日別アーカイブ: 2022年12月31日

秋六義園

沈黙の響き (その134)

「沈黙の響き(その134)」

日本の海運王となった三菱

神渡良平

 

 

◇転機をもたらした台湾出兵

 話は前後しますが、明治4年(1871)、台湾に漂着した琉球の漁民54名が台湾の住民に殺害される事件が起きました。日本政府は清国と賠償を交渉しましたが、進展が見られないので、明治7年(1874)、日本政府は派兵することになりました。

 

 そのためには兵士や軍需物資を運ぶ輸送船が必要です。大隈重信大蔵卿は英国や米国の船会社に輸送を依頼しましたが、中立を理由に拒否されました。そこで大隈大蔵卿は日本国郵便蒸気船会社に依頼しました。この会社は日本の沿岸航路を狙う米国や英国の海運会社に打ち勝つためにつくった国策会社で、三井、鴻池、島田、小野といった豪商の出資でできた半官半民の会社です。

 

 半官半民の会社の国策会社だから、当然受けるものと思われました。ところが日本国郵便蒸気船会社はこの仕事を引き受けたら、国内の顧客は、しのぎを削って対抗している三菱蒸気船会社に奪われてしまうと懸念し、難色を示しました。

 

 やむなく大隈大蔵卿は三菱蒸気船会社に依頼すると、彌太郎は採算を度外視して、一も二もなく快諾しました。そこで政府は新たに船を10隻購入し、その運行を三菱蒸気船会社に委託しました。こうして台湾紛争が終わるころには、三菱蒸気船会社はそれまでの3隻の社有船に加えて、13隻もの大型船を持つ日本最大の海運会社に生まれ変わっていました。

 日本国郵便蒸気船会社はもはや三菱蒸気船会社の競争相手ではなくなり、明治8年(1875)には解散に追い込まれました。

 

◇さらなる拡大の機をもたらした西南戦争

 戦争は武器製造会社や運送会社に巨大な利益をもたらします。明治維新のあと、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と、不平武士の反乱が続き、政府は佐賀の乱、朝鮮での江華島事件では三菱を活用し、兵士や物資を輸送しました。

 

 明治10年(18772月、九州で西南戦争が勃発すると、政府は兵員や物資の輸送を三菱に依頼しました。三菱は国内の定期航路の運航を休止し、持ち船38隻を軍事輸送につぎ込みました。

 

 西郷隆盛が率いる明治最大の、そして最後の不平士族の反乱は3万人の兵士をつぎ込んで戦われました。しかし西郷は熊本鎮台があった熊本城を抜くことができず、田原坂の戦いで敗退し、9月には鹿児島城山で自刃して、西南戦争は終わりを告げました。

 

 明治10年末の三菱の収入は445万円、支出を差し引いて122万円という莫大な利益を上げました。彌太郎は恩賞として汽船を下賜され、傘下に61隻を支配するに至り、日本の総トン数の73パーセントを占めるまでになりました。戦争がまた三菱を肥え太らせたのです。

◇日本の海運王となった三菱

大久保利通(としみち)内務卿は日本の海運事業を三菱にゆだねることを決め、政府は運航助成金として1年に25万円支給し、かわりに三菱は政府の郵便物を輸送し、政府の命令で新航路を開設など、政府の一切の船の徴用に応じることになりました。

 

 彌太郎はそこで三菱社員に檄を飛ばしました。

「日本は徳川幕府の長年にわたる鎖国政策によって、海外への機運をすっかり失ってしまっていた。内外航路は残念ながら西洋人が独占するところとなっていたが、政府は三菱に航路の奪回を託したのだ」

 この鼓舞に奮い立たない者はありません。日本の海運業は海外に展開していき、台湾出兵以降は、大久保利通と結びついて事業を拡大していきました。

 

 国策の後押しを得て、三菱蒸気船会社は初めて、横浜―上海間に航路を開きました。上海航路は日本の海運会社が初めて持った定期外国航路です。その三菱に挑戦してきたのが、米国のパシフィック・メイル社です。PM社はサンフランシスコ―上海間に航路を開き、さらに上海から長崎、神戸、横浜と支線を延ばしてきました。

 

三菱蒸気船会社は熾烈な価格競争でPM社に打ち勝つと、大英帝国の東洋貿易を担っている巨大なフラッグ・キャリアであるピー・アンド・オーとの戦いに挑みました。P&O社は上海航路を開くと、それを延長して東京―横浜にも進出してきたのです。

 

 とても勝ち目がない戦いを逆転させたのは、彌太郎が発案した荷為替金融に踏み切ったからでした。政府も外国船への乗り込み規制や手続き料の徴収などによって、本腰を入れて三菱を援助し、ついにP&O社を撤退に追い込みました。 

 

 明治政府にとって自国の海運業の育成と内外航路の確保は国策上不可欠でした。三菱はその国策を受けて、天津(てんしん)、朝鮮、香港、ウラジオストックと航路を次々に開設していきました。三菱は文字通り政商として日本の海運王となったのです。

秋六義園

写真=岩崎家の庭園の一つ六義園(りくぎえん)