ミー・アップ」で描かれているような人生を経験し、辛酸を舐め尽くしたからこそ、人々の心に響くような歌を届けることができるようになったのです。このとき(2003年)、ハーケンスはすでに57歳になっていました。

 その後、ハーケンスはアムステルダムやパリ、ロンドン、ニューヨークのステージに立つようになり、日本でもコンサートをやりました。現在はもう66歳ですが、それでも元気に歌い続けています。

 

≪人生の応援歌「ユー・レイズ・ミー・アップ」≫

「ユー・レイズ・ミー・アップ」はアイルランドの歌手ダニエル・オドネルが作詞作曲して、2003年に歌いだした歌です。愛する人の励ましによって人生に立ち向かう勇気を得たと歌った歌は多くの人の共感を得て、いろいろな歌手がカバーしました。

その中でも大きかったのは2005年、世界的な音楽グループで、4輪の赤や黄色のバラの花のように華やかなアイルランドのケルティック・ウーマンが歌ったことで一気に世界中に広まり、世界で最も権威のある音楽チャート・米ビルボードで、何と81週連続して1位を占め続けました。

この歌を頭がはげかかった無名の初老の歌手マーティン・ハーケンスが渋いテノールで歌い出しました。華やかなケルティック・ウーマンとは対照的な、恋人を心の底から称えるハーケンスの表現は大向こうをうならせました。

翌年の2006年2月、フィギュアスケーターの荒川静香さんが第20回トリノオリンピックでこの曲をバックに氷上でパフォーマンスして、見事金メダルに輝いたことから、いっそう知られるようになりました。

 

人生は物事がうまく行っている局面だけではありません。どんなに頑張ってもうまくいかず、疲れ果て、うずくまってしまうときもあります。そんなとき、誰かが隣に座り、話を聴いてくれ、悲しみを分かちあってくれたら、どんなに気持ちが晴れ、もう一度挑戦しようという気持ちになるものです。

私の場合もそうでした。手術後の病床で静養していたときだったので、ハーケンスの実直なテノールはいっそう私の心の琴線に触れ、共感を呼び覚ましてくれたのです。PCやスマホで「ユー・レイズ・ミー・アップ」を検索すると、ハーケンスのユーチューブがご覧になれます。その歌声を聴きながら、どうぞあなたも勇気を得てください。(続く)

街頭で歌を披露するハーケンスの写真

写真=街頭で歌を披露するハーケンスの写真2枚

 

 


沈黙の響き (その50)

「沈黙の響き(その50)」

自己肯定感はあらゆる推進力の元だ

 

 

≪だっこが与える安心感≫

広島県世羅小学校の1年生のクラスでの1シーンです。先生がかわいい盛りの1年生に話しかけました。

「さあ、今日はすてきな宿題を出しますよ。今日は家に帰ったらお母さんから抱っこしてもらいなさい。家におじいさん、おばあさんがいたら、お2人にもお願いして抱っこしてもらってね。お父さんがお勤めから帰ってこられたら、お父さんにも抱っこしてもらうのよ。そして抱っこしてもらったら、どんな気持ちだったか、それを作文に書いていらっしゃい」

普段出たことがない「抱っこの宿題」という作文の宿題が出たので、クラスは「わあっ」とどよめきました。でもまんざらでもなさそうです。みんなお父さんやお母さんに抱っこされている自分の姿を想像して、はしゃいだり、照れたりしています。ホームルームが終わると、スキップを踏むかのように、楽しそうに教室から出ていきました。

翌朝、みんながニヤニヤしながら提出した作文は、家庭における親子の情愛を見事に書き写していました。例えば次の作文です。

「せんせいが、きょうのしゅくだいは、だっこです。みんながいえにかえったら、りょうしんにだっこしてもらって、そのときのじぶんのきもちをかいていらっしゃいといわれました。そんなしゅくだいははじめてだったからおどろきました。でもうれしかったです。だって、だっこしてもらうこうじつができたんだもん。いそいでいえにかえって、おかあさんにおねがいしました。

『だっこのしゅくだいがでたんだよ。しゅくだいじゃけん、だっこして』

そういったら、せんたくものをたたんでいたおかあさんがおどろいてたずねました。

『そうなの、だっこのしゅくだいがでたの。おもしろいしゅくだいね。だったらだっこしてあげよう。さあ、いらっしゃい。ママのひざにのって』

おかあさんはそういいながら、ぼくをだきしめてくれました。おかあさんにだきしめられていると、あまいにおいがして、ぼくのからだもぽかぽかとあったかくなって、とってもうれしかった。

『けんちゃんはいい子だから、ママのほこりだよ』

そういって、ぼくをなでなでしてくれました。

つぎはちいちゃいばあちゃんです。おかあさんがちいちゃいばあちゃんに、

『だっこのしゅくだいがでたからだっこしてやって』

と、たのんでくれました。ちいちゃいばあちゃんはぼくをぎゅっとだきしめて、

『おおきゅうなったのう。どんどんせがのびるね。もうちょっとしたらおばあちゃんをおいこすよ』

とあたまをなでてくれました。とってもうれしかった。

つぎはおおきいばあちゃんのばんです。おおきいばあちゃんはぼくをだきしめて、もちあげようとして、『おもとうなったのう。もうもちあげきれんようなった』とおどろきました。そういわれてうれしかった。

さいごはおとうさんでした。おとうさんはぼくをだきかかえて、どうあげをしてくれました。くうちゅうにからだがふわっとうかび、うちゅうひこうしみたいできもちがよかった。そしてぼくをおろして、しっかりだきしめてくれました。おとうさんのからだはでっかくて、がっちりしていました。

だっこのしゅくだいがでたから、かぞくみんなに、だきしめてもらえました。

だっこのしゅくだい、またでたらいいな」

 大きいお婆ちゃんとはお父さんのお母さん。小さいお婆ちゃんとはお母さんのお母さんです。家族のみんなに抱きしめられて、幸せいっぱいな様子が伝わってきます。父母やお婆ちゃんのぬくもりの中で、どんなに自分が大切にされているか、実感したのでしょう。

温かい大家族の中で子どもが得るものは、自分という存在が愛されているという確信です。そこから来る自分への自信が“存在感”に発展していきます。

 

≪2篇の詩が描写しているもの≫

 この作文と同じものが、茨城県ひたちなか市に住む詩人、鈴木さえ子さんの詩「4人だっこ」に描写されています。

  

一番下の洋輝(ひろき)が赤ちゃんだったころ/膝にだっこしていたら/その上の勇輝(ゆうき)が/「ぼくもすわりたいなあ」/「いいわよ」/ニヤッと笑ってすわった/その次、その上の美穂(みほ)が/じーっと見ている/「すわりたいの? いいわよ」/ニコッと笑ってすわった

知らん顔していた一番上の一摩(かずま)が/三人もすわった膝の方を見ながら/「ぼくもすわりたいんだけどなあ」/そんな目をしてきた/「一摩もすわる? いいわよ」/ケケケッと笑ってすわった

4人を大きな手で抱え込み/――みんなおんなじ、おんなじね――/唱(とな)え歌を歌ったら/なんかうれしくなっちゃった/ドドッとくずれた/一瞬だけの四人だっこ

母さんのお膝は/4人分のあったかお膝

 

こういう母の愛に包まれたら、自分は愛されているという肯定的な存在感が育っていきます。子どもを包む環境はこうありたいものです。

 同じく横浜市に住む詩人の柏木満美(まみ)さんが「いのちのきずな」という詩を書いています。

 

心の中に/この子たちが/今も/このまの姿で/いつづけてくれているから/何があっても/何がなくても/お母さんは/生きていけるのです/へっちゃらなのです 

 

 それを読みながら、自分の場合も母親が背後で自分を守っていてくれたことを知ります。詩は私たちの精神的環境を追憶させてくれ、一種の内観であるような気がします。感謝、感謝です!(続き)

写真=子どもの無邪気な笑顔に私たちが癒やされます


日本経営品質賞を授与される大串社長

沈黙の響き (その49)

「沈黙の響き(その49)」

苦境は私たちの魂の砥石だ

 

≪オオクシ、日本経営品質賞に輝く≫

 千葉県、東京都、茨城県の首都3県に、カットオンリークラブ、カット・ビースタイルなど、トータルビューティーサロン55店舗を展開している()オオクシ(大串哲史代表取締役社長)が、本年2月、日本生産性本部主催の大会で日本経営品質賞(中小企業部門)を受賞しました。

 大串社長はこれによって事業を営む者の誰しもが望む賞を受賞したわけですが、それ以前にも日本サービス大賞(サービス産業生産性協議会)を受賞したり、稲盛和夫京セラ名誉会長が主催する第20回盛和塾世界大会で稲盛経営者賞を贈られるなどしており、とうとう頂点に立ったといえます。

「ローマは一日にして成らず」といわれますが、大串社長のコツコツとした経営努力が、この賞を授与されたことによっていっそう明確になりました。もとより大串社長は自分の経営力を誇示するための賞コレクターなどではありません。ただ第3者からの評価を知る上で、厳しい審査の目を経た「第3者の評価」は大変に参考になるといえます。これによって、大串社長が目指している経営がどこまで達成されているかを知ることができます。

 

≪オオクシを直撃した東日本大震災!≫

 私は千葉市に本社を置く㈱オオクシの大串社長にかねてから注目しておりました。また私は稲盛名誉会長と親しくさせていただいていますが、その稲盛名誉会長が主宰されている盛和塾で大串社長が経営の勉強をされていると知って急速にお近づきになりました。そしてご縁を得て、大串社長のことを書いた『「思い」の経営――「オオクシ」未来への挑戦』(PHP研究所)を出版しました。

 そんなことで大串社長のことはいろいろ存じあげていますが、大串社長の転機になったのは、平成23年(2011)3月11日、東日本大震災に見舞われたことだったように思います。千年に一度という未曽有の大震災は1万8千人強の命を奪いましたが、この大震災は当時、千葉県を中心に22店舗展開していたオオクシも直撃しました。

 売り上げナンバーワンを誇っていた千葉県鎌ケ谷市のイオンモール鎌ヶ谷店も営業停止に追い込まれ、その他10店舗が液状化によって土砂が流入して、店舗が使えなくなりました。それに東京電力は急場をしのぐために計画停電を実施しましたが、これはバリカンやドライヤーを使う店舗にとっては死活問題でした。

 各店のスタッフたちは店舗再開に向けて必死でしたが、現場の大混乱の中で、給料カット、あるいは解雇という事態になりかねないと考えたに違いありません。特に地位が不安定なパートタイムの人たちはそれを恐れたはずです。現に他社ではそうした事態が進行していました。そこで大串社長は全店にFAXを送り、全社員に宣言しました。

「私は雇用を絶対に守る。大震災だからと言い訳はしない。その代わり、どうしたらこの窮地を乗り越えられるか、みんなで知恵を出し合おうじゃないか!」 

 それが全社員の安心を喚起し、みんなが知恵を出して窮地を乗り切ろうとしました。

 

≪課題に挑戦≫

――停電で営業できない店は他店に応援に行こう。 

 ――開店時間を30分早めよう。あるいは閉店時間を30分遅らせよう。

 ――大震災でみんな暗くなりがちだから、逆にぼくらは笑顔の種を蒔こう!

 そうした数々の提案を実行に移すと意外な効果が現れました。同業他社はダメージを受けて閉店しているので、オオクシに客が流れてきました。それに営業不能になった店舗のスタッフは営業している店舗に加わったので、どんなに混んでもスムースに対応できます。

 大串社長は盛和塾の例会で、「他社が良くないときに頑張れば差がつく!」という稲盛塾長の経営哲学を学んでいたので、陣頭に立って限界を超えるほどに頑張りました。そうした経営努力がオオクシを活性化しました。

その結果、各店舗が大ダメージを受けた3月ですら黒字をキープし、4月以降は前年と同じくらいに回復したのです。そしてこの年、7億1082万円を売り上げ、経常利益9.2%を達成しました。

 

≪「危機に直面したお陰で、会社に魂が入りました」≫

 大串社長は当時を振り返って言います。

「私は『オオクシは全社員のための会社であり、物心両面の幸せを追求する』という経営理念を死守しようとして必死でした。その必死さがスタッフに伝わり、『あの経営理念は社長にとって絵空事ではない。社長は命懸けで守ろうとしている。社長を孤軍奮闘させてはいけない。俺たちも社長を支えて頑張ろう』と、打って一丸となって努力してくれました。

 あの危機のお陰で、私も成長させていただき、店長もフタッフも2周りも3周りも大きくなりました。東日本大震災の危機によって、逆に会社に魂が入ったのです」

 東日本大震災は悲惨でしたが、それに潰されることなく、逆にステップアップのチャンスとなったのです。

 

≪言い逃れをしたある社長の末路≫

 ところがこの大震災によって引き起こされた不況に、社員のリストラという安易な方法で対応した経営者がいました。大串社長も尊敬していたある社長がこううそぶいたのです。

「この不況は長引くぞ。福島原発もあんなことになり、次から次に問題が起きているじゃないか。会社を存続させるためには、経営者はドライに割り切ることも必要だよ。きれいごとを言っている場合じゃない。どうせ社員なんて、会社のことなんか考えていやしないんだ」

 大串社長は耳を疑いました。日頃は社員を称え、社員が最優先だ、社員の幸福のためには何だってやると言っていたんじゃなかったっけ?

 その不信を裏付けるように、その社長は余剰と思われる社員の首を斬り、経営の引き締めを図りました。大義名分は、「苦境を乗り切るために」でした。ああいう危機に直面すると、本音が出ます。社員は敏感に、われわれは使い捨てでしかないんだと感じ取り、優秀な社員も櫛の歯が抜けるように次々と辞めていきました。そしてその会社は往年の輝きを失って、存在しないも同然のような状態になっていまいました。

 

≪その場所が自分の魂を磨く場所だ≫

 人は例外を設けると、堰を切ったように、なし崩し的に崩れていくものです。例外を設けて言い訳をし、重圧から逃れようとする自分を許さず、初心を貫くことは、自分の弱さとの闘いなしにはあり得ません。人間の成長は苦境時にどう対処するかで決まります。

「この状況から逃げない! 受けて立つ。そして見事に乗り越えてみせる」

 そういう姿勢があってこそ、現実が私たちの砥石となって私たちが磨かれ、未来が開けるのだと思います。

 魂を磨くという作業は私たちの今いる場所、つまり家庭とか職場とか、友人環境を離れた場所では起こりえません。自分の公約を成就するために全力を尽くすとき、魂が磨かれるのです。大串社長が本年度の「日本経営品質賞」に輝いた出来事はそれを私たちに教えてくれているようです。なお、大串社長が率いるトータルビューティーサロン・オオクシに興味を持たれた方は、拙著『「思い」の経営 「オオクシ」未来への挑戦』(PHP研究所)をお読みください。(続く)

日本経営品質賞を授与される大串社長

写真=日本経営品質賞を授与される大串社長


ありし日の頼経さん

沈黙の響き (その48)

「沈黙の響き」(その48

盟友の死が投げかけたこと

 

頼経健治さんとのお別れ

 私の一番の盟友である頼経健治(よりつねけんじ)㈱ピローズ代表取締役が四月十七日、間質性肺炎によって逝去されました。享年79歳でした。

 

頼経さんは数年前から間質性肺炎を患っていました。間質性肺炎とは肺の肺胞壁(間質)に炎症が起こる病気で、肺胞壁が厚く硬くなり(線維化)、血液中に酸素が取り込まれにくくなるので、息切れや咳がひどくなります。頼経さんの場合も症状が徐々に悪化し、酸素ボンベ無しには過ごせなくなっていきました。息切れがひどく、五分も歩けなくなったのです。主治医にはかねてから延命治療はしないと意思表示していたので、ある意味で潔い覚悟の死でした。

 

私は作家としての人生に踏み出してからの30年間、頼経さんと陰になり表になりして、手を携えて走ってきたので、その死はとても辛いものがありました。

 

 折りからコロナの感染拡大を防ぐため、外出禁止、三密禁止が叫ばれていたので、葬儀は家族葬で営むとのことでした。しかし私にとって頼経さんは肉親以上の存在だったので、あえて家族葬に参列させていただきました。棺(ひつぎ)を花で埋め、最後のお別れをしたとき、私は図らずも嗚咽(おえつ)してしまい、後に残された者として遺志を引き継ぎ、二人で始めた人間学の勉強会・武蔵嵐山志帥塾(むさしらんざんしすいじゅく)が目指しているものを必ず成就しますと誓いました。

 

頼経さんとの出会い

 私は脳梗塞で倒れるという苦境を経て、平成三年(一九九一)二月、処女作『安岡正篤(まさひろ)の世界』(同文舘出版)を世に送り出しました。それからしばらくして、存じあげない方から一本の電話が入りました。会って話がしたいとおっしゃるので、双方にとって都合のいい渋谷の喫茶店で落ち合いました。

 

スラリと背が高くて精悍な体付きのその人は、

「サンユー建設専務取締役の頼経です」

と自己紹介され、私の処女作を賞讃されました。一般の人で、東洋思想家の安岡先生を知っている人はそんなに多くありません。しかし頼経さんはよくご存じで、安岡先生は日本が分裂しかかった六〇年安保のとき、保守系の国会議員や言論人の先頭に立って戦い、国難を見事に乗り切った人で、私の本は最初の本格的な評伝だと高く評価されました。

 

頼経さんは一方では中村天風(てんぷう)先生の生き方に共鳴し、積極的に取り組んでいると話されました。ものの考え方にヒントを与えてくれた天風先生の著作は私の闘病生活を支えてくれていたので、私は安岡先生と同様に尊敬しており、話は弾みました。

 

頼経さんは慶応義塾大学時代から、奈良県大峰山の修験道で修行した稀有(けう)な人でした。私も冬の阿蘇山に登って断食修行していたので共通することが多く、以来交流するようになりました。

 

武蔵嵐山志帥塾を開催

それから4年後の平成7年(199510月、池袋から約1時間の郊外、埼玉県嵐山(らんざん)町にある安岡先生ゆかりの日本農士学校の跡地に建てられた国立女性教育会館で、年に一度、人間学の勉強会・武蔵嵐山志帥塾を催すことになりました。

 

 頼経さんと相談して講師として招いたのが、車イスのカメラマンとして知られつつあった田島隆宏さんでした。障害を持って生まれた田島さんは座ることも立つこともできず、ベッドに寝た切りでした。ところが田島さんはそのうちに写真で自分の美意識を表現するようになりました。

 

といっても寝た切りですから、自由に動けません。そこで50センチメートルほどの高さの動くベッド状の車イスを作ってもらい、その上に腹ばいに寝て、自分で動き回って被写体を探し、カメラアングルを模索しました。彼の視点は低いので、普通の背丈の人が見落としてしまうものが見えるのです。

 

その動くベッド状の車イスに、田島さんは「バッファロー号」と名前を付けました。彼には動くベッド状の車イスが彼を未知の世界に連れていってくれるたくましい“野牛”に見えたのです。

 

田島さんにはもう一つ課題がありました。腕も手も指も全然動かないのです。それでもケーブルレリーズを口にくわえ、舌でシャッターを切って撮影しました。こうして被写体に50センチメートルのローアングルで迫る独特の作品が生み出され、新鮮な作品が人々を魅了するようになり、あちこちで個展が開かれるようになっていきました。

 

 そのころ撮った写真に「夕暮れとネコジャラシ」という作品があります。例によって五十センチメートルの低いアングルから、暮れなずむ夕日に揺れているネコジャラシを撮ったものです。その昔、一日の活動を終えて、スキップを踏みながら家路を急いだころの郷愁を思い出させる夕暮れのなつかしい色調のなかに、ネコジャラシが揺れています。夕日が最後の輝きを放射していて、作品に見入っている人々の顔を照らし出しているようでした。

 

≪車イスのカメラマンの自問自答≫

田島さんは写真という技法にたどり着くまでは、自分に課せられた運命の過酷さに泣き、恨みました。

どうしてなんだ? これは何の報いなんだ? いつぼくが悪いことをしたというのか?

そう問い続け、堂々巡りしていました。問うても問うても、満足な回答は得られません。ところがある日、大変なことに気づいたのです。

 

「いつまでも犯人捜ししても、埒(らち)は明かない。時間を浪費するだけだ。だとしたら、もう原因究明や犯人捜しは止めて、ぼくはこの状況で何ができるか探そう。ぼくにしかできないものを見つけ出そう」

 

 そして試行錯誤の末に写真にたどりつきました。工夫に工夫を重ねて、彼ならではのアングルが賞讃されるようになり、あちこちの写真展に出品するようになりました。私たちも田島さんを招いて、彼の半生に耳を傾け、その作品を鑑賞しました。

 

 これ以降、毎年10月の連休のとき、1泊2日で武蔵嵐山志帥塾が開催されるようになり、参加者も30名、50名と増えていき、イエローハットの創業者鍵山秀三郎さんが講師を務めた回にはとうとう400名を超すまでになりました。

 

伊勢神宮で催したときは、折りから台風に直撃され、開催できるかどうか危ぶまれましたが、それでも300名の人々が詰めかけ、逆に感動的な集まりになりました。参加を見合わせた人はわずか10名で、それだけ魅力的な会だったのです。今年はコロナ禍のため集えなくなる可能性が高いので、オンラインで、1017日、第27回を開催する予定です。

 

頼経さんはその後、無添加化粧品や健康食品、サプリメントの通販で成功しているファンケルの工務店部門を担当し、続いて銀座で不動産会社ピローズを経営しました。こうして実業家としてもしかるべき実績を上げました。

 

一方では自己啓発に心を砕き、いくつかの研修会を立ち上げ、その世話をしました。武蔵嵐山志帥塾の他にも素行会やようとく会などを運営し、人々に交流の場を提供しました。経営手腕を発揮した実業家は多いですが、社会教育活動でもしかるべき実績を上げた人というのは特筆に値します。

 

≪盟友の死が再考を促したもの≫

ところで頼経さんの死は改めて、私がこの世での生を閉じる前に成就しておけなければならないことを再考させました。

 ――私はどういうことに一番価値を置いて生きてきたのだろうか?

 ――もう73歳にもなり、残された人生はそんなに長くはない。では最後の働きとして私は何に注力すべきなのだろうか……。

 夜も昼も自問しました。そして私が今生の人生でもっとも価値を置いてきた事柄が次第に明確になってきました。

 

私は東洋思想では延暦寺の開祖最澄(さいちょう)が若年僧を育てるとき心を砕いた事柄を肝に銘じています。最澄は『山家学生式(さんけがくしょうしき)』に次のように記しています。

「径寸(けいすん)十枚これ国宝に非ず、一隅を照らす、これ則ち国宝なり」(直径一寸もある宝玉10枚が国宝なのではなく、その持ち場において一隅を照らすような人が国宝なのである) 

 私も生身の人間なので、地位や名誉、財産などに惹かれます。作家として名声を博し、言論界でそれなりの地位を得、一財産築きたいなどという欲望が私の中でうごめいています。

 

 しかし一方では、そうしたものを手に入れようとして奮闘している間に、私自身が物欲の虜(とりこ)となり、いつしか魑魅魍魎(ちみもうりょう)に堕してしまうのではないかと恐れました。イエスは金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しいと言われますが、これは核心を突いた警告ではないかと思うので、迷ってしまいます。

 

≪イエスが説かれた価値観≫

 さらにイエスの言動の中に、私の心を捉えて離さないものがあります。

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである」

 この「マタイによる福音書」第2540節に記されている言葉は、マザー・テレサの行動の中核となり、神の愛の宣教者会がもっとも大切にしている指針となりました。私が最初の武蔵嵐山志帥塾の講師に車イスのカメラマンを呼んだのも、イエスのこの言葉が念頭にあったからでした。

 

さらにもう一つ、「ヨハネによる福音書」第1224節に明言されている、

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」

 はイエスのメッセージの中でも際立って重要なメッセージです。

 

私はこの言葉に出合った20代の初頭から、私の人生を貫く至高の願望となりました。そうしたことを考え合わせると、世の木鐸(ぼくたく)たるべき作家の一人として、私は一隅を照らす生き方をしている人を顕彰し、下坐に生きている人々が持っている心の平安をいっそう明らかにすることが、私の人生の最後の奉公ではないかと思いました。

 

イエスの時代の昔から、悔い改めるときは荒灰の中に伏し、荒灰を被って行いました。アッシジのフランチェスコは自分たちの修道会を“小さき兄弟会”と呼んで、おごり高ぶることがないようへりくだりました。私もフランチェスコのように、自分を小さい者として謙遜し、天のメッセージを地に取り次ぐ存在でなければならないと感じています。

 

≪「沈黙の響き」に耳を澄ます≫

一昨年9月に行った心臓のバイパス手術以来、私は「沈黙の響き」に耳を傾けるようになり、内省の傾向が一段と強くなりました。そうしたこともあって、上に述べた「一隅を照らす」「小さき者に心を注ぐ」「一粒の麦であろう」という価値観がいっそう強くなりました。これは貴重な財産で、死守すべきものです。

 

 コロナの猛威がもう1年半続いています。マスクをし、ソーシャル・ディスタンスを保つよう心がけ、消毒を徹底するのは当然のことですが、私はそれだけに終わるべきではないと思えてなりません。今一度つつましい生活に立ち返ることが私たちの生活の中心でなければならないのではないでしょうか。(続き)

ありし日の頼経さん

写真=ありし日の頼経さん