「沈黙の響き(その82)」
「待つのは慣れっこです!」
あっけらかんと語った田島隆宏さん
≪全身麻痺した車イスのカメラマン≫
私と「車イスのカメラマン」田島隆宏さんとの交わりは今から約30年前、平成30年(1991)、彼が36歳の春に始まりました。繋いでくれたのは、東京・有楽町の電気ビルで催された田島さんの写真展でした。そこにネコジャラシの向こうで輝いている夕日の写真が出品されていました。
首から下は全然動かず、動くのは頭だけという田島さんが、ストレッチャーのような車イス「バッファロー号」に腹ばいになったまま、目尻にしわを寄せてこぼれるような笑みを浮かべて、夕日の写真を説明してくれました。
≪夕日を捉えた一枚にかけた思い≫
「野原の向こうに、真っ赤な夕日が落ちる瞬間を捉えようとして、随分待ったんですよ」
私はへぇと思い、問い返しました。
「どのくらい待ったの?」
田島さんはバッファロー号の前部にカメラが据え付け、シャッターからレリースを引き、それを口にくわえてシャッターを押して写真を撮っています。
「夕日の前景に何がいいかと探し回り、ようやく数本のネコジャラシの穂が風に揺れているのを見つけたとき、これだ! と思いました。その穂先をシルエットにして、熟し柿のような色をして沈んでゆく夕日を捉えようと思ったんです。
これだったら1日の終わりだけではなく、大自然の春夏秋冬というサイクルも、1年の終わりを迎えて収穫の秋に入ったタイムスパンも共に写し込めると思いました」
夕日の写真はただ単にシャッターを押しただけという単純なものではなく、芸術家の練りに練った模索があったのです。
「待つのは慣れっこです。こういう不自由な体ですから……」
私はあっけらかんとした田島さんの言葉に衝撃を受けました。
≪背負わされた十字架の重みに泣いた日々≫
田島さんは不自由な体に生まれたことを嘆いた時期があったに違いありません。ついていない人生だとふて腐れたこともあったでしょう。男だから恋心を抱くこともあったでしょうし、あなたと結婚したいとプロポーズしたこともあったはずです。
しかしどれもこれも叶わず、人知れず涙に暮れ、悲しい人生を歩いてきたに違いありません。だから、待つのは慣れっこなんですという田島さんのつぶやきは、彼が背負った十字架の重みを感じさせました。
≪ハンディを逆用して持ち味に≫
バッファロー号は50センチの高さしかありません。ということは田島さんが構えるカメラの視点は地上50センチに固定されているのです。その制約はどうみても“足かせ”でしかありません。
ところが田島さんはそのハンディを逆手にとって工夫し、自分にしかできない表現を産み出しました。ハンディを乗り越える過程で、宇宙の大法に従って生きることをつかみ、すべておまかせしてくよくよしない生き方を身につけたのです。
田島さんは4冊写真集を出していますが、『うたがきこえる』(「実業之日本社」)の表紙を飾った写真はガーベラの花のアップ写真です。ごく普通のガーベラのアップ写真かと思いきや、その花の裏に何とカマキリの赤ちゃんが張り付いています。どんな写真家も見落としてしまいますが、地上50センチしかない田島さんのアングルはそれを目ざとく見つけ、写真に収めました。田島さんはハンディを嘆くのではなく、それを積極的に活かして見事な“田島ワールド”を作りだしました。
学研プラスから出版された写真集『ぼくはここにいるよ』は、田島さんが口にくわえたフェルトペンで書いた金釘文字の書名がそのまま活用されています。『ぼくはここにいるよ』という謙虚な書名も人々の心に訴えるものがあり、ますます評判になりました。だから田島さんの写真は次第に評価されるようになり、あちこちで写真展が開かれるようになっていきました。
≪武蔵嵐山志帥塾の第1回目の講師に招聘≫
折しも私は私の考え方に共鳴してくださる方々とともに、武蔵嵐山志帥塾(むさしらんざんしすいじゅく)という勉強会を立ち上げようとしていました。全国各地で行っている勉強会の総結集としての全国大会です。そこに田島さんを講師として呼ぶことにしました。
聴衆は田島さんの作品を鑑賞し、かつ、
「ハンディを逆手にとって工夫し、自分にしかできない表現方法を産み出しました」
という田島さんの説明に大変感動しました。だから交流会で田島さんはみんなに囲まれ、引っ張りだこになりました。
それ以来、私は田島さんと交流し、埼玉県熊谷市にある武州養蜂園の広報誌のカメラマンとして就職するお世話もさせていただきました。田島さんが撮る素敵な写真が広報誌を飾り、販促の一助となりました。
こうして田島さんは66歳まで生きながらえ、永遠に旅立っていかれました。私は今生でご縁をいただいたことを本当に感謝しています。
≪脳性麻痺の詩人水野源三さんが残した感謝≫
それにしても障害を克服して何かをなし遂げた人は私たちに多くのことを語っています。
田島さんと同じように大変なハンディを背負っていた人に詩人の水野源三さんがいます。
水野さんは九歳のとき赤痢にかかって脳性小児麻痺になり、目と耳以外、すべての機能を失ってしまいました。母親は幼い源三さんと何とかコミュニケーションを取ろうと模索し、五十音表を指さしたところ、源三さんが目で合図を送ってきました。こうして一字一字確認して、会話ができるようになりました。
寝たきりで、しゃべることも動くこともできない源三さんでしたが、日常生活をとらえたみずみずしい感性を詩で表現するようになりました。人々は彼の師に心を揺さぶられ、源三さんをいつしか「瞬(つぶや)きの詩人」と呼ぶようになりました。
洗礼を受けてクリスチャンとなった源三さんは、美しい自然を描いて神への感謝を表しました。奥深い信仰が日常生活に反映されて、柔らかな光をまといました。
新聞のにおいに
朝を感じ
冷たい水のうまさに
夏を感じ
風鈴の音の涼しさに
夕暮れを感じ
かえるの声
はっきりして
夜を感じ
今日一日を終わりぬ
一つの事一つの事に
神さまの恵みと
愛を感じて
こうして第1詩集『わが恵汝に足れり』(アシュラム・センター)、第2詩集『主にまかせよわが身を』(同)、第3詩集『今あるは神の恵み』(同)、第4詩集『み国めざして』(同)を出版しました。源三さんは、信仰を持つことは何か特別なことではなく、生きとし生けるものすべてへの感謝であると伝えました。源三さんの詩は20ほどは讃美歌となり、日々歌われています。
源三さんは昭和59年(1984)、この世の務めを終え、「感謝以外のなにものもありません」と言い残して、47歳で天に召されていきました。素晴らしい生き方でした。
写真=撮影に余念がない車イスのカメラマン・田島隆宏さん