日別アーカイブ: 2022年11月12日

西郷隆盛2

沈黙の響き (その127)

「沈黙の響き(その127)」

西郷隆盛の揺籃となった沖永良部島の牢獄

神渡良平

 

 

 1029日、岐阜県恵那市で、徳川幕府最高の教育機関「昌平坂学問所」で教鞭を執っていた儒学者佐藤一斎の生誕250年を記念して、第26回言志祭が催されました。その席上、「日本の文化と佐藤一斎」と題して講演しました。会場には湯島の昌平坂学問所から移し植えられた櫂(かい)の木が真っ赤に色づき、花を添えていました。

 

 講演では数年前読者40数名で、西郷隆盛が薩摩藩の国主島津久光にうとんぜられて、島流しされていた南溟の孤島・沖永良部島(おきのえらぶじま)を訪ね、西郷が幽閉されていた牢獄の周りに座って、瞑想したことを話しました。

すると講演を聴いてくださったグループが講演に触発されて、来年の研修はぜひ沖永良部島に行きたいとおっしゃるので、主催者に詳細を書いた次のような手紙を書きました。

 

〈薩摩藩は島津斉彬(なりあきら)死去後、忠義が藩主となりました。しかし久光が藩主の実父であることから国父と称して実権を握りました。久光は、実力は比べるもなかった異母兄斉彬に代わって、明治維新の旗頭になれる番が回ってきたと喜びました。でも久光の力量を知っている西郷は久光を、

「自分の力量をわきまえない、まったくの田舎侍」

と揶揄していました。

 

西郷が久光を評価しないので、久光は当然西郷を嫌い、左遷して島流しにしました。西郷は、日本を虎視眈々と狙っていた欧米列強を抑えて、維新政府を樹立しなければならない大詰めを迎えていたので、怒り心頭に達しました。

 

 鹿児島から島流しされるとき、獄中で読書しようと、柳ごおり四つ分の書物を持っていきましたが、とてもとても読書できる心境ではありませんでした。書物を開いて読んでいるようでも、心は上の空でした。そんなときだったから『言志耋録』(げんしてつろく)133条は身に沁みたはずです。一斎は、

「順境、逆境は他者に起因するのではなく、お前自身の心境から来るんだ」

と叱りました。これにはおそらく最初は反発したでしょう。しかし、考えれば考えるほど、西郷の心の嵐は久光のせいではなく、自分自身に原因があると思わざるを得ませんでした。そうなると一斎が『言志耋録』3条で強調したように、

「経書を読むは即ち我が心を読むなり。認めて外物となすことなかれ。我が心を読むは即ち天を読むなり。認めて人心と做すことなかれ」

が身に沁みたに違いありません。天という概念は単なる観念的な絵空事ではなく、初めて対話すべき相手として浮かび上がってきたのです。これは大きな覚醒でした。

 

 私は西郷が沖永良部島の牢獄で過ごした日々、彼は久光憎しの感情から解放され、薩摩藩という意識からも脱却し、真に新生日本という意識に高まっていったように思います。薩摩藩だ、維新勢力だ、倒幕勢力だという意識を超えて、維新政府を確立しなければならないという思いに至ったのです。

 

 そのことは江戸幕府を代表して、江戸城無血開城について西郷と折衝した勝海舟が、西郷は敵だ、味方だという意識を超えていたので、西郷と一緒になって新生日本を作り上げようという気になったと『氷川清話』(講談社学術文庫)で述べています。

「西郷に及ぶことができないのは、その大胆識と大誠意にあるのだ。俺の一言を信じて、たった一人で、江戸城に乗り込む。俺だって事に処して、多少の策謀を用いないこともないが、ただこの西郷の至誠は、俺をして相欺くことができなかった」

 

「このときに際して、小籌浅略(しょうちゅうせんりゃく))を事とするのは、かえってこの人のためにはらわたを見透かされるばかりだと思って、俺も至誠をもってこれに応じたから、江戸城受け渡しも、あのとおり、立ち話の間にすんだのさ。西郷は今言うたとおりに実に漠然たる男だったが、大久保はこれに反して実に截然(せつぜん)としていたよ」(※截然=物の区別がはっきりしていること。明瞭や明確に近い)

 

「官軍が江戸城に入ってから、市中の取り締まりがはなはだ面倒になってきた。幕府は倒れたが、新政府はまだ敷かれていないから、ちょうど無政府の姿になっていたのさ。しかるに大量の西郷は、意外にも、意外にも、この難局を俺の肩に投げかけておいて、行ってしまった。

『どうかよろしくお頼み申します。後の処置は、勝さんが何とかなさるだろう』

と言って江戸を去ってしまった。この漠然たる『だろう』には俺も閉口したよ。

 これがもし大久保なら、これはかく、あれはかく、とそれぞれ談判しておくだろうに、さりとてあまりにも漠然ではないか。しかし考えてみると、西郷の天分の極めて高い理由は、実はここにあるのだよ」

 

 あの時期、誰かが敵だ、味方だという意識を超えていなければ、新生日本など生まれようがなかったのです。それだけに、西郷の成長が日本を窮地で救ったと言えます。

 私はあの沖永良部島の牢獄で西郷が、

「内なる耳を澄まし、天の声に耳を傾けたからこそ、藩の意識を脱却ができた」

と思っております。狭い牢獄ですが、母親の胎内のような役割を果たしたのです。

 

それに『言志晩録』38条の「宇宙内のことは自分の分内のこと」と受け止めたという記述は西郷には極めて啓発的だったと思われます。

「象山の『宇宙内の事は、皆己れ分内の事』とは、これは男子担当の志かくの如きをいう」

(陸象山は「天地間の事は皆自分の中の事、自分の中の事は皆天地間の事」といったが、これは大丈夫たる者はいかなることもこの心的態度で臨むべきだと思う)

 

 西郷は獄中で一斎の個人指導を受けていたとすら言えます。この条は『西郷南洲手抄言志録』にも収録され、私学校の生徒たちに講義するとき使っているから、西郷は余程感銘を受けた一節だと思います。

 あれこれ考えると、明治維新という革命の揺籃は沖永良部島の牢獄だったということができるのではないでしょうか〉

 佐藤一斎は遠い過去の偉人ではありません。彼の透徹した思想が現代のリーダーを導いているのです。

西郷隆盛2

写真=『言志四録』から101条を抜き書きして『手抄言志録』を編んだ西郷隆盛