月別アーカイブ: 2021年11月

かっこちゃん先生に抱きついて喜びを表す子どもたち

沈黙の響き (その77)

「沈黙の響き(その77)」

山元加津子さんと特別支援学校の子どもたち

 

 

 12世紀、イタリアで育ったアッシジのフランチェスコは小鳥たちと無邪気に遊びたわむれたそうです。小鳥たちはすっかり警戒心を解いてフランチェスコの周りを飛び回りましたが、天真爛漫さを回復させる心は現代社会がもう一度取り戻さなければいけないものです。そのことを私たちに気づかせてくれる事例をたくさんお持ちの人が日本におられます。

 

長年、石川県の特別支援学校に勤務していて、7年前に退職された山元加津子(かつこ)先生はみんなから「かっこちゃん」と呼ばれて慕われています。そこで私も僭越ながら「かっこちゃん」と呼びます。かっこちゃんはもう60数歳ですが、今でも少女のような心持ちの人なので、誰もが裃を脱いで無邪気になってしまいます。

 かっこちゃん先生が担当する障害児たちが奇跡的な回復と成長を見せるので、保護者たちは愛の働きかけが持っている不思議な力に目覚めていきました。

 

≪目も見えず、動くこともできないちいちゃん≫

かっこちゃん先生が教員になって初めて担任した女の子は柵が付いたベッドに寝かされていました。目が見えず、手足も動かず、何も考えていないと思われていました。同じ部屋の子どもたちは胃に穴を開けてチューブで栄養を入れて生きていました。両親とは何年も会っていません。というのは、重い障害児が生まれると、その施設の園長でもある医師は親御さんにやんわりと言いました。

 

「この子は施設の子どもとして、わたしたちが大切に育てます。だからあなたがたはこの子にかかずらわずに、ご自分の人生を歩みだしてください」

 ちょっと首をかしげたくなるアドバイスです。かっこちゃん先生も園長先生から言い渡されました。

「あなたが明日から担当する女の子は無脳症です。つまり大脳半球は委縮してまったくありません。その結果、神経管欠損症を発症していて反応しないんです。大脳が機能していないから何をやっても無駄です」

 

 そう言われても、かっこちゃん先生にとってはちいちゃんは初めて担任する子どもだったので、とりわけかわいかった。お母さんはかわいい赤ちゃんが泣いたら抱き上げて揺らし、小守り歌を歌って、大好きだよと頬ずりするものです。かっこちゃん先生もそうしたくなりました。

 

 赤ちゃんは何もしないで置いておくと背骨は曲がらなくなり、手足は硬直し、骨ももろくなり骨折しやすくなります。それで看護師さんも怖いので触れないようにし、トイレとご飯の世話以外は一切しませんでした。

 

 でも、かっこちゃん先生は病室には誰も来ないし、見つからないからいいだろうと思い、ちいちゃんを抱き上げて抱っこして体をゆすり、歌を歌って、大好きだよと話しかけていました。そんな毎日が続いたある日、看護師さんが「大変なことがわかりました!」とかっこちゃん先生を呼び止めました。かっこちゃん先生は間違ってちいちゃんの骨でも折ったのではないかとドキッとしました。

 

「そうではなくて、大変なことがわかったんです。ちいちゃんがいる病室はどの子も寝たきりで動けず、胃瘻(いろう)カテーテルで栄養補給をしているので、とても静かなんです。ところが山元先生の足音が聞こえてくると、ちいちゃんが手足をバタバタ動かすんです。他の人の足音では決してバタバタしません。まさかと思ったけれども間違いありません。あの子は山元先生と他の人の足音を聞き分け、先生の足音だと喜んでいるんです」

 

 山元先生はちいちゃんが自分のことを特別な人と思って待っていてくれるんだと思ったら、胸がいっぱいになり、涙が止まりませんでした。

 

≪「大好き!」は魔法の言葉≫

 山元先生がちいちゃんに「大好きだよ、かわいいね」と語りかけると、にこっと笑います。「今日はもう帰るね」というと泣きます。ちいちゃんがなぜそうした言葉の意味がわかるのか、わかりませんでした。

 

手遊びで、「一本橋、こーちょこちょ」とくすぐる遊びをしました。最初は何の反応もありませんでしたが、続けているとある日、「階段上って、こーちょこちょ」とくすぐると、声を挙げて「わー」と笑いました。

 

 山元先生は嬉しくなって園長先生のところに飛んでいき、「ちいちゃんは全部わかっています。こうやったら笑いました」と報告すると、現下に「そんなことはあり得ません。あの子は大脳がないんだから、ただの機械的反射に過ぎないでしょう」と否定されました。

 

 翌日もまたちいちゃんと「一本橋、こーちょこちょ」をやって遊びました。そして「一本橋、こーちょこちょ。階段上って」とやって、そこで止めてみました。するとちいちゃんが「あれっ、そろそろくすぐってくれるはずじゃないの?」と怪訝(けげん)そうに首をかしげます。これはくすぐっていないから反射的反応ではありません。次にくすぐってくれるはずだと“予測”する力があることを示しています。こうしてちいちゃんの隠れていた潜在能力に気がついていきました。

 

 あるとき、子ギツネとお母さんギツネの絵本を読み聞かせしていて、

「子ギツネはお母さん、お母さーんと泣きました」

 と読むと、ちいちゃんの目に涙が溜まりました。山元先生は、ちいちゃんはお母さんに長いこと会っていないから、母の愛情はわからないはずだし、キツネとか冬とかも知らないはずなので、物語がわかるはずがないと不思議に思いました。

 

 ところが翌日、「お母さんが心配でたまらない子ギツネは、お母さーん、お母さーんと泣きました」という部分を読んだら、またちいちゃんはポロポロ涙をこぼしました。山元先生は胸がいっぱいになって、ちいちゃんをぎゅっと抱きしめ、「大丈夫、わたしがいるよ」と慰めました。

 

 山元先生はそれまで、人は教育によっていろいろなことを学ぶのだと思っていました。でもそれだったらちいちゃんは何も知らないはずだから、そこで涙をこぼさないはずです。だから人間は生まれる前から全部わかっていると思うしかありません。どんなに障害が重くても、どの子もわたしたちと同じように深い思いを持っているとしか思えません。

 

 たとえ脳に重たい損傷があったとしても、体を起こし、揺らし、大好きだよと語りかけ、音楽を聴かせたりすると、脳幹を刺激して活発になるのです。山元先生はこうした経験から、医師や看護師に、「子どもたちはみんなわかっていて、回復する力があります」と説いても、「かっこちゃんマジック」とか、「ミラクルかっこちゃん」などと茶化されて、なかなかわかってもらえませんでした。(続く)

かっこちゃん先生に抱きついて喜びを表す子どもたち

写真=かっこちゃん先生に抱きついて喜びを表す子どもたち


祈りは結晶化する!

沈黙の響き (その76)

「沈黙の響き(その76)」

モアイの修復に日本が貢献

 

≪多田野弘タダノ会長がイースター島のモアイ像の修復を申し出る ≫

昭和63年(1988)、日本のあるテレビ局が世界7不思議の一つと言われているイースター島のモアイ像の特集を組んで放映しました。

イースター島は南米チリの西方約3千8百キロ沖合の南太平洋に位置しており、日本からは赤道を超えて太平洋を南下して約1万5千キロ離れている絶海の孤島です。

 

 この島は1722年、オランダ人堤督ヤコブ・ロッへフェーンが西欧人として初めてこの島に上陸しましたが、その日がちょうどキリスト教のイースター(復活祭)だったため、その島をイースター島と名づけました。島には12世紀から15世紀ごろ建造されたらしい巨大な石像が何体も立っていました。

 

 この島は全土に大きな椰子(やし)の木が生い茂っている緑豊かな平和な土地でした。ところが乱開発が進み、家や舟の建材を得るために樹木が伐採され、森林が急速に減少し、土地がやせていきました。加えて長年にわたる部族間抗争によって人口減少が続き、1万人もの人々が住んでいた島が、1774年にイギリス人探検家ジェームズ・クックが上陸したときにはわずか6百人に減少していました。さらに昭和35年(1960)にチリを襲った大地震によって、遺されたモアイも倒壊してしまいました。

 

テレビ映像は28年間倒壊したままになっている無惨なモアイ像を映しだし、世界の文化財の修復こそ平和に貢献する日本の役割ではないかと訴えました。

その特集番組を観て、高松市に本社を置くクレーンメーカー()タダノの多田野弘(ただのひろし)会長が振るい立ち、ぜひわが社で修復を引き受けたいと申し出ました。多田野会長は何か社会に貢献できることはないかと探していたのです。

多田野会長の熱意に呼応して、奈良国立文化財研究所、および飛鳥建設が協力して、モアイ修復委員会が結成されました。この申し出にチリ政府は大感激し、チリ大学イースター島博物館がさまざまな情報を提供して準備が始まりました。

 

こうして平成2年(1990)から約3年間かけて、5百年から8百年もの間、潮風にさらされてもろくなった、10トン以上もある大きなモアイ像をクレーンで吊り上げて、アフという台座(祭壇)に安置しました。こうして倒壊していたモアイ像15体は完全に修復され、イースター島はユネスコ世界遺産に「ラパヌイ国立公園」として登録されました。ラパ・ヌイとはポリネシア語で「大きな島」という意味で、島に住む人々は現在も自分たちの島をラパ・ヌイと呼んでいます。

 

≪日本にモアイ像の復刻が特別に許可された!≫

 平成6年(1994)1月、西田多戈止さんはさっそく㈱タダノの本社を訪ね、多田野会長に会いました。

「モアイを日南海岸に移築することは可能でしょうか。私どもが日南海岸に持っている和郷牧場跡地を再開発することになったので、ここに天香さんが説いている光明祈願『不二の光明によりて新生し許されて活きん』を体現した祈りの場をつくろうとしているのです」

 と、牧場跡地で得たインスピレーションを語りました。

 

「太陽からのメッセージを受けて、地球に許される生き方に気づく場所にすべく、そこにモアイ像を設置したらどうかと考えました」

 するとそのプロジェクトに、今度は多田野会長が驚きました。

「お陰さまでイースター島のモアイは無事修復され、世界遺産に登録される運びとなりました。イースター島の長老会は日本の修復チームに大変感謝し、お礼にモアイ像を日本で復刻することを許可してくださったのです。世界で初めて復刻が許可されたので、信じられないような思いです。

 

しかし、一体5メートルを超す巨大なモアイ像を7体も設置する場所は、相当広い面積を必要とするので、通常の場所ではとても無理です。でも、西田当番がお申し出のように、日南海岸の牧場跡地だったら最適です」

そこで構想は一気にまとまり、プロジェクトが動き出しました。飛島建設の石工の左野勝司さんが凝灰岩(火山灰が固まってできた柔らかい石)を刻んで復刻しました。平成8年(1996)年4月、地球の平和を願って、太平洋をはるかに見晴らす日南海岸の景勝地に開設された「サンメッセ日南」にモアイ像7体が設置され、マスコミがこぞって報道しました。

 

≪諸宗教団体が祈りの運動に呼応≫

一方、西田当番は諸宗教に、サンメッセ日南に「地球感謝の鐘」を設置しようと呼びかけました。一燈園はかねてから宗教の壁を超えた超教派活動を熱心に行っていたので、各宗教団体が賛同して参加を申し込んできました。

 

山田恵諦(えたい)天台座主(ざす)は「地球よありがとう。地球よごめんなさい」というメッセージを送ってきました。立正佼成会の庭野日敬(にっきょう)開祖は「かけがえのない地球に住む縁に感謝」と表現されました。カトリック東京大司教区の白柳誠一枢機卿は「主よ、揺れ動く地の裂け目をなおしてください」とメッセージを送り、大本山池上本門寺の田中日淳(にちじゅん)貫主(かんしゅ)は「大地の恵みを合掌で頂き、いたみは感謝の涙で清めます」という言葉をくださいました。

 

海外からはフランシスコ会修道会のマクシミリアン・ミッツィー神父が聖フランシスコの詩「太陽讃歌」から一句選んで送ってきました。チベットのダライ・ラマも「手遅れになる前に行動しなくては」というメッセージを送りました。こうして16教団から提言の言葉をいただき、17教団からは建設資金も提供されました。

 

春分の日と秋分の日には、真東の海の向こうから昇った太陽が、7体のモアイ像の背後から射してサンメッセ日南の中央の「太陽の階段」を駆け上り、頂上に設置されている「地球感謝の鐘」の真ん中に差し込むという素晴らしい施設ができあがりました。

 

幸いなことにサンメッセ日南は令和2年(2020)4月13日に24周年を迎えました。この年の3月11日には入場者数が4百万人に達し、一燈園のメッセージが少しは伝わったような気がします」

 

沈黙の響きに心耳を澄まし、かそけき内なる声に耳を傾けると、そこから大きな気づきがやってきます。物事の背後にはこうした善意の祈りがあり、日南海岸に立つモアイ像も建立にかかわった人々の祈りが結晶化したものでした。

冒頭に引用した安岡先生と同じように大変な炯眼(けいがん)の持ち主で、特に学校の教師たちに支持者が多く、「実践人の家」という自己啓発の会を主宰した森信三元神戸大学教授は名著『修身教授録』(致知出版社)で、私たち人間のことをこう述べておられます。

 

「われわれ一人びとりの生命は、絶大なる宇宙生命の極微の一分身といってよい。したがって自己をかくあらしめる大宇宙意志によって課せられた、この地上的使命を果たすところに、人生の新意義はある」

 この人間観は宗教が説く普遍的な叡智に通じており、それを目指す私たちを“持続可能な”人間にしてくれています。沈黙の響きに耳を澄まし、内なる声を聴きとる努力を重ねたとき、私たちは私たちの社会をかけがえのないものにすることができるように思います。(続く)

祈りは結晶化する!

写真=祈りは結晶化する!

 


太平洋を見晴るかすサンメッセ日南のモアイ像

沈黙の響き (その75)

「沈黙の響き(その75)」

モアイ像を日本に導いた暁の祈り

 

 

 

≪人間は無限なる存在が肉体を持って有限化した存在だ!≫

 大正から昭和にかけて世の中に多大な影響を与えた東洋思想家安岡正篤先生は『運命を開く』(プレジデント社)のなかで、実に深遠な人間観を語っておられます。

「人間というものは、ある全きものでなければならない。人間の生命というものは、無限にして永遠なるものです。その偉大な生命が何らかの機縁によって、たまたま一定の存在になり、一つの形態を取るのです。

そこで我々が存在するということは、すでに無限の限定である、無限の有限化であるということを知る必要がある。この有限化を常に無限と一致させるということが真理であり、道理であり、道徳であります」

 

つまり大宇宙の本質である究極実在が何らかの機縁によって有限化して、目に見える形になっているのが人間だというのです。人間はその人生をかけて不断の努力をして人格を神にまで高めていくことが求められていると説いておられます。人生とは自分をいつも祈りによって啓発し、根源なる存在と一致させるものだと説かれます。

 

≪日南海岸に設置されたモアイ像≫

祈りを通して、いま何をなすべきかということがだんだん明確になってくるという好例が、一燈園が日南海岸で経営しているサンメッセ日南開設の事例です。

一燈園は昭和の後半、日南海岸にある25へクタールもの和郷(わきょう)牧場で、黒毛和牛を生産していましたが、経営に行き詰まって閉鎖していました。しかし、平成5年(1993)、地元の日南市宮浦は村おこしのためにも、牧場跡地を何らかの形で再開発してほしいと希望してきました。そのプロジェクトに2つの企画案が上がっていましたが、一燈園当番(代表者)の西田多戈止(たかし)さんはどちらの案にも決めかねて迷っていました。

 

 日南市と宮崎市を結ぶ国道220号線脇のドライブインで企画会議を行っていたのですが、なかなか結論が出ず、重苦しい雰囲気になっていました。多戈止さんは気分転換に会議を抜け出し、牧場跡の丘に登りました。広大な牧草地の前方には紺碧の大海原がどこまでも広がっていました。

 

 それを眺めていると、いつの間にか日が暮れ、あたりを静寂が包んでいました。崖下の国道を走る車のヘッドライトも上までは上がってきません。ふと気がつくと、前方の海に小さな灯りが点々と点いていました。漁火(いさりび)です。漁師たちが漁をして、大海原から大自然の恵みをいただいているのです。

 

その灯もいつしか消え、頭上には満天の星がきらめきだしました。多戈止さんは自ずから瞑想に入り、夜空に銀の砂をまき散らしたような銀河の淵にたたずんで、忘我の世界に遊んでいました。夜の冷え込みもさして気にならず、坐ったままうとうととしていました。

 

≪暁に祈り、太陽からのメッセージを受け取った!≫

うたた寝からふと目が覚めると、東の空が白々と明け始め、水平線が左右にゆっくり広がっていきました。目の前で荘厳な日の出が始まり、ただただ無心に見入りました。

太陽が水平線に近づくにつれ、水平線上の雲の輪郭が光で白く縁どられ、(あかね)色に染まっています。太陽が水平線から顔を出すと、光の帯がサーッと海面を走り、キラキラと輝いて、多戈止さんのところに届きました。

 

その瞬間、(光の帯を通して、太陽が私に話しかけているようだ! 私たちは心が通じ合っているのだ……)と思いました。光の帯をたどって幻想が広がっていきます。

(太平洋の向こうには何があるのだろうか……

ハワイだろうか……何の島だろうか……

さらにその向こうには南太平洋が広がっており、イースター島があるんだろうな……)

 

太陽は多戈止さんをイースター島に結びつけてくれたのです。

(イースター島といえば世界の7不思議といわれるモアイ像がある……

その昔、高さ5メートルを超す巨大な石像が建造されたそうだけど、その目的も何もわからないまま謎に包まれ、石像はただ南太平洋の海原をじーっと見詰めている……)

思いがイースター島に及ぶと、思考の焦点が定まってきました。

 

(そうだ! もしイースター島のモアイ像をここに持ってきて、太平洋と南太平洋を間に挟んで、イースター島のモアイと日南海岸のモアイに地球環境について対話させたらどうだろう。

もうこれ以上地球を汚してはいけない。このまま地球汚染を放置しておくと、イースター島がたどったような滅びの道に陥ってしまうと、地球再生という大きなメッセージを投げかけてくれるのではなかろうか)

 

 暁の祈りのなかで、多戈止さんはモアイ像を設置しようという結論に導かれていきました。

 ドライブインでの会議に戻ると、多戈止さんは昨晩満天の星空の下、太平洋を眺めながら考えたことを話しました。

「もしモアイ像を設置したら人々の関心を引くでしょうし、地球再生という大切なメッセージを送ることができると思いますが、どうでしょうか?」

 

 すると検討チームの一員からすぐさま反応がありました。

「モアイ像というアイデアはすばらしい。誰もが興味を持ちますよ」

 すると他の人が新たな情報を語りました。

「この間テレビニュースで、日本のチームがイースター島で倒壊したモアイを修復していると報じられていました。確か、クレーンのタダノが資金を提供し、奈良国立文化財研究所と長年石の建造物を扱ってきた石屋さんと一緒になって修復に乗り出したとか」

 

 タダノと聞いて多戈止さんはびっくりしました。

「多田野弘会長ならよく知っています。タダノは一燈園の研修に社員や奨学生を参加させているんです」

 そう答えながら、モアイを日南海岸に建造することは可能かもしれない、いやできそうだと予感しました。多戈止さんが暁の祈りのなかで着想を得たとき、地球の反対側のイースター島では修復工事が進められていたのです。さっそく調べてみると不思議な事実が判明しました。(続き)

太平洋を見晴るかすサンメッセ日南のモアイ像

写真=太平洋を見晴るかすサンメッセ日南のモアイ像


朝日の輝き

沈黙の響き (その74)

「沈黙の響き(その74)」

森先生を触発した二宮尊徳

 

 

 

≪自分が立っているところを深く掘る≫

私は森先生の哲学に接して驚嘆し、従来の学者の哲学には見られない独創性と実践性はどこから来るのだろうかとずっと模索していました。

普通、学者の論文はその分野の著名な学者の見解を引用し、その上で私はこう推論するという体裁を取るものです。ところが森先生の著書にはそういう引用が少なく、聡明な叡智と思われるご自分のひらめきが書き表わされています。そこで思索がたどりつくところは、森先生が開眼の契機となったといわれる二宮尊徳翁が詠まれた、

 

音もなく香(か)もなく常に天地(あめつち)は書かざる経をくり返しつつ

 

です。つまり森先生は万巻の書物を渉猟する書物の虫となることを止めて、天地の響きに聴き入ったのです。先生がくり返し強調された真理に、「真理は現実のただ中にあり」とありますが、現実のただ中に沈思黙考するとき、確かなものが見えてきました。そして確信して、

「かくして現実の中から把握せられた真理にして、はじめて現実を変革する威力を有する」

と断言されました。

 

思えば中国の古典『大学』にある思想「格物致知(かくぶつちち)」、すなわち「物を格(ただ)して、知に致(いた)る」という考え方も同じことを言っています。物、すなわち現実は深く沈思黙考するとき、宇宙の叡智を開陳してくれるのです。

 

ドイツの哲学者ニーチェも沈思黙考することの大切さを次のように語っています。

「怯(ひる)むことなく、お前の立っているところ、そこを掘れ。地下深く。その下にはきっと泉がある。ぼんやりした連中にはほざかせておけ、『下にあるのは決まって地獄だ』と」

 私はニーチェの達観は森先生の思索の本質を言い当てている炯眼(けいがん)だなと思いました。

「そこを掘れ、地下深く。そこにこそ創造の泉があるのだ」と。「沈黙の響き」に耳を傾け、沈思黙考することは、洋の東西を問わず、叡智が開ける重要な条件のようです。

 

 ≪逆境は天の恩寵的試練である≫

 森先生はいかにしてああした叡智を獲得されたのかと模索する私に、天王寺師範での授業で学生たちにしばしば、

「酔生夢死の人生、つまり酔っ払っているのか、夢を見ているのか、そんな人生を送ってはならない。私たちにぼやぼやしている時間はないんだ」

と語っておられます。森先生は私たちがついうっかりと、ぼやぼやした時間を過ごしていることに警告を発しておられるのです。考えてみると、森先生は、尋常高等小学校を卒業後、旧制中学に進学したかったけれども、家が貧しくて進学できず、やむなく師範学校に進むために、一年間小学校の給仕をされました。裕福な家庭の子どもたちが塾に通い、いっそう学力をつけて旧制中学に進学するのがうらやましくてなりませんでした。

 

愛知第一師範学校を卒業後、地元の横須賀尋常小学校に奉職しましたが、向学心は抑えがたく、東京高等師範学校を受験したものの不合格。ところが、そこまで向学心に燃えているのだったら学資を出そうという人が現れたので、今度は広島高等師範を受験して合格し、広島高師に入学しました。その後、京都帝国大学に進み、西田幾多郎教授の許で研鑚に励み、天王寺師範の講師になりました。学資を出してくれる人の期待に応えるためにも、ぼやぼやしてはおれなかったのです。

 

考えてみれば、生きていくためにぼやぼやしておれなかったのは、天の配剤だったとしか思えません。貧しい境遇だったからこそ切磋琢磨して、出色の人物になることができました。

もちろん、森先生が持って生まれた資質は私たちとは全然違っていたこともありますが、その資質が磨かれ、世を照らす光にまでなれたのは、天の導きがあったからだと言えます。自分の境遇をはかなむのではなく、それを真っ正面で受け止めて刻苦勉励したからこそ、世の光となれたのでした。だから森先生は「逆境は神の恩寵(おんちょう)的試練なり」と言わずにはおれませんでした。

「身に振りかかることは、すべてこれ天意なり」

 という森先生の箴言は私たちに人生に立ち向かう覚悟を迫っています。

 

≪複写はがきに込めた思い≫

ところで私に『修身教授録』の同志同行社版の序文を送ってくださった田村先生は、京都市で長らく小学校と中学校の教師をされましたが、その間、森先生の影響を受けて、複写はがきにも精魂されました。複写はがきの祖といえば徳永先生ですが、その徳永先生に毎日はがきを差し上げる「一日一信」を始められました。その動機はこうです。

 

「私が最初に実践人の夏季研修会に参加したのは、昭和四十八年(一九七三)で、森門下の逸材である徳永先生とご縁ができたのはもっと後のことでした。香川県の因島の教師・岡野孝司先生が徳永先生と一日一信をされていると聞いて、私もご縁を求めて一日一信をお願いしました。

晩年の徳永先生はご病気され、それでも病床から返信してくださいました。私はとても恐縮し、お体にさわってはいけないと思い、こちらからはがきを差し上げるのは遠慮しました」

 

 一日一信は約千日、二年半余り続きますが、徳永先生との交流を通して、多くのことを学ばれたようです。

 徳永先生から複写はがきを書くことを勧められ、人生が豊かになったという坂田道信さんはいま「複写はがきの伝道者」と呼ばれ、講演で全国を飛び回っておられます。私が複写はがきを書くことの効用をお訊きしたら、こう答えられました。

 

「複写はがきは一種のアンテナでもあります。複写はがきは多くの人が生活されているこの日本の中で、自分と共に歩いてくださる方を探し出す一つの道具であるように思います。複写はがきは思いもよらぬ多くの人と自分を結びつけてくれ、その人たちとネットワークを作ってくれ、人生を切り開いてくれるのです。やがて同じ波長の人たちとつながり、結ばれ、自分が本来持って生まれている使命を果たしていくことになります」

 

なるほど、複写はがきは自分と同じような波長の方を探し出すツールだとは、長年、複写はがきを書いてこられただけに至言です。複写はがきを書き続けることによって、人生は確実に豊かになっていくようです。(続き)

朝日の輝き

写真=森先生の沈思黙考から宇宙の叡智が引き出された