「沈黙の響き(その111)」
網棚の風呂敷包み
神渡良平
昭和16年(1941)の日中戦争から始まった長い戦争が、全国の主要都市がくまなく空襲され、国土が灰燼(かいじん)に帰して、昭和20年(1945)8月15日、ようやく終結しました。結果は無惨な敗戦でした。焼夷弾に見舞われて火の海になり、逃げ惑う恐怖からは解放されたものの、今度は飢えとの闘いが始まりました。
9月2日、東京湾に浮かんだ米戦艦ミズーリ号の上で降伏の調印式が行われ、占領政治が始まりました。それから9か月過ぎた昭和21年(1946)6月末、澤田さんはラジオニュースで日米混血児第一号が誕生したことを知りました。
アナウンサーは日米混血児が誕生したニュースを、言葉を尽くしてほめそやし、
「これは日本とアメリカの最初の握手です。太平洋の両岸を結ぶ愛の印です」
と伝えました。しかし肝心のGHQはこの問題に触れられたくないらしく、件のアナウンサーは即刻クビになったという噂が流れました。事実、占領下では日米混血児についてはただヒソヒソとささやき合われるだけでした。
美喜さん自身も神奈川県藤沢市鵠沼(くげぬま)の近くの川に、髪がちぢれた黒い赤ん坊が浮いているのを見て、あまりの痛ましさに目を背けたことがありました。あるときは銀座の歌舞伎座の裏通りで人だかりがしていたので肩越しに覗いてみると、青い眼を半ば開いた白い肌の赤ん坊の死体が眼に飛び込んできて、思わずのけぞったこともありました。
また、横浜市港南区笹下の田中橋の近くを歩いているとき、どぶから引き揚げられたコモ包みの中に小さな死体が発見され、思わず眼を覆ったこともありました。
◇暗い世相を反映した混血児問題
混血児の問題はあのラジオニュースのアナウンサーが言ったようなきれいごとではなく、荒れに荒れた世相を反映している出来事で、そんな暗いニュースが日常茶飯事でした。
敗戦の年の昭和20年(1945)8月、米海軍司令部がある横須賀基地、米陸軍司令部があるキャンプ座間がある神奈川県では、米兵による婦女暴行事件が最初の1か月だけで315件起きました。それは進駐軍の最大の恥部で、GHQは何としても隠したかったのです。
そのためGHQは日本政府に特殊慰安協会の設立を命令し、米軍専用の慰安所を設置させました。米軍兵士と日本女性との間に生まれた混血児(GIベビー)は5千人以上に及んだといわれています。
空襲で焼かれた街々には、まだ多くの戦争孤児が満ちあふれていました。それでも日本人の顔をした孤児には救いの手がさしのべられ、住む場所や食べるものも与えられます。しかし道ばたに置き捨てられた子どもの風貌が日本人とは違っていると、これを抱き上げようともせず、一瞥(いちべつ)しただけで通りすぎました。
父母からその誕生を待ち望まれず、祝福もされず、招かれざる客としてこの世に生を享けてきた子どもたちをこのまま見捨ててよいのか――美喜さんは心を痛めました。
しかし、岩崎家一族は、澤田家も含めて公職追放の身で、しかも財閥解体という処遇を受けて、どうすることもできない状態にありました。
(しかし、できないということは、最初から何もしないことと同じではないか。ものごとは実行に移してはじめて可能かどうかがわかるものだ。私は日本中の誰一人顧みないこの子たちの養育に、私の残された人生を捧げるべきではないのか……)
美喜さんの逡巡は続きました。
◇風呂敷包みの中から黒い男の子の死体が
それから数か月後のこと、美喜さんは特攻隊から辛くも生還した次男を京都に訪ねるべく列車に乗っていました。鉄道事情は極端に悪く、車内は闇屋や買い出し客が通路までぎっしり人が詰まって混雑していました。その下り列車が名古屋を過ぎ、岐阜県の関ヶ原古戦場に近い垂井にさしかかったとき、2人の警察官が闇物資摘発に回ってきました。警官の1人が澤田さんの座席の上に置かれた紫色の風呂敷包みに不審の目を向けました。
「これは誰の持ち物ですか?」
と問いただしても、みな顔を見合わせるばかりで名乗り出る者はいません。
「持ち主がいない包みなんて、おかしいじゃないか」
警察官は包みを下ろして開いてみると、中から新聞紙にくるまれた黒い乳飲み子の死体が出てきたのです。
何だ、これは!
あたりは途端に色めき立ちました。
悪いことに美喜さんは英語の本を開いて読んでいました。英語の本――黒人の混血児の死体――警官はてっきり美喜さんがその混血児の死体を仕末に行くところではないかと疑ったのです。
美喜さんの両隣りの人たちは関わりたくないと、その荷物は澤田さんのものではないと知っていながら、誰も何とも言いません。車内の人たちの疑惑の眼が美喜さんに集中しました。警官は美喜さんを口汚くののしりました。
◇このパンパンめ! と、ののしられ……
「こんなことをしやがって、このパンパンめ! よくも図々しくしておられたもんだ。とんでもないアマだ。日本人の面汚しめ!」
警官は次の駅で下車させて取り調べると言い立てます。美喜さんは恥ずかしさに身が震えました。
そのときの模様を美喜さんは自著『混血児の母――エリザベス・サンダース・ホーム』(毎日新聞社、昭和28年刊)に、次のように書いています。
「暗い電灯の光をあびて、列車の振動にびくびくと小きざみにふるえる哀れな手足を見ながら、悲しさとも悔しさとも知れぬ名状しがたい感情がこみ上げて、私は体が居ても立ってもいられぬようにふるえてきた。
怒涛のように激しく堰(せき)を切ろうとする感情を私はくいとめようとして、血が出るほどに唇をかみしめ、ジーンと熱くなってくる瞼をとじた」
美喜さんは煮えくり返るような思いで、警官に食って掛かりました。
「この赤ん坊は私が産んだ子ですって? この列車にお医者さんが乗っておられたら、すぐここに呼んでください。私は今すぐにでも裸になります。私が子どもを産んだばかりの体なのかどうか、診察してもらったらわかるはずです」
美喜さんは胸のボタンに手をかけて、今にも脱ぎそうでした。
ところが同じ車両の隅の方に座っていた老人が証言してくれました。
「沼津あたりで乗ってきた女の子がその紫色の風呂敷包みを持って、私の前を通ったのを覚えています。濃い色が私の眼に残っています。その女の子は名古屋で降りていきました」
この証言のお陰で美喜さんの疑惑は晴れました。
◇そのとき、神のお告げが臨んだ!
しかし、そのとき美喜さんにひそやかな神の声が臨み、ささやかれたように感じました。
(もしお前が、たとえいっ時でもこの子の母とされたのなら、日本国中に放置されたこうした孤児たちの母になってやれないのか……)
(えっ…………)
(これは偶然起きた出来事ではない! お前の覚悟を確かめるために起きた出来事だ)
(…………)
まったくその通りでした。美喜さんは現実問題として、孤児院の開設に取り組まざるを得なくなりました。
前著『混血児の母』に美喜さんはこう聞いています。
「両方の国から要らないといわれる子ども、親からも邪魔者扱いにされ、闇から闇に葬られる子どもの現実を直視したとき、私の運命は決まった。それは残された半生をこれらの混血児と運命を共にすることである」
美喜さんが45歳のときのことでした。
写真=焦土と化した祖国