日別アーカイブ: 2022年1月8日

東井義雄

沈黙の響き (その83)

「沈黙の響き(その83)」

一人ひとりのいのちを育んだ東井義雄先生

 

 

 

アッシジのフランチェスコと同じ波動を感じさせる教育者、山元加津子先生のことを書きましたが、フランチェスコと同じように、下へ下へとおりていき、ついに手応えのある教育をするようになり、全国から教育関係者が学校を視察に来るようになった東井義雄(とうい・よしお)という教育者がいました。

 

拝まない者も

おがまれている

拝まないときも

おがまれている

 

の詩を書いたことで知られている東井義雄先生は、兵庫県の日本海側、但馬地方の田舎の小学校の教師で、子どもたち一人ひとりのいのちを養うことに全精力を傾けた人でした。痩せて小柄で繊細で、顎も細く、正直が衣を着て歩いているような人で、お世辞にも恰幅があり、堂々とした体格の人ではありませんでした。

 

東井先生が八鹿(ようか)小学校の校長になって数年を経てから、卒業式には卒業証書とともに校長先生直筆の色紙が贈られました。昭和47年(1972)3月に卒業した井上昌子(まさこ)さんが校舎の横の溝に溜まったゴミを取ろうかどうしようかと一瞬迷ったとき、校長先生がそのゴミを素手でさっと拾われました。率先してゴミ拾いをされる校長先生だとは知っていましたが、そのときも先を超されてしまいました。

 

「あっ、やられた!」

と思い、井上さんも校長先生にならって、素手でゴミを取り続け、溝がすっかりきれいになったとき、とてもすがすがしい気持ちになりました。

「(詩人の)坂村真民(しんみん)先生が足の裏から光が出るような人になろうと説いておられるそうだけど、足の裏が光る人ってこんな気持ちを味わっているんだわ」

と思って嬉しくなりました。

東井先生は毎朝、授業が始まる前に各教室を回りました。そして集まってくる子どもたちの頭を撫で、

「おお、谷君。田植えが終わって一段落だね。お父さんやお母さんの肩をもんであげたかい?」

とか、

「米田さん、君のお母さんのお店にはもう真っ赤なリンゴが並んでいるのだろうね」

などと話しかけます。子どもたちは校長先生と握手をするのが楽しみで、家で石鹸をつけてゴシゴシ洗って、喜んで登校します。そんな息子や娘を見ながら、親御さんたちは、

「おかげさんで子どもが張り切っていて、わたしも働きがいがあります」

と相好を崩しました。

 

≪一人ひとりの児童に投げかけられた眼差し

上山里美さんがいただいた色紙にはこう書いてありました。

「心をこめた仕事は生きている。

床にこぼれたバケツの水のとびしずくを、

あなたがていねいにふいてくれたことだって、

ちゃんとわたしの心の中に生きている。

 生きた仕事をのこして行こう。

それはかならず池の波紋のようにひろがって、

人々の心をきれいにしていくだろう」

 

東井校長は上山さんがバケツの飛びしずくを丁寧に拭いたことを覚えておられ、そのことを卒業式の色紙に書かれたのでした。「しっかり見守られている」「覚えていただいている」という思いほど、人を奮起させるものはありません。上山さんの中に、「丁寧な仕事をしよう」という気持ちが残りました。

 

同じ年の卒業生の嘉住睦子(かすみ・むつこ)さんはこんな色紙をいただきました。

「〝だって、わたしの家だもん〟

〝だって、わたしの学校だもん〟

〝だって、わたしの町だもん〟

 そんなふうにつぶやきながら、

家では家を、学校では学校を、道を歩けば道を、

汽車に乗れば汽車の中をきれいにし、愛していける人」

嘉住さんが汽車の中でゴミ拾いをしていることを東井校長先生はご存知だったのです。

卒業生は3クラス約100人です。この一人ひとりに違った言葉が書かれ、励ましの言葉が贈られているというのは驚異的です。でもこれが東井先生の教育でした。

 

東井先生が世に知られるようになったのは、昭和32年(1957)に出版された『村を育てる学力』(明治図書出版)でした。但馬地方の小学校で主体性を育てる教育実践が評判になったのです。嘉住さんの「だって、わたしの家だもん/だって、わたしの学校だもん/だって、わたしの町だもん」という信条の中に、東井先生の「主体性を育てる教育」の片鱗が垣間見えます。

 

≪神さまからの贈り物と大切にされた卒業式の色紙≫

東井先生の教育は掃除や細かいところに気を配るというだけのものではありません。例えば、足立昌文君(まさふみ)に贈られた色紙は向上心に富む少年への応援歌でした。

「『われに七難八苦を与えたまえ』と、

三日月に祈ったという武士のように、

問題を見つけては真っ正面からそれにぶつかっていき、

自分を試し、鍛えてきた君。

こういう人には災難の方がよけて通っていくそうだ」

残念ながら足立君は成人式を迎える前に交通事故で亡くなってしまいました。栄えある成人式は親友が彼の遺影を抱いて出席したそうです。

 

この色紙が物語るように、東井先生は各人の資質を見て、「志を育てる」ことに余念がありませんでした。こんな具合だったから、八鹿小学校はどんどん変わって行き、児童一人ひとりが自信に満ちあふれるようになりました。

 

木村克也(かつや)君がもらった色紙にはこう書かれていました。わずか12歳の卒業生に贈られた色紙とは思えないことが書かれているので取り上げました。

「亀は兎にはなれない。

 しかし、そのつもりになって努力すれば、

日本一の亀にはなれる。

わたしもわたし以外の誰にもなることはできない。

日本でただ一人のわたしをつくる以外にないと願いながら、

ここまできた。

 君は君をりっぱにする世界でただ一人の責任者だ。

その責任を忘れるな」

 

 普通だったら、「たかが小学生、まだ12歳の子どもでしかない。大の大人が全力投球するまでもない」と考えて、手抜きをしてしまいます。

でも東井校長は違いました。一人ひとりに全力投球しました。だから子どもたちは全身で答えました。いのちといのちのキャッチボールでした。「下に下りていく教育」を心がけ、児童一人ひとりの魂の成長に心を砕かれる東井先生が紡ぎ出された成果は他の誰に比べても遜色のないものでした。木村君に贈った色紙に書かれた信条はご自分の人生に立ち向かう決意表明のようなものでした。その一念を貫かれたからこそ、結果を出されたのです。

東井義雄

東井義雄先生 

東井先生の色紙 

東井先生の色紙2 

写真=若き日の東井義雄先生