日別アーカイブ: 2022年8月20日

澤田美喜2

沈黙の響き (その115)

「沈黙の響き(115)」

GHQと闘って孤児院を開いた澤田美喜さん

神渡良平

 

◇大磯にパンパンの子どもを収容する施設をつくらせるな!

 澤田美喜さんはようやくGHQや日本政府の了承を取り付けて、エリザベス・サンダース・ホームを開設したものの、思わぬ障害となったのは地元の反応でした。

 

「岩崎家の別荘にパンパンの子どもを収容する施設をつくるとは何事か! 奴らは敵兵の子ではないか。高級別荘地としての大磯のイメージがけがれる!」

 と、反対運動が起きました。混血孤児など国辱以外の何物でもないというのです。混血孤児に罪はなく、誰かが面倒見なければならないというのに、です。前門の虎、後門の狼とはこのことです。次から次に新たな問題が出てきました。

 

その間も、生きていくのに疲れ果てて、子どもと心中する一歩手前まで行っている若い母親が、澤田さんを訪ねてきて、涙ながらに子どもを託していきます。澤田さんはそんな母親の頼みを一人たりとも拒否しませんでした。いや、拒否できなかったのです。

 

 それに列車の中や駅の待合室、公園、道ばたに紙くずのように捨てられた混血児が、ホームに連れてこられます。

髪が縮れている……、

色が黒い……、

青い眼の混血児だ……

 

そんな理由で捨てられた孤児が大磯の町だけでも20人を超えました。澤田さんは独り臍(ほぞ)を噛み、受けて立ちました。

(これは敗戦の悲劇が生み出したものだ。避けては通れない!)

 美喜さんは意地でもこの問題から逃げるものかと腹をくくりました。やはり、土佐の異骨相(いごっそう)の血が流れています。受けて立つと決めたからにはやり抜くだけです。

 

◇昼はオニババ、夜はマリア

 それからますます、目に見えないいろいろな圧力が澤田さんの頭上に火の粉のように降り注ぎました。政府からもGHQからも圧力が、ホームを投げ出して混血児たちは全国に散らしてしまえと、手を変え品を変えて襲いかかってきます。しかし、澤田さんの闘志はますます燃え上がるばかりです。

 

(何おっ、敵はそう来るか!)

 と意地が出て、最後まで闘う決心をしました。どんなに波風が厳しかろうと、子どもたちを守り通すことに命をかけようと心に誓いました。

 

 一日の闘いが終わって子どもたちが寝静まると、澤田さんはくず折れるようにして、南海に散った3男晃(あきら)君の戦死を悼んで建てた聖ステパノ礼拝堂に行き、壁の十字架の下に膝まずいて涙のうちに祈り明かしました。

そこには美喜さんが長年かかって集めた、日本最古と伝えられる踏み絵の版木だとか、細川ガラシャ夫人の遺品である白磁のマリア観音など、キリシタンの遺物が多数収められています。それらの歴史的遺物に囲まれて祈りのときを過ごしました。

 

 美喜さんにとって十字架のイエスだけが心の支えでした。十字架で処刑された長崎の26人の隠れキリシタンたちたちが、讃美歌を歌いながら昇天していった姿を涙ながらに思い浮かべ、

(私も負けません!)

 と、歯を食いしばりました。澤田さんにとってホームを運営することは、宗教上の闘いでもあったのです。

 

 長年、美喜さんの秘書と運転手を務め、美喜さんの死後、澤田美喜記念館の館長となり、朝夕はいつも、記念館の入り口近くにある鐘をついていた鯛茂(たいしげる)さんは澤田さんを、

「ママちゃまは、昼間はオニババ、夜はマリアでした」

と回顧しています。歯に衣を着せない鯛さんらしい率直な表現ですが、ある意味では美喜さんの人柄を的確に表現しています。敵対する人が多い施設を運営していくには「オニババ」にならなければやっていけなかったでしょうし、それだけに夜、礼拝堂にこもって一人祈りのときを過ごし、聖母マリアにいやされていたのです。

                                                       

◇手を差し伸べてくれた支援者たち

 GHQの中には、夫のニューヨーク派遣に伴って行ったとき以来の友人もあり、同じ聖公会やメソジスト教会の信者もあり、その人たちが何かと手助けしてくれました。彼らが日本ではなかなか手に入らないミルクや医薬品、古着をこっそり送り届けてくれました。

 

 また若い軍医が夜遅く、孤児たちを診察してくれ、

「私はクリスチャンとしてお手伝いをします」

と、進駐軍のあり余る薬品を使って治療してくれました。回虫を持っていない子はないので虫下しはよく効いたし、疥癬(かいせん)などのしつこい皮膚病に米国製の薬品は効果があったので大変助かりました。ところがその軍医は3か月後、上官に呼びつけられ、転属させられてしまいました。

 

 あるとき、シカゴの裕福な未亡人から、4500ドル寄付したいと申し出がありました。ホームの経済事情からすると、夢のような大金で、干天の慈雨のような申し出です。みんなで大喜びしていると、シカゴから短い電報が届きした。

「日本のある筋から忠告されたので、送金を見合わせます」

 というのです。またか! 悔し涙に暮れざるを得ませんでした。

 また米国からの援助物資であるララ物資を美喜さんが転売しているという噂も流され、陰に陽にいやがらせを受けました。

 

 決定的だったのは、聖公会との関係が打ち切られたことでした。聖公会はイギリス系のプロテスタントです。ニューヨークのアメリカ聖公会本部海外伝道部長のベントレー主教は日本に来た際、大磯のサンダース・ホームを訪ねており、関係はすこぶる良好でした。

ところがそのベントレー主教からアメリカ聖公会からのいっさいの援助を打ち切るという通告を受けたのです。全米48州の各教区の主教たちにも同じ通告が出され、日本のエリザベス・サンダース・ホームには援助しないようにと通達されました。

当然日本聖公会にもエリザベス・サンダース・ホームを支援しないようにという通達が来ましたが、日本聖公会とは深い信頼の絆で結ばれていたので、関係断絶には至りませんでした。

 

◇渡米のためのビザが下りない!

 澤田さんが初めて米国講演のため、渡米を計画した昭和27年(1952)、日本はまだ占領下にあったため、なかなかビザが下りませんでした。米軍が混血児問題に触れてほしくないので、澤田さんの渡米に難色を示したようです。渡米の予定日が迫ってきたので、澤田さんはしびれを切らして、米国大使館に催促に行きました。

 

「国連大使を務めている澤田廉三の妻がビザを出していただけないということはどういうことでしょうか。私にビザを出すのはふさわしくないというのでしたら、夫も国連で日本代表の席に着く資格がないということでしょうから、夫に辞任して帰国するようにと電報を打ちましょう。私は国際世論に訴えてでも闘います」

 強硬な訴えを受けて米国大使館が折れ、とうとうビザが発給されました。以来、澤田さんは毎年数か月、アメリカに講演と寄付金集めに行っています。

 

 澤田さんのエリザベス・サンダース・ホーム運営はGHQとの闘いによって進められたのです。岩崎彌太郎の血を引く不撓不屈の精神がなければ、陰に陽に掛かってくる圧力は跳ね返せなかったでしょう。また国家を代表する外交官の夫人だったからこそ、米国の理不尽な対応に対しても闘うことができました。やはり澤田美喜でなければ、こうした難関は切り拓けなかったのです。

澤田美喜2

写真=不屈の闘志を燃やした澤田美喜さん