日別アーカイブ: 2022年12月17日

澤田廉三

沈黙の響き (その132)

「沈黙の響き(その132)」

難関を突破していく力を持った澤田美喜さん

神渡良平

 

 

澤田美喜さんの人生を俯瞰してみると、大きく4つの要素があるように思います。

1番目は父祖から受け継いだ不屈の精神です。

美喜さんは三菱財閥の創始者岩崎彌太郎にちなんで「女彌太郎」言われました。一度これと決めたら、何が何でもやり通す性格で、ときには妥協のない頑固一徹なところがありますが、これは美喜さんの美質です。これがなければ混血孤児の養育という難事業は達成できなかったと思われます。

 

2番目はキリスト教の信仰です。

美喜さんが外交官夫人でありながら、イギリスのバナードス先生の孤児院で汗水を流して奉仕しました。恵まれない子どもたちを保育してみて、自分の天職はここにあるのではないかと思うようになりました。そして召命を求めて祈った結果、孤児救済こそは天から授けられた仕事だと思え、いかなる障害も突破して事を成就して行きました。その背後にはキリスト教の信仰が根強くありました。

 

岩崎家は真言宗なので、美喜さんはキリスト教との接触は固く禁じられていました。ところが美喜さんは次第にキリスト教に感化されていきました。外交官のサラブレッドと言われた澤田廉三(れんぞう)さんと結婚した重要な動機の一つが、廉三さんがクリスチャンだったことでした。

澤田廉三(18881017日~1970128日)さんは外務事務次官を務めた後、駐フランス特命全権大使、初代ビルマ特命全権大使を経て、再び外務事務次官になり、初代国連大使を務めました。

 

3番目は混血孤児を養育したということです。

澤田さんは戦後の最大の課題だった米兵と日本女性の間に生まれた混血児の問題に心を痛め、

「私は日米戦争の戦後処理をしているのです」

 まで、言っています。日本政府も占領軍もこれを恥部とし、誰も正面切って取り組もうとしませんでした。だからこそ澤田美喜さんはこれに正面切って取り組んだのです。しかも、ただ単に雨露をしのがせ、食べさせるだけではなく、孤児たちが自分の人生の主人公としてしっかり確立できるよう心を労しました。一人ひとりの孤児に“育ての親”となろうとして奮闘したのです。これは幾重にも特記すべきことです。

 

 4番目は、澤田美喜さんは三菱財閥の孫娘なので、国際的な人脈と影響力を持っていました。この事業をなし遂げるためには、GHQと正面切って渡り合える力量と日本政府を動かせる実力を兼ね備えている必要がありました。澤田美喜さんは「押しの強さ」は天下一品です。

混血児の養育を阻むものは、日米の国家間の問題でもありました。だからこの問題の機関車役を果たし、現状を改革していける人は国際的な影響力を持つ人、あるいはそういう腹を持っている人でなければなりません。

 

例えば澤田美喜さんが戦後初めて、まだ米国による占領中、講演と寄付金集めのため、訪米しようとしたとき、なかなかビザが下りませんでした。米国大使館は美喜さんが米国で、日本の頭の痛い社会問題となっているGIベビーのことを宣伝し、米国をおとしめようとしているのではないかと警戒したのです。出港の日が迫っており、それ以上待てなかった美喜さんは、大上段に構え、ビザを出すよう大使館に迫りました。

 

「もし私が米国にとって好ましからざる人物であるというのなら、国連大使として活躍している夫に電報を打って、国連大使を辞任して帰国してくださいと依頼します」

 美喜さんは米国のマスコミや有名人にも手を打ち、国際問題にしてでも戦うつもりでしたが、その強気の姿勢に駐日大使館が折れ、出港間際にビザが下りて無事乗船できました。

 

 事業が成功するか否かは、ここぞというとき、踏ん張りが効くかどうかです。踏ん張れる人は難関を突破して、事を成就します。澤田美喜という人はさすがに女彌太郎と言われただけあって、“突破力”がありました。そうでなければ、エリザベス・サンダース・ホームの事業を率いることはできませんでした。その意味で、この役は澤田美喜さんでなければ務まらなかったと言えます。

澤田廉三

写真=外務事務次官、初代国連大使を務めた澤田廉三さん