月別アーカイブ: 2022年6月

森の中のバナードス・ホーム

沈黙の響き (その107)

「沈黙の響き(その107)」

イギリスのバナードス・ホームに孤児院のモデルを見た

神渡良平

 

◇失意の外交官夫人

大正11年(1922)7月、三菱財閥の二代目の総帥岩崎久彌(ひさや)の長女岩崎美喜さんは外務省に勤めている外交官澤田廉三(れんぞう)さんと結婚しました。そのため姓は澤田と変わって、夫のアルゼンチン赴任に随伴し、さらに中国勤務を経て、昭和6年(1931)9月、イギリス勤務となりました。

 

外交官夫人はお茶に、カクテルに、午餐に、夜会にと、華やかな社交界の絶え間ない催し物に出なければなりません。しかし澤田さんは夜に日を継ぐ華やかな社交生活を送っているうちに、こんな生活で一体何が残るのだろうと思い悩むようになりました。

 

それに大使館の中では、日本人同士のつまらない争いやみにくい嫉妬がつきまとい、陰湿な憎しみ合いや陥(おとしい)れすらあります。表面に出てくるつかみ合いの争いにはならないとしても、心と心が闘うのを見るのはつらいものです。

故国を遠く離れて海外まで来て国務にいそしんでいるというのに、低い次元の角逐がありました。

 

 それだけに日曜日ごとに通っているメソジスト教会の清廉な交わりは、澤田さんの心を慰めてくれました。それに親しかった英国教会のセルウィン司祭は、開きかけていた澤田さんの心の眼を大きく開いてくれました。

 

◇孤児院のイメージを一新させたイギリスの孤児院

ある日、セルウィン司祭が紹介してくれた老婦人がユーモアたっぷりに「もし、今日あなたがゴルフ・ウイドウだったら、いっしょにドライブに出かけませんか? イギリスの美しい秋の色を案内してさしあげましょう」と誘ってくれました。

 

 クルマは黒塗りの大きなダイムラー・ベンツで、運転手と助手は揃いの制服を着ていました。格式のある家庭婦人のようです。招待に応じた澤田さんは老婦人と一緒に、美しい紅葉に彩られ、緩い起伏のあるロンドン郊外の道をドライブしました。

 

 ロンドンの田園地帯は絵葉書に描いたような景色が続きます。木の葉隠れに中世の古城が見え、湖には白鳥が浮んでいました。やがて自家用車は濃い緑の森の中の大きな石の門に入りました。第1の第2の2つの門を抜けると、大きな石造りの館がありました。森の中には他にも小さな家が点在しています。運転手は、「ここが医師のバナードス先生が運営されている孤児院です」と教えてくれました。

 

「ええッ? ここがほんとに孤児院なの? とても信じられない」

 澤田さんは不思議そうにあたりを見回しました。そこは鬱蒼としたと森の中にあり、裕福な別荘としか見えません。どうして孤児院と思えましょうか。日本の孤児院は暗くてみすぼらしく、孤児院と聞くだけで惨めになります。

 

 澤田さんを温かく迎えてくださったバナードス先生は、ホームの隅から隅まで案内してくれました。ホームはとても明るい所で、希望の家であり、喜びの園でした。暗い表情をしている子どもは一人もいません。着ているものは小ざっぱりして清潔だし、中央にある礼拝堂からは美しい讃美歌が聞こえてきます。その声の清らかなこと! 孤児院にありがちなうら悲しいものが一つも感じられません。

 

バナードス先生は屈託なく、そこを“ホーム”と呼んでいる理由を話しました。

「子どもたちにとってここは何よりも“家庭”だから、孤児院とは呼ばずにホームと呼んでいます。みんなにそういう家庭を提供したいんです」

 ホームの中には、小、中、高の学校も設けられており、さらに職業訓練の教室や実習の工場も備わっていて、子どもたちが18歳で社会に出るとき、その翌日から働けるよう、しっかり技能を身に着けられるよう配慮されていました。

 

◇ホームで奉仕した日々

澤田さんはその日からホームで奉仕し、その後も毎週1回通って手伝いました。外交官夫人が孤児院で奉仕をするなどとは前代未聞ですが、優雅なサロンで無意味なおしゃべりに明け暮れるよりも、子どもたちの世話をすることで、はるかに手応えのあるものが返ってきます。こうして澤田さんは奉仕活動にのめり込んでいきました。

 

熱心に奉仕する澤田さんにバナードス先生は自分の目標を話しました。

「要らないとそっぽを向かれる孤児たちを、みんなが引っ張りだこにするような有用な人材に育て上げるのがこのホームの役割です。私はこれに余生を懸けています」

 澤田さんはイギリスに滞在している間じゅう、バナードス先生のお手伝いをしました。

 

ある日澤田さんはホームを運営するコツは何ですかと尋ねました。バナードス先生は心掛けているポイントを話しました。

「哀れな孤児たちをかわいそうだと同情し、ただ頭を撫でるだけでは運営はうまくいきません。それよりも運営しているあなたが大変でしょうとみんなから同情され、自分もあなたを助けようと思ってひと肌脱いでいただけるようでなければ、この仕事は成功しません。片手間の仕事では絶対に運営できません」

 先生は孤児院を単なる慈善事業として運営していけないし、安易な気持ちで始めたらきっと失敗すると諫めました。

 

バナードス・ホームが大磯の岩崎別邸と重なりました。

「大磯の別邸でこんな明るいホームをやれたらすてきだな」

 それがのちのち形になっていくのですから、人生は不思議です。

森の中のバナードス・ホーム

 写真=森の中のバナードス・ホーム


2022年7月の予定

日時 演題 会場 主催団体 連絡先担当者

7/3(日)
14:30~16:30

 

人間は宇宙の神秘の扉を開く鍵である

姫路キャスパホール
兵庫県姫路市西駅前町88キャスパ7階
(山陽百貨店・西館7階)

一般社団法人
令和人間塾・
人間学lab. 

竹中栄二
MAIL info@ningengakulab
.com
TEL 079-223-0181
FAX 079-223-0182

7/19(火)
18:30~19:45

 

安岡正篤先生にみる『宇宙と人生』

安岡教学研究会

横浜市立技能文化会館8F 801号室
JR関内南口から5分
TEL 045-681-6551
FAX:045-835-2221

松田康司 MAIL yasuoka.kk@j-nssk.jp


書影『いのちを拝む』

沈黙の響き (その106)

「沈黙の響き(その106)」

新刊『いのちを拝む』が620日に発売されます!

神渡良平

 

 待ちに待った拙著『いのちを拝む――雪国に障がい者支援の花が咲いた!』が発売されます。「待ちに待った!」というのは、障がい者とその保護者たちが待ちに待った本です。

というのは、障がい者の保護者たちは介護の支援なしに生活するのはとても大変なことです。20年前、新潟県十日町市で、障がい児を抱えて四苦八苦していた樋口功さん、春代さんとご家族の努力によって、支援センターあんしんがスタートしました。

 

その後、支援センターあんしんは紆余曲折を経ながら次第に成長し、かゆいところに手が届くようなサービスを提供できるようになりました。日中はワークセンターやきぼうワークスで働き、夜はグループホームに帰って、地域生活をエンジョイしている障がい者が、今では総勢160名になりました。

 

障がい者にとって、普通の人と同じように、町なかで仕事をし、生活するというノーマライゼーションや、障がい者を特別扱いするのではなく、障がいも特徴の1つに過ぎないというインクルーシブ(包括的)なとらえ方は画期的です。支援センターあんしんはそれを実現しているのです。全国に数多くある障がい者支援をしている団体のうちで、そのトップ3に入るグループだといえます。

 

その成長の記録が本書『いのちを拝む』で、支援センターあんしんを貫いている理念、

「障がい者は実は私の“福の神”だった!」

 を活写しました。障がい者が厄介者扱いされるどころか、“福の神”として大切にされているのです。

 

それを見事に表したのが、機関車役の一人、久保田学事務局長と、創設者樋口功会長の長女果奈(かなこ)子さんの結婚式でした。2人は記念すべき結婚式をホテルの大ホールで祝うのではなく、普段はそういう晴れがましい席に出席することがない障がい者たちが出席して楽しめるような場にしようと考えました。十日町市に隣接する津南町には広大なひまわり畑があります。

ひまわり畑のど真ん中での結婚式!

これはいける。ひまわり畑の真ん中での結婚式だったら、普段着のまま、ノーネクタイで参加できるし、みんながピクニック気分で参加できます。それにバーベキューもやったらどうだろう。ホテルの室内だったら、まさかべーべキューをすることはできませんが、屋外のひまわり畑なら何の問題もありません。このアイデアにみんなが沸き立ち、多くの障がい者や保護者たちが参加して、夏の1日を楽しみました。

 

 つい先日はみんなで田植えをやりました。田んぼづくりには農耕馬も参加し、みんなはその馬がひくソリに乗って大はしゃぎ! みんなで人生そのものを謳歌しました。人生は楽しまなくっちゃ損だ! これらの企画に支援センターあんしんの姿勢が現れています。

 

 樋口会長はそういう支援センターが経済的にも運営していけるコツを本書で述べ、それぞれの支援センターが自立できる方法を説き、そのための支援は惜しまないと強調しています。運営方法を学び、自立の方法を探るという点でも、本書はたいへん参考になるだろうと思います。

 購入をご希望される方は、kamiryo12@gmail.com か、0434601833(電話&FAX)にお申し込みください。「笑顔に開く天の花」と扉書きして、お送りします。

書影『いのちを拝む』

ひまわりウェディング2009-7-26

学さんと果奈子さんのツーショット

写真=『いのちを拝む』の書影 ひまわり畑での結婚式 祝福された久保田学さんと果奈子さんの満面の笑み


6月20日、新刊『いのちを拝む』がPHP研究所から発売されます

書影『いのちを拝む』
書影『いのちを拝む』
 
“いのち”はどこから来るのでしょうか?
“いのち”は宇宙からやってきます。
つまり人智を超えたところからやってきます!
 
私は支援センターあんしんに、“いのちを拝む”ドラマを発見して、喜び勇んで75冊目になるこの本を書き上げました。こんな楽しい執筆は久々でした。ご笑覧いただけたら嬉しいかぎりです。
神渡良平

Eurovision

沈黙の響き (その105)

「沈黙の響き(105)」

国際音楽祭で優勝した母に捧げる歌「ステファニア」

神渡良平

 

 

◇母に捧げた歌がウクライナ国民の精神的支柱に

イタリアのトリノで今年514日に行われた第66回ユーロビジョン・ソング・コンテスト(国際音楽祭)で、ウクライナ代表の8人編成の音楽ユニット、カルシ・オーケストラが歌った「ステファニア」が優勝しました。数十か国に及ぶ2億人もの視聴者の支持を受けての圧倒的優勝でした。

 

ステファニア

母さん 母さん

草原は花咲き乱れているというのに

母さんの髪はグレーに染まっている

母さん 子守唄を歌って

やさしい言葉を聞かせてよ

必ず家路を見つけるよ

 

この歌詞はラッパーのオレグ・プシュクさんが自分を慈(いつく)しんで育ててくれた母を偲んで書いたものです。歌詞自体はバラード風ですが、表現方法はラップ調でパワフルです。フォーク・ラップと称されるカルシの最大の特徴は、ウクライナ民謡的な要素とラップやヒップホップがミックスして、哀愁を帯びた子守唄のリフレインがくり返されて歌曲をなじみ深いものにしています。舞台衣装も伝統的なウクライナの柄を尊重して取り入れているので、民族の誇りを感じさせます。

 

「ステファニア」の歌詞は聴く者に懐かしい母を追憶させます。

(ああ、母さん すっかり白髪が増えてしまったね

ぼくが高熱を出して寝込んだとき

母さんはぼくの胸をやさしく撫でながら

子守唄を歌ってくれたよね

 

心細かったぼくは

それでどんなに安らかになったことか

母さん またやさしい言葉を聞かせてよ

 

今度、会社の休みが取れたら

必ず家路をたどるよ

そして母さんの肩を叩いてあげる

母さん 待ってて……

ぼくの母さん……)

 

 母は“いのち”を生み、その“いのち”を育む特別な存在で、神さまは母親に特別な役割を与えています。オレグはよくぞ私たちの心のなかにある“母”を歌ってくれました。「ステファニア」が大ヒットしたのは、私たち一人ひとりのなかにある“母”を歌ってくれたからにほかなりません。

 

 ロシアがウクライナ侵攻を開始する今年の2月、カルシ・オーケストラは「ステファニア」を引っさげて全国ツアーをしていました。母の愛はのどかな村を思い出させ、母への思慕はそのまま祖国への愛に結びついていきました。

ところがそこにロシアが侵略してきたので、「母さん、母さん」と呼びかける「ステファニア」の受け止め方は一変し、すべてのウクライナの母、そして母なる国ウクライナに捧げる歌となったのです。

 

 戦争が始まると、カルシのメンバーは楽器やマイクを捨て、ウクライナ防衛軍に加わりました。そのためメンバーが何人も抜け、半数近くなってしまいました。それにウクライナでは18歳から60歳の男性は徴兵対象として出国禁止されたので、ウクライナ代表を勝ち取っているカルシはコンテストへの出場すら危ぶまれました。しかし、期限付きの特別な出国許可が出たので、ようやく参加できました。

 

2億人の支持を受けて圧勝

国際音楽祭(ユーロビジョン・ソング・コンテスト)に出場したカルシは、ロシアの侵攻で激しく破壊された母国を悲しむけれども、決してロシアの奴隷にはならないと熱烈に歌いあげました。その姿勢が審査員や視聴者の共感を呼びました。

この音楽祭は欧州放送連合(EBU)加盟放送局によって開催される毎年恒例の歌謡祭で、各国の国内選考を勝ち抜いた音楽ユニットがその国の代表として参加し、審査員や視聴者がライブ演奏で審査して順位を決定します。

 

 昨年はイタリアのロックバンド、マネスキンが優勝したことから、優勝国が次回コンテストのホスト国となるルールだから、今年はトリノ市での開催となりました。今年は本番直前にロシアがウクライナを侵攻したことからロシアは出場禁止となり、40か国が参加し、ついにウクライナ代表が圧倒的支持を得て優勝したのです。

 

過去にはこのコンテストから、ABBA、セリーヌ・ディオン、アイルランドのリヴァーダンスなどが国際的ステージへ飛躍するきっかけをつかみました。昨年優勝したマネスキンもその後欧米で大ブレークしているので、今年優勝したカルシ・オーケストラもメジャーになることが確実視されています。

母に捧げる歌はどの国においても永遠です。

Eurovision

写真=「ステファニア」を歌うカルシ・オーケストラ


大空に舞う鳥

沈黙の響き (その104)

「沈黙の響き(その104)」

ジョンソン父子の橋渡し役を果たした澤田さん

神渡良平

 

昭和6023日、日本テレビがエリザベス・サンダース・ホームで育った混血遺児たちのその後を追跡取材し、『子供達は7つの海を越えた』と題した番組で放送しました。その中で、前週、採り上げた米軍のクレモント・ジョンソンさんとその子マイクさんのことも取り上げました。図らずも24年後の2人の様子を知ることができました。

 

 ジョンソンさんは刑務所から釈放されたあと、隣のアーカンソー州リトルロック市に移り住み、建設会社で働いていました。日本テレビはジョンソン父子と澤田さんの再会を収録しようと、リトルロック市の中心部にある、緑の芝生が広がっているマッカーサー広場で取材をセットしました。

 

ジョンソンさんはインタビューの前、黒人特有の陽気さとサービス精神から陽気に、

「福は内」

「私はあなたを愛します」

「気をつけて」

 など、片言の日本語を連発して、場を盛り立てていました。

 

23年振りの再会

 そこに澤田さんが公園の向こうから緑の広い芝生を横切ってやってきました。23年振りの再会です。ジョンソンさんは澤田さんに乳児のマイクちゃんを預けたとき、

「息子は必ず自分が引き取るから、見知らぬ人に養子に出さないでほしい」

とお願いし、それを澤田さんきちっと守ってくれたのです。

「いや、それだけではありません。澤田さんは息子を姉の子として養子縁組してアメリカ国籍を取得させ、米国に移住させてくれました。しかも終身刑を言い渡されている私の減刑のために奔走し、早期釈放を実現してくれたのです。だからミセス・サワダは私にとって、実の母以上の存在です」

 

 ジョンソンさんが澤田さんとの再会を喜び、息子の養育のことでお礼を申し上げているとき、ベンチの隣に座って黙って聞いていた、今はたくましい青年に成長したマイクさんは必至に涙をこらえていました。マイクさんは澤田さんが自分をアメリカに連れてきて、父親に引き合わせてくれた7歳のときのことをはっきり覚えています。養子縁組を成立させると、翌年、日本から送り出してくれたのでした。

 

 父が澤田さんに感謝の言葉を述べてしる間、マイクさんが膝の上で握りしめている拳(こぶし)がぶるぶる震えていて、噴き出そうとする感情を押さえているのが使わってきます。

 

マイクさんは自分と父親が再会できたのは澤田さんのお陰だったと再度感じ取ったのか、とうとうこらえきれなくなって、嗚咽しはじめました。

「ママ、ありがとう」

と言おうとしているのが伝わってきます。マイクさんにとって澤田さんは生みの母以上に育ての母です。積もる話が山のようにありました。澤田さんはマイクさんの手を握りしめて、彼の高ぶる気持ちをなだめていました。マイクさんがその手を強く握り返しています。

 

3人の再会のあと、マイクさんは澤田さんと手をつないで公園を散策しながら、その間起きた事柄をずっと話していました。その後、2人は長イスのブランコに乗り、ブランコを揺らしながら、さらに話し続けました。父親はベンチに座って黙って見守っていました。

 

 マイクさんは学校を出て社会人になると、非行少年たちの更生施設の教師になって充実した毎日を送っていました。でもいつか日本に帰りたいと念願しているようです。

 

◇私のアイデンティティは何か? と苦しむマイクさん

 テレビのインタビューに答えて、マイクさんは、「自分は何者なのか?」というアイデンティティの問題で苦しんでいると語りました。マイクさんが言外に言おうとしていることを補足して表現します。

 

「ぼくはアメリカ社会、というよりも黒人社会にどうしても溶け込めず、自分の中に母の日本人の血が流れていることを強く感じます。黒人たちはどんな環境でも屈託がなく、陽気だというのは素晴らしい資質ですが、一面では真剣さがなく、イージーな生活に流れやすい傾向もはらんでいると思うのです」

 

 マイクさんは父親といっしょに黒人社会で暮らしてみて、改めて日本人が大切にしている自己修養、厳格さ、目標、自律といった徳目の重要さに目覚めたのです。

「ぼくの部屋の壁には三島由紀夫が鉢巻を締め、相手を正視しているポスターを飾っています。凛としたサムライ精神を感じさせるからです。日の丸の旗も掲げて自分を鼓舞しています」

 望郷の念もだしがたしと言うのです。

 

「こちらで親族の墓参りに行きますが、どうしてもその墓が、自分が永眠する場所とは思えないのです。ぼくはいずれ日本に帰りたいと思っており、もし米国で死んだとしても、遺体は日本に送って埋葬してもらいたいと思っています」

 父親に感謝はしているものの、満足できないものもあるようです。

 

 ものごころついてからずっと、自分とは何者なのかと苦しんできたマイクさんは、日本にいたときは「ガイジン」とか「クロンボ」と言って仲間外れにされていました。ところがアメリカに来たら、今度は逆に「ジャップ」とさげすまれ、どこにいても中途半端で宙ぶらりんでした。だから自分のアイデンティティは何かと考えざるを得なかったのです。マイクさんはいま自分とは何かを確立する瀬戸際に立たされているようです。

大空に舞う鳥