日別アーカイブ: 2023年1月13日

ミレー「晩鐘」

沈黙の響き (その136)

「沈黙の響き その136

 『氷点』でデビューした三浦綾子さん

神渡良平

 

三浦綾子さんは昭和38年(1963)、朝日新聞社大阪本社創刊85年、および東京本社75周年記念の1千万円懸賞小説公募に応募し、小説『氷点』を投稿して入選した作家です。賞金の1千万円は今の金額に換算すると約二億円超に相当するもので、朝日新聞として、

「現代文芸に清新の気を起こさん!」

として大変な意気込みを込めた企画です。

 

三浦さんは24歳から37歳まで13年間の肺結核、脊椎カリエスなどの闘病生活の末、41歳のとき『氷点』を書き上げ、一躍「氷点ブーム」を巻き起こして映画化もされ、トレンドな作家となりました。

 

とはいえ、旭川営林局に務めているご主人の三浦光世(みつよ)さんと、病が癒えてのち雑貨屋を営んでいる主婦の三浦綾子さんの生活は静寂なもので、一日の仕事を終えて食卓を囲んで談笑したあと、食後は旧約聖書を一章ずつ読んで祈るという静謐なものでした。

 

ちょうどそれはフランスの画家ジャン=フランソワ・ミレーが1858年ごろ描いた油彩画「晩鐘」を髣髴させます。ミレーはあの絵にまつわる話をこう語っています。

「あれはわたしがパリを離れてバルビゾンの村で生活し、農民画などを描いていたころの作品です。祖母は畑仕事をしていたころ、バルビゾンの村に隣接したシャイイ=アン=ビエールの畑で、1日の農作業が終わって晩鐘が響き渡ると、農作業していた手を休め、

『アンジェラス・ドミニ』(主の御使いよ)

と敬虔な祈りを捧げたものです。わたしは晩鐘を聞くと、いつもあの敬虔な祈りを思い出すのです。満ち足りた至福の時間でした」

 

この敬虔な祈りと静謐な時間が失われたら、1日の労働はただ疲れるだけの肉体労働に終わってしまいます。そうならないためにも、感謝の祈りで終わりたいのです。だから三浦さんご夫妻はこの「感謝の祈り」を大切にしました。『氷点』を執筆した動機も、自分たちがなぜキリスト教を信じるのか、その理解に役立てたらありがたいと、キリスト教の根幹にある「原罪」をテーマにしたのです。

 

朝日新聞の破格な懸賞小説の1位に選ばれた『氷点』を詳しく見ていく前に、この作家三浦綾子さんがたどった想像を絶する人生をたどってみましょう。

 

輝いていた小学校教師

 

昭和15年(1940)、すなわち皇紀二六〇〇年、神武天皇が即位されてから2600年になるというこの年、北海道・旭川市に近い住友歌志内(うたしない)炭鉱にある神威(かむい)小学校の屋内体育館に町中から二千人の観客が詰め掛け、目を皿のようにして、わが子のオペレッタに見入っています。演目は「舌切り雀」です。

ステージの中央で、舌を切られた雀が悲し気に歌います。

 

「糊を食べたは悪いけど、舌を切るとはあんまりだ」

その雀を探しに来たお爺さん。

「雀のお宿はどこじゃいな。爺やが探しに来ましたぞ」

これまた独唱。とても小学生の演劇とは思えません

 

観客はわが子や近所の子どもの歌いっぷりに感動してどよめきました。舞台監督は神威小学校の教員になってまだ2年目、わずか18歳の堀田綾子先生です。後に処女作『氷点』が大ヒットし、「氷点ブーム」を巻き起こした三浦綾子さんの若き日の姿です。

 

三浦綾子(旧姓堀田)さんは大正11年(1922)4月25、堀田鉄治とキサの第五子として北海道旭川市に生まれ、9人兄弟姉妹とともに育ちました。旭川市立高等女学校卒業後、16歳で歌志内の住友歌志内炭鉱にある神威小学校の教員になりました。

 

住友歌志内炭鉱は、昭和12年(1937)7月、盧溝橋事件を発端として日本と中国の間で起こった支那事変の勃発とともに急速に発展した炭鉱で、山の中腹にあった小学校も生徒数が増えるに従って校舎を継ぎ足し、当時50数学級に約2千人もの生徒が学んでいました。

堀田先生は1学級7、80人という、今から考えたら2倍以上の大きさのマンモス学級を受け持っていました。児童1人ひとりの成長の記録をノートにつけ、それを父母に渡すほどに教育熱心で、生徒たちにも大人気の教師でした。身も心も子どもたちの教育に打ち込んでいたのです。

 

文殊分教場での別れ

 

堀田綾子さんの母はリウマチを患いながら家事一切を切り盛りしていました。しかし病状が悪化したので綾子さんが兄弟姉妹たち七人の面倒を見なければいけなくなったので、わずか4か月で文殊分教場を去り、旭川市内の啓明小学校に移ることになりました。生徒たちはわずか四か月担任されただけなのに、嘆きは半端ではありませんでした。自叙伝『石ころのうた』(角川書店。角川文庫)に別離の様子が描かれています。

 

体育館に集まって全校でのお別れの式が終わると、生徒たちは各自教室に入っていきました。堀田先生は職員室で涙に濡れた顔をなおし、自分の教室に入りました。そこには、机の上に顔をふせて泣いている生徒たちの姿がありました。その1人ひとりの姿を胸に収めるように見つめながら、堀田先生もまた泣かずにはおれませんでした。

 

 みんなが打ち伏して泣いているなかに、唯一人知恵遅れのA子ちゃんだけが姿勢を正したままで泣いていました。でも両手の指を開いて顔にあて、堀田先生を見つめたまま泣いているのです。A子ちゃんは拭うことに知らないかのように、流れる涙をそのままに、泣いています。自分の名前を書くだけがやっとで、1足す1の計算ができないA子ちゃんにも、堀田先生が退職するという事態がのみ込めたのでしょうか。あとからあとから噴き出るように流れる涙を拭おうともしないA子ちゃんの姿は、堀田先生の胸をいっそう強くしめつけました。

 

 堀田先生と生徒たちの間に固い絆が育っていたのです。それはそうでしょう。弁当のおかずを子どもたちに分けてあげ、炭住街にある公共の銭湯に子どもたちと一緒に入って、背中の流し合いをする先生だったから、たいへん慕われていたのです。

 

一方では学科の指導は厳しく、算数ができない子や国語読本が読めない子は残らせて再度教えるという具合で、落ちこぼれを出さないようにしていたのです。

やがて教室での別れが終わり、堀田先生は泣き止まない生徒たちを促して教室を出、グラウンドまで送っていきました。だが生徒たちは先生をとり囲んで家に帰ろうとせず、なおも泣いていました。堀田先生は1人ひとりの手を握りしめ、頭をなでて、再度別れを告げました。生徒たちもやむなく1人ふたりと去っていきましたが、ふり返ってじっとこちらを見、やがてあきらめたように立ち去っていきました。中には戻りかけて、他の子に手を取られてやむなく帰る者もありました。堀田先生はその後、旭川市内の小学校で教え、教員生活は7年に及びました。

ミレー「晩鐘」

写真=ミレーの傑作「晩鐘」