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祈りは結晶化する!

沈黙の響き (その112)

「沈黙の響き(その112)」

エリザベス・サンダース・ホームの開設に向けて

神渡良平

 

◇大磯の別荘を買い取ろうと奮闘

澤田美喜さんは、父の岩崎久彌(ひさや)を本郷の岩崎家茅町(かやちょう)本邸(現・東京都台東区池之端)に訪ね、大磯の岩崎家の別荘を使えないか話しました。イギリスのドクター・バナードス・ホームで孤児たちの世話をして以来、大磯の別荘にホームを開設したらどうだろうと、ずっと思い描いていたのです。

 

久彌さんはその考えに諸手を挙げて賛成してくれました。

「時が時ならば、私は美喜の計画に大磯の別邸をそっくりそのまま差し出して、全面的に協力するところだ。しかし、あの別邸は財閥解体をもくろむGHQによって財産税として物納させられ、今は日本国の所有になっているんだよ」

 

GHQから財閥は戦争遂行に加担したと糾弾され、公職追放と財閥解体が始まって事情が一変していました。それに3代目当主の久彌氏は51歳という若さで三菱合資会社の社長を退任し、社長を従弟の小彌太(こやた)氏に引き継いでいました。

 

GHQは久彌と小彌太ばかりでなく、彦彌太(久彌の長男)、隆彌(久彌の次男)、恒彌(久彌の3男)、忠雄(小彌太の婿養子)など、計11名を財閥家族に指定し、会社の役職から追放し、財産は没収しました。

 

生活費も持株会社整理委員会の承認を得なければ支出できないほどに厳しかった。久彌さんも数ある邸宅や別荘、岩手の小岩井農場、千葉県成田の末広農場を失い、資産のほとんどを財産税として物納して失いました。

岩崎邸にはGHQ(連合国軍総司令部)がジープで乗り付けて財産をごっそり没収し、有価証券はトラック3台で持ち去っていました。

「何もかも失ってしまった。土佐の郷里の土地と東京の墓地だけが残ったよ」

と、久彌さんはすっかり気落ちして嘆いていました。

 

 一度政府に物納した大磯の別荘は、財閥解体を進めているGHQトップに直接交渉するしかありません。泣く子も黙るGHQです。何をされても文句ひとつ言えません。父も夫も公職追放されている以上、美喜さんが交渉の前面に立たなければいけません。GHQは星条旗がひるがえるお濠端の第一生命ビルに傲然と陣取っています。

 

 外交官夫人として社交の表舞台に立ち、外国人とやり取りしてきた美喜さんは、アメリカ人との交渉は何ら臆するところがありません。普通なら立ちすくんでしまう星条旗がひるがえるGHQも美喜さんは臆するものはありませんでした。

 

◇「蛇のように賢く、鳩のように素直に」

 そんなとき、美喜さんがニューヨークで暮らしていたころ、親しくしていたニューヨーク聖公会のウイリアム・チェーズ司祭が、GHQの司令部付きの聖職者として来日していることがわかりました。

早速司令部を訪ねてチェーズ司祭に会い、孤児院開設の件でアドバイスを求めました。温和で思慮深いチェーズ司祭は米国側からの観点から美喜さんに知恵を授けました。2人の会話は3時間にも及びました。

 

 チェ―ズ司祭は聖書を引いて自分の意見を述べました。

「『マタイ福音書』第10章に、主イエスは弟子たちを地方に伝道に出すとき、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさいとアドバイスされたと書かれています。伝道者はもちろん鳩のように素直で柔和でなければいけませんが、任務はそれだけで達成できるものではなく、もうひとつ蛇のような賢さも持たなければいけないというのです」

 

 そして「蛇の賢さ」について、自分はこう解釈しているというのです。

「賢こさとは、分別があり、思慮深く、注意深くあれという意味です。勇猛果敢だけでは目的は達成できません。思慮深い行動が求められているのです。

 

 あなたが交渉しようとしている混血孤児たちを収容する施設は、もちろんつくらなければなりませんが、同時に混血孤児の問題は米軍の恥部をさらすことになってしまう非常にセンシティブな問題でもあります。

 

だから混血孤児という言葉は使わないで、戦争孤児を救うための社会福祉活動と表現したほうがいいでしょう。その方が司令部を刺激せず、了解してもらえるでしょう」

 

 チェーズ司祭の委細を尽くした話によって、GHQ上層部には混血孤児のことには触れたくない心理が強くあることがよく納得できました。そこで彼らの逆鱗に触れないようオブラートに包んで交渉することにしました。

祈りは結晶化する!

 写真=祈りの手はすべてを包み込む


焦土

沈黙の響き (その111)

「沈黙の響き(その111)」

網棚の風呂敷包み

神渡良平

 

 昭和16年(1941)の日中戦争から始まった長い戦争が、全国の主要都市がくまなく空襲され、国土が灰燼(かいじん)に帰して、昭和20年(1945815日、ようやく終結しました。結果は無惨な敗戦でした。焼夷弾に見舞われて火の海になり、逃げ惑う恐怖からは解放されたものの、今度は飢えとの闘いが始まりました。

 

 9月2日、東京湾に浮かんだ米戦艦ミズーリ号の上で降伏の調印式が行われ、占領政治が始まりました。それから9か月過ぎた昭和21年(1946)6月末、澤田さんはラジオニュースで日米混血児第一号が誕生したことを知りました。

 

 アナウンサーは日米混血児が誕生したニュースを、言葉を尽くしてほめそやし、

「これは日本とアメリカの最初の握手です。太平洋の両岸を結ぶ愛の印です」

 と伝えました。しかし肝心のGHQはこの問題に触れられたくないらしく、件のアナウンサーは即刻クビになったという噂が流れました。事実、占領下では日米混血児についてはただヒソヒソとささやき合われるだけでした。

 

 美喜さん自身も神奈川県藤沢市鵠沼(くげぬま)の近くの川に、髪がちぢれた黒い赤ん坊が浮いているのを見て、あまりの痛ましさに目を背けたことがありました。あるときは銀座の歌舞伎座の裏通りで人だかりがしていたので肩越しに覗いてみると、青い眼を半ば開いた白い肌の赤ん坊の死体が眼に飛び込んできて、思わずのけぞったこともありました。

また、横浜市港南区笹下の田中橋の近くを歩いているとき、どぶから引き揚げられたコモ包みの中に小さな死体が発見され、思わず眼を覆ったこともありました。

 

◇暗い世相を反映した混血児問題

 混血児の問題はあのラジオニュースのアナウンサーが言ったようなきれいごとではなく、荒れに荒れた世相を反映している出来事で、そんな暗いニュースが日常茶飯事でした。

敗戦の年の昭和20年(19458月、米海軍司令部がある横須賀基地、米陸軍司令部があるキャンプ座間がある神奈川県では、米兵による婦女暴行事件が最初の1か月だけで315件起きました。それは進駐軍の最大の恥部で、GHQは何としても隠したかったのです。

 

そのためGHQは日本政府に特殊慰安協会の設立を命令し、米軍専用の慰安所を設置させました。米軍兵士と日本女性との間に生まれた混血児(GIベビー)は5千人以上に及んだといわれています。

 

空襲で焼かれた街々には、まだ多くの戦争孤児が満ちあふれていました。それでも日本人の顔をした孤児には救いの手がさしのべられ、住む場所や食べるものも与えられます。しかし道ばたに置き捨てられた子どもの風貌が日本人とは違っていると、これを抱き上げようともせず、一瞥(いちべつ)しただけで通りすぎました。

 

父母からその誕生を待ち望まれず、祝福もされず、招かれざる客としてこの世に生を享けてきた子どもたちをこのまま見捨ててよいのか――美喜さんは心を痛めました。

しかし、岩崎家一族は、澤田家も含めて公職追放の身で、しかも財閥解体という処遇を受けて、どうすることもできない状態にありました。

 

(しかし、できないということは、最初から何もしないことと同じではないか。ものごとは実行に移してはじめて可能かどうかがわかるものだ。私は日本中の誰一人顧みないこの子たちの養育に、私の残された人生を捧げるべきではないのか……)

 美喜さんの逡巡は続きました。

 

◇風呂敷包みの中から黒い男の子の死体が

 それから数か月後のこと、美喜さんは特攻隊から辛くも生還した次男を京都に訪ねるべく列車に乗っていました。鉄道事情は極端に悪く、車内は闇屋や買い出し客が通路までぎっしり人が詰まって混雑していました。その下り列車が名古屋を過ぎ、岐阜県の関ヶ原古戦場に近い垂井にさしかかったとき、2人の警察官が闇物資摘発に回ってきました。警官の1人が澤田さんの座席の上に置かれた紫色の風呂敷包みに不審の目を向けました。

 

「これは誰の持ち物ですか?」

 と問いただしても、みな顔を見合わせるばかりで名乗り出る者はいません。

「持ち主がいない包みなんて、おかしいじゃないか」 

 警察官は包みを下ろして開いてみると、中から新聞紙にくるまれた黒い乳飲み子の死体が出てきたのです。

 

 何だ、これは! 

あたりは途端に色めき立ちました。

悪いことに美喜さんは英語の本を開いて読んでいました。英語の本――黒人の混血児の死体――警官はてっきり美喜さんがその混血児の死体を仕末に行くところではないかと疑ったのです。

 

美喜さんの両隣りの人たちは関わりたくないと、その荷物は澤田さんのものではないと知っていながら、誰も何とも言いません。車内の人たちの疑惑の眼が美喜さんに集中しました。警官は美喜さんを口汚くののしりました。

 

◇このパンパンめ! と、ののしられ……

「こんなことをしやがって、このパンパンめ! よくも図々しくしておられたもんだ。とんでもないアマだ。日本人の面汚しめ!」

警官は次の駅で下車させて取り調べると言い立てます。美喜さんは恥ずかしさに身が震えました。

 

そのときの模様を美喜さんは自著『混血児の母――エリザベス・サンダース・ホーム』(毎日新聞社、昭和28年刊)に、次のように書いています。

「暗い電灯の光をあびて、列車の振動にびくびくと小きざみにふるえる哀れな手足を見ながら、悲しさとも悔しさとも知れぬ名状しがたい感情がこみ上げて、私は体が居ても立ってもいられぬようにふるえてきた。

怒涛のように激しく堰(せき)を切ろうとする感情を私はくいとめようとして、血が出るほどに唇をかみしめ、ジーンと熱くなってくる瞼をとじた」

 

美喜さんは煮えくり返るような思いで、警官に食って掛かりました。

「この赤ん坊は私が産んだ子ですって? この列車にお医者さんが乗っておられたら、すぐここに呼んでください。私は今すぐにでも裸になります。私が子どもを産んだばかりの体なのかどうか、診察してもらったらわかるはずです」

 美喜さんは胸のボタンに手をかけて、今にも脱ぎそうでした。

 

ところが同じ車両の隅の方に座っていた老人が証言してくれました。

「沼津あたりで乗ってきた女の子がその紫色の風呂敷包みを持って、私の前を通ったのを覚えています。濃い色が私の眼に残っています。その女の子は名古屋で降りていきました」

 この証言のお陰で美喜さんの疑惑は晴れました。

 

◇そのとき、神のお告げが臨んだ!

しかし、そのとき美喜さんにひそやかな神の声が臨み、ささやかれたように感じました。

(もしお前が、たとえいっ時でもこの子の母とされたのなら、日本国中に放置されたこうした孤児たちの母になってやれないのか……)

(えっ…………)

(これは偶然起きた出来事ではない! お前の覚悟を確かめるために起きた出来事だ)

(…………)

まったくその通りでした。美喜さんは現実問題として、孤児院の開設に取り組まざるを得なくなりました。

 

前著『混血児の母』に美喜さんはこう聞いています。

「両方の国から要らないといわれる子ども、親からも邪魔者扱いにされ、闇から闇に葬られる子どもの現実を直視したとき、私の運命は決まった。それは残された半生をこれらの混血児と運命を共にすることである」

美喜さんが45歳のときのことでした。

焦土

写真=焦土と化した祖国

 


Josephine Baker

沈黙の響き (その110)

「沈黙の響き(その110)」

ジョセフィンが受けた手ひどい黒人差別

 神渡良平

 

◇アメリカへの再上陸で苦汁を味わったジョセフィン

澤田さんご夫妻がニューヨークに住んでいるとき、ジョセフィンは有名な興行会社ジークフリート・フォーリス社と契約し、ニューヨーク公演に来ることになりました。乗船するのは豪華客船イルド・フランス号の処女航海で、フランスの有名人が多く招待されていました。女流作家のコレットや歌手のルシアン・ボアイエやダミアの顔も見えました。

 

 イルド・フランス号がハドソン川をゆっくりさかのぼってきたとき、美喜さんはジョセフィンとの久々の再会に胸をふくらませていました。迎えに出た人々は下船してきた人々と抱き合って再会を喜びました。

 

 ところがジョセフィンを出迎えたのは、美喜さんとジークフリート・フォーリス社の秘書だけでした。その秘書も翌日会う場所と時間を告げると、そそくさと帰っていきました。

(あれ? 何か様子がおかしいな……)

 と思いながら、ジョセフィンに送るべきホテル名を確かめると、

「ええっ? ジークフリート・フォーリス社で予約していると思っていたので、私は何も聞いていません……」

 と不安な様子です。それではとりあえずと、有名なホテルに案内しました。ところが、そのホテルは満室ですと断りました。黒人は泊めない方針のようです。ジョセフィンは黒人とはいっても成功している芸能人です。彼女も拒否するのかと呆れました。

 

使っている自動車は日本領事館の公用車でしたが、白人の運転手が黒人を乗せるのはいやだと言い出しました。とにかくホテルが決まるまでは我慢してくれと説得し、次のホテルに向かいましたがそこも断られ、とうとう11軒に断られました。

 

「アメリカは成功して帰国した娘を、温かく迎えてくれない国なの」

 ジョセフィンはすっかりべそをかいてしまいました。美喜さんはニューヨークに住んでいて黒人差別があることは知っていました。バスでもレストランでも、あらゆるものが白人用と黒人用に分けられていましたが、ここまでひどいとは思いませんでした。親友のジョセフィンが泊るホテルを探して難渋してみて、現実をいやというほど突き付けられたのです。仕方がないので、自分が自宅として借りているアパートに泊めることにしました。

 

 一応、アパートの管理人に断っておかないとあとがうるさいので事情を話に行くと、管理人は苦虫を嚙み潰したような表情で言いました。

「総領事館の官舎は治外法権だから、黒人を泊めても文句は言いません。でも周囲の住人が知ったらみんな引っ越してしまいます。それほどセンシティブな問題なんです」

 そこまで嫌味を言われたら、美喜さんもどうすることもできません。やむなく美喜さんが52丁目に借りているアトリエに連れていって泊まってもらいました。

 

◇なおも続く黒人お断り!

 翌日、アトリエにベッドや家具を運び入れようとすると、家主から苦情が出ました。

「たとえヨーロッパを風靡しているジョセフィン・ベーカーであろうと、黒人は黒人です。黒人がここに泊っているとなると、他の白人の住人はみんな出ていってしまいます」

 短期間のことだから何とか見逃してほしいと頼み込むと、何とか折れてくれたものの、逆に条件を出されました。

「彼女は正面のエレベーターは、朝早くか夜遅くしか使用しないこと。エレベーターで乗り合わせると、他の白人の住民から猛烈な抗議があり、契約違反だ、出ていくと怒鳴り込まれます。日中は人に目立たないように裏階段を使うこと」

 

開いた口がふさがりません。ジョセフィンはヨーロッパではあれほど人気を集めている歌手だというのに、その差別に美喜さんはただただ唖然としました。

それでもジョセフィンは、

「ミキ、忍耐して……。見ていて、私は芸の上で彼女たちを見返してやるから」

と言って美喜さんを慰めました。このとき美喜さんが最後まで親身になって世話してくれたことから、この人は信頼できる人だ。間違いないと確信し、美喜さんと終生にわたる深い信頼の絆を結びました。

 

◇白人のダンサーたちの反応

ジークフリート・フォーリス社のショーにはスターが5人いて、黒人はジョセフィンだけでした。そこで他の4人のスターたちが反乱を起こしました。

「私たちがジョセフィンといっしょに踊るシーンでは、仮面を被らせてほしい。黒人といっしょに踊ったら、ファンに嫌われ、恋人にも逃げられてしまうわ」

 さらにはこんな苦情も寄せられました。

「ジョセフィンはフィナーレに出ないで帰ってほしい」

 

 そう言われてジョセフィンは烈火のように怒って言い返しました。

「あなたたちは白い肌の下に黒い心があります。私たち黒人は黒い肌を持っているけれども、その下には真っ白な心を持っています……」

 毅然として言い返したジョセフィンに、美喜さんはこのときほどジョセフィンが美しく見えたことはなかったと述懐しています。

 

美喜さんはエリザベス・サンダース・ホームが生まれるまでの経緯を、昭和38年(1963)に日本経済新聞から出版した最初の本『黒い肌と白い心――サンダース・ホームへの道』に書いていますが、この書名『黒い肌と白い心』はこのときジョセフィンが白人のダンサーたちに投げつけた言葉です。美喜さんはその言葉を用いたのです。

黒人差別が法律的に撤廃されたのは、このときから約30年後の1964年、エリザベス公民権法が制定されてからのことです。

 

◇サンダース・ホームを応援するジョセフィン

ずっと後のことですが、昭和29年(1954)、ジョセフィンは日本を訪ねました。もちろん大磯のエリザベス・サンダース・ホームに澤田美喜さんを訪ねるためですが、それ以上に、滞在中23回のチャリティ公演を行って、エリザベス・サンダース・ホームの経済を助けるためです。

 

ジョセフィンはフランスからピアニストを連れてきましたが、その報酬は自分で払いました。このチャリティ・コンサートの収益金で建てられたエリザベス・サンダース・ホームの約15人入れる男子寮の入り口には、

「神の国の平和を愛する若い人のために」

と、ジョセフィンの言葉が刻み込まれています。

 

ジョセフィンはチャリティ公演が終わると、秋男とジャノーの2人の混血児を引き取って、フランスへ帰っていきました。2人は南仏ドルトーニュにあるミランダ城ですくすく育っています。

その後もジョセフィンはエリザベス・サンダース・ホームから混血児たちを引き取り続け、合計12人になりました。ジョセフィンは最後まで澤田さんのよき理解者であり、支援者だったのです。 

Josephine Baker

写真=エリザベス・サンダース・ホームを訪ねたジョセフィン・ベーカー


ジョセフィン・ベーカー

沈黙の響き (その109)

「沈黙の響き(その109)」

褐色のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー

神渡良平

 

 澤田美喜さんが「混血孤児たちの母」として次第に目覚めていくなかで、イギリスのバナードス先生に加え、もう一人忘れることができない人がありました。それは米国セントルイス生まれの褐色のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカーです。知り合ったのはフランスで、交わりは変わることなく30数年続き、相互に影響を与え合った稀有なものでした。

 

◇ジョセフィン・ベーカーが示したお手本

大正14年(1939)の春、澤田廉三・美喜夫妻は澤田廉三さんがアルゼンチン勤務から北京に転任する途中、パリのホリベルジェール劇場で催されたジョセフィン・ベーカーのショーを見ました。セントルイスの貧民街育ちのジョセフィンはイタリア人のアバチーノ氏の指導を受け、ジャズ歌手としてめきめき才能を発揮し、全米に知られるようになりました。

 

ジョセフィンはその名声を引っさげてパリ公演を行い、「黒いヴィーナス」と呼ばれてヨーロッパ中の人々をすっかり魅了してしました。美喜さんも、舞台いっぱいに華やかさを振りまいていたジョセフィンにすっかり惚れ込んでしまいました。

 

昭和13年(1938)、澤田廉三さんは外務事務次官に就任し、その翌年、フランス大使として赴任しました。そのとき、美喜さんはある白系ロシア夫人が主催するカクテルパーティで再びジョセフィンと会ったのです。パーティのなかごろからジョセフィンが話題の中心になりました。ジョセフィンは3か月ごとに、パリのスラム街を訪問しているというのです。

 

すかさず美喜さんは「私も連れていっていただけないかしら?」とお願いしました。ジョセフィンは大きな目を見張って、えっ大使夫人のあなたが同行したいの? といぶかりました。

「パリの華やかな側面だけを知っているあなたが、もう一つのパリの裏面を見たら、きっとびっくりされるでしょうね」

 

「でも私は華やかなパリだけではなく、貧しくて恵まれない谷間の人々の生活も知りたいの」

美喜さんの真剣な眼差しにジョセフィンは納得し、

「私もぜひ見ていただきたいと思っています。あれを見られたら、私がなぜ人種差別と闘っているのか、理解していただけると思います」

こうして2人は3週間後の再会を約束しました。

 

◇パリの貧民街で

当日、ジョセフィンが運転するオープンカーに乗って、古いパリの城門に沿って市外に出て、石造りの古い6階建てのアパートに着きました。窓にもテラスの手摺りにも干し物が掛けてあり、小さな子どもたちが鉄の階段で遊んでいます。灰色で覆われた薄暗い世界を見るような気がしました。

 

ジョセフィンは階段に自動車を横付けすると、リズムを付けてクラクションを鳴らしました。するとその音を聞きつけた子どもたちが、1階から6階のすべての窓から鈴なりになって顔を出しました。ジョセフィンが彼らに手を振ると、ハチの巣でもつついたような騒ぎとなって、みんな走り降りてきました。

 

そこで各アパートの代表のような婦人たちにジョセフィンは自動車の後部座席に積み上げられた大きな包みを渡しました。包みの口を束ねてあるリボンの色で、中に入っているのが食料品なのか衣類なのかおもちゃなのか、わかるようにしてあります。ジョセフィンはそれを渡すのが楽しいようです。

 

ジョセフィンが小さな子を抱き上げたり、頭を撫でたりして、我が子のようにいつくしんでいる姿を横で見ていて、美喜さんは涙が出るほどに感動しました。それは彼女の心からほとばしり出る自然の行為で、人気のためとか、人に見せるためとかではありませんでした。ジョセフィンは収入の1割以上をこうした人々と分かち合っているというのです。

 

◇「幸せは一人では味わえない。みんなと分かち合ってこそ……」

帰りの自動車の中で、ジョセフィンは自分の経歴を明かしました。

「私はユダヤ系スペイン人のドラマーとアフリカ系アメリカ人の洗濯婦の間に私生児として生まれたの。非常に貧しい環境の中で、幾多の辛い人種差別を経験したわ。後に人種差別撤廃運動に熱心に肩入れするようになったのは、私自身言うに言われない経験をしたからなの」

ジョセフィン自身、貧民の出だと言います。幸いにしてジャズ歌手として成功したので、みんなにおすそ分けしたいのだと言います。

 

「幸せって一人で味わうことはできませんよね。みんなと分かち合い、喜び合ってこそ、本当の幸せになります」

 ジョセフィンが漏らした言葉は、美喜さんの心に深く刻み込まれました。美喜さんの一生はこのときのジョセフィンのつぶやきに動機づけられたように思います。

 

 その日から、美喜さんはジョセフィンとしばしば会うようになり、いっしょに貧民街を訪ねました。あるときは子どもが多い、貧しい家庭の病人に薬が入っている袋を渡しているのを見ました。またあるときは扁桃腺が腫れて高熱でうなされている子どもを病院に連れていって入院させ、その費用を全部払っているのを見ました。

 

 あるときは働きながら夜学に通っている青年に、自分の指からダイヤの指輪を外し、そっと手渡しました。ジョセフィンから学資の援助をしてもらったこの青年は、卒業後、建築会社の技師として就職しました。それから10数年後、彼は南仏のニースで独立し、小さな建設会社の社長となりました。

 

 三菱財閥の娘として、あるいは大使夫人として、何不自由ない生活をしていた美喜さんが、混血孤児たちの救済に一生を懸けるようになるのは、ジョセフィンから受けた影響も大きかったように思います。

ジョセフィン・ベーカー

写真=澤田さんの無二の親友となったジョセフィン・ベーカー


神の啓示

沈黙の響き (その108)

「沈黙の響き(その108)」

祈りの日々……そして受けた神の召命

神渡良平

 

 

イギリスでの勤務を終えて帰国する夫に随って、澤田美喜さんも東京に帰ってきました。しかし、医師のバナードス先生が孤児院を開いて孤児たちを献身的に養育されている姿が忘れられません。バナードス・ホームは広々とした施設は豊かな森に囲まれており、そこがまさか孤児院だとは思えないような環境です。ホームは先生の穏やかな人柄によっていっそう落ち着いて見えました。

 

(私もこんな事業に助力したい……)

澤田さんは帰国すると、3日間黙想の日を送りました。

(地上において生活する日々が、もし誰かの人助けになるとしたら、これほど有意義なことはない。外交官夫人として国家の運命に関わることも重要なことですが、目の前に捨てられた子どもがいれば、見て見ぬふりをすることができません……)

 

そしてさらに1週間、神に問いたずねました。

 

(この事業はその人の人生に関わる仕事ですから、一度やり始めたらもうあとには引けません。混血児たちの養育は片手間でできることではなく、献身的にやらなければ本当の手助けはできまません……。

夫を支える外交官夫人の仕事もフルタイムの仕事です。ああ、一体私はどうしたらいいのでしょうか……)

 

 自分みたいな者にやれるだろうかと不安も消えません。あるときバナードス先生は助言してくださり、同情心だけでは挫折すると言われました。だからこそ“信念”が必要です。神に裏打ちされて“力強く”されなければ、とてもこの事業は成功しないように思われます。

 

(ああ、主よ、どうぞ私を強い女にしてください。ひとりのか弱い女ではなく、主と共にある戦士にしてください……)

来る日も来る日も祈りのときが続きました。そして次第に、

「これは主から私に託された使命だ!」

と確信するようになり、もはや揺るがないようになりました。はっきり「神からの召命された」と感じ取ったのです。

 

澤田さんはすでに子育ては終わっていたので、夫に了承してもらい、混血孤児院の園長として、運営に専念したいと思いました。管理運営する施設の理事長としてではなく、実質的に子育てに汗をかく
“園長”としてです。

 

英語では「召命」のことを Devine Calling 、「神さまから呼ばれた」と表現します。主体は神さまで、自分は神さまに呼ばれて地上でその役目を果たすのだと考えです。澤田さんは神さまからいただいた新使命として、残る余生を戦争孤児たちの養育に捧げる決心をしました。

神の啓示