日別アーカイブ: 2021年6月11日

セキレイ 

沈黙の響き (その53)

「沈黙の響き(その53)」

セキレイが教えてくれた宇宙の本質

 

昭和の碩学(せきがく)安岡正篤(まさひろ)先生が昭和の初期に始めた二つの学校・金雞(きんけい)学院と日本農士学校のテキストとして書き下した書物『いかに生くべきか――東洋倫理概論』(致知出版社)に、愛読書が持つ効用をこう書いておられます。

「心を打たれ、身に染むような古人の書を、我を忘れて読み耽(ふけ)るとき、生きていてよかった! という喜びを誰しもが感じる。そんな書物に出合うと、時間だの空間だのという側面を離れて、真に救われる。ああ、確かにそうだ! といわゆる解脱に導かれる。そういう愛読書を持つことが、またそういう思索体験を持つことが、人間として一番幸福であって、それを持つと持たぬとでは、人生の幸、不幸は懸絶してくる」

佳書は私たちを癒してくれ、鼓舞してくれ、さらには解脱に導いてくれるという点でかけがえのないものです。そういう役割りを果たしてくれるのは佳書だけではなく、人生で起きるあらゆる出来事、そして私たちを取り囲んでいる万物万象もまた、私たちを刮目(かつもく)させ、新鮮な気持ちにさせてくれるものです。

 

≪セキレイが示した母性本能≫

山口市に住む私の友人の前田敏統(としのり)さんは、阪神淡路大震災にボランティアとして参加して以来、毎月『養黙(ようもく)』というニュースレターを出しています。今月号で310号になるので、もう2510か月になります。その3月号にこんな話が載っていました。

「近くのコンビニに振り込みに行こうと車を出しました。すると車道のセンターラインで一羽のセキレイが何かネズミ色のものをつついており、車が近づいても逃げません。不思議に思いつつ車を停めてよく見ると、ネズミ色のものは何とセキレイのヒナだったのです。

ヒナは巣立ちしたものの、飛ぶことに疲れ果てて、地に降りたまま、動けなくなっていました。母鳥は必死になって飛びたつよううながしますが、ヒナは動けません。

私はこのままでは危ないと思い、咄嗟(とっさ)にハザードランプを点滅させ、車を降りて近づきました。ヒナは私を見て危険を感じたのでしょうか、あわてて動き出し、私はヒナを追い立てて藪蔭に逃げ込ませました。

驚いたことに、その間母鳥は二度三度と急降下して私に襲いかかってきたのです。あの小さな体で、何百倍も大きな体の私に体当たりを試み、ヒナを護ろうとして。私はそんなセキレイの母性本能の健気さに涙が出ました」

前田さんのそんな体験談を読んで、私はすべての“いのち”が授かっている母性本能について考えさせられました。人間も動物も小鳥も虫も、生きとし生けるものすべてがみんなそういう愛を授かっている……。

ということは、すべての被造物の根源である天の本質は愛だということになります。この全宇宙は無機質な伽藍洞(がらんどう)なのではなく、それを貫いてカバーしているものは“愛”に他なりません。その愛を、自分の人格の創造主として、具現化することが私たちの務めなのだといえましょう。

 

≪宇宙にあまねく存在している神≫

仏教の宇宙観は私たちの周囲に遍満している“いのち”がすべてを具象し、凝集していると説いています。ところがそういう捉え方は伝統的なキリスト教神学では受け入れられない考え方のようです。

遠藤周作は『深い河』(講談社文庫)で、大津という落ちこぼれの日本人カトリック修道士がリヨンの修道院で、「日本人の感性からすると、神はすべての“いのち”に偏在しているように思えるんです」と訴えると、優等生的なフランス人神父がスコラ哲学を持ち出して、そんな汎神論的考えは異教的だと断罪されます。

結局そうしたことが原因で、大津神父はカトリック教会の司祭としては叙任されず、インドのヴァラーナーシィーの教会に追い払われます。このくだりは、遠藤周作の親友の井上洋治神父がフランスでもっとも厳格なカルメル会修道院で七年間修業したけれども違和感を拭うことはできず、失意のうちに帰国し、独自のカトリックの道を歩いていることを織り込んでいると思われます。

カトリック的神観が正しいのか、それとも生きとし生けるものに神はあまねく存在していると受け取るのが正しいのか、私はよくわかりませんが、神はすべてに偏在されているという受け止め方はあながち間違っていないように思います。

 

≪宇宙は帝網珠で覆われている!≫

華厳経はこの宇宙を大きな網に譬え、網の結び目にそれぞれ綺麗な珠がついているといいます。一つの珠が光ると、その光は近くの珠に映り、その光は更に隣に映って、光は幾重にも幾重にも折り重なって全宇宙を光でカバーしているそうです。それを帝網珠(たいもうじゅ)と表現しています。

悟った透徹した眼差しで見ると、私たちは帝網珠に取り囲まれているように見えるようです。私たちに母性本能を見せてくれた前述のセキレイも帝網珠の光る珠の一つだと言えましょう。

法華経が伝えているのは、宇宙は無機質な伽藍洞なのではなく、相互につながり、愛に満ちた有機的な世界だということです。そう聴くと、私たちはみ仏に見守られ導かれていると思えて、何だかホッとします。

 

≪徳永康起先生が語りかけているもの≫

私の最新著『人を育てる道――伝説の教師徳永康起(やすき)の生き方』(致知出版社)で採り上げた徳永先生の生き方は「自分を作るのは自分である」であり、それをご自身の教育の根幹に据えておられました。人間は自分の責任において自分自身をつくり上げるのだと自覚したとき、自分が置かれた状況に愚痴をこぼすことがなくなり、すべて受けて立とうという気持ちになり、本当の意味で切磋琢磨(せっさたくま)するようになります。

徳永学級で育った子どもたちに顕著に主体性が育くまれたのは、このモットーの下で、徳永先生の慈愛の眼差しで包まれていたからだといえます。徳永先生はことさらに宇宙観に言及はされなかったけれども、肯定的な宇宙観を持っておられたので、とても和んだ雰囲気をお持ちでした。

自分の持ち場でこつこつ努力すると光を発するようになり、それが他の人にも好影響を与えて、周りもますますよくなっていくのだ――そう考えると、自分の持ち場を護るということは、大げさに言うと、全宇宙を救うことになるのではないでしょうか。(続き)

セキレイ 

写真=尾を上下にピコピコ動かしながら小走りに移動するセキレイ