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マッカーサーと昭和天皇

沈黙の響き (その138)

「沈黙の響き (その138)」

教科書に墨を塗らせた屈辱的な出来事

神渡良平

 

 

昭和20年(1945)8月15日、日本は欧米との戦争に敗れました。すると鉄の規律を誇っていたはずの軍隊のタガが外れ、絶対だったはずの上官が部下に殴られるという不祥事が起きました。それに隊長がいち早く軍の物資をトラックで自宅に運んで隠匿したという噂も流れました。

軍隊は天皇を頂点にした尊厳な組織のはずでしたが、軍の上官はお上の威光で命令していた権威主義の組織だったことが露呈した出来事でした。

そうした出来事は軍隊だけでなく、学校でも企業でも地域社会でも起き、社会全体が無秩序になっていきました。だから堀田先生は自分もお先棒を担いだ天皇制や軍国主義教育がまったくの虚構だったことを知らされ、落ち込みました。

特に占領軍の指令で生徒たちの教科書に墨を塗らせ、自分が教育してきた事柄を否定しなければならなかったのが一番辛いことでした。ある日、堀田先生たちは進駐軍の命令により、生徒たちが使用している教科書を墨で消さなければならないことになりました。教師たちはその命令に格段騒ぎ立てもしませんでした。ある教師は教師であることに疑問を持ち、ある教師は早速に英語の勉強をしはじめ、ある教師は実業界に身を転じようとし、ある教師は生きる意欲を失いました。

堀田先生もGHQ(連合国軍総司令部)から出た神道指令に従って、教科書に墨を塗らせました。まず修身の本を出させ、何頁の何行まで消すようにと指示しました。生徒たちは素直に、言われたとおりに筆に墨を含ませてぬり消していきます。なぜこんなことをするのかと、誰も何も問いません。堀田先生は涙が溢れそうな思いでした。

修身の本が終わって、今度は国語の本に墨を塗ります。教科書は汚してはならない、大事に扱わなければならないと教えてきたのに、その教科書に墨を塗らせたのです。堀田先生は熱烈な教師だっただけに、教科書に墨を塗らせたことを恥じました。

何もかも信じられない……
 
敗戦の日以来、堀田綾子さんはこの世の何が真実なのか、見失ったままでいました。
 アメリカは日本を占領すると、改革を指示する幾多の命令を出し、学校教育はアメリカ流に方向転換しました。反骨心のある綾子先生は占領軍の命令だからと言って、
「はい、そうですか」
 と、安易に従うことはできません。

ところが校長はじめ先輩教師たちは占領軍の命令に抗弁することなく唯々諾々と従い、変わり身の早さは驚くほどでした。強い言葉で言えば“裏切った”のです。占領軍から示された教育計画は「カリキュラム」と呼ばれ、流行語になりました。

綾子さんは自叙伝では上司の裏切りをはっきりとは書いていませんが、状況はそうとしか思えません。そんな風潮の中で、綾子さんは何を教えることが真実なのか、教師たちは迷わずにいることができるのか、不安な気持ちで見詰め、何もかもアメリカ流に切り替わっていく時代の風潮を見ながら、
(生きるということは……押し流されることなのか……)
 と、暗澹としました。

(一体、何が信じられることなのだろう?)
 綾子さんの混迷は深まるばかりでした。そしてますます、
(何もかも信じられない……)
 と、懐疑の淵に沈んでいきました。

綾子さんの周りには、大学生、新聞記者、会社員、教師など、さまざまな結核患者が集まり、議論は百出し、喧々諤々(けんけんがくがく)、沸騰しました。共産党員もいれば、自由主義者もおり、詩人、仏教信者、無神論者、キリスト教信者もいて、いろいろな見解が語られましたが、どれもこれも納得できません。

綾子さんは心の渇きを覚えるばかりでした。綾子さんは常々、教育に情熱を失ったら二度と教壇に立つまいと思っていたので、翌年昭和21年(1946)3月末付けで退職しました。

マッカーサーと昭和天皇

写真=マッカーサー将軍と昭和天皇


海鳥

沈黙の響き (その137)

「沈黙の響き (その137)」

婚約のその日に発病

神渡良平

 

 

綾子さんは虚無的になっていたものの、元々才気煥発で新進の気鋭に富む女性だったので、2人の青年から結婚の申し込みがありました。1人はグライダーの教官、もう1人は海軍から帰還した青年です。綾子さんは昭和211946)4月、後者の西中一郎さんと婚約しました。ところがその西中さんから結納が届く日、貧血を起こして気を失ってしまったのです。

 

堀田さんが暗い淵に引き込まれ、こんこんと眠っている間に、結納を持ってきた西中さんの兄は帰ってしまい、水引きをかけた結納の袋がむなしく床の間に飾られたままになっていました。

かつて一度も貧血を起こしたことがないのに、どうしたんだろうと不吉な予感に襲われました。1週間寝込んだが微熱は去りません。診察した保健所長は肺浸潤と診断し、即刻入院となりました。

 

当時、医者は患者を気づかって、肺結核でも肺浸潤と告げるのが常でした。だから堀田さんは、とうとう肺結核になってしまった! と落ち込みました。落胆すると同時に、

(ざまあ見ろ! いい気味だ。自業自得だわ)

 と、自嘲する気持ちもありました。

 

(誤った教育をした罪や、重複して婚約をしたことなど、もろもろの罪の償いをするのだ。それらがなかったかのように口を拭ったまま、無事結婚できるはずがない……)

 投げやりになっていた堀田さんは2人の人と婚約してしまったのです。教師という社会的責任が伴う生活を捨て、家庭の中に逃げ込もうと思っていたので、好きだから結婚するというよりも、社会的責任から逃避するための結婚だったのです。

 

だから申し込まれるとあいまいに返事し、ついダブってしまったのです。自分が投げやりになっているだけならまだしも、人を巻き込み、相手を傷つけてしまいました。綾子さん自身、不誠実な自分に傷ついていました。

 

 ところが婚約した西中さんは本気でした。知床半島の付け根、オホーツク海に面した斜里(しゃり)町から十数時間も汽車に揺られて、旭川まで見舞いに来てくれました。あるときは療養に使ってほしいと給料を全額差し出し、あるときは、肺結核患者は栄養をつけなければいけないと、肉や筋子(すじこ)を持って見舞ってくれました。

 

結納金を返して婚約を解消

 

でも肺結核になった以上、結婚するわけにはいきません。相手に重荷を負わせてしまいます。堀田さんは西中さんとの結婚を断念し、西中さんが住む道東の斜里町まで結納金を返しに行きました。

 

西中一郎さんの家に着くと、彼はびっくりして堀田さんを迎えました。二人きりで海岸端の砂山に登り、堀田さんは切り出しました。

「長いこと、心配かけてごめんなさい。わたし、結納金を返しに来たの」

 西中さんは彫りの深い美しい横顔を潮風にさらしながら黙っていました。だがしばらくして、静かに言いました。

 

「ぼくは綾ちゃんと結婚するつもりで、その費用にと思って、十万円貯めたんだ。綾ちゃんと結婚できなければ、もうそのお金に用はない。結納金の十万円も綾ちゃんに上げるから、持って帰ってくれないか」

 彼はそう言って、じっと海の方を眺めていました。

 

「向こうに見えるのが知床だよ。ゴメが飛んでいるだろう」

 そう言ったとき、西中さんの頬を涙がひとすじ、つつーっと流れました。

はるか右手に白い雲がたなびいている知床半島が見えました。オホーツクの海を眺めながら、カゴメが気持ちよさそうに滑空していました。西中さんは普通では考えられないほど広やかな愛情を持っていて、婚約を破棄した堀田さんを責めることはありませんでした。

 

入水自殺を図る 

 

22歳の乙女にとって、結納金を返すことは死んでお詫びすることを意味していました。だからその夜綾子さんは入水自殺してお詫びしようとしました。

 

時計が12時を打ちました。堀田さんはその音を、1つ2つと数えていました。数え終ると静かに起き上がり、そっとレインコートを羽織りました。田舎なので、玄関に錠を下ろしていません。堀田さんは靴を履いて、そろそろと玄関の戸を開けました。その戸を閉めて空を仰ぐと、星明りさえない真っ暗な夜でした。風が堀田さんの髪を乱し、はるか下の方から潮騒が聞こえました。

 

 家を出るとすぐ横の坂を、1歩1歩踏みしめるように下って行きました。やがて石がごろごろと転がっている歩きにくい浜に出ました。大きな軽石でした。その軽石に足を取られながら歩きなずんでいると、目の前に真っ暗な海がごうごうと音を立てていました。

 

何も見えません。真っ暗な海の匂いがし、潮騒の音だけが騒いでいました。1歩行ってはハイヒールが石に取られ、2歩行っては体がつんのめり、体を支えるのがやっとです。すぐそこの目の前の海にたどりつくのに、時間がかかり過ぎました。

 

波が堀田さんの足を冷たく洗ったとき、懐中電灯の光が一閃、海を照らしました。白いしぶきが目の前で躍ったかと思うと、堀田さんは男の手にしっかりと肩をつかまえられました。西中さんでした。西中さんは黙って堀田さんに背を向け、堀田さんを背負いました。

 

すると堀田さんの体から不意に死に神が離れたようで、堀田さんは素直に西中さんの肩に手をかけました。堀田さんはまるで何事もなかったように、

「海を見たかったの……」

とつぶやきました。

 

西中さんは堀田さんを背負ったまま、懐中電灯で足元を照らしながら、砂浜を黙って登って行きました。しばらくして砂山に登ると、

「ここからでも海は見えるよ」

 と言って、堀田さんを砂の上におろしました。二人は砂山に腰をおろしたまま、見えない真っ暗な海を眺めました。

「駅の方に行ったのかと思って、先に駅の方に走っていったんだよ」

 西中さんはぽつりとそう言いました。何事もなかったように、あとは何も語りませんでした。暗い海が何もかも吞み込んでくれたようで、風だけが激しく吹いていました。

 

 西中さんは綾子さんを身投げから救いました。それによって死に神は去り、再び生きていこうと思い直しました。しかし綾子さんは精神的支柱を失っていたので、なおもさすらいは続きました。その発病がその後13年間も続く闘病生活の始まりだとは、誰も知りませんでした。

海鳥

写真=高く低く滑空するカモメ


ミレー「晩鐘」

沈黙の響き (その136)

「沈黙の響き その136

 『氷点』でデビューした三浦綾子さん

神渡良平

 

三浦綾子さんは昭和38年(1963)、朝日新聞社大阪本社創刊85年、および東京本社75周年記念の1千万円懸賞小説公募に応募し、小説『氷点』を投稿して入選した作家です。賞金の1千万円は今の金額に換算すると約二億円超に相当するもので、朝日新聞として、

「現代文芸に清新の気を起こさん!」

として大変な意気込みを込めた企画です。

 

三浦さんは24歳から37歳まで13年間の肺結核、脊椎カリエスなどの闘病生活の末、41歳のとき『氷点』を書き上げ、一躍「氷点ブーム」を巻き起こして映画化もされ、トレンドな作家となりました。

 

とはいえ、旭川営林局に務めているご主人の三浦光世(みつよ)さんと、病が癒えてのち雑貨屋を営んでいる主婦の三浦綾子さんの生活は静寂なもので、一日の仕事を終えて食卓を囲んで談笑したあと、食後は旧約聖書を一章ずつ読んで祈るという静謐なものでした。

 

ちょうどそれはフランスの画家ジャン=フランソワ・ミレーが1858年ごろ描いた油彩画「晩鐘」を髣髴させます。ミレーはあの絵にまつわる話をこう語っています。

「あれはわたしがパリを離れてバルビゾンの村で生活し、農民画などを描いていたころの作品です。祖母は畑仕事をしていたころ、バルビゾンの村に隣接したシャイイ=アン=ビエールの畑で、1日の農作業が終わって晩鐘が響き渡ると、農作業していた手を休め、

『アンジェラス・ドミニ』(主の御使いよ)

と敬虔な祈りを捧げたものです。わたしは晩鐘を聞くと、いつもあの敬虔な祈りを思い出すのです。満ち足りた至福の時間でした」

 

この敬虔な祈りと静謐な時間が失われたら、1日の労働はただ疲れるだけの肉体労働に終わってしまいます。そうならないためにも、感謝の祈りで終わりたいのです。だから三浦さんご夫妻はこの「感謝の祈り」を大切にしました。『氷点』を執筆した動機も、自分たちがなぜキリスト教を信じるのか、その理解に役立てたらありがたいと、キリスト教の根幹にある「原罪」をテーマにしたのです。

 

朝日新聞の破格な懸賞小説の1位に選ばれた『氷点』を詳しく見ていく前に、この作家三浦綾子さんがたどった想像を絶する人生をたどってみましょう。

 

輝いていた小学校教師

 

昭和15年(1940)、すなわち皇紀二六〇〇年、神武天皇が即位されてから2600年になるというこの年、北海道・旭川市に近い住友歌志内(うたしない)炭鉱にある神威(かむい)小学校の屋内体育館に町中から二千人の観客が詰め掛け、目を皿のようにして、わが子のオペレッタに見入っています。演目は「舌切り雀」です。

ステージの中央で、舌を切られた雀が悲し気に歌います。

 

「糊を食べたは悪いけど、舌を切るとはあんまりだ」

その雀を探しに来たお爺さん。

「雀のお宿はどこじゃいな。爺やが探しに来ましたぞ」

これまた独唱。とても小学生の演劇とは思えません

 

観客はわが子や近所の子どもの歌いっぷりに感動してどよめきました。舞台監督は神威小学校の教員になってまだ2年目、わずか18歳の堀田綾子先生です。後に処女作『氷点』が大ヒットし、「氷点ブーム」を巻き起こした三浦綾子さんの若き日の姿です。

 

三浦綾子(旧姓堀田)さんは大正11年(1922)4月25、堀田鉄治とキサの第五子として北海道旭川市に生まれ、9人兄弟姉妹とともに育ちました。旭川市立高等女学校卒業後、16歳で歌志内の住友歌志内炭鉱にある神威小学校の教員になりました。

 

住友歌志内炭鉱は、昭和12年(1937)7月、盧溝橋事件を発端として日本と中国の間で起こった支那事変の勃発とともに急速に発展した炭鉱で、山の中腹にあった小学校も生徒数が増えるに従って校舎を継ぎ足し、当時50数学級に約2千人もの生徒が学んでいました。

堀田先生は1学級7、80人という、今から考えたら2倍以上の大きさのマンモス学級を受け持っていました。児童1人ひとりの成長の記録をノートにつけ、それを父母に渡すほどに教育熱心で、生徒たちにも大人気の教師でした。身も心も子どもたちの教育に打ち込んでいたのです。

 

文殊分教場での別れ

 

堀田綾子さんの母はリウマチを患いながら家事一切を切り盛りしていました。しかし病状が悪化したので綾子さんが兄弟姉妹たち七人の面倒を見なければいけなくなったので、わずか4か月で文殊分教場を去り、旭川市内の啓明小学校に移ることになりました。生徒たちはわずか四か月担任されただけなのに、嘆きは半端ではありませんでした。自叙伝『石ころのうた』(角川書店。角川文庫)に別離の様子が描かれています。

 

体育館に集まって全校でのお別れの式が終わると、生徒たちは各自教室に入っていきました。堀田先生は職員室で涙に濡れた顔をなおし、自分の教室に入りました。そこには、机の上に顔をふせて泣いている生徒たちの姿がありました。その1人ひとりの姿を胸に収めるように見つめながら、堀田先生もまた泣かずにはおれませんでした。

 

 みんなが打ち伏して泣いているなかに、唯一人知恵遅れのA子ちゃんだけが姿勢を正したままで泣いていました。でも両手の指を開いて顔にあて、堀田先生を見つめたまま泣いているのです。A子ちゃんは拭うことに知らないかのように、流れる涙をそのままに、泣いています。自分の名前を書くだけがやっとで、1足す1の計算ができないA子ちゃんにも、堀田先生が退職するという事態がのみ込めたのでしょうか。あとからあとから噴き出るように流れる涙を拭おうともしないA子ちゃんの姿は、堀田先生の胸をいっそう強くしめつけました。

 

 堀田先生と生徒たちの間に固い絆が育っていたのです。それはそうでしょう。弁当のおかずを子どもたちに分けてあげ、炭住街にある公共の銭湯に子どもたちと一緒に入って、背中の流し合いをする先生だったから、たいへん慕われていたのです。

 

一方では学科の指導は厳しく、算数ができない子や国語読本が読めない子は残らせて再度教えるという具合で、落ちこぼれを出さないようにしていたのです。

やがて教室での別れが終わり、堀田先生は泣き止まない生徒たちを促して教室を出、グラウンドまで送っていきました。だが生徒たちは先生をとり囲んで家に帰ろうとせず、なおも泣いていました。堀田先生は1人ひとりの手を握りしめ、頭をなでて、再度別れを告げました。生徒たちもやむなく1人ふたりと去っていきましたが、ふり返ってじっとこちらを見、やがてあきらめたように立ち去っていきました。中には戻りかけて、他の子に手を取られてやむなく帰る者もありました。堀田先生はその後、旭川市内の小学校で教え、教員生活は7年に及びました。

ミレー「晩鐘」

写真=ミレーの傑作「晩鐘」


ローソク

沈黙の響き (その135)

「沈黙の響き(その135)」

体に巣食った胃ガンとの戦い

神渡良平

 

 

◇豪勢な邸宅を構えた彌太郎

 昔から「驕(おご)る平家は久しからず」といいますが、栄枯盛衰は世の常です。日本の海運王となった彌太郎は勲四等旭日少綬章を受け、成功の頂点に上り詰めました。そして東京に3軒の大きな屋敷を買い求めました。

 1軒目は本郷台地にある85百坪もある旧高田藩榊原家の中屋敷で、周辺の土地も買い上げて敷地を倍以上に広げ、本邸としました。

 

 さらに2軒目は江東区清澄(きよすみ)にある久世(ぐぜ)大和守の下屋敷などを買い入れ、周辺を買い増して拡張し、3万坪もある岩崎家深川別邸としました。ここを三菱の社員の親睦の場とし、深川親睦園と呼びました。現在は東京都に移管され、清澄庭園として都民に解放されています。

 

 3軒目は駒込にある六義園(りくぎえん)で、岩崎家駒込別邸と呼ばれていました。もともとは5代将軍綱吉の側近だった柳沢吉保がつくった3万坪の庭園です。

元禄8年(1695)、柳澤吉保は5代将軍・徳川綱吉より下屋敷として与えられた駒込の一隅に、7年の歳月をかけて池を掘り、山を築くなどして、武蔵野の風情を留める回遊式の築山泉水庭園を造り上げました。六義園は造園当時から小石川後楽園とともに江戸の2大庭園に数えられました。現在は東京市に寄付されて一般公開され、国の特別名勝に指定されています。

 

◇体に巣食った胃ガンと共同運輸との戦い

土佐の地下浪人でしかなかった彌太郎が、将軍やそれに準ずる武家の屋敷や別邸を手に入れて住むようになったのですから驚きです。

こうしてわが世の春を謳歌した彌太郎でしたが、庇護者の大久保利通が暗殺され、さらに大隈重信が追い落とされて伊藤博文に取って代わると、三菱はピンチに陥りました。「海坊主」と異名で呼ばれていた彌太郎は、各地で開かれた政党演説会でしばしばやり玉に挙げられ、糾弾されるようになりました。

 

三菱を目の仇にするようになった政府は、三菱に対抗すべく、明治15年(1882)7月、三井や関西系資本家たちを中心にして、新たな海運会社「共同運輸会社」を設立しました。三菱は徹底した経費削減と顧客サービスで応戦し、大幅な運賃値下げを断行し、果てしない価格競争に突入しました。

 

ところが彌太郎は明治17年(1884)ごろから食欲が減退し、健康状態が急激に悪化しました。病名は胃ガンでしたが、本人には伏せられていました。六義園での闘病もはかなく、翌2月7日、長男久彌、弟彌之助、母美和、妻喜勢ほか、会社の幹部が集められ、最期を見守りました。そして彌太郎は最期の言葉、

「わが志すところ、未だ10中1、2をなさず」

 と言って、共同運輸との死闘は決着がつかないまま、死んでも死にきれない思いで、まだ50歳の若さで天に召されていきました。

 

その茅町の本邸で16年後、久彌の長女として美喜が誕生します。美喜は男勝りで、「女彌太郎」と呼ばれるほど勇猛果敢な性格を授かり、まるで彌太郎のような人生を歩きました。

ローソク

写真=岩崎彌太郎は一財閥を超えて、近代日本のともし火となりました