日別アーカイブ: 2022年4月29日

若葉

沈黙の響き (その99)

「沈黙の響き(その99)」

障がい児を授かったお母さんからのメール

神渡良平

 

 

 いろいろな方々とやり取りしたメールを整理していたら、『苦しみとの向き合い方』(PHP研究所)を出版した平成27年(2015)の秋、ある読者とやり取りしたメールが出てきました。障がいを持って生まれた赤ちゃんを抱え、苦闘されていたご婦人です。当時を思い出して、思わず目がウルウルしました。そのメールを紹介させていただきます。

 

「私のことを覚えてくださっていて、本当に感謝します。障がいを持って生まれた下の子は、もう1歳9か月になりました。障害がわかってから、1年と半年が過ぎたことになります。この1年半はつらくて苦しいものでした。

 

申し訳ないことながら、当時はわが子をかわいいと思えず、そんな自分を責め、周りの同じくらいの子どもを見ると、うらやましくて胸が張り裂けそうでした。毎日毎日泣き、泣かない日はいつになったら来るのだろうと、真っ暗なトンネルの中にいるようでした。こんなに涙を流し、自分と向き合ったことはありませんでした。だんだん卑屈になっていき、自分を責めている自分にはっと気づき、そんな自分がまた嫌になるという悪循環をくり返していました。

 

そんな頃、考えあぐねた末に、神渡先生にメールしました。思いもよらず、親切に応対していただき、やり取りするようになりました。そしてだんだん思い直すようになりました。ひょっとすると、世の中は障がいを持つ子を差別する人ばかりではないかもしれない、と。一番苦しかったときを本当に支えていただいて、ありがとうございました。

 

あれからいろいろな方々との出会いがありました。同じ障害を持つ子どもの母親たちです。障がいを抱えた子どもを産まなければ出会わない方々でした。私も同じ思いをしましたと親身に話を聞いてくださったり、今の辛さを笑いに変えられる日がきっと来ますと励ましてくださったり……。同じ苦しみを経験されている方々でしたから、そんな方々が乗り越えた末に語って下さる話は、涙なしには聞けませんでした。いろいろな方々に支えられて今の自分があると実感します。ようやくあの頃をおだやかな気持ちでふり返ることができるようになりました。

 

まだまだ、下の子を育てることにへこたれそうになる日もありますが、人と人がつながることのすばらしさを以前より感じられるようになりました。先生がおっしゃっていたように、人間はそんなに弱くないのかもしれないですね。最近その言葉が私を奮い立たせてくれています。

今も気にかけてくださってメールをくださり、何とお礼をいっていいかわかりません。勝手ながら、また挫けそうなときは連絡させてください」

 

そんなメールに私はこう返事しました。

「『苦しみとの向き合い方』は苦しみの克服の仕方でもなく、幸せの呼び込み方でもなく、苦しみとの向き合い方について書きました。私自身のつらい人生経験からすると、苦しみから逃げないで、正面から向き合ったとき、それが私たちを次の次元へと導いてくれるもののようです。状況は以前とまったく変わっていないのに、喜々として取り組めるようになっているから不思議です。

 

この本に、罪を犯した子どもたちの更生に尽力されていた辻光文(こうぶん)さんのことを書きました。辻さんはあるとき、子どもたちのいのちを拝むことの大切さに気づき、人知れず合掌されるようになりました。すると荒れていた子どもたちが落ち着きを取り戻し、素直になっていきました。光文さんはそんな姿勢を詩『生きているだけではいけませんか』に表現されました。

 

そして誰言うともなく、難しい子どもは光文さんに預けたらいいと言われるようになりました。辻先生の目覚めはあなたへの応援歌かもしれませんね。きっと励まされますよ」

 

それからしばらくして、そのご婦人からメールが届きました。

「辻光文先生についての文章を読ませて頂きました。ただただ、涙が流れました……。人のためにここまでできる方がいらっしゃるということに驚き、感謝の気持ちでいっぱいになりました。光文先生の詩に重度の障がいを持つ私の次女を重ね合わせて読み、涙が止まりませんでした。

 

健常な長女を育てていたときは、少しでも人の役に立つ子になって欲しいと願い、親となった自分のさらなる成長を願って、精一杯頑張っていました。でも、次女の障害がわかると、少しでも人のお役に立ちたいという私の価値観も揺らぎ始め、申し訳ないことに次女の存在を否定しました。この子は生きていて何の価値があるのだろうか?……と、思い悩みました。

 

人の役に立つどころか、一生人のお世話になって生きて行かなければいけない子……。

そんな子を育てることに価値があるのだろうか?

産まなきゃよかった……。

この子さえいなければ……私は幸せだった……

などと、思い悩みました。以前頑張っていた分だけ、次女を否定してしまったのです。次女を育てることについて、価値が全く見いだせませんでした。以前の私は幸せの日々の中での、しょせんきれいごとにしか過ぎなかったのだと滑稽にすら思えました。

 

私は光文先生の『生きているだけではいけませんか』の詩に合いたかったのだと思いました。詩の中で光文先生が問いかけておられたように、私は人の役に立っているという思いの中に、いつしか傲慢な思いがひそんでいたのです。生きていて人に迷惑をかけない人っていやしないのに、そのことを忘れていました。

 

でも光文先生に「生きていて、人に迷惑をかけない人ってありますか?」と問われてハッとしました。そのことに気づかせていただいて、感謝の気持ちでいっぱいです。これからは、もっともっと次女のいのちの輝きを見ていきます。

 

生きていることは素敵なことなのですね。それだけでいいのですね。今は眠っている二人の娘にたくさん感謝したいと思います。先生、ありがとうございました。明日もニコニコ笑顔で過ごして行きたいと思います」

 

障がいを持ったお嬢さんがお母さんの心の目を開いてくれたようです。私はますます、この世で起きる出来事は意味がないものはなく、ただただ感謝して受けるだけだと思わされた次第でした。

若葉

 写真=草花を育てる小人の妖精たち