月別アーカイブ: 2022年9月

エリザベス・サンダース・ホーム1

沈黙の響き (その120)

「沈黙の響き(その120)」

家庭を犠牲にして運営されたエリザベス・サンダース・ホーム

神渡良平

 

 

◇母を求める子どもの思い

 令和4919日の産経新聞の「朝晴れエッセー」に、埼玉県富士見市の岡彩弥(あやね)さんの「特別な日」という手記が載りました。その手記は、子どもが母を求める思いがどんなに切実なものであるか、教えてくれました。

「私にとってお母さんと2人っきりでお出かけすることは特別なことです。なぜなら私には姉と妹がいて、お母さんと2人きりになることが少ないからです」

おやおや、どんなことを書いているのだろうと、私はその手記を読みすすみました。

「昔は姉が小学校に行っている間に2人きりで出かけることができましたが、私が幼稚園の年中組のときに妹が生まれて、そういうことが少なくなってしまいました。

 その当時、実は本当に悲しかったのですが、私はがまんすることができました。理由は、私は小さい子のお世話が好きだからです。

 今は妹も幼稚園生になり、小学校の振り替え休日に、またお母さんと2人でお出かけできるようになり、とてもうれしいです」

 ほう、お母さんと2人っきりでお出かけできることがそんなにうれしいの! と正直驚きました。お母さんとは毎日いっしょなのに、お母さんと2人きりになり、独占できることがよほど嬉しかったようです。彩弥さんの手記は続きます。

「お母さんと2人きりのときは、ふだん家では話せないことや、2人だけのひみつのことを話したり、ゆっくりごはんを食べて、映画を見たり、のんびりお買い物することができます。

 お母さんも私と2人でごはんを食べているとき、“幸せだね”と言ってくれるので、私もとっても幸せな気持ちになります」

 なるほど、お母さんが自分に注いでくれている愛情を確認できるから、とっても幸せな気分になるんだ。

「お母さん、運動会や行事のときに、朝早く起きて、お弁当を作ってくれたり、家のことをたくさんしてくれてありがとう。

 来年は妹が小学生になるので、休みの日もいっしょになることから、またお母さんと2人きりでお出かけができなくなってしまいます。私はここに書ききれないくらい、お母さんのことが大好きなので、これからもたまにはいっしょにお出かけしてください」

 小学校2年の女の子の中に、こんな思いがあったのかと知り、目頭がちょっとウルウルしました。子どもが母を求める思いには切ないほどのものがあったのです。

 

◇「私たちとホームの子どもたちとどっちが大切なの?」

 そしてはっと気づかされました。いま連載している澤田美喜さんの3人目のお子さんで

長女の美恵子さんがお母さんに食ってかかったことがありました。

「ママ、私たちとホームの子どもたちとどっちが大切なの?」

 おそらくそれは、先に引用した彩弥さんの手記が暗喩しているように、美恵子さんの必死の叫びだったに違いなく、もっとも核心を突いた声でした。

そう詰問されて美喜さんは狼狽しました。面と向かって問い正してほしくないことだったに違いありません。

次の瞬間、美喜さんは恵美子さんの頬をはたきました。お母さんにはたかれて、恵美子さんは部屋に駆けこんで泣きじゃくりました。はたいた美喜さん自身呆然自失したまま、そこに立ち尽くしました。

そこでようやく私は、美喜さんがエリザベス・サンダース・ホームを運営していく陰には、家庭を犠牲にしているという痛みがあったのだと思い至り、厳粛な気持ちになりました。

(あれはただの慈善事業ではなかったのだ。戦争の落とし子として混血孤児たちが生み落とされ、誰も世話する者もなく路傍に打ち捨てられているのを見たとき、美喜さんは、

「この子たちを打ち捨てては、戦後処理は終わらない。ならば私がそれを背負って立とう」

 と、決意したに違いありません。

しかし、夫は国を代表するような外交官であり、家庭には育ち盛りの3人の子どもたちがいます。そこに戦争孤児たちを世話する事業を加えることは尋常一様なことではありません。どれかを犠牲にしなければならないと思い、美喜さんは家庭を捧げようと思ったに違いありません。お嬢さんが泣きながら、

「私たちとホームの子どもたちとどっちが大切なの?」

 と迫ったとき、思わずお嬢さんの頬をはってしまいましたが、あのあと美喜さんは礼拝堂に駆けこんで、

(ごめんなさい、恵美子。お母さんをゆるして。エリザベス・サンダース・ホームを開き、混血孤児たちの養育と始めた以上、もう投げだすわけにはいかないの)

と、泣いて詫びたに違いありません。そんな涙があったからこそ、ホームは荒波にも何とか耐えて維持され、多くの子どもたちを育て上げ、巣立っていったのです……。

 私は、いまは主なき大磯のエリザベス・サンダース・ホームにたたずんで、そこここに涙の痕がしみ込んでいると知りました。

エリザベス・サンダース・ホーム1

写真=エリザベス・サンダース・ホーム


澤田美喜3

沈黙の響き (その119)

「沈黙の響き(その119)」

立ち直ろうとするМくんを支え励ました澤田美喜さん

神渡良平

 

 

 戦後、アメリカ兵(GI)と日本の女性との間に混血児が生まれて巷にあふれたころ、捨てられた混血児を見捨ててはおけず、澤田美喜さんは大磯のエリザベス・サンダース・ホームで養育し始めました。その努力によって多くの子どもたちがすくすく育ち、社会に旅立っていきました。また、アメリカ兵の養子として、米国に旅立っていった混血児たちも大勢ありました。それは美談としてマスコミに取り上げられ、テレビで特集番組が組まれて報道されました。それは戦後の荒廃した世相に咲いた一輪の花だったと言えます。

 

 ところがその反面、とても手を焼く子どもたちもあり、いったいこの子たちには人間らしい感情はあるのかと疑わざるを得ないことも多々ありました。美喜さんはこの子たちを何とか正しい道に引き戻す手立てはないものかと思い悩み、苦しみました。これでもかこれでもかと、次から次へと心を痛めさせられることが続き、どんなに悲しんだかしれません。

 

 聖ステパノ学園中学校を卒業後、すっかり悪ガキになってしまった少年たちが週末の夜、集団でホームを荒らしに来たこともありました。教員室や家庭の鍵を壊し、窓ガラスを破って侵入し、食料品や電気釜などを盗むのです。あるときはホームの子どもたちがひよこのときから大事に育てていたニワトリを絞め殺して焼き鳥にして食べてしまうなど、どう見ても意地悪としか思えないことをしてうそぶいていました。

 

 彼らの行動はだんだんエスカレートして、深夜、子どもたちの宿舎にカンシャク玉を投げ込み、女を連れて教室にもぐり込んでシンナーを吸い、桃色遊戯に沈溺しました。乱暴狼藉は大磯の町にも及び、コソ泥をくり返しました。美喜さんたちはほとほと困ってしまい、お詫びしてまわりました。

 

 美喜さんや保母さんたちは深夜、彼らを追っかけて、ホームの周りの山坂を駆けまわったことが何十回となくありました。もし自分の死期が早まるとしたら、このときの無理が原因だろうと思ったほどでした。捨て鉢な悪ガキたちはいつも他人の迷惑を考えず、自分さえよければいいと行動しており、何につけてもひがんで、

「どうせ俺たちは……」

と愚痴っていたのです。

 

◇М少年がくり返す非行

 その中にМという少年がいました。Мくんはどの悪行にも加わっているワルでした。憎々しげな口をきき、大物ぶっていましたが、どこかにまだ純情さが残っており、それが美喜さんに彼はまだ引き戻せるのではないと思わせました。

その彼が聖ステファノ学園中学校を卒業して初めてもらった給料で、美喜さんに心臓の薬を買ってきてくれたのです。美喜さんは小躍りして喜びましたが、彼にたびたび迷惑をこうむっていた他の教師たちは、

「な~に、またまたびっくりするようなことをしでかすから、驚いて心臓が破裂しないように皮肉をこめて買ってきただけですよ」

 と、彼のプレゼントをまじめに受け取ろうとはしませんでした。

 

たとえその通りであるとしても、美喜さんはそうは思いたくありませんでした。英国の友人が美喜さんにこう言ったことがありました。

「敵を敵として取り扱ったならば、その敵はいつまでも敵です」

 美喜さんその考えに深く共感し、Мくんに立ち直る機会を与えようと努力しました。そして壊れかけていた関係が修復されるたびに、忍耐してよかったと感謝したのでした。

 

 Мくんは不思議な少年でした。耳をふさぎたくなるような毒舌を吐き、ふてぶてしい態度を示す一方では、カラス、豚、犬など、死にそうになっていた動物を生き返らせて、見事に飼いならす特技を持っていました。彼に助けられた鳥や動物がなついて、彼について歩くのを見たら、Мくんは根っこには善良なものを持っているはずだと思わざるを得ませんでした。

 

◇立ち直ろうとするМくんの健気な意志

 そうしている間に、Мくんが悪い仲間から少しずつ遠ざかり始めました。

何と、恋をしたのです。そのころから、

「どうせぼくなんか……」

という捨て鉢なセリフを吐かなくなりました。それどころか、美喜さんはМくんから殊勝な気持ちを打ち分けられたのです。

「ぼくはあの子を逃したら、もう二度とああした子にはめぐり逢えないと思う。だから何としてもこの恋は実らせたいんだ……」

 

 その真剣な態度には、かつて持っていた自暴自棄の色はなく、瞳からシンナーで濁った光は消えていました。彼女の両親はまだ彼らの恋に気づいていませんでした。もし娘が不良少年と付き合っていると知ったら、両親は必ず拒絶するに違いありません。美喜さんは、

(何とかしてこの恋を実らせてあげたい。きっと立ち直るきっかけになる!)

 ある日Мくんに訊いてみました。

「ママがその子の親御さんにお会いして、あなたの本気度を話そうか?」

 Мくんはしばらく黙っていましたが、やがてコクリとうなずきました。それしか彼女の両親を説得する方法はないと思ったのです。

 

 そこで美喜さんはご両親に長い手紙を書きました。Мくんが生後8か月でエリザベス・サンダース・ホームにやってきてから今日に至るまでのことを包み隠さず書きました。そしてМくんは娘さんの愛情で救われ、立ち直ってきたこと、自分も彼の母として今後も見守っていくので、どうぞ2人の付き合いを認めてほしいと訴えました。

 その結果、美喜さんとМくんの誠意は先方に伝わり、2人の交際を認めてもらいました。

 

◇愛情ほど自立を支えるものはない

 娘さんとの付き合いが深くなるにつれ、娘さんの愛情は悪友の誘いの陰に隠れていた彼の善良さを引き出し、自立できるまでになりました。そして2人は、彼が幼児洗礼を受けたホームのチャペルで結婚式を挙げ、新生活をスタートしました。Мくんは美喜さんにお礼の手紙にこう書いています。

「ぼくは長い間、いつ彼女の親に見つかるかとビクビクした生活をしていたんです。でも今は晴れてみんなに祝福され、明るい日を送っています」

子どもも授かったМくんの生まれ変わったような目の色に、美喜さんは救われた思いがしました。

 

あの古武士のような謹厳実直な運転手兼秘書の鯛茂(たいしげる)さんに、

「昼はカミナリ、夜はマリア」

と評された美喜さんです。「ママちゃまは怖かった!」と一様に言う在園者たちが、それでもなおなぜママちゃまを慕うのか――私はつらつら考えました。

ここで採り上げたМくんのように、自分の立ち直りを助けてくれたと感じた青年たちは、美喜さんを“生涯の育ての親”と慕いました。彼らはママちゃまが自分に注いでくれた愛は掛け値なしに本物だったと感じています。

 

もちろん、人間の世界でのことです。すべてが良い実を結ぶことはあり得ません。ママちゃまはえこひいきが多かったと否定的に捉える人もたくさんいます。それも事実でしょうが、美喜さんの援助で立ち直った青年があることも事実です。私は善意が実った事例を評価したいと思います。

澤田美喜3

 

写真=ありし日の澤田美喜さん


波乱万丈の人生だったと語る

沈黙の響き (その118)

「沈黙の響き(その118)」

自分を捨てた母を赦した東谷米子さん

神渡良平

 

◇就職でも社会から拒まれ、
アマゾンへ渡った

中学校を卒業して社会に出ると、黒田俊隆さんは就職差別という壁に直面しました。そこで澤田美喜さんはホームの卒園生たちを新天地ブラジルで農場を開拓させようと考え、5ヘクタール(東京ドーム約一個分)もの土地を入手しました。黒田さんはその第1陣としてブラジル・アマゾンに移民したのです。日本に未練はありませんでした。

 

三菱から耕作機械を提供され、美喜さんも毎年訪れ、将来はここに移住しようと考え、国籍まで取得しました。しかしアマゾンの開拓は容易ではありませんでした。黒田さんたちは10年以上奮闘したものの、アマゾン開拓の夢は破れ、ついに断念しました。

黒田さんは帰国して再出発を余儀なくされました。ようやく看護師の資格を取得し、自分のように理不尽な差別を受ける人を支えたいと思い、岩手県の精神病院で定年まで勤めました。

 

今回見つかった母たちの手紙から、黒田さんは感じたことがありました。

「お袋が産んでくれたから今の俺がいる。それは絶対間違いない。そしてホームで育てられたから、今の俺がいるんだ。

産み捨てるっていう言葉は嫌いだけど、手紙を読むと、母親たちは産み捨てるような状況じゃなかったんだ。万策尽きて、子どもをホームに預けざるを得なかった。親が悪いんじゃないんだよ。

 戦争があったから俺たちが生まれているわけであって、憤りをぶつけるとしたら戦争だ。戦争自体がダメなんだ」

 黒田さんの75年の人生に裏打ちされた言葉は重たく響きます。

 

◇付きまとう“差別”感情に苦しんで

もう一人のホーム出身者の東谷米子さんはホーム卒業後間もなくして、日本人の男性と結婚し、3人の子どもに恵まれたものの、苦労の連続でした。ホームにいたころに所得したマッサージ師の資格を頼りに、昼も夜も必死で働きました。自分と同じ思いをさせまいと懸命に子育てをしましたが、自分の子どもたちもまた混血児と言っていじめられました。

「小学校に入るとき、子どもに何でいじめられるのか説明しました。日本とアメリカの戦争で、おじいちゃん、おばあちゃんの息子が兵隊にとられて戦死されたかもしれない。そのおばあちゃんにとってアメリカは憎き敵国になる。その腹いせが、米兵との混血児のお前に向かっている。お前はそういう歴史を背負って生きているんだから耐えなきゃいけない」

 いたいけない子どもに、いじめられる理由を話さなければならないとは酷な話です。それとともに、米子さんはホームでの楽しかった体験談を語りました。

「お母さんはエリザベス・サンダース・ホームで、いい人たちに育てられたんだ。でもあんたたちは町の普通の小学校の800人の生徒の中へ、きょうだいだけで入っていかなければならない。だからいじめられるもんだって思いなさい。お前たちは責められる必要は全くないけど、これも宿命だから受けるしかない」

 

母親に会いたいの一念で……

米子さんは、同級生がまぶたの母に会いに行き、傷付いて帰ってくる姿を何度も見てきました。

「みんな大人になってから、ホームの同級生や後輩たちがお母さんを探したいって言いだすんです。私はやめなさい、訪ねていったら、あんたは2度殺されるよって言いました。1回目はホームに連れてこられ、捨てられて殺された。2度目は会いに行って邪険にされ、また殺される。

今さらお母さんに会いたいなんて言って訪ねていって、お母さんがあんたを抱きしめてくれると思うの?

 

お母さんはあんたをホームに置き去りにしてきたという後ろめたさがあるから、邪険にするわけにはいかないけれども、あまり慕ってもらっても困るんだよ。向こうには家庭があるし、過去を暴き立てられたくないという思いもある。それが現実だよ。だから遠くから見ているだけにしなと言いました。

でもね、生みの母に会いたい一心で訪ねていって、深く傷ついて帰ってくるんだ。いたたまれないたりゃありゃしない」

そう言って米子さんは目頭を押さえました。

 

◇私の母は私を抱いて、屋上から飛び降りようとしたそうです

 そう述懐する米子さんは生みの母についてこんな体験をしたそうです。

「私は自分からは母親に会いに行かないと決めていました。ところが大人になって偶然、母親の所在がわかり、自分の出生の事情を知ったんです」

 

米子さんの母親は、戦後、今のソウルから日本に命からがら引き揚げてくる途中、護衛として派遣された米兵と親しくなり、日本に到着したときにはすでに妊娠7か月になっていました。母親の家族は、出産後すぐに米子さん母子を引き離し、施設に入れることにしました。施設の人が迎えに来る前の日、母親は米子さんを抱えて病院の屋上から飛び降りようとしたそうです。

 

「それを知って、私はお母さんがかわいそうだなと思いました。私なら発狂しちゃう。子どもは絶対離したくない。でもあの時代、子どもを育てて行くことがどれくらい大変だったか。育てたくてもできなかったというのが実際です。子どもを手放したくて手放したわけじゃないんだ。非情な母親ばかりじゃない」

 米子さんは母親が自分を抱いて飛び降り自殺をしようとしてことを知り、母に同情し、母親を赦しました。

夫を看取ったあと、米子さんは今年、ひとり大磯町に引っ越してきて、マッサージ店を開業しました。残りの人生を、育ったホームのそばで過ごしたいというのです。

 

◇不朽の名著『母をたずねて三千里』

かつてイタリアのエドモンド・デ・アミーチスが書いた『母をたずねて三千里』(青空文庫)という物語がありました。アルゼンチン共和国の首都ブエノス・アイレスに出稼ぎに行ったまま、音信不通になった母アンナを尋ねて、息子のマルコがイタリア・ジェノヴァからアルゼンチンへ渡る冒険の旅を描いた物語です。

 

 旅の途中、マルコは何度も危機に陥りましたが、そこで出会った人々に助けられ、大きく成長していく物語でした。この物語はフジテレビでもアニメ化され、多くの人に感銘を与えたので、ご記憶に残っている方も多いかと思います。子が母を慕う話は永遠不滅です。母と子の絆はそれほど深いのです。

 

今回見つかった母親たちが寄せた手紙から米子さんが思うのは、今も世界で起きている戦争とそこで生まれ育つ子どもたちのことです。

「ひとたび戦争が起きたら、自分たちのように敵対する関係の中で子どもが生まれます。すると同じように差別が繰り返されます。今の時代にそんなことは起こらないと思うかも知れないけれど、戦争は絶対になくなりません。戦争だけはしてほしくない」

“敵兵の子”とレッテルを貼られ、戦後77年を生き抜いた米子さんは平和への願いを切々と訴えました。

波乱万丈の人生だったと語る

ありし日を語る東谷米子さん

写真=思い出を語る黒田俊隆さん

母を恋い慕う仲間たちを支えた東谷米子さん


エリザベス・サンダース・ホームの入り口のトンネル

沈黙の響き (その117)

「沈黙の響き(117)」

NHK・WEB特集「“敵兵の子”と呼ばれて――わが子を手放した母たちの手紙

神渡良平

 

 

 エリザベス・サンダース・ホームと澤田美喜さんのことを連載しているうち、NHKが826日、WEB特集で「“敵兵の子”と呼ばれて――わが子を手放した母たちの手紙
」を
社会部記者の小林さやかさんが報告しました。戦後77年を経ているにもかかわらず、当事者たちの証言は当時のことを伝えています。そこで前後2回にわたって、その内容をお伝えします。

 

◇エリザベス・サンダース・ホームに通じる暗いトンネル

大磯のエリザベス・サンダース・ホームに通じる暗いトンネルの入り口に、幼い男の子を置いて立ち去る母親……。泣いて追いかける子どもの声がそのトンネルに響く。

でも、若い母親は耳を覆うようにして駆け去り、振り返ることはありませんでした。引き裂かれたその母親の気持ちを表すかのように、両頬は涙でぐしょぐしょに濡れていました。

 

終戦直後、日本人の女性と米兵などとの間に生まれた子どもたちに幾多の悲劇がくり返されました。私たちの国が否定しても否定し去ることができない負の遺産です。

今年、その母親たちが澤田美喜さんに宛てて書いた19通の手紙が発見され、NHKのWEB特集が放映されました。あの子たちはなぜ母のもとで育つことができなかったのか――戦後77年を生き抜いた卒園生の証言です。

 

エリザベス・サンダース・ホームに通じる暗いトンネルの入り口に立って、当時のことを語るのは、今年75歳になったホーム1期生の東谷米子さんです。

「お母さんが3歳くらいの男の子を置いて、逃げるんです。そしたらトンネルの入り口を、

ママー! ママ-! 

って呼んで、追いかけるんだよ。泣いて、泣いてね。

でも、お母さんは振り返らずに、トンネルの中を駆け抜けて行く。

それを私は見てたの。毎日、毎日、同じことが繰り返されていた――」

涙なしには聞けない証言です。エリザベス・サンダース・ホームには悲しい話がいっぱい詰まっていました。

 

トンネルの先にある「エリザベス・サンダース・ホーム」は、戦後、日本の女性と米兵など外国人兵士との間に生まれた子どもたちを養育するため、三菱財閥の創始者である岩崎彌太郎の孫、澤田美喜さんが私財を投げだしてつくった孤児院です。

当時、子どもたちは“敵兵の子”などと呼ばれて差別されていました。昭和23年(1948)に最初の子どもを受け入れて以来、昭和55年(1980)、79歳で亡くなるまで、30年余りの間におよそ2000人を養育しました。今は一般的な児童養護施設として運営されているホームには、当時の資料が残されています。

 

その中からホームに子どもを預けた母親などが澤田美喜さんに寄せた19通の手紙が見つかりました。それぞれの手紙に母親たちは心の内を吐露していました。その手紙の一つは米兵とのことをこう訴えています。

 

「結婚するつもりだったその人は、今アメリカの本国へ帰ったまま何の便りもありません。それに最後に逢ったときは、誰れの子かわからないから養育費も出せないなどと言います。そんな! そう聞いて身が張り裂けるようでした」

 恋人の米兵を米国に送り出すまで、さまざまな修羅場があったろうことがうかがえます。

「主人に捨てられ、職もなし、お金もない今、〇〇〇(子どもの名前)を抱えていたら、私はどんなにじりじりと心を乱して、飢え死にするだけです……」

 

 明らかに生活苦からエリザベス・サンダース・ホームを頼ってきたようです。しかし信じられないような悲劇に襲われて女性もありました。

「私は池袋駅西口で進駐軍兵士2名にピストルで脅されて強姦され、妊娠し、この子を出産しました……」

大陸からの引き揚げる途中、強姦された女性、外国人兵士と恋愛関係になった女性、体を売って生計をたてた女性……手紙には母親たちが抱えた苦難が書き綴られていました。さまざまな事情の中で外国人兵士の子どもを宿し、多くの外国人兵士は女性と子どもを残して、本国に帰国するか、次の勤務地の朝鮮へ移っていきました。

 

当時の米国の移民法は戦地で産んだ赤ちゃんは連れて帰れませんでした。だから出産した赤ちゃんを街に遺棄されることも相次ぎました。それに残された赤ちゃんにも“敵兵の子”として社会から冷たい視線がつきまといました。

 

今回発見された手紙にも、母親たちが差別から子どもを守ろうとする思いが綴られていました。

「『アメリカ』『日本』など子ども同士の戦争さながらの姿を目のあたりに見て、本当に耐えられないのです。友達に
“あいの子”とさげすまされ、解せない顔で私に、あの子がこう言ったと泣いて訴えます。私は可愛くて手離すことができず、かといって手元に置いてはこれからも友達にからかわれます」

 差別される子どもを抱えて苦しんでいるようすが伝わってきます。

 

◇「誰も遊んでくれなかった」

エリザベス・サンダース・ホームで育った1期生の黒田俊隆さん(75歳)は、米兵の父親との間に生まれました。幼い頃、母親に連れられてホームに来たことを覚えているそうです。

「ホームに連れてこられ、これからホームの人と話をするからここにいてと言われたんです。でも俺はうかつにもベッドで寝てしまった。目が覚めたときお袋はもういなかった。お袋に捨てられたと思った。それが一番最初の記憶で、当時はそういう風に解釈していたよ」

 

6歳になり小学校進学を控えたころ、黒田さんたちのような米兵などとの間に生まれた子どもを、地域の小学校が受け入れるべきかどうかという議論が巻き起こりました。

昭和28年(1953)、厚生省が初めて行った実態調査で、「誰も遊んでくれない」という回答が一定数あり、厚生省は「一般児童と差別されないよう、すべての児童と平等に育てるべきだ」といった通知を出しました。それを受けて文部省は一般の小学校で受け入れる方針を定めたのです。

 

しかし、地域の記録に「日本人の親の感情的抵抗が相当ある」と記されるなど、実際には受け入れを好ましく思わない声も上がったようです。黒田さんはその間の事情を語ります。

「あとから聞いた話だけど、俺たちが小学校に入学することを反対したらしい。俺たちが“混血児”だからだ。俺たちは誰も遊んでくれなかった。俺たちは町からも虐待されたんだ。木で叩かれたり、石を投げられたりしたんだよ」

 

澤田美喜さんはそうした子どもたちを守ろうと、ホームの中に聖ステパノ学園小学校をつくり、外の社会と切り離して育てました。だから黒田さんは、ホームは“楽園”のようだったと語ります。

「俺たちは、血は一切つながっていないけど、家族なんだ。あそこで育って、同じ教育を受けた兄弟で、その上にママちゃま(澤田美喜)がいた。

ママちゃまは俺たちにとってはお袋なんだ。自分が“混血”だとか、日本人だとか全然考えなかった。ホームの中は楽しかった」

今もホームの卒園生が大磯の駅前で喫茶店を開いています。いつまでもそばにいたいというのです。だから今でも同窓会が開かれています。

エリザベス・サンダース・ホームの入り口のトンネル

澤田美喜さんに届いた孤児たちの母親の手紙

写真=エリザベス・サンダース・ホームの入り口にある黒いトンネル

母親たちが寄せた手紙