月別アーカイブ: 2021年9月

大空と雲と光

沈黙の響き (その68)

「沈黙の響き(その68)」

とても評判がいい、ある特養施設の介護士さん

 

 

≪自助努力がもたらす効用≫

私が先週と先々週、2回にわたって、パラリンピックで熱戦をくり広げている障害者たちから得た感動を書いたからか、東真理子さんという介護の仕事をされている方からメールが入りました。東さんは先週、84歳の目のご不自由なご婦人をダンスホールにお連れするという同行援護をしたそうです。約5時間付き添われたのですが、「不思議な感動があり、私の方が元気をもらいました」と書いておられました。

 

「そのご婦人は認知症がまったく無く、足腰もとても丈夫です。ただ全盲に近く、目がご不自由なのに、ひとり暮らしで家事も洗濯もご自分でされています。それに週1回、ダンスに通うのが楽しみで、その同行援護を私がすることになりました。同行援護中、明るくお話されるご婦人に圧倒されるものがありました」

“自立する”と自分の運動機能も維持でき、頭も明晰になるようです。自助努力は結局自分のためでもあるようです。

 

 パラリンピックに出場した選手たちは口をそろえるように言います。

「パラ競技に出合ったことから、目標を持って励むようになりました。努力のかいがあってタイムが向上すると、もっと上を目指そうとさらに励みました」

 自助努力こそはその人を活かす方法であるようです。

 

≪一対多の関係から“一対あなた”という特別な関係へ≫

 東さんはもともと介護のあり方に関心があり、いろいろな施設を見学しました。その後、

お母さんが2つの介護施設で7年近くお世話になったこともあって、いっそう介護のあり方に関心を持つようになりました。そこで個別対応している施設の介護士さんの投稿をネットで読んでいると、ある特別養護老人ホームの介護士さんが、次のような投稿をされていました。さすがにポイントを突いておられたので、私に転送してこられました。教えられる内容だったので、この欄でシェアしたいと思います。

 

「私たちは入居者さんとは入所されてから関係が始まるので、出会いはまったく偶然といえます。でも、片麻痺の人、車イスの人、認知症の人といった方々をトイレにお連れしたり、ご飯を一緒に食べたり、お風呂でのんびりお話したりする日常生活の支援を繰り返しているうち、一対他の関係から“私と○○さん”という特別な関係になっていきます。というよりも、そんな関係になれるよう心がけています。

 

気になる方だからこそ、その人らしい生活を支えたいと思い、昔どうやって過ごしておられたのか、どんな仕事をしておられ、どんなことが趣味で、どんな暮らしをしておられたのか気になります。その方が大切にされていたことを尊重し、一緒に大切にしていきたいと思うのです。

 

 入居して最初は元気だった方もやはり少しずつ衰えていかれ、1日のほとんどを寝て過ごすようになられます。でも、その方がふと目を開けたとき、大切にしている思い出がすぐ目に入るよう、枕元の写真額の配置を変えたりします。

 

それは『あなたの過去を大切にしています。そして、これからもあなたのことを大切にしますね』というメッセージです。写真の選択や額の配置などに、『あなたと明日もともに過ごしたい』という思いが伝わるよう配慮しているから、大切な“今”が輝くのだと思います」

 

これを読んで東さんは心を動かされました。介護する際の一番大切な点を心掛けておられたからとても共感しました。

「ふと目を開けたとき、飛び込んでくるように配置された孫の笑顔の写真。ちょっとしたことに表れている配慮。そこにあるのは“私とあなた”という特別な関係――。その方は施設で欠けがちな、しかしとても重要な“人と人との関係作り”を大切にされているように思いました」

 

私は先に、東さんのメールを通して、自助努力の効用を紹介しましたが、それと同時にこの介護士さんはもう一つ、“その人を大切にしたい”という思いがそのお年寄りをどれほど元気付けているか、伝えておられるように思います。

 

介護現場は忙しく、どうしてもベルトコンベアー式の流れで効率優先になりがちです。だからこそちょっとした配慮が生きてきます。自助努力とともに“私とあなた”という特別な関係をつくることは、クルマの両輪のように補完し合っているように思います。

大空と雲と光

写真=私たちの心に喜びを与えてくれる愛と思いやり


いと高き者の子守唄

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CD「いと高き者の子守唄」3000円―→2000円(+送料)

今から20年前、映画「シックス・センス」(第六感)が空前のスーパーヒットになりました。超能力を授かったコール少年が豊かな感性を傾けて「沈黙の響き」に聴き入ったとき、透明で澄み切った心に相手の思念が映って解決の糸口が示され、複雑に錯綜した呪縛が解けて、当事者を自由の天地に導いていったというストーリーです。

この映画は人の気持ちを思いやり、自分のものとすることの大切さを語って、多くの人々の共感を得ました。私たちもまた感受性を高め、心が透明で澄み切った状態になると、どれほど人さまのお役に立てるか、示してくれたといえます。

改めて「瞑想」、つまり「沈黙の響き」に耳を傾けて、私たちの感性を高めることが大切であることを教えてくれました。

このCD「いと高き者の子守唄」は、音楽家の西村直記先生の透明感に溢れるシンセサイザーの曲を伴奏に、私が9篇の詩を朗読したものです。あなたの瞑想のガイダンスになれば、こんな幸せなことはありません。

いと高き者の子守唄

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メダル5個を獲得したパラ競泳の鈴木孝幸選手

沈黙の響き (その67)

「沈黙の響き」(その67

パラアスリートたちは私たちの“導きの星”だ!

 

 

≪開催されるかどうか、苦しんだ選手たち≫

 今回の第16回パラリンピックは新型コロナウイルスの影響が拡大するなか、国民の8割が懸念を示すなど、開催そのものが危ぶまれた大会でした。しかし、閉会直後の共同通信による緊急の全国電話世論調査では、実に698パーセントが「開催されてよかった」と回答しました。8割の反対から劇的に7割の高評価に変わったのは、選手たちが大会で見せたパフォーマンスが感動的だったからに違いありません。

 

パラ大会の競泳男子100メートルバタフライを制して金メダルに輝き、合計5個のメダルを獲得した全盲のスイマー木村敬一選手(31歳)は勝利の栄冠を得て、涙ながらに話しました。

「この日のためにひたすら頑張ってきました。この日って本当に来るんだなと思いました。来ないじゃないかと思ったこともあったから……」

 パラリンピックが開催されず、徒労に終わってしまうんじゃないかという不安を抱えて準備に励んだ大会開催だったのです。

 

≪まったく動じなかった佐藤選手≫

 陸上男子車イス400メートル、1500メートルで2冠を達成した佐藤友祈(ともき。32歳)選手は21歳のとき、脊髄炎になって左腕が麻痺し、しばらくして下半身の感覚も失いました。車イス生活になってしばらく引きこもっていましたが、平成20年(2012)、ロンドンパラリンピックで競技用車イスを駆使して力強く走る選手を見て衝撃を受け、自分もやってみたいと思うようになりました。そして他の障害者と同様、パラ競技で新しい世界を発見してのめり込んでいきました。

 

 平成25年(2013)、平成26年(2014)、東京マラソンの10キロ車イスマラソンに参加しました。この大会で車イス陸上の現役選手で、北京、ロンドン大会に連続出場している松永仁志選手と知り合い、その指導を仰ぐようになり、めきめき地力をつけていきました。

 平成27年(201511月、ドーハで行われた世界選手権400メートルで優勝、さらに平成28年(2016)6月、ジャパンパラ競技大会の1004001500メートルの3種目で優勝しました。

 

そして今回、パラリンピックを制覇し、とうとう世界の頂点に立ちました。彼は大会が催されるかどうか全然迷いませんでした。開催されようがされまいが、受けて立つ――病気に立ち向ったときとまったく同じ姿勢でした。だから佐藤選手の発言は私たちが陥っていた思考パターンの虚を突いています。

 

「コロナが広まってから、大会ができないことばかりが論じられした。でもぼくらは残された機能で、できることを探して磨いてきました。その違いは大きい。そのことをもっともっと発信していきたいです」

このコロナ禍で開催が危ぶまれるなか、佐藤選手たちはわずかな可能性に賭けて準備してきたのでした。

 

≪口にラケットをくわえて健闘した卓球選手≫

 私たち健常者は長い間、障害者たちを「かわいそうな人たちだ。手厚い保護をすべきだ」とみなし、それが成熟した社会だと思っていました。

ところが昭和39年(1964)、前回の東京オリンピック・パラリンピックが開催された当時、障害者がスポーツをするという意識がなかった日本社会は、見事に自立した欧米の選手たちがパラリンピックで競い合う姿を目の当たりにして、障害者も社会参加できることに大きく目覚めました。まさに、「失ったものを数えるのではなく、残されたものを最大限に生かそう」という意識を共有するようになったのです。

 

 そして腕が失われた体で泳ぐ工夫を初め、片足のない体に義足を付け、走る練習を始めたのです。かつてはリハビリ目的でしかなかったスポーツに、本格的に取り組む人たちが出てきました。車イスの体でバスケットボールやテニスを始め、走る格闘技と言われる車イスラグビーをやる人も出てきました。

 

障害者が自分を麻痺(パラライズ)した人間とみるのではなく、「もう一つ(パラレル)の生き方」にチャレンジする人間と見なすようになりました。スポーツは障害者の意識を変え、それぞれの未来を描くようになりました。

今回も、両腕を失いながらも口にラケットをくわえて戦っている卓球選手や、足で弓を引くアーチェリー選手が出場しました。実況中継したNHKテレビのアナウンサーや解説者が感極まって涙していましたが、それほどパラ競技は底力があり、奥深いものがありました。

 

≪パラアスリートたちは私たちの〝導きの星〟だ!≫

 パラアスリートたちの奮闘によって、社会もそれにつれて変化し、日本でもバリアフリー法を制定して車イスで動ける段差のない道路を建設し、旅客施設でのドアの大型化を義務化し、一日3000人以上の昇降客がある鉄道駅は段差を解消するなどの努力が払われました。 車イスのまま乗れるユニバーサルデザインのタクシーも格段に普及しました。

 

障害者を手厚く介護するだけではなく、働く機会が得られるようにすることのほうがもっと大事だと気づきました。現在では民間企業で雇用されている障害者は57万8千人となりました。これはただ単に障害者にとって朗報なのではなく、障害者が働きやすいように業務を見直すことによって、健常者にとっても職場が働きやすいものに生まれ変わり、生産性も向上しました。

 今回はパラリンピックが開催されるようになって16回目。閉会式の翌日の産経新聞は「多様性のある社会の入り口にたどり着いた」と書きました。障害をハンディと見なすのではなく、多様性として受け入れるような社会になりつつあるというのです。好ましい変化です。

閉会式に障害を持つ歌手が『この素晴らしき世界』を熱唱したことにも、人生を肯定的に前向きにとらえていることが感じられ、ほほえましく思いました。パラアスリートたちが私たちにさきがけて世の中の意識を変えようとしているようです。

そんな彼らに耳を傾け、彼らをわれらの〝導きの星〟として受け入れたとき、本当に柔軟な社会が生まれるのではないでしょうか。

 

≪哀しむ人のなかに〝神〟を見た天香さん≫

 世の中には、「どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの……」と苦しむ人たちがいます。哀しみを味わったその人たちの瞳は涙で濡れています。その人びとは神の哀しみを体験的に知っているから、本当は神の隣にいるのです。神は栄光の神であるはずですが、実際は痛みの神であり、哀しみの神なのです。

そのことを知っているイエスは涙に暮れている人の隣にすわり、一緒に涙を流しました。だから、世の中で一番さげすまれていた取税人や売春婦たちが彼の周りに集まってきたのでした。

 イエスと同じように、見捨てられ、無視された人びとの中に、〝神〟を見いだした人が天香さんです。天香さんの出発点は京都の花街の女たちです。木屋町の料亭の台所を手伝い、軒下で寝て、女たちの打ち明け話に心を痛ませて聴き入りました。金持ちの旦那たちが芸子に酒をつがせ、嬌声を挙げて酔いしれるとき、それに付き合って酔っぱらわなければならない芸子たちの辛さに心底同情しました。だから天香さんは先斗町(ぽんとちょう)の女たちに受け入れられたのです。

 天香さんはパラリンピックの選手たちに心から声援を送っている障害者たちとともにいました。パラリンピックの父グッドマン医師が障害者たちを「失ったものを数えるのではなく、残されたものを最大限に生かそう」と励ましたように、天香さんもまた社会の一番底辺からみんなを励まし、導いていったのでした。

 パラアスリートたちの活躍に声援を送りながら、私はその背後にある天香さんの生き方を思わずにはおれませんでした。

メダル5個を獲得したパラ競泳の鈴木孝幸選手

写真=メダル5個を獲得したパラ競泳の鈴木孝幸選手


道は続いている

沈黙の響き (その65)

「沈黙の響き(その65)」

日本人に戦争の罪悪感を植え付けた米国

 

 

前回の投稿で私は、日本の占領政策について、アメリカが極秘裡で日本弱体化計画(「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」=戦争の罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)を進めていたと述べました。すると、それをもっと知りたいという要望があったので、今回はそのことについて述べます。

 

≪分断と統治は常套手段≫

 昭和2012月、占領軍は占領軍という特権を使って、ほとんどあらゆる日本の日刊紙に、「真実の太平洋戦争はこうだった!」と称して、連合国総司令部民間情報局の署名入りの記事『太平洋戦争史』を強制的に連載し始めました。

『太平洋戦争史』は当然のこととして、戦地における日本軍の残虐行為を強調し、日本の大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、一切は日本の軍部が悪いのであって、米国は少しも悪くなく、米国には何ら責任がないと主張しました。

 

 さらにラジオでも自分たちが書いた『太平洋戦争史』を昭和20年(194512月9日から翌年の2月10日まで、10週間連続で流しました。かてて加えて『真相はこうだ!』というラジオ番組で、「日本は軍部に騙されて犠牲になったのだ!」と41週連続で流しました。これに引っかかった日本人は多数あり、以後、私たちは軍部に騙されていたんだ、軍部憎し! という感情が高まっていきました。見事に日本分断化工作が功を挙げたのです。

 

 実は欧米が植民地支配をするときの常套手段は、相手の国民を2つに分断し、人民を抑圧してきたこれまでの支配層に代わって、われわれが新しい国家を支配するというものでした。インドにおけるイギリスも、ベトナムにおけるフランスも、インドネシアにおけるオランダも、フィリピンにおけるアメリカもみな植民地の分断化をやりました。

 

「分断と統治」こそが植民地支配の鉄則でした。だから日本の場合も分断と統治の手法を用いて、軍部と騙されたあわれな無辜(むこ)の民の図式を当てはめて分断を図りました。さらに軍部の内部も、猪突猛進で自信過剰な指導層と、何も知らされていなかった哀れな第一線部隊というふうに分断しました。

 

 その後も、誌や書籍、ラジオ、学校教育で執拗に、しくり返し宣伝しました。学校教育では修身や歴史の授業を廃止し、占領軍が提供した『太平洋戦争史』を教材として使わせ、日本悪玉論を植えつけました。6年8か月に及んだ占領政策で、日本を骨抜きにし、永久に隷属化することに目途がつきました。

 

そんなこともあってか、私の母はいつも悔やんでいました。

「戦後、あまりにも価値観が変わってしまい、何を信じていいかわからなくなった。それに食べていくのに必死だった……」

 社会は急速に左傾化し、神仏も伝統も否定され、クラゲが海をただ漂っているだけのような、リンとしたものがない社会に転げ落ちていきました。

 

 占領下の日本のことは、江藤淳の渾身の力作『閉ざされた言語空間――占領軍の検閲と戦後日本』(文藝春秋。1989年刊)に詳しく書かれています。江藤は全共闘運動を「革命ゴッコ」、三島由紀夫も「軍隊ゴッコ」と批判し、プリンストン大学で学びつつ米国の視点をしっかり分析し、米国からの精神的独立を願う保守派の論客として一世を風靡しました。

『閉ざされた言語空間――占領軍の検閲と戦後日本』は一見に値する書物です。ぜひご覧になってください。

 

≪千載に禍根を残した碑文≫

  米国は戦争が終わったあと、日本が再び反抗的な国家として立ったらやっかいなので、その芽は占領時代にしっかり潰しておかなければならないので、洗脳工作を徹底しました。その意図のもとについやされた占領時代の6年8か月は、日本人に自虐思想を植えつけるのに成功し、確たる成果を得たのでした。

 

「沈黙の響き」(その64)で採り上げた広島原爆慰霊碑の碑文に「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」と書かせることに成功したのもその一つでした。あの文章を書いた雑賀忠義広島大教授は「世界市民」などという理想論を盾に、碑文反対論者に強硬に反論しました。

 

「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰り返さないと誓うことは、全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びです。『原爆投下は広島市民の過ちではない』というのは世界市民に通じない言葉です。そんなせせこましい立場に立つと、過ちをくり返さないことは不可能になり、霊前でものを言う資格はありません」

 雑賀教授は進歩的文化人かもしれませんが、米国に気づかって、千載に禍根を残したといえます。

 

 戦後まもない昭和27年(195211月、広島市で行われた世界連邦アジア会議に出席していたインドのR・B・パール博士(極東軍事裁判の判事の一人)は原爆慰霊碑を参拝し、あの碑文を見て、憤激した表情で語りました。

 

「ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊です。原爆を落としたのが日本人でないことは明瞭です。(なのになぜ日本人が詫びる必要があるんですか?) 落とした者の手はまだ清められてはいません」

 

 それに対して米国大統領は、「われわれは詫びることはしない。悪かったのは米国ではなく、日本だ」と突き放しています。

 

 国際政治は力と力のぶつかり合いで、弱者は強者の餌食になります。われわれは力がなかったために負けました。そして占領政策によって思うがままのことをされ、日本の自立を阻まれました。しかしもう戦後76年になります。そろそろ自虐思想から脱却し、自主独立の国になろうではありませんか。(続く)

道は続いている

写真=道は続いている


歓喜の雄叫びを挙げるベアトリーチェ・ヴィオ選手

沈黙の響き (その66)

「沈黙の響き(その66)」

パラリンピックよ、ありがとう!

≪失ったものを数えるのではなく、残されたものを最大限に生かそう≫

 史上最多58個のメダルを獲得した東京オリンピックに続いて、8月24日から13日間にわたって、パラリンピックの競技が行われました。直前までコロナウイルス感染によって開催が危ぶまれながら、160を超える国と地域から、史上最多の4403人のパラアスリートが集い、熱戦をくり広げました。日本からも過去最多の254選手が全22競技に参加しました。

 私は普段ニュース以外あまりテレビを観ませんが、このときばかりは夜、テレビにくぎ付けになって観戦しました。というのは「パラリンピックの父」といわれる英国のルードヴィッヒ・グッドマン医師が、第二次世界大戦直後の1948年、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院で、戦争で負傷した退役軍人らを対象に開いたアーチェリー大会の席上、

「失ったものを数えるのではなく、残されたものを最大限に生かそう」

 と語って、参加者を鼓舞したと知ったからです。

 大会に参加したどの選手も私の耳目を惹いて励ましてくれましたが、圧巻だったのは、車イスフェンシング女子フルーレ個人に出場したイタリアのベアトリーチェ・ヴィオ選手(24歳)が2連覇を果たし、全身を振るわせて歓喜の雄叫びを挙げた瞬間でした。

 ヴィオ選手は11歳のとき髄膜炎を患って、両腕の肘から先と、両脚の膝から先を失いました。しかし車イスフェンシングのおもしろさのとりことなり、研鑽を積んだ挙句、とうとう世界の頂点に立ったのです。決して諦めない姿勢は人々の共感を呼び、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス=インターネットを通じて、他人とコミュニケーションが取れるツールのこと。インターネットで繋がっているので、世界中の人とコミュニケーションを取ることができる)では世界的な人気者となり、インフルエンサー(SNSなどを通じて情報発信し、それによって多くのフォロワーに影響を与えている人物)として知られるようになりました。

 今回ヴィオ選手の試合を見た人は、両手両足がない不自由な体なのに、それをまったく問題にせず、果敢に戦う姿に魅了され、いつのまにか声を限りに声援を送ったと思います。

≪人は誰でも誰かの光になることできる!≫

日本人選手でも観戦する私たちを勇気づけてくれる選手が何人もありました。その一人がパラトライアスロン女子に参加した谷真海(まみ)選手です。谷選手は早稲田大学応援部でチアリーダーをしていた19歳の冬、右足首に痛みを覚えました。診察してもらうと、骨肉腫と診断され、膝下の切断手術を迫られました。

 あまりなことに絶望し、真海さんは3日間泣き続けました。

「何で自分がこんな破目になったのだろう? これは何の試練なんだろう」

 思い悩む日々が過ぎたとき、真海さんは義足(ブレード)をつけて走り幅跳びをするようになり、次第にスポーツの魅力のとりこになりました。スポーツは記録の更新によって希望を与えてくれ、さらには仲間たちと結びつけてくれたため、孤独ではなくなりました。こうして日本における女子パラアスリートの開拓者になっていきました。

 そして平成25年(2013)、アルゼンチンのブエノスアイレスで開かれたIOC総会で、谷さんは感動的な招聘(しょうへい)スピーチをして、令和2年(2020)、オリンピック・パラリンピックを東京に持ってくることに成功し、大金星を挙げました。

 そんなこともあって講演の機会が一躍多くなった谷さんは、自分の経験を踏まえて聴衆に語りかけました。

「人は病気や障害を選べません。しかし、それらを背負ったのち、どう生きたかを選ぶことができます。私は自分の経験から、神さまは乗り越えられない試練は与えないと確信します。あなたもきっと誰かの光になれます」

 どれほど多くの人が谷さんの言葉に励まされ、前を向いたかわかりません。

「東京パラリンピックは私たちパラアスリートが、観戦してくださる人々をどれほど勇気づけることができるかを示す場でもあるんです」

 谷さんは私たちをどこまでも励ましてくれるアスリートでした。谷さんはその後結婚し、出産を経て再び競技場に戻り、今度はトライアスロンに挑戦し、パラリンピックに出場するまでになりました。

≪右腕のない選手がトライアスロンで銀メダル≫

 男子アスリートの中にもそういう人がいました。トライアスロン男子で銀メダルに輝いた宇田秀生(うだ・ひでき。34歳)選手です。宇田さんの子どものころの夢はJリーガーになることで、高校時代は滋賀県選抜でもプレーしたほどで、大学時代はますますサッカーに熱中しました。

ところが平成25年(2013)、仕事中に機械に巻き込まれ、右腕を失ってしまいました。結婚してからわずか5日目の事故で、しかも奥さまは妊娠中でした。幸福の絶頂から、悲劇のどん底に突き落されたのです。何という悲劇でしょうか。

 普通だったらそこでギブアップしてしまいますが、涙を拭って立ち上がった宇田さんが活路を見出したのはトライアスロンでした。しかし右腕を欠損しているので、両腕がある選手に比べると、075キロのスイムで引き離されてしまいます。それを20キロの自転車と5キロのランで挽回しなければ太刀打ちできないのです。苦しい闘いが続きましたが、それを乗り越え、とうとう銀メダルを獲得したのです。2位でゴールに飛び込んだ宇田選手が、日の丸の旗を背にして号泣したのは、その過程がどんなに過酷なものだったかを物語っていました。

≪私を励ましてくれたパラアスリートたち≫

 私はなぜパラリンピックに惹かれたのか、理由があります。

 私は2年前の9月、心臓の冠動脈のバイパス手術を受けました。8時間もかかった手術でしたが、予後がはかばかしくなく、杖をつかなければ歩けなくなってしまいました。体調がすぐれないと、それに影響されて悲観的になってしまいます。

 そういう状態のところに、パラリンピックが始まりました。両手両脚がない選手が、それでもイルカのように体をくねらせて、50メートル、100メートルと泳ぐ姿は目が覚めるほどに感動的でした。

 競泳男子に出場した鈴木孝幸選手(34歳)は、右腕の肘から先と、両脚がない体です。パラリンピック連続5回出場という大ベテランですが、5年前のリオデジャネイロ大会では初めてメダルを逃すという屈辱を味わいました。世界の選手層が厚くなったことを痛感し、年齢もあったので、一時は引退も考えました。

 でも、東京大会では表彰台に返り咲きたいたいという思いが勝って、体を土台から鍛え直しました。そして男子100メートル自由形で見事金メダルの栄冠に輝き、日本に金メダル1号をもたらしました。その後、50メートル平泳ぎで、銅メダルを獲得し、残り2種目もメダルをつかめる至近距離にあります。

≪自分との闘いに勝った50歳の杉浦さん≫

 杉浦佳子選手は、女子個人ロードタイムトライアルとロードレースで渾身の走りを見せ、見事2つの金メダルを獲得し、パラ自転車の頂点に立ちました。栄冠に輝いたのは、何と50歳のときでした。

 杉浦さんは5年前の平成28年(2016)、趣味が高じて出場した自転車レースで転倒し、頭蓋骨などを粉砕骨折する大怪我をしました。事故直後は父親の顔も認識できず、医師にも何度も挨拶をするほど錯乱していました。右半身に麻痺が残り、記憶力にも不安がありました。しかし、そこから杉浦さんは復活したのです。

 杉浦さんは薬剤師を目指していましたが、出産のため、大学を中退しました。しかし夢を諦めることができなかったので別な大学に入り直し、育児と学業を両立させ、とうとう薬剤師になりました。そして薬剤師を続けながら、自転車個人ロードタイムトライアルに挑戦しました。

 それを見守った母親の良子さん(75歳)は振り返ります。

「自転車競技がなければ、あの子はうつむいて暮らしていたかもしれません」

 自転車競技が杉浦さんの窮地を救ってくれたのです。

 とはいえ、ライバルの多くは伸び盛りの若手選手たちです。自分の年齢を考えると、遅くとも40代で決着をつけようと思っていましたが、コロナ禍でずれ込んでしまい、東京大会が開かれたときはもう50歳になっていました。杉浦さんはSNSで、「正直言ってさすがに厳しい。体力がついていかない」と本音を漏らしましたが、それを乗り越えてとうとう金メダルに輝きました。

 表彰式に臨んだ杉浦さんは、杖で体を支えてゆっくり壇上に上がりました。その様子をテレビで観ていた人々は、杉浦さんは自分と戦って勝利したのだなと、誰もが感じたに違いありません。爽やかな笑みをこぼれてくる表彰式でした。

50歳で再挑戦した「水の女王」≫

 実は私にはパラリンピックには忘れることができない思い出があります。それは過去5大会に連続出場し、パラ日本選手最多の金メダル15個を獲得し、「水の女王」と呼ばれた成田真由美選手とインタビューを通して親しくなり、今も交流しています。

 成田選手は13歳で発症した脊髄炎で下半身が不自由になりました。でも、水泳に挑戦し、パラリンピックで大活躍するようになりました。その後、第一線を退きましが、招致から携わってきた東京開催決定をきっかけに競技に復帰し、もう一度表彰台に上がろうと、通算6度目の出場を決めました。しかし50歳という年齢では並みいる強豪に太刀打ちできず、敗退しました。しかし、成田選手の果敢な泳ぎは観戦する者たちを励ましました。

 そういう選手たちの奮闘は、何をぼやぼやしているんだと、私に喝(かつ)を入れてくれました。まったくその通りで、ついつい自分を甘やかし、愚痴をこぼしていたのです。パラアスリートたちは私に出直す勇気を与えてくれました。(続き)

歓喜の雄叫びを挙げるベアトリーチェ・ヴィオ選手

写真=歓喜の雄叫びを挙げるベアトリーチェ・ヴィオ選手