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光は分け隔てをすることなく、すべての人を包みます

沈黙の響き (その55)

「沈黙の響き(その55)」

光はすべてのものを包み込む

 

心に響く名曲「ユー・レイズ・ミー・アップ」の歌詞で使われているraise について述べているうちに、セキレイの母子を例に“いのち”に賦与されている親が子をいたわる思いが、実は存在すべてに潜在しているものであり、それは宇宙の根本実在から来るものではないかと言及しました。

 

そしてさらに最近の科学の成果として、アーヴィン・ラズロたちが宇宙は無機質で伽藍洞(がらんどう)な空間ではなく、“意思”を持つ巨大な生命体だと主張していることに言及しました。科学者たちがそういう解釈を始めていることに私は新しい潮流を感じます。

 

ダマスコ途上でパウロに起きた異変≫

さて、ここでもう一度「ユー・レイズ・ミー・アップ」に返り、raise についてもう一つの解釈に言及したいと思います。raise me up のフレーズは、イエスが人々を助け起こし、励ましてこられたことと関連して解釈されてきました。実は初代教会の立役者の一人となったパウロもこの言葉と切り離すことはできません。パウロもイエスに「ユー・レイズ・ミー・アップ!」(主よ、あなたが私を助け起こしてくださったのです)と語っているのです。

 

パウロは「人は行い(律法)によるのではなく、神の恩恵により、信仰のみによって義とされる」と説き、ユダヤ教とイエスの教えの違いを鮮明にし、キリスト教が成立するのに大きな役割を果たしました。アウグスティヌスはこの「信仰義認論」を高く評価し、さらにルターなどの宗教改革者たちが唱える「信仰義認論」の核心となりました。パウロはキリスト教が世界宗教として飛躍するうえで決定的な役割を果たしています。

 

パウロがユダヤ教からキリスト教に回心するに至ったダマスコ(現シリアの首都ダマスカス)に行く途上で、こんな出来事がありました。ユダヤ教の正統派ともいうべきパリサイ派の熱心な信徒だったサウロ(パウロのへブル名)は、ユダヤ人でありながら律法を軽視すると見られるキリスト教徒を許しておけず、先頭に立って彼らを責め立てていました。

 

モーセの律法を遵守してユダヤの伝統を守ろうと思ったら、イエスはその伝統を破壊する者にしか見えなかったのです。サウロは大祭司から、ダマスコのユダヤ人でイエスに従う不届きなユダヤ人を拘束して、エルサレムに連行する権限を与えられてダマスコに向かいました。

 

≪敵対する者に言葉が臨んだ≫

その旅の途上、突然天から強い光が射してサウロを照らし、憂いに満ちた声が臨みました。

「サウロよ、サウロ、なぜ私を迫害するのか……」

 普通、敵対する者を訊問するときは難詰する調子になるものですが、その声はそんな調子では全然なく、悲しい響きすらありました。

 

〈えっ……なぜ……〉

その声の主はあまりに神々しい光に包まれていたので、サウロは目が眩(くら)んで昏倒(こんとう)してしまいました。そしてふり仰いで、悲しみの声の主に問い返しました。

「あなたは……一体、どなた……ですか?」

 悲しみの声の主はさめざめ涙を流しているようでした。

 

「……私はお前が迫害しているイエスだ」

「えっ、イエス? 私が迫害しているイエス?」

「そうだ。お前は間違ったことをしている。私がしようとしていることを阻むとは……、そんなことにお前の貴重な人生を費やしている暇はないのだ」

 

 イエスの声色(こわいろ)にはサウロを責める響きは全然ありません。それよりも無意味なことに時間を費やしてはいけないと諭す口調です。

「さあ、立ち上がりなさい。ダマスコに行けば、そこでお前がこれから何をしなければならないかわかるだろう」

 

その声に助け起こされ、立ち上がろうとしましたが、サウロは目が見えなくなっていました。まわりの人々に何か声が聴こえなかったかと訊ねても、みんなは口々に何も聴こえなかったとかぶりを振ります。

〈あれは幻聴だったのか? そんなはずはない。私は確かに聞いた。それに目が見えなくなっている。何かが起こったんだ〉

 

サウロは手を引かれてダマスコ市内に入り、ユダの家に泊まりました。あまりにもショックだったので、一体何が起きたのか、ひたすら祈り求めました。

〈あのまばゆいほどの光に包まれ、絶大な威厳があったイエスというお方は一体何者ですか? これまでイエスはモーセの律法を軽んじてユダヤの伝統を壊す者だと思い、それを阻止しようと急先鋒に立ってきましたが、私はとんでもない思い違いをしていたのですか……? どうぞ答えてください〉

 

両の頬を涙が伝い、床を叩いて祈り求めました。しかし、静寂な空間は何も答えません。小机の上に置かれたランプの炎が揺らいでいます。真実を明かしてくださいと祈り求める声は3日間続き、食べることも飲むこともしませんでした。それほど真剣だったのです。

 

≪私は敵対する者の手当などできません!≫

一方、イエスは信徒のアナニヤに霊的に現れて、サウロの目を癒してくれるよう頼みました。

「アナニヤよ、ユダの家にサウロというタルソ人(びと)が泊っている。私はサウロに、お前が訪ねてきて目に手を当てて祈り、再び見えるようにしてくれると伝えている。訪ねていって介抱してあげなさい」

 

でも、アナニヤはその要請には素直に従うことができません。

「主よ、あの男はエルサレムで信徒たちにどんなにひどいことをしたか、私は多くの仲間から聞いています。彼がダマスクにやって来たのも、祭司長からキリストに従うユダヤ人を捕縛してエルサレムに移送するよう権限を与えられているからです。そんな憎き敵対する者の手当なんかできません!」

ところがイエスは、アナニヤの抗議を意に留めず、サウロは自分が選んだ者で、これから大きな役割を果たしてもらわなければならないのだと言われました。

 

「サウロは異邦人や諸国の王たちに私のことを伝える者として、私が選んだ者です。私のことを伝えるために、これからサウロがどんなに苦しむことになるか……それを思うと辛い。でも、この福音は国境を越えて、多くの国々に伝えられなければならないのだ。それがサウロに与えられた使命なんだ」

 

 イエスは敵とか味方とかという区別は全然しませんでした。諸国への伝道において、サウロが背負わなければならない役割を語りました。とうとうアナニヤが折れ、サウロを訪ねて目を癒してやり、元通り見えるようにしてやりました。目が見えるようになったサウロはイエスに従う者たちに与えられている不思議な権能に驚き、バプテスマ(洗礼)を受けて回心しました。

 

この劇的な回心以後、サウロはイエスの熱心な証し人として、特に異邦人への伝道を使命として、小アジア、マケドニアなど、エーゲ海沿岸一帯に前後3回にわたって福音を伝えました。しかもパウロが旅先から小アジアの信徒たちに書き送り、心の持ち方について説いた深遠な手紙は、聖書を編纂(へんさん)される際に採用され、キリスト教の根幹を形成しました。

 

そのサウロが「主よ、あなたは敵対している私をも抱きしめ、助け起してくださいました」と告げていたことを考えると、感慨深いものがあります。

以上述べたように、欧米キリスト教圏では恋人を慕う歌も“大いなる存在”と重なって歌われることがしばしばのようです。(続き)

光は分け隔てをすることなく、すべての人を包みます

写真=光は分け隔てをすることなく、すべての人を包みます


命の惑星

沈黙の響き (その54)

「沈黙の響き(その54)」

宇宙は伽藍洞の空っぽなのではない

神渡良平

 

 

 前回の「宇宙の響き」(その53)でセキレイの話を枕に、あらゆる“いのち”に遍満している性向から判断して、「宇宙は伽藍洞(がらんどう)の空っぽではないのではないでしょうか。それよりも“意味”が備わり、すべてを“愛”がカバーしている相互に結び合っている有機的な総体なのではないでしょうか」と書きました。

 そのとき、華厳経に書かれている「宇宙は帝網珠(たいもうじゅ)で覆われている」という諦念(たいねん)を紹介したところ、大きな反響がありました。帝網珠という言葉は拙著『自分の花を咲かせよう――祈りの詩人坂村真民の風光』(PHP研究所)に臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺老師が序文を寄せてくださったとき、お使いになった言葉です。

華厳経はこの宇宙を大きな網に譬え、網の結び目にそれぞれ綺麗な珠(たま)がついているといいます。一つの珠が光ると、その光は近くの珠に映り、その光は更に隣の珠に映って、幾重にも幾重にも広がって全宇宙を光でカバーしているそうで、それを帝網珠と表現しているのだそうです。透徹した悟った眼差しで見ると、宇宙は帝網珠で覆われている光り輝く存在だというのです。

 前号で私がそう紹介すると、大阪府茨木市千堤寺で「まだま村」を主宰されている立花之則(ゆきのり)先生が早速電話をくださり、仏教が持っている炯眼(けいがん)について話が弾みました。

グループLINEの連載「宇宙の響き」では目下、歌「ユー・レイズ・ミー・アップ」で歌われているraiseについて述べている最中でしたが、今号でも話を先延ばしして、前号に続いて“宇宙観”について述べようと思います。世の中の最先端を行っている宇宙物理学者や哲学者たちに新たな変化が生まれているように見えるのです。

 

復活する「魅力に満ちた宇宙」観≫ 

近代科学が成立して産業社会が活発になるにつれ、“効率”が最優先され、いつしか宗教的な世界観は片隅に追いやられていました。ところがそれに革命的な変化が起きつつあり、いま私たちは人類が経験したこともないような大変革の時代に差しかかっているようです。

その一つが、アーヴィン・ラズロ博士が物質・生命・意識の統合理論である「システム哲学」を説いて、世界の科学界に根本的な変化を巻き起こした出来事です。

1933年、ハンガリーに生まれたラズロは、早くも少年時代にピアニストとして頭角を現し、その後米国に渡ってコロンビア大学で物理学、エール大学で哲学を学び、エール大学教授、プリンストン大学教授、ニューヨーク州立大学教授として教鞭を執りました。ラズロは古典的な物理学を超えて、原子世界から人間社会、宇宙までを貫く原理とその構造を探究する「システム哲学」を提唱し、世界的なオピニオンリーダーとなりました。

例えばその代表作『叡智の海・宇宙――物質・生命・意識の統合理論を求めて』(日本教文社)でこう述べています。

「私たちが別々の存在であるというのは幻想に過ぎない。私たちは全体の中の結ばれ合った部分――私たちは運動し記憶する海だ。私たちの存在は、あなたや私よりも、海をゆくすべての舟を合わせたよりも、そしてこれらの舟がゆく海そのものよりも大きい」

 あるいは別の著書『生ける宇宙――科学による万物の一貫性の発見』(日本教文社)では、

「宇宙は、そのなかに存在するすべてのものと共に、生物にも似た一貫性を持つ一つの総体をなしている」

 と述べました。宇宙は魅力に満ちた「生物にも似た一貫性を持つ総体」だというのです。その見解に共鳴する科学者がだんだん増え、ラズロ博士の仮説は説得力を増し、「有意義で意味のある宇宙」という見方が高まっていきました。

ラズロの影響は物理学者、哲学者にとどまらず、芸術家や宗教家まで広がっていき、1978年、7人のノーベル平和賞受賞者を含む55人の科学者・芸術家・宗教家を集めて世界賢人会議「ブダペストクラブ」を発足させ、地球の未来にさまざまな提言を行うようになりました。そしてラズロ自身はノーベル平和賞の候補者としてノミネートされるまでになりました。このラズロ博士のことは日本でも龍村仁監督が映画『ガイアシンフォニー(地球交響曲)第5番』で採り上げたので、ご存知の人も多いでしょう。

 

≪アポロ宇宙船がもたらしたコペルニクス的転換≫

思えば19717月、人類が宇宙飛行船アポロ15号で初めて月面に立ったときというのは、そういうコペルニクス的変化が起き始めた嚆矢(こうし)でした。ジェームス・アーウィンは地球を離れ、月面から地球を一つの球体として見たとき、
“いのち”に満ち満ちている地球の美しさに目を奪われてしまいました。

そして自分の“いのち”は、はるか彼方にポツンと輝いている地球の“いのち”と一本の細い糸で結ばれており、いつ切れてもおかしくないか弱い存在で、この月面探査は神の恩寵(おんちょう)なしには成功しなかったと感じ入りました。神の臨在を感じたアーウィンは地球に帰還すると、NASAを辞めて伝道師になりました。

そうした流れはニールス・ボーアなどによって急速に発達した量子論によって、宇宙は伽藍洞(がらんどう)で空虚な容れ物ではなく、世界はミクロの世界からマクロの世界までつながっていることが明らかにされ、いまや古典的物理学の世界観を駆逐しつつあります。

 このパラダイムシフトは新しい時代が到来しつつあることを予感させます。パラダイムシフトとは、それまでの時代、当然のことと考えられていた社会全体の価値観が革命的に変化することをいいますが、現代はそれが現在進行形で起こりつつあるエキサイティングな時代だといえます。もちろん世界はまだまだ無神論的世界観が主流ですが、こんな変化が起きつつあることは知っておくべきです。

 

≪新しい時代の到来を告げる村上和雄教授≫

そういう新しいタイプの科学者の代表的見解のひとつが、筑波大学の故村上和雄名誉教授の見解です。村上教授の一般向け啓蒙書『生命の暗号――あなたの遺伝子が目覚めるとき』(サンマーク出版)はこう説いています。

「ヒトの遺伝子情報を読んでいて、不思議な気持ちにさせられることが少なくありません。これだけ精巧な生命の設計図を、いったい誰がどのようにして書いたのか。もし何の目的もなく自然にできあがったとしたなら、これだけ意味のある情報にはなりえない。まさに奇跡というしかなく、人間業(にんげんわざ)をはるかに超えている。そうなると、どうしても人間を超えた存在を想定しないわけにはいかない。そういう存在を私は『偉大なる何者か』という意味で、10年くらい前から“サムシング・グレート”と呼んできました」

村上教授はノーベル賞級の遺伝子研究者ですが、「遺伝子が示している暗号」をこう語ります。

「生物はすべてが何らかの関係を持っています。遺伝子レベルまでさかのぼれば、基(もと)はひとつです。つまり、DNAを調べていくと、地球上のすべての生き物は、植物も動物も微生物も、もちろん人間も、何もかもすべてが同じ遺伝子暗号を使っているということがわかったのです。始まりはたった一つの細胞なのです。言い換えれば、すべてがたった一つの命につながっていることになるのです。それはまた、宇宙が誕生してから、長い歴史が自分という一人の遺伝子の中に入っているということになるのです」(同掲書)

これも科学者の間で起きつつあるコペルニクス的変化のひとつです。私はこうした世界の潮流にとても励まされ、自分が感じつつあったことは間違っていなかったと思っています。(続く)

 

命の惑星

アポロ宇宙船2

写真1=人のいのちは生きとし生けるものと同じように宇宙のしずくだ!

写真2=月に向かうアポロ宇宙船


セキレイ 

沈黙の響き (その53)

「沈黙の響き(その53)」

セキレイが教えてくれた宇宙の本質

 

昭和の碩学(せきがく)安岡正篤(まさひろ)先生が昭和の初期に始めた二つの学校・金雞(きんけい)学院と日本農士学校のテキストとして書き下した書物『いかに生くべきか――東洋倫理概論』(致知出版社)に、愛読書が持つ効用をこう書いておられます。

「心を打たれ、身に染むような古人の書を、我を忘れて読み耽(ふけ)るとき、生きていてよかった! という喜びを誰しもが感じる。そんな書物に出合うと、時間だの空間だのという側面を離れて、真に救われる。ああ、確かにそうだ! といわゆる解脱に導かれる。そういう愛読書を持つことが、またそういう思索体験を持つことが、人間として一番幸福であって、それを持つと持たぬとでは、人生の幸、不幸は懸絶してくる」

佳書は私たちを癒してくれ、鼓舞してくれ、さらには解脱に導いてくれるという点でかけがえのないものです。そういう役割りを果たしてくれるのは佳書だけではなく、人生で起きるあらゆる出来事、そして私たちを取り囲んでいる万物万象もまた、私たちを刮目(かつもく)させ、新鮮な気持ちにさせてくれるものです。

 

≪セキレイが示した母性本能≫

山口市に住む私の友人の前田敏統(としのり)さんは、阪神淡路大震災にボランティアとして参加して以来、毎月『養黙(ようもく)』というニュースレターを出しています。今月号で310号になるので、もう2510か月になります。その3月号にこんな話が載っていました。

「近くのコンビニに振り込みに行こうと車を出しました。すると車道のセンターラインで一羽のセキレイが何かネズミ色のものをつついており、車が近づいても逃げません。不思議に思いつつ車を停めてよく見ると、ネズミ色のものは何とセキレイのヒナだったのです。

ヒナは巣立ちしたものの、飛ぶことに疲れ果てて、地に降りたまま、動けなくなっていました。母鳥は必死になって飛びたつよううながしますが、ヒナは動けません。

私はこのままでは危ないと思い、咄嗟(とっさ)にハザードランプを点滅させ、車を降りて近づきました。ヒナは私を見て危険を感じたのでしょうか、あわてて動き出し、私はヒナを追い立てて藪蔭に逃げ込ませました。

驚いたことに、その間母鳥は二度三度と急降下して私に襲いかかってきたのです。あの小さな体で、何百倍も大きな体の私に体当たりを試み、ヒナを護ろうとして。私はそんなセキレイの母性本能の健気さに涙が出ました」

前田さんのそんな体験談を読んで、私はすべての“いのち”が授かっている母性本能について考えさせられました。人間も動物も小鳥も虫も、生きとし生けるものすべてがみんなそういう愛を授かっている……。

ということは、すべての被造物の根源である天の本質は愛だということになります。この全宇宙は無機質な伽藍洞(がらんどう)なのではなく、それを貫いてカバーしているものは“愛”に他なりません。その愛を、自分の人格の創造主として、具現化することが私たちの務めなのだといえましょう。

 

≪宇宙にあまねく存在している神≫

仏教の宇宙観は私たちの周囲に遍満している“いのち”がすべてを具象し、凝集していると説いています。ところがそういう捉え方は伝統的なキリスト教神学では受け入れられない考え方のようです。

遠藤周作は『深い河』(講談社文庫)で、大津という落ちこぼれの日本人カトリック修道士がリヨンの修道院で、「日本人の感性からすると、神はすべての“いのち”に偏在しているように思えるんです」と訴えると、優等生的なフランス人神父がスコラ哲学を持ち出して、そんな汎神論的考えは異教的だと断罪されます。

結局そうしたことが原因で、大津神父はカトリック教会の司祭としては叙任されず、インドのヴァラーナーシィーの教会に追い払われます。このくだりは、遠藤周作の親友の井上洋治神父がフランスでもっとも厳格なカルメル会修道院で七年間修業したけれども違和感を拭うことはできず、失意のうちに帰国し、独自のカトリックの道を歩いていることを織り込んでいると思われます。

カトリック的神観が正しいのか、それとも生きとし生けるものに神はあまねく存在していると受け取るのが正しいのか、私はよくわかりませんが、神はすべてに偏在されているという受け止め方はあながち間違っていないように思います。

 

≪宇宙は帝網珠で覆われている!≫

華厳経はこの宇宙を大きな網に譬え、網の結び目にそれぞれ綺麗な珠がついているといいます。一つの珠が光ると、その光は近くの珠に映り、その光は更に隣に映って、光は幾重にも幾重にも折り重なって全宇宙を光でカバーしているそうです。それを帝網珠(たいもうじゅ)と表現しています。

悟った透徹した眼差しで見ると、私たちは帝網珠に取り囲まれているように見えるようです。私たちに母性本能を見せてくれた前述のセキレイも帝網珠の光る珠の一つだと言えましょう。

法華経が伝えているのは、宇宙は無機質な伽藍洞なのではなく、相互につながり、愛に満ちた有機的な世界だということです。そう聴くと、私たちはみ仏に見守られ導かれていると思えて、何だかホッとします。

 

≪徳永康起先生が語りかけているもの≫

私の最新著『人を育てる道――伝説の教師徳永康起(やすき)の生き方』(致知出版社)で採り上げた徳永先生の生き方は「自分を作るのは自分である」であり、それをご自身の教育の根幹に据えておられました。人間は自分の責任において自分自身をつくり上げるのだと自覚したとき、自分が置かれた状況に愚痴をこぼすことがなくなり、すべて受けて立とうという気持ちになり、本当の意味で切磋琢磨(せっさたくま)するようになります。

徳永学級で育った子どもたちに顕著に主体性が育くまれたのは、このモットーの下で、徳永先生の慈愛の眼差しで包まれていたからだといえます。徳永先生はことさらに宇宙観に言及はされなかったけれども、肯定的な宇宙観を持っておられたので、とても和んだ雰囲気をお持ちでした。

自分の持ち場でこつこつ努力すると光を発するようになり、それが他の人にも好影響を与えて、周りもますますよくなっていくのだ――そう考えると、自分の持ち場を護るということは、大げさに言うと、全宇宙を救うことになるのではないでしょうか。(続き)

セキレイ 

写真=尾を上下にピコピコ動かしながら小走りに移動するセキレイ


沈黙の響き (その52)

「沈黙の響き(その52)」

イエスが流された涙

 

 

≪ゲッセマネの園の悲しみのイエス≫

先週は闘病中病床で聴いた「ユー・レイズ・ミー・アップ」にまつわる話をしました。この歌を検索すると、イエスを讃美する歌として解釈したバージョンがヒットしました。曲の背景として、イエスが深夜のゲッセマネの園で、

「願わくば、この苦杯を取り除いてください」

と血の汗を流して祈られたときの状況が描かれていました。当時イエスはユダヤ社会を刷新する精神的指導者として急速に頭角を現しましたが、一方保守的なユダヤ教の指導者たちは、モーセ以来の伝統を破壊している異端者だと嫌悪されていました。ユダヤ教の指導者たちの扇動は功を奏して、イエスはだんだん追い詰められ孤立化していきました。そのまま行けば異端者として断罪され、十字架に付けられて殺されてしまいます。

その劣勢を挽回し、新指導者として受け入れられるよう起死回生しようとして臨んだのがゲッセマネの園での祈りでした。起死回生できる条件はただ一つ、ペテロ、ヤコブたち3人の弟子がイエスと一つになって祈り、苦境を跳ねのけることでした。イエスは生死を賭けて祈っていたのです。

ところが真剣な祈りを終えて弟子の所に戻ってみると、彼らは睡魔に勝てずに眠りこけていたのです。人間社会の運命を決める決定的な霊的闘いのとき、イエスを支えることができなかった弟子たち! 最も肝心な闘いのときだったのに!

イエスはとても落胆されました。イエスは再度談判祈祷されましたがそのときも、さらに3度目のときも弟子たちは支えになることができず、イエスは生きて使命を果たす道は閉ざされ、後に残されたのは十字架の道だけでした。

濃い靄(もや)がかかった木立ちの中でのそのシーンは、それらの人々が黒いシルエットで表現されていたので、裏切られたイエスの悲しみがいっそう強く胸に迫ってきます。そんな情景を背景にして、「ユー・レイズ・ミー・アップ」が流れるのです。

イエスの足手まといになっている人間……

そんな人間たちを支え、励まされるイエス……

イエスに励まされ背中を押してもらえたから、私はがんばって頂上を極めることができ、荒海も恐れずに渡れるようになった……

切々と訴える曲を聴きながら、私はこの歌が欧米キリスト教世界ではこういうふうにも解釈されているのかと胸をふたぎました。

 

≪イエスと罪びとの絆を示す歌≫

この解釈は姦淫を犯した現場で捕らえられ、イエスのところに引き立てられてきた女のことが書かれている「ヨハネによる福音書」第8章の有名な話に通じます。律法(トーラー)では姦淫を犯せば石打ちの刑で死刑に処すと定められているので、イエスがユダヤの律法を守るのであれば、この女は石打ちの刑にしなければなりません。だから祭司、律法学者、それにパリサイ人(びと)などのユダヤの指導者たちは、女を引き立てイエスの前に突き出しました。

律法とは神が祭司や預言者を通じて示した生活と行動の細かい規範のことで、狭義では『モーセ五書』に依拠します。パリサイ派、もしくはパリサイ人とは、律法を厳格に守り、細部に至るまで忠実に実行することによって神の正義を実現しようとする人々ですが、形式に従うだけで内容をかえりみず、偽善に陥ってしまったので、しばしば偽善者とみなされるようになりました。

律法学者やパリサイ人が『モーセ五書』を持ちだして裁く限り、誰も反対することができず、姦淫を犯した女は石打ちの刑によって殺されるしかありません。律法学者やパリサイ人は姦淫の女をイエスがどう裁くかを見ることによって、イエスは正統派のユダヤ教徒なのか、それとも異端者なのかを判別し、イエス糾弾の根拠としようとしたのです。一歩間違えば、イエス自身が糾弾の矢面に立たされてしまいます。

 

≪姦淫の女を裁かなかったイエス≫

イエスは身をかがめ、黙って指で地面に何か書かれ、騒ぎに巻き込まれません。祭司や律法学者、パリサイ人がやかましく責め立てるので、イエスは身を起して言われました。誰も責めることはせず、静かで哀しみさえ含んでいる口調で言われました。

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げなさい」

思いがけない、しかしずしりと重たい言葉が発せられました。祭司や律法学者たちはみんな絶句してしまい、振り上げていた拳を下すことができません。気まずくなって、一人去り、二人去りして、みんないなくなってしまいました。

ついに女だけになると、イエスは身を起して訊かれました。

「女よ、みんなはどこに行ったのですか。あなたを罰する者はなかったのですか」

 女は涙声で答えました。

 「主よ、……誰もありません」

イエスはひとこと言われました。

「わたしもあなたを罰しません。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」

 そこには咎(とが)めるような態度は全然ありません。

石打ちの刑になり、石を投げられ、頭を割られ、血まみれになってもおかしくない状況なのに、イエスは文字通り矢面に立って、女を律法学者やパリサイ人の糾弾から守ってくれました。

「こんな私なのに……イエスさまは身をもって守ってくださった」

と涙ながらに感謝する姦淫の女――。

たった一匹の迷える子羊を探して助けられるイエス。

たった一人を誰よりも大切にされたイエス……

女は天地の理法の前に厳然と立たされました。もう罪は決してくり返すまい――女は本当の意味で堅く堅く誓ったのです。これが、イエスがもたらした変化だったのです。この解釈が示すように、You raise me up というフレーズは、「主よ、あなたが私を助け起こし、気持ちを強く持たせ、背中を押してくださったのです!」という意味でもあったのです。

 

≪天に引き上げられたイエス≫

さらに、You raise me up にはこんな意味もありました。新約聖書の4つの福音書のうち、「ヨハネによる福音書」を除く「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」の共観福音書は、ゴルゴダの丘でのイエスのはりつけのシーンを克明に書いています。

そのとき神は霊的闘いに勝利したイエスを天高く引き上げられ、復活の道を開かれましたが、ここでもraiseという単語が使われています。「神はイエスを高く引き上げられた」というのです。こう見てくると、raiseという単語の奥深さに驚くばかりです。

人々が「ユー・レイズ・ミー・アップ」を聴いてしばし涙するのは、無意識のうちに自分に差し伸べられたイエスの手を連想するからではないでしょうか。(続く)

雲間から射す日の光 

写真=雲間から射す日の光