日別アーカイブ: 2022年7月16日

Josephine Baker

沈黙の響き (その110)

「沈黙の響き(その110)」

ジョセフィンが受けた手ひどい黒人差別

 神渡良平

 

◇アメリカへの再上陸で苦汁を味わったジョセフィン

澤田さんご夫妻がニューヨークに住んでいるとき、ジョセフィンは有名な興行会社ジークフリート・フォーリス社と契約し、ニューヨーク公演に来ることになりました。乗船するのは豪華客船イルド・フランス号の処女航海で、フランスの有名人が多く招待されていました。女流作家のコレットや歌手のルシアン・ボアイエやダミアの顔も見えました。

 

 イルド・フランス号がハドソン川をゆっくりさかのぼってきたとき、美喜さんはジョセフィンとの久々の再会に胸をふくらませていました。迎えに出た人々は下船してきた人々と抱き合って再会を喜びました。

 

 ところがジョセフィンを出迎えたのは、美喜さんとジークフリート・フォーリス社の秘書だけでした。その秘書も翌日会う場所と時間を告げると、そそくさと帰っていきました。

(あれ? 何か様子がおかしいな……)

 と思いながら、ジョセフィンに送るべきホテル名を確かめると、

「ええっ? ジークフリート・フォーリス社で予約していると思っていたので、私は何も聞いていません……」

 と不安な様子です。それではとりあえずと、有名なホテルに案内しました。ところが、そのホテルは満室ですと断りました。黒人は泊めない方針のようです。ジョセフィンは黒人とはいっても成功している芸能人です。彼女も拒否するのかと呆れました。

 

使っている自動車は日本領事館の公用車でしたが、白人の運転手が黒人を乗せるのはいやだと言い出しました。とにかくホテルが決まるまでは我慢してくれと説得し、次のホテルに向かいましたがそこも断られ、とうとう11軒に断られました。

 

「アメリカは成功して帰国した娘を、温かく迎えてくれない国なの」

 ジョセフィンはすっかりべそをかいてしまいました。美喜さんはニューヨークに住んでいて黒人差別があることは知っていました。バスでもレストランでも、あらゆるものが白人用と黒人用に分けられていましたが、ここまでひどいとは思いませんでした。親友のジョセフィンが泊るホテルを探して難渋してみて、現実をいやというほど突き付けられたのです。仕方がないので、自分が自宅として借りているアパートに泊めることにしました。

 

 一応、アパートの管理人に断っておかないとあとがうるさいので事情を話に行くと、管理人は苦虫を嚙み潰したような表情で言いました。

「総領事館の官舎は治外法権だから、黒人を泊めても文句は言いません。でも周囲の住人が知ったらみんな引っ越してしまいます。それほどセンシティブな問題なんです」

 そこまで嫌味を言われたら、美喜さんもどうすることもできません。やむなく美喜さんが52丁目に借りているアトリエに連れていって泊まってもらいました。

 

◇なおも続く黒人お断り!

 翌日、アトリエにベッドや家具を運び入れようとすると、家主から苦情が出ました。

「たとえヨーロッパを風靡しているジョセフィン・ベーカーであろうと、黒人は黒人です。黒人がここに泊っているとなると、他の白人の住人はみんな出ていってしまいます」

 短期間のことだから何とか見逃してほしいと頼み込むと、何とか折れてくれたものの、逆に条件を出されました。

「彼女は正面のエレベーターは、朝早くか夜遅くしか使用しないこと。エレベーターで乗り合わせると、他の白人の住民から猛烈な抗議があり、契約違反だ、出ていくと怒鳴り込まれます。日中は人に目立たないように裏階段を使うこと」

 

開いた口がふさがりません。ジョセフィンはヨーロッパではあれほど人気を集めている歌手だというのに、その差別に美喜さんはただただ唖然としました。

それでもジョセフィンは、

「ミキ、忍耐して……。見ていて、私は芸の上で彼女たちを見返してやるから」

と言って美喜さんを慰めました。このとき美喜さんが最後まで親身になって世話してくれたことから、この人は信頼できる人だ。間違いないと確信し、美喜さんと終生にわたる深い信頼の絆を結びました。

 

◇白人のダンサーたちの反応

ジークフリート・フォーリス社のショーにはスターが5人いて、黒人はジョセフィンだけでした。そこで他の4人のスターたちが反乱を起こしました。

「私たちがジョセフィンといっしょに踊るシーンでは、仮面を被らせてほしい。黒人といっしょに踊ったら、ファンに嫌われ、恋人にも逃げられてしまうわ」

 さらにはこんな苦情も寄せられました。

「ジョセフィンはフィナーレに出ないで帰ってほしい」

 

 そう言われてジョセフィンは烈火のように怒って言い返しました。

「あなたたちは白い肌の下に黒い心があります。私たち黒人は黒い肌を持っているけれども、その下には真っ白な心を持っています……」

 毅然として言い返したジョセフィンに、美喜さんはこのときほどジョセフィンが美しく見えたことはなかったと述懐しています。

 

美喜さんはエリザベス・サンダース・ホームが生まれるまでの経緯を、昭和38年(1963)に日本経済新聞から出版した最初の本『黒い肌と白い心――サンダース・ホームへの道』に書いていますが、この書名『黒い肌と白い心』はこのときジョセフィンが白人のダンサーたちに投げつけた言葉です。美喜さんはその言葉を用いたのです。

黒人差別が法律的に撤廃されたのは、このときから約30年後の1964年、エリザベス公民権法が制定されてからのことです。

 

◇サンダース・ホームを応援するジョセフィン

ずっと後のことですが、昭和29年(1954)、ジョセフィンは日本を訪ねました。もちろん大磯のエリザベス・サンダース・ホームに澤田美喜さんを訪ねるためですが、それ以上に、滞在中23回のチャリティ公演を行って、エリザベス・サンダース・ホームの経済を助けるためです。

 

ジョセフィンはフランスからピアニストを連れてきましたが、その報酬は自分で払いました。このチャリティ・コンサートの収益金で建てられたエリザベス・サンダース・ホームの約15人入れる男子寮の入り口には、

「神の国の平和を愛する若い人のために」

と、ジョセフィンの言葉が刻み込まれています。

 

ジョセフィンはチャリティ公演が終わると、秋男とジャノーの2人の混血児を引き取って、フランスへ帰っていきました。2人は南仏ドルトーニュにあるミランダ城ですくすく育っています。

その後もジョセフィンはエリザベス・サンダース・ホームから混血児たちを引き取り続け、合計12人になりました。ジョセフィンは最後まで澤田さんのよき理解者であり、支援者だったのです。 

Josephine Baker

写真=エリザベス・サンダース・ホームを訪ねたジョセフィン・ベーカー