日別アーカイブ: 2022年4月1日

いのちをありがとう

沈黙の響き (その95)

「沈黙の響き」(その95

 〝いのちの讃歌〟を歌おう!

 

 

“いのち”はどこから来るのでしょうか?

“いのち”は宇宙からやってきます。別な言い方をすると、人智を超えたところからやってきます。その“いのち”は心地よいと活性化し、輝きだします。

 

人は、人から愛され守られているという実感があると、心が安らかになるものです。もしそこに暗い表情の人があったとしても、寄り添ってお世話したら、その人はいつしか生き生きとなり、その人の個性が花開いていきます。草花が陽の光を浴びると輝きだすのと同じです。

 

私はしばしば「宗教的な心」に言及しています。前回まで2回にわたって紹介した瞬(まばた)きの詩人水野源三さんはキリスト教徒なので、信仰上のことも取り上げました。しかし、それはキリスト教が仏教その他に比べて一等優れているという意味ではなく、神秘的なものに向かい合ったとき、自ずから湧き上がってくる“畏敬”の念を大切にするという意味で採り上げました。

 

畏敬の念を持つと、人智を超えたものに“ゆだねる”という心境になります。するといま取り組んでいるものも「天と自分との共同作業」で成就されるという強い信念が生まれます。この宗教的な心があらゆることの遂行に必要だと思うのです。古来からしばしば、

 

人事を尽くして天命を俟(ま)つ

 

という心境が取りざたされてきました。人間の側のことは死力を尽くし、やるだけのことをやり終えると、あとはさばさばし、人智も自然をも超えた何か神秘的な力により頼む――他力にゆだねるという心境が訪れると言います。私はこの心境をさして、「宗教的な心」と言っています。

 

私はこの半年間、新潟県十日町市でNPO法人支援センターあんしんを運営しておられる樋口功会長とそのご家族のことを書いてきましたが、それをPHP研究所が『いのちを拝む――雪国で障がい者支援の花が咲いた』として出版してくださることになりました。

 

「あんしん」の機関車として20年間がんばってこられた樋口さんのご家族のことを執筆していてつくづく感じたのが、人智を超えた不思議なものに対する畏敬の念を抱いておられることでした。障がい者たちの“いのち”に畏敬の念を持っておられるから、そこから“いのちの讃歌”が湧き上がってくるのです。「あんしん」に流れている絶対的に肯定的な雰囲気はそこに依拠しています。

 

障がいを持った人が表情を失い、暗い陰が射しておられるとすると、こんな申し訳ないことはありません。障がい者たちにご自分の“いのち”を発露させ、輝いてくださるために、何かのお役に立ちたい――障がい者を支える「あんしん」の職員の間にあるのはそんな気持ちです。

 

私は樋口さんたちがたどってこられた道を取材しながら、障がい者のケアの問題は、実は私たちの人間観と密接に関わっていると思いました。障がい者のケアの問題は“いのちを拝む”以外の何物でもありません。いや人間のいのちだけではなく、生きとし生けるものすべてのいのちを拝むことにほかなりません。

 

それに先鞭をつけ、血が出るような努力をして道を開いてこられた樋口さんたちに心から敬意を表します。そして誰一人として見捨てられることがない持続可能な社会づくりに、私も参加できることを心から感謝します。

いのちをありがとう

写真=みずみずしい“いのち”があふれている草花