月別アーカイブ: 2021年12月

田島隆宏さん

沈黙の響き (その82)

「沈黙の響き(その82)」

「待つのは慣れっこです!」

あっけらかんと語った田島隆宏さん

 

 

≪全身麻痺した車イスのカメラマン≫

私と「車イスのカメラマン」田島隆宏さんとの交わりは今から約30年前、平成30年(1991)、彼が36歳の春に始まりました。繋いでくれたのは、東京・有楽町の電気ビルで催された田島さんの写真展でした。そこにネコジャラシの向こうで輝いている夕日の写真が出品されていました。

首から下は全然動かず、動くのは頭だけという田島さんが、ストレッチャーのような車イス「バッファロー号」に腹ばいになったまま、目尻にしわを寄せてこぼれるような笑みを浮かべて、夕日の写真を説明してくれました。

 

≪夕日を捉えた一枚にかけた思い≫

「野原の向こうに、真っ赤な夕日が落ちる瞬間を捉えようとして、随分待ったんですよ」

 私はへぇと思い、問い返しました。

「どのくらい待ったの?」

 田島さんはバッファロー号の前部にカメラが据え付け、シャッターからレリースを引き、それを口にくわえてシャッターを押して写真を撮っています。

「夕日の前景に何がいいかと探し回り、ようやく数本のネコジャラシの穂が風に揺れているのを見つけたとき、これだ! と思いました。その穂先をシルエットにして、熟し柿のような色をして沈んでゆく夕日を捉えようと思ったんです。

 

 これだったら1日の終わりだけではなく、大自然の春夏秋冬というサイクルも、1年の終わりを迎えて収穫の秋に入ったタイムスパンも共に写し込めると思いました」

 夕日の写真はただ単にシャッターを押しただけという単純なものではなく、芸術家の練りに練った模索があったのです。

「待つのは慣れっこです。こういう不自由な体ですから……」

 私はあっけらかんとした田島さんの言葉に衝撃を受けました。

 

≪背負わされた十字架の重みに泣いた日々≫

田島さんは不自由な体に生まれたことを嘆いた時期があったに違いありません。ついていない人生だとふて腐れたこともあったでしょう。男だから恋心を抱くこともあったでしょうし、あなたと結婚したいとプロポーズしたこともあったはずです。

 

しかしどれもこれも叶わず、人知れず涙に暮れ、悲しい人生を歩いてきたに違いありません。だから、待つのは慣れっこなんですという田島さんのつぶやきは、彼が背負った十字架の重みを感じさせました。

 

≪ハンディを逆用して持ち味に≫

バッファロー号は50センチの高さしかありません。ということは田島さんが構えるカメラの視点は地上50センチに固定されているのです。その制約はどうみても“足かせ”でしかありません。

 

ところが田島さんはそのハンディを逆手にとって工夫し、自分にしかできない表現を産み出しました。ハンディを乗り越える過程で、宇宙の大法に従って生きることをつかみ、すべておまかせしてくよくよしない生き方を身につけたのです。

 

田島さんは4冊写真集を出していますが、『うたがきこえる』(「実業之日本社」)の表紙を飾った写真はガーベラの花のアップ写真です。ごく普通のガーベラのアップ写真かと思いきや、その花の裏に何とカマキリの赤ちゃんが張り付いています。どんな写真家も見落としてしまいますが、地上50センチしかない田島さんのアングルはそれを目ざとく見つけ、写真に収めました。田島さんはハンディを嘆くのではなく、それを積極的に活かして見事な“田島ワールド”を作りだしました。

 

学研プラスから出版された写真集『ぼくはここにいるよ』は、田島さんが口にくわえたフェルトペンで書いた金釘文字の書名がそのまま活用されています。『ぼくはここにいるよ』という謙虚な書名も人々の心に訴えるものがあり、ますます評判になりました。だから田島さんの写真は次第に評価されるようになり、あちこちで写真展が開かれるようになっていきました。

 

≪武蔵嵐山志帥塾の第1回目の講師に招聘≫

折しも私は私の考え方に共鳴してくださる方々とともに、武蔵嵐山志帥塾(むさしらんざんしすいじゅく)という勉強会を立ち上げようとしていました。全国各地で行っている勉強会の総結集としての全国大会です。そこに田島さんを講師として呼ぶことにしました。

 

聴衆は田島さんの作品を鑑賞し、かつ、

「ハンディを逆手にとって工夫し、自分にしかできない表現方法を産み出しました」

という田島さんの説明に大変感動しました。だから交流会で田島さんはみんなに囲まれ、引っ張りだこになりました。

 

それ以来、私は田島さんと交流し、埼玉県熊谷市にある武州養蜂園の広報誌のカメラマンとして就職するお世話もさせていただきました。田島さんが撮る素敵な写真が広報誌を飾り、販促の一助となりました。

 

こうして田島さんは66歳まで生きながらえ、永遠に旅立っていかれました。私は今生でご縁をいただいたことを本当に感謝しています。

 

≪脳性麻痺の詩人水野源三さんが残した感謝≫

それにしても障害を克服して何かをなし遂げた人は私たちに多くのことを語っています。

田島さんと同じように大変なハンディを背負っていた人に詩人の水野源三さんがいます。

 水野さんは九歳のとき赤痢にかかって脳性小児麻痺になり、目と耳以外、すべての機能を失ってしまいました。母親は幼い源三さんと何とかコミュニケーションを取ろうと模索し、五十音表を指さしたところ、源三さんが目で合図を送ってきました。こうして一字一字確認して、会話ができるようになりました。

 

寝たきりで、しゃべることも動くこともできない源三さんでしたが、日常生活をとらえたみずみずしい感性を詩で表現するようになりました。人々は彼の師に心を揺さぶられ、源三さんをいつしか「瞬(つぶや)きの詩人」と呼ぶようになりました。

洗礼を受けてクリスチャンとなった源三さんは、美しい自然を描いて神への感謝を表しました。奥深い信仰が日常生活に反映されて、柔らかな光をまといました。

 

新聞のにおいに

朝を感じ

冷たい水のうまさに

夏を感じ

風鈴の音の涼しさに

夕暮れを感じ

かえるの声

はっきりして

夜を感じ

今日一日を終わりぬ

一つの事一つの事に

神さまの恵みと

愛を感じて

 

こうして第1詩集『わが恵汝に足れり』(アシュラム・センター)、第2詩集『主にまかせよわが身を』(同)、第3詩集『今あるは神の恵み』(同)、第4詩集『み国めざして』(同)を出版しました。源三さんは、信仰を持つことは何か特別なことではなく、生きとし生けるものすべてへの感謝であると伝えました。源三さんの詩は20ほどは讃美歌となり、日々歌われています。

 

源三さんは昭和59年(1984)、この世の務めを終え、「感謝以外のなにものもありません」と言い残して、47歳で天に召されていきました。素晴らしい生き方でした。

田島隆宏さん

田島写真集『うたがきこえる』

ファンと談笑する田島隆宏さん 

写真=撮影に余念がない車イスのカメラマン・田島隆宏さん


幾多の困難を乗り越えて輝いている劉薇さん

沈黙の響き (その81)

「沈黙の響き(その81)」

素晴らしかった劉薇さんの「来日35周年ヴァイオリンリサイタル」

「今日の劉薇(リュウ・ウェイ)さんはとても美しかった!」

 と書き出している澁谷美知子さんのFacebookへの投稿が私の目を惹きました。女性ならではの感性が劉さんのドレスアップを鮮やかに描写していました。

「第1部は燃えるような深紅のしなやかなドレス。第2部は淡い金茶に赤い花と雲をあしらったチャイニーズドレスにコバルトブルーのパンツがとても似合っていました」

 その日の舞台衣装はとてもあでやかでしたが、ヴァイオリストとして世に認められるまでは、一般の人には考えられないような苦難の道がありました。

≪文化大革命のさなか、隠れてヴァイオリンを練習≫

「劉さんは自分のことを“鉄の女”と称しておられますが、私も“筋金入りの不屈の魂の持ち主”だと感じており、とても尊敬しています。劉さんは中国奥地の敦煌(とんこう)近くの蘭州で生まれ育ちました。狂気が荒れ狂った中国の文化大革命のさなか、西洋音楽であるヴァイオリンはブルジョワ音楽として迫害されましたが、劉さんは隠れて練習を続けました。

父は医師だったので、壁新聞でブルジョワ的だとして糾弾され、批判を受けました。ヴァイオリンが見つかれば敵性楽器として壊され、譜面も焼かれます。楽譜が手に入らないので、父は音楽をこっそり聴いて記譜して薇さんに与え、練習を支えました。

ヴァイオリンを練習していることが発覚すれば紅衛兵に吊し上げられ、農村送りになるのは必定です。そんな状況のなかで隠れて密かに練習が続けましたが、練習自体が命掛けだったのです」

劉さんが紅衛兵の目をかいくぐっておこなった練習は、澁谷さんの学生時代の思い出を想起させました。

「私が大学生のころ、大学は学生運動で荒れに荒れていました。私は政治闘争に関心を示す人はまずいない女子大で学んでおり、学内では社会の騒乱はまったくわかりませんでした。

しかしテレビニュースでは学生たちの投石や乱闘事件が毎日のように報道され、私も帰宅途中、新宿騒乱事件に遭遇し、電車が2時間も止まったことがありました。

私たちの日常すら異常事態でしたが、テレビニュースで毎日報じられる中国の文化大革命の様子はもっと恐ろしいものでした。私は震えあがってしまい、日本に生まれた幸せに、毎日胸を撫で下ろしたことでした。

友人の紹介で初めて劉さんのコンサートに行ったとき、劉さん父子は文化大革命中でもヴァイオリンの練習を続けたとお聞きし、何と勇気ある父子だろうと心から尊敬しました。

≪作曲家の馬先生も迫害される≫

劉さんは中国の西安音楽学院を卒業後日本に渡り、桐明学園を経て、東京芸術大学大学院で音楽博士号を取得しました。自分の音楽を伸ばすこともさることながら、文化大革命で中国を追われた大作曲家である馬思聰(マー・スツォン)先生の曲を世に広めたいという大きな志を抱いています。

共産党政権に必ずしも同調しなかった馬先生は迫害の末に出国し、アメリカに亡命しました。ところが追い打ちをかけるように売国奴として断罪され、フィラデルフィアで客死しました。当時は馬先生の名前は口にすることも許されなかっただけに、劉さんの馬先生に寄せる思いは並々ならぬものがあります。

≪腎不全を克服≫

その後、劉さんは腎不全を患い、人工透析を宣告され、悩みに悩んでどうしても受ける気にならなかったので、独自の食事療法や薬膳法、漢方薬で治そうと努めました。劉さんの闘病生活を支えたものに、こんな閃きもあったと澁谷さんは語ります。

「劉さんがさまざま困難な出来事に真正面から向かう立ち向かう精神力の強さは、お子さんを産むとき努力したこんな感動的なストーリーに現れています。

劉さんは妊娠後期、中毒症にかかって高血圧に苦しんだそうです。血圧を下げるため、大きいお腹を抱え、弁当と毛布を持って、遠い毎日公園まで15千歩あるいていき、日向ぼっこをして過ごしました。こうしてお日さまに当たっているうちになんと血圧がどんどん下がってきて奇跡的に助かりました。

そんな劉さんを見ていると、“天は自ら助くるものを助く”という言葉を思いだします。そこまで努力すると、最後は神風が吹き、天が救うのですね。

また2年前、ご主人から腎臓移植を受けました。現在では文字通り、一心同体の2人3脚で、完全に健康を回復されました。腎不全から19年、人工透析を拒(こば)んで独自の薬膳法や漢方薬で治療を始めてから10年が経ちました。医師たちはそんなに持たすことができた人はいないと驚いているそうですが、今では薬膳料理の本を出すまでになりました。こういうふうに立ちはだかる難関と闘い、異文化をも乗り越え、さらには難病を乗り越えて、独自の音楽世界をつくり上げました。

≪闘病生活が劉さんの音色を変えました!≫

 澁谷さんは劉さんの演奏をとても称えます。

「劉さんの生き方は当然彼女の演奏にも反映し、迫力、たくましさ、不屈の精神に溢れています。劉さんのヴァイオリンの音色はしなやかで、どこまでも伸びやかで明るく、しかも清らかなのです。本当に違う次元に尽きぬけたような感じがします。

劉さんは6月の演奏会のとき、これからもっともっと進化していきますと語っておられましたが、その予告通り、さらに進化し、脱皮しておられました。

――それが今日の音楽だったのか! 

劉さんの人生は重く、困難の連続でしたが、重荷を受けて立ち、その先に光があることを信じて1歩1歩前に向かって進み、とうとう結果を出しました。劉さんの人生に乾杯せずにはいられません」

リサイタルの会場だった六本木のサントリーホールはコロナ禍のため、演奏終了後の演奏者の挨拶やブラボー、アンコールは禁止され、写真撮影は着席したまま、5分だけ許されました。劉さんは撮影のため、ヴァイオリンを持ってポーズを取っていましたが、アンコールとしてハンガリー音楽であるチャルダッシュの演奏を始めました。

その演奏の素晴らしく、澁谷さんの隣に座っているご主人は禁止されているブラボー を声高らかに叫んだほどでした。

幾多の困難を乗り越えて輝いている劉薇さん

写真=幾多の困難を乗り越えて輝いている劉薇さん


大自然を彩る秋

沈黙の響き (その80)

「沈黙の響き(その80)」

リッツカールトンの心を打ったおもてなし

 

 

 先日大阪での講演のあと、夜リッツカールトン大阪で懐石料理を提供する「花筐」(はながたみ)に連れていっていただきました。「花筐」とは花を盛っている箱のことで、何を大切にしているか、店名が語っています。

 

私は心のこもった料理を堪能しました。出されてくる料理の皿にそっと紅葉が添えられていました。日本料理にはいつも季節の花が添えられていて、盛り付けの基本になっています。茶席でも床の間に一輪の花を生けて季節の香りを楽しみますが、それが料理の盛り付けにも生かされています。

 

――これが日本料理の良さだなあ、紅葉した紅葉を添えて季節の香りを反映し、料理がいっそう引き立てられている。

 

私は添えられた紅葉をそっと取り分けました。いただいて帰ろうと思ったのです。

 会食が終わってお開きになり、いざ帰ろうとすると、仲居さんがそっと封筒を手渡してくれ、ひと言おっしゃいました。

「これは料理長からです」

 何だろうと思って開けてみると、数葉の紅葉が入っていました。

 言葉に表せないほど感動しました。

 

 しかし、料理長は私が添えられた紅葉の鮮やかさに惹かれているのを感じとり、帰り際にそっとプレゼントされたのでした。

(これがリッツカールトンのおもてなしか!)

 

 日本経済聞は毎年購読者の投票によって、日本のホテルランキングをしていますが、長年首位に選ばれていたホテル・オークラを抜いて、リッツカールトン大阪がトップに躍り出たのは周知の通りです。

 

 ホテルに帰ると、早速リッツカールトンの日本支社長をしていた高野登さんに電話しました。今はホスピタリティ研究所を主宰して、全国のホテルや企業の指導をされています。

「高野さん、今夜リッツカールトン大阪の『花筐』で接待をされたんですが、こんなことがあり、心を打たれました」

 

 そして料理長から紅葉をプレゼントされたことを話しました。高野さんは大変喜んで、

「そういう形で後輩たちががんばってくれていますか! さりげない心遣い……それが何よりも一番心に響きますよね。うれしい話を聞かせていただきました。早速大阪の支配人に今の話を伝えておきます」

 と、喜びを隠せないようでした。アメリカに長年住んでいたので、率直に感情の表現をされます。

 

リッツカールトン大阪が日本のホテルランキング1位に輝いたとき、シュルツ社長(当時)がアメリカから飛んでこられて、高野支社長(当時)に訊かれました。

「どうやってこれだけのレベルに持っていったんですか?」

「ええ、アメリカのリッツカールトンで学んだホスピタリティに、日本のおもてなしの精神を加えて、きめ細やかなホスピタリティをつくりあげたんです」

 それを聞いてシュルツ社長は全世界のリッツカールトンの支配人を大阪に集め、リッツカールトン大阪のきめ細かいサービスを味わってもらい、研修会を持ちました。

 

 そんな思い出話が弾んで、輪がどんどん広がっていったありがたい夜でした。

大自然を彩る秋

写真=大自然を彩る秋


わくわくまったりチャンネル

わくわくまったりチャンネル ZOOM 開催 のお知らせ

ZOOMによるオンライン対談が始まります。
ふるってご参加ください。

以下チラシより抜粋

2022 年 1 月より 12 月迄の毎月第一土曜日 20 時から 21 時 30 分迄
神渡良平先生によるスペシャル対談を開催致します。神渡先生ならで
はの幅広い人脈から実現となりましたオンライン対談(対談1時間&
質疑応答 30 分)。長年のご親交がある方々とならではの魂に繋がる深
いお話が伺えます。ご参加を心からお待ち申し上げております。

〈主 催〉 日光安らぎの家 光のしずく
〈受講料〉 3,000 円 (開催日翌日アーカイブ録画を配信致します。同料金にての録画視聴のみも可能。)
〈お申込み先〉nikkohikarinoshizuku.com (光のしずくホームページ)
〈お問合せ〉 上記ホームページ若しくは、電話 080-9343-1188 岡村まで
〈支払方法〉 参加お申込み後にお振込み(ゆうちょ銀行)のご案内をお送り致します。

わくわくまったりチャンネル

わくわくチャンネルのPDF


ママさんたちへのアドバイスがキラリと光る木村まさ子さん

沈黙の響き (その79)

「沈黙の響き(その79)」

「感謝して食物のいのちをいただきしょう」と語る木村まさ子さん

 

 

 121日夜、「光の雫」が主宰するZoomの「わくわくまったりチャンネル」で、映画俳優の木村拓哉さんを育てた木村まさ子さんと対談しました。ちょうど前日、木村拓哉さんが第46回報知映画賞で映画「マスカレード・ナイト」によって主演男優賞を受賞されたところだったので、そのお祝いを述べて対談が始まりました。

 

 木村さんとは渋沢栄一さんのお孫さんで今年100歳になった鮫島純子(すみこ)さんが主賓のお茶会などでご一緒することがあり、言葉を交わすたびに、「すてきな方だな。鮫島さんと同じようにやわらかいオーラに包まれていらっしゃる」と思っておりました。

 鮫島さんは良家の子女という以上に、天性の天真爛漫なものをお持ちの方で、ご一緒しているとこちらもいつの間にか裃を脱いで、自由闊達になってしまいます。

 

 木村まさ子さんもまた木村拓哉さんを育てた人という以上に、聴く人を元気にしてくださる講演家として知られています。

「お話をお聴きするうちにやさしいオーラに包まれ、すっかり元気をいただきました!」

 昨夜の対談のあと、涙を浮かべて感想を述べた方もありました。屈託のない人柄が愛されて、バブル以前は講演が月に15回は下らないぐらいあったそうです。私も対談しながら、すっかり心が満たされてしまいました。

 

≪子どものころ、狭いアパートに突然引っ越しせざるを得なくなった!≫

「まさ子さんのお人柄はどうやって形成されたんですか。よほど立派な家でお育ちになったのでしょうね」と問いかけると、やんわり否定されました。

「いえ、普通の勤め人の家庭です。でも小学生のとき、とても学ばされた出来事がありました。父が友人の保証人になったことから一夜にして家や財産を失ってしまい、狭いアパートに引っ越さざるを得なくなりました。子どもの私は突然襲った激変が理解できなくて、父に食ってかかりました。

 

『こんなに迷惑を受けたのに、お父さんはどうしてお友達を怒らないの?』

 すると父はお前たちに迷惑を掛けて申し訳ないと詫びながら、

『でも私は友人を恨まない。私はこの程度のことはまだ耐えられるから大丈夫だよ。それに窮地に陥っている友達の再起を手伝えるから、むしろいいことだと感謝している』

 と、あっけらかんとしているんです。父の口から恨み言は一切出てきませんでした。

子どもの私には理解できませんでしたが、とてつもなく懐が広い父だなと思いました。そんな父の生き方が陰に陽に私に影響を与えました」

 

 まさ子さんはそんな家庭で育ったので、私が話した大阪の辻光文(こうぶん)先生(故人)が気づかれたことに大きく共感されました。

 

≪生きているだけではいけませんか?≫

 大阪府は非行少年少女たちの更生教育として、しっかりした教師夫妻の家庭に子どもを預け、親子の絆を育てることから更生教育を実効あるものにしようして、高槻学園を始めました。辻光文先生はもともと臨済宗の僧侶ですが、葬式仏教になってしまっているお寺に嫌気がさして、自分をもっとも必要としている非行少年少女たちの教育に挺身しようと更生教育界に入った人です。

 辻先生は長年預かった子どもたちを立派に立ち直らせ、巣立ちさせました。ある年、1人の少女が入所してきました。B子さんは影響力がある子だったので、またたく間にボス的存在になり、せっかく落ち着いてきた子どもたちがその子に引きずられ、再び恐喝や万引きをするようになってしまいました。

「あぁあ、せっかく落ち着いてきたのに、これじゃあぶち壊しだ。あの子さえいなかったら、こんなことにはならなかったのに……」

 と、ついつい愚痴が出てしまいます。教師たるものがこんなことを思っちゃいけないと思いますが、どうしてもB子さんを排除する気持ちが出てしまのです。

 

≪ただただ助かってほしい……≫

そんなある日、B子さんが脳腫瘍と診断され、緊急手術しました。辻先生は手術室の前の廊下で、どうか助かってほしいと祈り続けました。手術が終わって手術室から出てきた医師はこわばった表情をして、あるいは助からないかもしれないと洩らしました。辻先生は毎日病室に通って看病を続けました。いい子にならなくてもいいから、ただただ助かってほしかったのです。

 

 辻先生の親身の看病を受け、B子さんはどんどん明るくなり、反抗的な態度が消えていきました。そこで辻先生はハッと気づきました。

(私はB子にあああってほしい、こうあってほしいと願望ばかり抱いてきたけど、本当には受け入れていなかったのではないか。私のそんな思いがB子を反抗的にしていたのではないか。……ああ、私は間違っていた。私は無条件であの子を受け入れ、むしろ生きているだけでありがたいと思うべきだったんだ)

 教育云々の前に、生徒たちの魂に手を合わせて拝むことが必要だったと気づきました。辻先生が大きく変わったので、学舎に笑い声が満ちあふれるようになりました。

 

 大阪府教育委員会は高槻学園が大きく変わったのを見て、矯正教育に携わっている教師たちの研修会は辻先生を招き、Bさんを通して目覚めたことを話ししてもらいました。

 辻先生は目から鱗が落ちた経験を、「生きているだけではいけませんか?」と題して語りかけました。

「親が社会的メンツに駆られて価値観を一方的に押し付けると、子どもは絞めつけられたように感じて不自由になってしまいます。すると反抗して教育どころではなくなってしまいます。その子に対して祈りや感謝に裏打ちされて向き合わないと、子どもの内的生命は阻害されてしまいます」

 辻先生方の話は他の先生方にしみ込み、大阪府の更生教育は一段と深くなりました。

 

≪感謝して食物の“いのち”をいただきましょう!≫

 まさ子さんはその話に共感を覚え、心身障害者の施設に呼ばれていったときのご自分の体験を話されました。収容されている子どもの中には、口に鉛筆をくわえて字を書き、足の指にボールペンを挟んで書くなどしなければならない重度の障害を持っている子もいます。まさ子さんが与えられたテーマは“いのち”が、その子たちが背負っている十字架と同じように、重たいテーマでした。

 

 まさ子さんは以前、東京都で13年ほどイタリアンレストランを経営していたことがあり、食についていろいろ気づかされることがありました。料理の味はもちろん大切ですが、みんなでおいしく食事ができる雰囲気もそれと同じように大切です。そこでその点にも心を配り、お客様に喜んでいただける評判のレストランとなりました。まさ子さんはそのときの経験を話そうと思いました。

 

「食べるということは野菜や魚やお肉の“いのち”を自分に移し替えることなんだよ。だから感謝していただこうね。ニンジンさんやキャベツさんの“いのち”を感謝していただくと、食べた物はみんなの“いのち”を内側からもっともっと燃やしてくれるの。ありがたいね」

 そんな話がみんなの心にしみ入ったようでした。

 

 すると数日してみんなから感想を書いたお礼の手紙が届きました、口に鉛筆をくわえ、足の指にボールペンを挟んで書いたので、わずか数行の手紙でも何時間もかかったに違いありません。ありがたい手紙だったので、まさ子さんはまた訪ねていきました。今度は保護者も一緒に聴いておられます。

 

「最近は子どもを抱いてあやしながら、スマホをやっているママもあると聞きました。でも“気”って伝わるんですよね。心がそこにないと形だけのことになってしまい、うつろな親子関係を作ってしまいます。気をつけたいですね」

 

 まさ子さんが語る話は極めて具体的なので、ママさんの中にはハッとする人もいました。

「一つひとつに思いを込めて、よりよい絆を作っていきましょうね」

 まさ子さんの活動はどんどん広がっていっているようです。

ママさんたちへのアドバイスがキラリと光る木村まさ子さん

写真=ママさんたちへのアドバイスがキラリと光る木村まさ子さん


みんなの希望であるかっこちゃん先生

沈黙の響き (その78)

「沈黙の響き(その78)」

障害を持っていることが嬉しいと語る障害児たち

 

 

 もう一つの事例を紹介しましょう。かっこちゃんの大切なお友達の一人に久美ちゃんという女の子がいます。久美ちゃんは生まれたときから目も見えず、耳も聞こえず、従って学校にも行っていませんでした。昼夜がわからず逆転しているので、育てるのが大変でした。それに自分の気持ちが通じないと暴れて、家具を倒したり、両親の髪を引っ張ったりして、抵抗しました。だからとても粗暴な子と思われていました。

 

久美ちゃんは食欲が旺盛なのでどんどん食べてしまい、150キログラムになってしまいました。あるとき暴れる久美ちゃんを押さえようとして、お父さんの肋骨が折れてしまい、入院しました。お母さん一人ではとても世話ができないので、中学校の隣の施設に入所しました。

 

 久美ちゃんは突然、両親がいなくて勝手がわからない施設に入れられたのでパニックになって暴れました。暴れると教職員がはがい絞めにして押さえ込みますが、それは久美ちゃんにとっては恐怖でしかありません。ますます暴れ、それを押さえようとしてある教職員は骨折し、ある教職員は髪を掴んで振り回されて、髪が抜け落ちてしまいました。

 

≪目も見えない、耳も聴こえない久美ちゃんに起きた奇蹟≫

中学2年生になった久美ちゃんは担任がかっこちゃん先生になりました。誰もが、かっこちゃんもすぐ骨折するよと同情しました。しかし久美ちゃんは、この人は危害を加えない先生だと感じたのか、ハグしてくれました。かっこちゃんはどうやって久美ちゃんとお話ししようかと考えました。

 

視覚も聴覚も駄目なら触覚がある――これを使って久美ちゃんの心に届く方法はないかと工夫して、手を胸に当てて指を使って、

「わたしは“かっこ”と言うの。あなたは“くみこ”ちゃんという名前があるの」

とくり返し教えました。周りの先生たちは絶対無理だと言いましたが、かっこちゃんは駄目でもいいと思って根気よく続けました。するとある日、久美ちゃんがかっこちゃんの手を懐に入れ、「かっこ」と綴ったのです! 

 

かっこちゃんは、え~! と驚き、毎日くり返したから覚えたのかなと思いました。次の日、久美ちゃんは自分のことを指して“くみこ”と言いました。こうして驚きと感動のごちゃまぜの中でコミュニケーションが始まりました。

 

≪かわいい! と言われることが大好き

久美ちゃんは「かわいい!」と言われることが大好きです。そこで久美ちゃんの手に、「一緒にお風呂に入ろう。そうするともっとかわいくなるよ」と書き込みました。久美ちゃんは喜んでお風呂に入りました。

 実は久美ちゃんはお風呂が大嫌いで、それまで10年間も入っていませんでした。(あか)は1センチくらい溜まっていて臭いがしており、髪も洗わないので、スズメの巣よりもひどい状態でした。

 

ところが石鹸をつけて体を洗い、たくさんの垢が取れると真っ白な肌が現れました。髪もきれいに切っておかっぱにしたので、日本人形のようにかわいくなりました。かっこちゃんは久美ちゃんを抱きしめてキスし、手のひらに指でメッセージを送りました。

「すごい、すご~い。久美ちゃん、最高にかわいいわよ!」

 

 服はそれまでおじさんが着るようなグレーのジャージーを着ていたので、女の子らしいかわいい服を着せたいと思いました。でも150キロもある巨漢の服なんてどこにも売っていません。そこでかっこちゃんは自分でミシンを踏み、ワンピースを縫って着せました。久美ちゃんは、「わー、最高にすてき!」と称えられて、とってもうれしてはしゃぎました。久美ちゃんは女の子なので、おしゃれしたかったし、かわいいよと頭を撫でられたかったのです。

 

 4月、桜が満開に咲く季節、面会の日がやってきました。久美ちゃんは髪に桜を飾って大好きなお母さんを迎えました。お母さんは久美ちゃんが大好きなお餅や食べ物を持ってやってきました。かっこちゃん先生をすぐ見つけて挨拶されましたが、隣にいる女の子が誰なのか気づきませんでした。でも、ひょっとしたら久美子かもしれないと思い直した瞬間、久美ちゃんだと気がついてあっけに取られ、荷物をポトンと落としてしまいました。

 

「そうですよ。久美ちゃんです!」

「えっ、信じられない! 一体全体、何が起きたんですか?」

 そこでかっこちゃん先生は一部始終を話しました。

「久美ちゃんは頭がいいんです。こんなふうに全部わかるんですよ」

「そのやり方を全部教えてください」

 

 お母さんはすぐにやり方を覚えて、お母さんと久美ちゃんのコミュニケーションが始まり、生まれて初めての母子の会話がなされました。お母さんは「久美子~」と言って泣き、久美ちゃんはそのお母さんを抱きしめ、涙を拭き、頭を撫でました。こうして一週間後、久美ちゃんはお母さんに連れられて家に帰っていきました。

 このように少女のように純粋無垢なかっこちゃん先生に担当されると、障害児たちに奇蹟が起きたように開放されていくのです。それはフランチェスコの周りを飛び交った小鳥たちと同じでした。

 

≪ドキュメンタリー映画『1/4の奇跡――本当のことだから』≫

平成11年(1999)、山元先生はたまたま、NHKスペシャルで「驚異の小宇宙 人体Ⅲ――遺伝子」が放映されたのを観ました。障害を抱えた子どもたちを長年世話してきたので、この子どもたちはなぜこんな十字架を背負っているのだろうと、ずっと問題意識がありました。テレビ番組はその問題意識に科学的に答えてくれたのです。

 

アフリカのとある村でマラリアが大発生し、絶滅しそうになりました。幸いにして踏みとどまり、絶滅は免れました。そこで医師や科学者たちが詳細に原因を調べた結果、不思議なことが判明しました。その村にはマラリアにかかりにくい

人がいるというのです。

通常、私たちの赤血球はハンバーグをつぶしたような形をしています。ところがマラリアにかかりにくい人は草を刈る(かま)のような形をした「鎌状赤血球」を持っていました。この遺伝子を持っている人たちの家族や親戚を調べると3つのグループに分けることができました。

 

Aグループ:鎌状赤血球を持っておらず、障害も持っていない人たち。全体の1/4。

Bグループ:鎌状赤血球を持っていて、障害もない人たち。全体の2/4。

Cグループ:鎌状赤血球を持っていて、その遺伝子が原因で障害を持っている人たち。全体の1/4。

マラリアが大発生したとき、Aグループは全員死亡し、生き残ったのは鎌状赤血球を持っているBとCのグループでした。テレビ番組では、マラリアに強くて障害がないBグループが存在すると、必ずある一定の割合で障害を持ったCグループも存在するという事実を突き止めました。つまり、障害を引き受けた1/4のCグループがなければ、健常なBグループは存在せず、その村は絶滅したに違いないというのです。

 

山元先生は感銘深く番組を観終わって、深く納得するものがありました。

「もし、障害者はいらないと排除してしまったら、マラリアに強くて障害も持っていない人は決して生まれてこないといえる。今こうして私たちが元気でいられるのは、障害を持ち、苦しんで生きている人たちのお陰で、障害者は私たちにとってかけがえのない存在なのだ」

 

≪必要でない人は一人もいない!≫

山元先生は常々障害児たちが素晴らしい力を秘めていると感じていたので、その気づきを話すと、みんなが共鳴してくれました。ある日、重度の障害を持っている雪絵さんがかっこちゃん先生にお願いしました。

「私の障害と病気には大切な意味があるのね。病気や障害も大切。そして一人ひとり違うことも大切。誰もが大切なんだということを、世界中の人が当たり前に知っている世の中に、かっこちゃんがして!」

 

約束したいのは山々ですが、一介の介護学校の教師でしかない自分に一体何ができるのでしょう――山元先生は考え込んでしまいました。ところがかっこちゃんのメッセージに共感した主婦の入江富美子さんが家庭用のハンディ・カムで記録を撮り始めました。考古学者からインカ文明の話を聞くと、障害児たちと共通するものがありました。そこでインカ帝国や宇宙の神秘とのつながりも紹介し、一人ひとりの存在理由をスピリチュアルな視点からも探っていきました。

 

かねてからかっこちゃんの大ファンである脳科学者の村上和雄筑波大学名誉教授(故人)も「大自然が作った最高傑作が人間です」と述べ、かっこちゃんの直感を裏付けてくれました。こうして命の尊さを異次元の世界から説く心温まるドキュメンタリーが完成しました。

 

それがドキュメンタリー映画『1/4の奇跡――本当のことだから』です。この映画は上映と同時に評判を呼び、英語版ができ、フランス語版ができるなどして、海外でも上映されています。ハーバード大学でも上映され、予期しないことに、スタンディング・オベーションまで受けました。

 

映画を観たある観客はこんな感想を述べました。

「こんな映画もあるんだと素直に泣け、心が洗われました。こんなにも優しく温かいメッセージを与えてくれるとは。心の目を凝らし、心の耳を澄まして観てください」

映画はすでに9か国語に訳されて19か国で上映され、これまで30万人余りが観るほどのヒットとなりました。あれよあれよという間に、雪絵さんとの約束が果たされました。

 

現在、障害児たちとの交流を描いたかっこちゃんの著書は、『きいちゃん』(アリス館)をはじめ、38冊に及んでいます。講演は毎週どこかの市町村で行われており、年に約50回は下らず、子育て最中のご婦人たちに多大なヒントを与えています。神さまは見事にかっこちゃんを用いて、人類の新しい未来を切り開いておられるようです。

みんなの希望であるかっこちゃん先生

写真=みんなの希望であるかっこちゃん先生