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岩崎彌太郎

沈黙の響き (その133)

「沈黙の響き(その133)」

土佐の異骨相――岩崎彌太郎

                                                                                                                       神渡良平

 

 エリザベス・サンダース・ホームを運営した澤田美喜さんは性格が、一代にして三菱財閥をつくり上げた岩崎彌太郎のことを髣髴させるので、しばしば「女彌太郎」といわれていました。そこで今回は岩崎彌太郎と彼が一代にして築き上げた三菱財閥に触れたいと思います。

 

◇高知藩の地下浪人

 岩崎彌太郎の生家がある高知県安芸(あき)市井ノ口甲一ノ宮は高知の東側を流れる安芸川に近い田園地帯で、南側に広がる町並みの先には、南国の陽光を照り返している土佐湾が広がっています。

 

岩崎彌太郎は高知県安芸の地下(じげ)浪人、つまり最下級の武士でした。地下浪人とは最下級の武士階級である郷士(ごうし)が身分を売ったあと、村に居ついた浪人です。その赤貧ぶりは、7人家族で2、3足の下駄しかなく、笠もなく、あるのは蓑(みの)だけだったといいます。

 

 困窮の極みに達したのは父彌次郎が理不尽な庄屋の仕打ちに耐えかねて、床に伏したことからでした。それを聞きつけた息子の彌太郎は江戸から不眠不休で取って返し、わずか13日間で安芸郡の奉行所に出所して訴え出ました。しかし取り上げてもらえないので、いきり立った彌太郎は奉行所の白壁に非難する漢詩を書きつけました。それで逆に牢に入れられてしまい、岩崎家は男の働き手を失ってしまいました。

 

 土佐では頑固で気骨ある者を異骨相(いごっそう)と呼びますが、彌次郎は典型的な異骨相でした。大胆不敵にして豪胆、自分の主義信念を貫いて、権力者と争うことをためらいません。

 この獄中で彌太郎は数字に明るい商人と知り合い、算盤を弾いて状況を俯瞰することを覚えます。当時は算術に暗い武士が多いなかで、彌太郎は特異な存在となっていきました。入獄は7か月間に及び、先行きが見えないので、とうとう訴訟を取り下げました。

 

 安政4年(1857120日、親類縁者の尽力によってようやく出獄した彌太郎に、井ノ口村から追放し、高知城下4村への立ち入り禁止が申し渡されました。彌太郎は高知城下に近い村に蟄居(ちっきょ)し、漢学を教えて糊口をしのぎました。この苦渋に満ちた経験が彌太郎に、

「官憲は意固地になってたて突くよりも、協調して活用すべきものだ」

 という世渡りの術を植えつけました。彌太郎は政商という見識を持つようになりました。

 

◇藩命で長崎に派遣される

 安政5年(1858)8月、郷廻(ごうまわり)という郡奉行(こおりぶぎょう)配下の最下級の下役に取り立てられました。24歳のとき、藩命によって何と長崎詰めになり、情報収集に当たりました。長崎は外国に開かれた唯一の町で、彌太郎はオランダ、イギリス,清国の商人などと交流し、見聞を深めました。医師のシーボルトやのちに陸軍軍医監となる松本良順とも会い、見識が広がりました。このとき培った人脈が、のちに土佐藩から長崎の土佐商会の経営を任されたとき、役立つことになりました。

 

 しかし、古来から好事魔多しと言われるように、せっかくチャンスが巡ってきたのに、彌太郎は長崎での海外情報収集という本来の任務をおろそかにし、歓楽街の丸山に入り浸って遊蕩三昧にふけり、とうとう公金にまで手を付けてしまいました。かくして滞在わずか5か月で停職となり、国元にすごすごと帰りました。もう一度、一から出直す羽目になったのです。

 

 文久2年(1862)、彌太郎は長岡郡三和村の郷士の次女、高芝喜勢(きせ)と結婚し、長男久彌が誕生し、三郡奉行の下役として藩に召し出されました。

 

◇土佐藩随一の経済官僚に

 3年後に興ることになる明治維新に向けて、時代は産みの苦しみにあえいでいました。文久3年(18638月、長州は京都で薩摩藩、会津藩と衝突して敗退し、下関を襲った四国艦隊に破れて、幕府や列強に屈しました。土佐藩でも土佐勤王党の武市半平太が失脚し、後藤象二郎を中心とする改革派が実権を握りました。

 

 この情勢下で彌太郎は2度目の長崎行きを命じられました。長崎では後藤象二郎が土佐商会の責任者として、軍艦や銃器を買い付け、土佐の特産品である樟脳を外国に売りさばいていました。しかし借金が膨らんでしまい、後藤は身動きが取れなくなってしまいました。

 そのため、着任したばかりの彌太郎が経営眼を評価されて後任に抜擢され、見事に期待に応えました。彌太郎は数字や算盤に明るいだけでなく、金融の才もあり、商談を成立させるための根回しにも長けていたのです。

 

こうして3年後には、彌太郎が土佐商会の財産を引き継いで、九十九(つくも)商会を設立しました。土佐湾は別称を九十九湾と称するので、その名称を用いて九十九商会と改称したのです。

 

 慶応3年(186711月、彌太郎は新留守居役に昇進し、末席とはいえ上士の身分となり、土佐藩経済官僚の第一人者となりました。その1か月後、徳川慶喜は大政奉還し、王政復古の大号令が発せられました。

 

◇土佐商会から三菱商会へ

 明治2年(1869)、彌太郎は長崎から大阪の開成館大阪出張所(後の大阪商会)に異動になり、土佐藩の少参事に昇格し、藩邸の責任者となりました。かくして藩の事業や政務を取り仕切り、他藩の貿易も代行し、海運業も始めました。

 明治政府が藩営事業を禁じたので、土佐商会は九十九(つくも)商会と改称し、彌太郎が私企業として経営することになりました。

 

 その後、彌太郎は鴻池(こうのいけ)や銭屋などの豪商に差し押さえられていた藩邸を、藩の借金を肩代わりして買い戻し、その上で大半を自分へ払い下げました。さらに藩船3隻の払い下げを受け、海運業に乗り出しました。これが三菱の発端となります。

 

 明治4年(1871)、廃藩置県が行われ、初代高知県令となった林有造は旧知の彌太郎に相談しました。

「九十九商会が廃絶されては、そこで働く旧士族が困ります。ついては彌太郎、おはんが引き続き、経営してくれませんか」

 そこで会社名を九十九商会の幹部3名の「川」の字をとって「三川商会」としました。

これが明治6年(18733月、三菱商会として彌太郎の私商社となりました。翌年には東京に進出し、「三菱蒸気船会社」と改称しました。

岩崎彌太郎

 写真=土佐の異骨相と呼ばれた岩崎彌太郎