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ありし日の頼経さん

沈黙の響き (その48)

「沈黙の響き」(その48

盟友の死が投げかけたこと

 

頼経健治さんとのお別れ

 私の一番の盟友である頼経健治(よりつねけんじ)㈱ピローズ代表取締役が四月十七日、間質性肺炎によって逝去されました。享年79歳でした。

 

頼経さんは数年前から間質性肺炎を患っていました。間質性肺炎とは肺の肺胞壁(間質)に炎症が起こる病気で、肺胞壁が厚く硬くなり(線維化)、血液中に酸素が取り込まれにくくなるので、息切れや咳がひどくなります。頼経さんの場合も症状が徐々に悪化し、酸素ボンベ無しには過ごせなくなっていきました。息切れがひどく、五分も歩けなくなったのです。主治医にはかねてから延命治療はしないと意思表示していたので、ある意味で潔い覚悟の死でした。

 

私は作家としての人生に踏み出してからの30年間、頼経さんと陰になり表になりして、手を携えて走ってきたので、その死はとても辛いものがありました。

 

 折りからコロナの感染拡大を防ぐため、外出禁止、三密禁止が叫ばれていたので、葬儀は家族葬で営むとのことでした。しかし私にとって頼経さんは肉親以上の存在だったので、あえて家族葬に参列させていただきました。棺(ひつぎ)を花で埋め、最後のお別れをしたとき、私は図らずも嗚咽(おえつ)してしまい、後に残された者として遺志を引き継ぎ、二人で始めた人間学の勉強会・武蔵嵐山志帥塾(むさしらんざんしすいじゅく)が目指しているものを必ず成就しますと誓いました。

 

頼経さんとの出会い

 私は脳梗塞で倒れるという苦境を経て、平成三年(一九九一)二月、処女作『安岡正篤(まさひろ)の世界』(同文舘出版)を世に送り出しました。それからしばらくして、存じあげない方から一本の電話が入りました。会って話がしたいとおっしゃるので、双方にとって都合のいい渋谷の喫茶店で落ち合いました。

 

スラリと背が高くて精悍な体付きのその人は、

「サンユー建設専務取締役の頼経です」

と自己紹介され、私の処女作を賞讃されました。一般の人で、東洋思想家の安岡先生を知っている人はそんなに多くありません。しかし頼経さんはよくご存じで、安岡先生は日本が分裂しかかった六〇年安保のとき、保守系の国会議員や言論人の先頭に立って戦い、国難を見事に乗り切った人で、私の本は最初の本格的な評伝だと高く評価されました。

 

頼経さんは一方では中村天風(てんぷう)先生の生き方に共鳴し、積極的に取り組んでいると話されました。ものの考え方にヒントを与えてくれた天風先生の著作は私の闘病生活を支えてくれていたので、私は安岡先生と同様に尊敬しており、話は弾みました。

 

頼経さんは慶応義塾大学時代から、奈良県大峰山の修験道で修行した稀有(けう)な人でした。私も冬の阿蘇山に登って断食修行していたので共通することが多く、以来交流するようになりました。

 

武蔵嵐山志帥塾を開催

それから4年後の平成7年(199510月、池袋から約1時間の郊外、埼玉県嵐山(らんざん)町にある安岡先生ゆかりの日本農士学校の跡地に建てられた国立女性教育会館で、年に一度、人間学の勉強会・武蔵嵐山志帥塾を催すことになりました。

 

 頼経さんと相談して講師として招いたのが、車イスのカメラマンとして知られつつあった田島隆宏さんでした。障害を持って生まれた田島さんは座ることも立つこともできず、ベッドに寝た切りでした。ところが田島さんはそのうちに写真で自分の美意識を表現するようになりました。

 

といっても寝た切りですから、自由に動けません。そこで50センチメートルほどの高さの動くベッド状の車イスを作ってもらい、その上に腹ばいに寝て、自分で動き回って被写体を探し、カメラアングルを模索しました。彼の視点は低いので、普通の背丈の人が見落としてしまうものが見えるのです。

 

その動くベッド状の車イスに、田島さんは「バッファロー号」と名前を付けました。彼には動くベッド状の車イスが彼を未知の世界に連れていってくれるたくましい“野牛”に見えたのです。

 

田島さんにはもう一つ課題がありました。腕も手も指も全然動かないのです。それでもケーブルレリーズを口にくわえ、舌でシャッターを切って撮影しました。こうして被写体に50センチメートルのローアングルで迫る独特の作品が生み出され、新鮮な作品が人々を魅了するようになり、あちこちで個展が開かれるようになっていきました。

 

 そのころ撮った写真に「夕暮れとネコジャラシ」という作品があります。例によって五十センチメートルの低いアングルから、暮れなずむ夕日に揺れているネコジャラシを撮ったものです。その昔、一日の活動を終えて、スキップを踏みながら家路を急いだころの郷愁を思い出させる夕暮れのなつかしい色調のなかに、ネコジャラシが揺れています。夕日が最後の輝きを放射していて、作品に見入っている人々の顔を照らし出しているようでした。

 

≪車イスのカメラマンの自問自答≫

田島さんは写真という技法にたどり着くまでは、自分に課せられた運命の過酷さに泣き、恨みました。

どうしてなんだ? これは何の報いなんだ? いつぼくが悪いことをしたというのか?

そう問い続け、堂々巡りしていました。問うても問うても、満足な回答は得られません。ところがある日、大変なことに気づいたのです。

 

「いつまでも犯人捜ししても、埒(らち)は明かない。時間を浪費するだけだ。だとしたら、もう原因究明や犯人捜しは止めて、ぼくはこの状況で何ができるか探そう。ぼくにしかできないものを見つけ出そう」

 

 そして試行錯誤の末に写真にたどりつきました。工夫に工夫を重ねて、彼ならではのアングルが賞讃されるようになり、あちこちの写真展に出品するようになりました。私たちも田島さんを招いて、彼の半生に耳を傾け、その作品を鑑賞しました。

 

 これ以降、毎年10月の連休のとき、1泊2日で武蔵嵐山志帥塾が開催されるようになり、参加者も30名、50名と増えていき、イエローハットの創業者鍵山秀三郎さんが講師を務めた回にはとうとう400名を超すまでになりました。

 

伊勢神宮で催したときは、折りから台風に直撃され、開催できるかどうか危ぶまれましたが、それでも300名の人々が詰めかけ、逆に感動的な集まりになりました。参加を見合わせた人はわずか10名で、それだけ魅力的な会だったのです。今年はコロナ禍のため集えなくなる可能性が高いので、オンラインで、1017日、第27回を開催する予定です。

 

頼経さんはその後、無添加化粧品や健康食品、サプリメントの通販で成功しているファンケルの工務店部門を担当し、続いて銀座で不動産会社ピローズを経営しました。こうして実業家としてもしかるべき実績を上げました。

 

一方では自己啓発に心を砕き、いくつかの研修会を立ち上げ、その世話をしました。武蔵嵐山志帥塾の他にも素行会やようとく会などを運営し、人々に交流の場を提供しました。経営手腕を発揮した実業家は多いですが、社会教育活動でもしかるべき実績を上げた人というのは特筆に値します。

 

≪盟友の死が再考を促したもの≫

ところで頼経さんの死は改めて、私がこの世での生を閉じる前に成就しておけなければならないことを再考させました。

 ――私はどういうことに一番価値を置いて生きてきたのだろうか?

 ――もう73歳にもなり、残された人生はそんなに長くはない。では最後の働きとして私は何に注力すべきなのだろうか……。

 夜も昼も自問しました。そして私が今生の人生でもっとも価値を置いてきた事柄が次第に明確になってきました。

 

私は東洋思想では延暦寺の開祖最澄(さいちょう)が若年僧を育てるとき心を砕いた事柄を肝に銘じています。最澄は『山家学生式(さんけがくしょうしき)』に次のように記しています。

「径寸(けいすん)十枚これ国宝に非ず、一隅を照らす、これ則ち国宝なり」(直径一寸もある宝玉10枚が国宝なのではなく、その持ち場において一隅を照らすような人が国宝なのである) 

 私も生身の人間なので、地位や名誉、財産などに惹かれます。作家として名声を博し、言論界でそれなりの地位を得、一財産築きたいなどという欲望が私の中でうごめいています。

 

 しかし一方では、そうしたものを手に入れようとして奮闘している間に、私自身が物欲の虜(とりこ)となり、いつしか魑魅魍魎(ちみもうりょう)に堕してしまうのではないかと恐れました。イエスは金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しいと言われますが、これは核心を突いた警告ではないかと思うので、迷ってしまいます。

 

≪イエスが説かれた価値観≫

 さらにイエスの言動の中に、私の心を捉えて離さないものがあります。

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである」

 この「マタイによる福音書」第2540節に記されている言葉は、マザー・テレサの行動の中核となり、神の愛の宣教者会がもっとも大切にしている指針となりました。私が最初の武蔵嵐山志帥塾の講師に車イスのカメラマンを呼んだのも、イエスのこの言葉が念頭にあったからでした。

 

さらにもう一つ、「ヨハネによる福音書」第1224節に明言されている、

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」

 はイエスのメッセージの中でも際立って重要なメッセージです。

 

私はこの言葉に出合った20代の初頭から、私の人生を貫く至高の願望となりました。そうしたことを考え合わせると、世の木鐸(ぼくたく)たるべき作家の一人として、私は一隅を照らす生き方をしている人を顕彰し、下坐に生きている人々が持っている心の平安をいっそう明らかにすることが、私の人生の最後の奉公ではないかと思いました。

 

イエスの時代の昔から、悔い改めるときは荒灰の中に伏し、荒灰を被って行いました。アッシジのフランチェスコは自分たちの修道会を“小さき兄弟会”と呼んで、おごり高ぶることがないようへりくだりました。私もフランチェスコのように、自分を小さい者として謙遜し、天のメッセージを地に取り次ぐ存在でなければならないと感じています。

 

≪「沈黙の響き」に耳を澄ます≫

一昨年9月に行った心臓のバイパス手術以来、私は「沈黙の響き」に耳を傾けるようになり、内省の傾向が一段と強くなりました。そうしたこともあって、上に述べた「一隅を照らす」「小さき者に心を注ぐ」「一粒の麦であろう」という価値観がいっそう強くなりました。これは貴重な財産で、死守すべきものです。

 

 コロナの猛威がもう1年半続いています。マスクをし、ソーシャル・ディスタンスを保つよう心がけ、消毒を徹底するのは当然のことですが、私はそれだけに終わるべきではないと思えてなりません。今一度つつましい生活に立ち返ることが私たちの生活の中心でなければならないのではないでしょうか。(続き)

ありし日の頼経さん

写真=ありし日の頼経さん