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沈黙の響き (その135)

「沈黙の響き(その135)」

体に巣食った胃ガンとの戦い

神渡良平

 

 

◇豪勢な邸宅を構えた彌太郎

 昔から「驕(おご)る平家は久しからず」といいますが、栄枯盛衰は世の常です。日本の海運王となった彌太郎は勲四等旭日少綬章を受け、成功の頂点に上り詰めました。そして東京に3軒の大きな屋敷を買い求めました。

 1軒目は本郷台地にある85百坪もある旧高田藩榊原家の中屋敷で、周辺の土地も買い上げて敷地を倍以上に広げ、本邸としました。

 

 さらに2軒目は江東区清澄(きよすみ)にある久世(ぐぜ)大和守の下屋敷などを買い入れ、周辺を買い増して拡張し、3万坪もある岩崎家深川別邸としました。ここを三菱の社員の親睦の場とし、深川親睦園と呼びました。現在は東京都に移管され、清澄庭園として都民に解放されています。

 

 3軒目は駒込にある六義園(りくぎえん)で、岩崎家駒込別邸と呼ばれていました。もともとは5代将軍綱吉の側近だった柳沢吉保がつくった3万坪の庭園です。

元禄8年(1695)、柳澤吉保は5代将軍・徳川綱吉より下屋敷として与えられた駒込の一隅に、7年の歳月をかけて池を掘り、山を築くなどして、武蔵野の風情を留める回遊式の築山泉水庭園を造り上げました。六義園は造園当時から小石川後楽園とともに江戸の2大庭園に数えられました。現在は東京市に寄付されて一般公開され、国の特別名勝に指定されています。

 

◇体に巣食った胃ガンと共同運輸との戦い

土佐の地下浪人でしかなかった彌太郎が、将軍やそれに準ずる武家の屋敷や別邸を手に入れて住むようになったのですから驚きです。

こうしてわが世の春を謳歌した彌太郎でしたが、庇護者の大久保利通が暗殺され、さらに大隈重信が追い落とされて伊藤博文に取って代わると、三菱はピンチに陥りました。「海坊主」と異名で呼ばれていた彌太郎は、各地で開かれた政党演説会でしばしばやり玉に挙げられ、糾弾されるようになりました。

 

三菱を目の仇にするようになった政府は、三菱に対抗すべく、明治15年(1882)7月、三井や関西系資本家たちを中心にして、新たな海運会社「共同運輸会社」を設立しました。三菱は徹底した経費削減と顧客サービスで応戦し、大幅な運賃値下げを断行し、果てしない価格競争に突入しました。

 

ところが彌太郎は明治17年(1884)ごろから食欲が減退し、健康状態が急激に悪化しました。病名は胃ガンでしたが、本人には伏せられていました。六義園での闘病もはかなく、翌2月7日、長男久彌、弟彌之助、母美和、妻喜勢ほか、会社の幹部が集められ、最期を見守りました。そして彌太郎は最期の言葉、

「わが志すところ、未だ10中1、2をなさず」

 と言って、共同運輸との死闘は決着がつかないまま、死んでも死にきれない思いで、まだ50歳の若さで天に召されていきました。

 

その茅町の本邸で16年後、久彌の長女として美喜が誕生します。美喜は男勝りで、「女彌太郎」と呼ばれるほど勇猛果敢な性格を授かり、まるで彌太郎のような人生を歩きました。

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写真=岩崎彌太郎は一財閥を超えて、近代日本のともし火となりました