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沈黙の響き (その62)

「沈黙の響き(その62)」

哀しみの原爆慰霊式典

 

 

 8月6日、今年も広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊式・平和記念式典が開かれました。その夜、20数年前からの友人で、広島市に在住されている佐伯宏美さんが、Facebookに次のような一文を掲載されました。こういう文章を読むと、76年前に起きた悲劇が他人事ではなく、自分のことのように身につまされます。

 

「広島に原爆が投下されてから76回目の猛暑の朝、昨年に引き続き、広島平和祈念式典は互いに距離を取り、人数を制限して静かにとり行われました。私たち家族はテレビの前に正座して、静かに815分の黙祷を捧げました。

 

広島の人にはみんなそれぞれに86日(ハチロク)の悲しみのドラマがあります。それぞれの家族に、肉親が一瞬で人生を奪われた無念と哀しみがあったろうと思うと、深い切なさが押し寄せてまいります。

 

≪原爆直下で、義母は瞬時に亡くなった!≫

わが家の場合、主人の父はシゲノさんという、まだ19歳だったかわいいお嬢さんと結婚したばかりでした。86日のこの時間、義父は己斐(こい)駅前でシゲノさんと待ち合わせをし、シゲノさんは己斐駅に向かって、ちょうど原爆直下の相生橋あたりを走っていた電車の中にいたと推測されます。ところがそこで原爆が炸裂し、一瞬にして跡形もなく消え、亡くなられたのです。

 

義父自身もたいへんなやけどを負いましたが、連日奥さんを探して歩き回りました。しかし、消息は杳(よう)としてつかめませんでした。その後、義父は主人の母と再婚し、今の私たち家族が生まれました。

 

今年は長女と孫が帰省していますが、可愛くてあどけない孫を見、またわが家の歴史を思うと、思わず胸が熱くなります。原爆犠牲者の悲しみがあるわが家ですが、こんなに元気いっぱいの孫にまで、命のバトンを渡すことができて嬉しく思います。

 

19歳で原爆の犠牲になられたシゲノさん、あなたのことはいつまでも忘れません。私の子どもや孫たちに、あなたが生きていらっしゃったこと伝えてまいります。悲しみの連鎖はどうかこの時代で終わりにしたいと思われてなりません」

 

佐伯宏美さんの義父は長いこと、花嫁さんの辛い捜索のことは話さなかったそうです。後になって宏美さんやご主人の昌明さんが調べて当時の様子がわかってきて、義父の深い悲しみを知り、話すことさえできなかった悲しみに愕然としたのでした。佐伯さんは悲しい被爆者の歴史を背負っていたのです。

 

「私たち遺族は純粋に、86日は2度と原爆が起きない世界平和を広島から発信する日でありたいと願っています。ところが現実には政党の平和運動に利用され、翻弄している状態が残念でなりません。私たちが原爆慰霊塔の前での式典に参加せず、夕方になって遠くから手を合わせて祈っているのもそういう理由からです」

 佐伯さんは慰霊祭が原爆犠牲者を悼むことを忘れて、政治闘争化している現状を残念に思っています。

 

≪話せないほどの哀しみ≫

 佐伯さんの義父は被爆死したお嫁さんを探し回った哀しみをついに話しませんでした。哀しみの極み、誰にも話せなかったと聞いて、私は思い当たることがありました。私の父は大東亜戦争の末期はビルマ戦線で、蒋介石が率いる国民党軍の重要な支援ルートだったインド領北東部インパールの攻略を目指したインパール作戦に従事しました。

 

 この作戦は計画段階で無謀すぎると反対された作戦でした。援蒋ルートを断つという意図はわかるけれども、2000メートル級の山岳地帯で戦闘する過酷さに加え、重装備、豪雨、マラリア、赤痢などの感染症の蔓延、それに武器弾薬や食糧の補給の困難さから実行不能と反対されました。

 

 それでも第15軍及び第18師団の牟田口廉也中将は命令を撤回せず、作戦は強行されました。補給ルートが確保されないままの戦いだったので、日本軍は打つ弾が無く、食べる食糧もない窮地に追い込まれました。戦闘機主体のイギリス軍の反撃に遭い、10万人の戦力のうち、3万人が戦死、戦傷やマラリアや赤痢に罹って後送された者が約2万人という敗戦色を深めていきました。

 

 前線から退却する道は将兵の死体がごろごろしていたことから「白骨街道」と呼ばれ、退却する自軍について行けない傷病兵が泣きながら訴えました。

「俺を見捨てないでくれ! 頼むから連れていってくれ」

 泣きながら訴える戦友たちの必死な声を聞きながら、自分自身が餓死寸前の退却だからどうすることもできず、泣く泣く振り切って退却を続けました。父にとって、戦友を見捨てて退却したという慙愧の念が胸の中を渦巻いていたのです。

 

 父は無事日本に復員して故郷に帰り、私たちが生まれました。風呂から上って座敷で父とたわむれているときなど、何も知らない私たち3人の子どもは父にせがみました。

「ねえ、ねえ、父ちゃん、軍隊時代のことを話してよ」

 それに対して、父は満州や中国大陸を転戦していたころの、ことさら問題がなかった兵隊時代のことは話してくれましたが、ビルマ戦線のことはいっさい話しませんでした。なのに父の書棚にはインパール作戦に関する本が何冊もありました。やはり一番の関心は、インパール作戦とは何だったのかと、必死で全貌をつかもうとしていたのです。

 

 父は平成18年(20061月、90歳で亡くなりました。私は父の書棚のインパール作戦関係の本をむさぼるように読みました。そして戦友たちの死体を乗り越えて行った死の退却行のことを知りました。それはあまりにも無惨で、誰にも話せなかったのです。

 

 佐伯さんの義父が原爆で亡くなった新妻のことは一切話さなかったと聞いて、私の父の哀しみもそうだったと思いました。(続く)

写真=広島平和記念公園の原爆慰霊碑